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なぜか美術史、そのうち芝居(4)
引き続き、美術史について書きます。

さて江戸中期、京都の亀岡市の農家に生まれ、
画壇に新風を起こした日本画家、今回は円山応挙(1733年-1795年)について書きます。

円山応挙は10代後半に、狩野探幽の流れを引く、狩野派の石田幽汀のもとで絵を学びます。
その若さで狩野派の門弟になると言うことは、すでに光るものを持っていたのでしょう。

しかし、その頃の狩野派の絵には、かつての探幽ほどの力強さはなく、
黒の輪郭線の中を色づけする狩野派のお家芸の技法も、すでに飽きられつつありました。

応挙は20代の修行期に、オランダの眼鏡絵に出会います。
眼鏡絵というのは、ようは凸型レンズをかけて絵を覗く、立体眼鏡の先駆けです。

《眼鏡絵-加賀の競馬-》円山応挙(1733年-1795年)筆
《眼鏡絵-加賀の競馬-》円山応挙(1733年-1795年)筆

応挙は、この眼鏡絵を描くアルバイトをしつつ、西洋画の遠近法を学びました。
そして、至る所でスケッチブックをひろげ、写生を続けたのです。



水墨画には、没骨法(もっこつほう)と呼ばれる技法が使われています。

筆を根元までほぐし、そこに水をたっぷりと含ませます。
含んだ水を適度に拭き取り、今度はちょこんと墨を含ませます。
その筆を寝かせ太い線を引くと、筆先と根元で、
墨の濃淡によるグラデーションができるのはわかりますでしょうか。

これが没骨法(もっこつほう)です。

水墨画は、ぼかすことで、輪郭線を消し去ることに成功していたわけです。

それに対して応挙は、二種類の絵の具を同時に含ませて書く、
付立法(つけたてほう)という方法で、カラーでありつつ、輪郭線を消し去ったのです。

応挙は、狩野派の画法を捨て、水墨画の技法を発展させた、独自の画法を確立させたのです。


重要文化財《孔雀牡丹図(くじゃくぼたんず)》円山応挙(1733年-1795年)筆 相国寺承天閣美術館蔵
重要文化財《孔雀牡丹図(くじゃくぼたんず)》円山応挙(1733年-1795年)筆 相国寺承天閣美術館蔵

応挙は、この付立法で大人気となり、門弟も1000人を超えたと言われます。

その中でも異彩の才能を発揮したのが、長沢蘆雪(ながさわろせつ)です。
その長沢蘆雪(1754年-1799年)の模写がこちらです。

《牡丹孔雀図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 ジョー・プライス コレクション
《牡丹孔雀図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆

さすが蘆雪。

蘆雪の模写には、孔雀が一匹減ってますけど、意図的に外したんでしょうね。

左の牡丹の茎と華のラインと、孔雀の首のラインが対になっているようですが、
蘆雪の構図の方が、力強さを持っていますね。

ちなみに応挙が孔雀牡丹図を描いたのが38歳で、蘆雪が牡丹孔雀図屏風を描いたのが28歳。
蘆雪の、並々ならぬ才覚を感じます。


実は蘆雪は、師匠の下で日々模写を繰り返す生活を、大変に窮屈に感じており、
暴れまくった蘆雪は、応挙に3度破門されたと言われています。

そんな修行中の蘆雪に、こんな話があります。

>「修業時代、芦雪はある冬の朝、小川に氷が張って小魚が凍(い)てついているのに気が付いた。
>昼すぎ眺めると氷は溶けて小魚は楽しそうに泳いでいる。
>翌日応挙に話すと、お前は今おれの氷に凍てついておるが、きっと自由に泳ぎまわれる日がくる。
>その日を待っとるぞと肩をたたかれた。芦雪がはっとして己の絵をめざしたのはこれからだ」
                                            大阪日日新聞ホームページより引用

この経験から、蘆雪は自分の印章を、氷の中の魚にしたというのです。


蘆雪-印章



さて、和歌山県串本町に臨済宗の無量寺というお寺があります。

無量寺は1707年に発生した宝永地震による大津波で全壊したのですが、1786年に再建されました。
和尚さんと応挙が友人であったことから、新築祝いに障壁画を描いて欲しいと、応挙に依頼するのです。

応挙は快くそれに応じますが、応挙が自身で障壁画を届けることが難しかったため、
応挙は蘆雪に作品を託し、蘆雪に行ってこいと言いました。

和尚に応挙の障壁画を無事渡し終えた蘆雪ですが、
そこで蘆雪は「それがしもお祝いいたそう」と筆をふるっちゃうのです。

重要文化財《虎図》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 錦江山無量寺障壁画
重要文化財《虎図》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 錦江山無量寺障壁画


和尚が感激すると、蘆雪はそのまま書き続け、1年間に270点もの作品を、無量寺に残しています。

画像がどうしても見つからないのですが、無量寺の襖絵に、寺子屋で授業を聞かずに遊ぶ子どもの絵があるんです。
厳粛であるべき寺の一室に、学級崩壊の絵を描くそのセンスに、私は腹を抱えて笑った記憶があります。

きっと和尚も、蘆雪のやりたい放題を、笑って見ていたに違いありません。


ついでに蘆雪の最高傑作を、もう一つご紹介しておきます。

《白象黒牛図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 ジョー・プライス コレクション
《白象黒牛図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 ジョー・プライス コレクション

なんというダイナミックな構図でしょう。
国内にあれば、間違いなく重要文化財クラスでしょうね。

さて、できれは水牛をクリックして、屏風の印章を見て頂きたいのです。
今までの印章と、ちょっと違います。

無量寺であの虎を描いた7年後の39歳の時、蘆雪は印章の右上を割って、あえて欠損させたと言われています。

蘆雪-印章


その時、覆っていた氷は解け、魚は自由な世界へと泳ぎだしたのです。


次回は、円山応挙の絵を小馬鹿にした、曾我蕭白(そがしょうはく)ですかね。
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