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なぜか美術史、そのうち芝居(2)
前回に引き続き、しばらく美術史について書きます。

さて、私が高校三年生の時の事だったと思います。

修学旅行で東京に来た私のグループは、東京国立博物館に立ち寄りました。
たまたまその年は、特別展で『洛中洛外図展』が催されており、どこもかしこも、金屏風。

そのほとんどが、狩野派の作であったと記憶しています。

前回は水墨画について、書いてましたが、
室町から桃山、さらに江戸時代まで、400年も日本画壇の中心にいたのが、狩野派と呼ばれる、絵師集団です。


狩野派の絵の特徴は、水墨画とはまったく逆の、縁取りされた輪郭線です。
縁取りされた輪郭線とは、輪郭を縁取りして中を塗るという、手法です。


まさに前回の長谷川等伯の対極にいるグループのようですが、
その長谷川等伯と全く同時期に活躍したのが、狩野永徳(かのうえいとく)です。

国宝《上杉本洛中洛外図屏風(右隻)》狩野永徳(1543年-1590年)米沢市上杉博物館蔵
国宝《上杉本洛中洛外図屏風(右隻)》狩野永徳(1543年-1590年)筆 米沢市上杉博物館蔵
http://www.artscape.ne.jp/artscape/artreport/tankyu/090715_kano/right/index.html

国宝《上杉本洛中洛外図屏風(左隻)》
国宝《上杉本洛中洛外図屏風(左隻)》狩野永徳(1543年-1590年)筆 米沢市上杉博物館蔵
http://www.artscape.ne.jp/artscape/artreport/tankyu/090715_kano/left/index.html

これは、織田信長が、上杉謙信に贈ったとされる、狩野永徳筆の洛中洛外図です。

ちなみに右隻と左隻がありますが、
屏風とは、左右に屏風を立てて、真ん中で360度のパノラマを楽しむものなのです。

この屏風に囲まれたら、あまりのすごさに、圧巻どころか絶句するでしょうね。


さて、信長は本能寺の変で死んでしまうわけですが、
狩野派は、残された秀吉と家康の、どっちについた方がお得か悩みました。

そこで狩野派は、大阪の秀吉と、江戸の家康の、両方のもとに一派を送り込みます。
仮にどちらが天下を統一しようとも、狩野派が生き残るためです。

これは、真田家が一族を二分して、秀吉と家康の両方についたのと同じ策ですね。


さて、江戸の家康のお抱え絵師になったのが、狩野探幽(かのうたんゆう)です。

重要文化財《雪中梅竹遊禽図襖(せっちゅうばいちくゆうきんずふすま)》狩野探幽(1602年-1674年)筆 名古屋城
重要文化財《雪中梅竹遊禽図襖(せっちゅうばいちくゆうきんずふすま)》狩野探幽(1602-1674)筆 名古屋城

これまた、空間の広がりを感じさせる、雅な襖絵ですよね。


それに対して、大阪の秀吉のお抱え絵師になったのが、狩野山楽(かのうさんらく)です。

重要文化財《紅梅図襖(こうばいずふすま)》狩野山楽(1559年-1635年)筆 大覚寺宸殿障壁画
重要文化財《紅梅図襖(こうばいずふすま)》狩野山楽(1559年-1635年)筆 大覚寺宸殿障壁画

山楽がお抱えにしてもらった秀吉は、程なく死んでしまいます。
そのため、山楽は中央画壇から、外れてしまったそうです。

自分が家康についていたら、違う人生をあるんだろうに・・・。

その鬱積した思いが、天井にぶつかって押し戻され、それでも伸びようとする梅の木の姿に、
山楽自身のいたたまれない境遇への思いが、込められていると言われています。


さて、家康と一緒に天下を取ったような狩野派でしたが、
400年も続いていると、その余白の緊張感は失われます。

>探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、
>彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、
>余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。
                                                     Wikipedia 狩野探幽より引用

と、なってしまうわけです。

狩野派が落ちぶれた江戸中期、次は、琳派の尾形光琳でしょうかね。
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