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あの日の前後からの事3
私が大学生の頃、演出を取っていた大学の先輩に、こう言われたことがあります。

『演出家は、役者の前で、悩んでいる姿を見せてはいけない。』

今の私は、これは間違っていると思っています。


確かに演出家は、役者に不安を与えてはいけません。
しかしそれは、稽古場が停まるからです。


演出家は、すべての答えを用意して、稽古に望んでいるわけではありません。
演出家と役者は、稽古場で一緒に答えを探すべきなのです。


『演出家は、悩んでもいい。しかし、稽古を停めてはいけない。』


これも、文学座の林田さんに、教えて頂いたことです。
そして私は、自身が稽古場で悩む事を、よしとしました。



しかし、役者が稽古場で何を生み出そうとも、
最終的に、すべては演出家の感性で決まってしまうのでしょうか。

役者は、最終的に『演出家がよしとするかどうか』でしか、判断基準はないのでしょうか。


役者は、役者として輝くために、独自の価値基準で役作りをするべきではないのか。
だとすれば、演出家は、どこまで役者に要求可能なのか、
何がありで、何が無しかを言葉にするために、
きちんと自分の中に、線引きを持つべきだと思ったのです。


さて、昨年12月頃の私は、『演出家は、どこまで役者に要求可能なのか』に対する、
明確な線引きを、自分の中に持っていないことに、悩んでいました。


そこで私は、私が演出家としてどうしても譲れないポイントと、
役者にとってのメリットに共通点が有り、それをお客が望むのであれば、
その3点を結んで、『私の、演出家として譲れないライン』とすればいいと、考えたのです。

そうすれば、そこを根拠に、遠慮なくダメ出しができると考えたのです。


そこで、3者が賛同できる、ポイントを探そうとしたのです。




例1)演出家や役者が、脚本家の書いた台詞を勝手に変えていいか

役者:変えたくはない気もするが、それでいい効果が出るなら、許せる。
演出家:作品が変わるなら許せない。作品がより良くなるなら、許せる。
お客:変えたことがわかれば許せない。わからないなら、どうとも思わない。



例2)役者が、アドリブを入れていいか。

役者:面白くしたい。ただ、演出家が言った事が面白くない場合は、正直やりたくない。
演出家:作品の面白さを倍増するならやりたい。ただ、作品が別物になってしまう場合は、許せない。
お客:面白いにこしたことはない。ぶっちゃけ孫が舞台に出てるから見に来ただけで、
   面白いかどうかは、期待してない。




ここまで考えたとき、正直『こりゃ厳しい』と思ったんです。
そうか。面白いかどうかを期待してないお客さんも、いるんだ。と。


そこで私は、視点を変えることにしました。


どうにかして、孫娘を見に来たお客さんにも、演劇の魅力を伝えることはできないだろうか。
そのためには、『なぜお客は、劇場に足を運ぶのか。』を考えなければいけないと思ったのです。


演劇の面白さの一つに、『生(なま)であること』があげられると思います。

『生であること』を考えるために、生と似た言葉の『生中継』について書いてみます。



例えばAKBの総選挙を劇場中継してますが、
毎回、日本中の中継している全国各地の映画館が、満員になっています。

また、最近の視聴率低迷のテレビ業界ですが、
昔のベストテンとかは、ライブ会場と中継を結んで放映していました。
8時だよ全員集合!も、あれもライブ中継で放映されていました。
なでしこJAPANのワールドカップ女子決勝は、多くの人が勝利に歓喜しました。

特にスポーツは、リアルタイムで見ないと面白くないと言いますが、
生中継の魅力というのは『目撃者になりたい。』という欲求からだと思います。


では、普通の演劇を生中継したところで、
すべて面白いかと言ったら、そうではないですよね。

演劇の面白さというのは、劇場でしか味わえないというのは、みなさん何となくわかりますが、
それは、リアルタイムで見たいからでは、ないわけです。

いくら演劇がその場限りのものだといっても、
演劇は、5回も7回も40回も何千回も、繰り返し上演されます。
期間内であれば、何度も見ることもできるわけです。


生の魅力にはもう一つ、『ハプニングを見たい』というのも、ある気がします。

しかし、演劇を見に来る人が、ハプニングを期待して来ているとは、私には思えません。


演劇にとっての『生』の強みは、はたしてどこにあるのか。
私はその答えは、お昼の『笑っていいとも!』にある気がするんです。


フジテレビの『笑っていいとも!』は、スタジオアルタに、お客さんを入れて、生中継をしていますよね。

民放放送で無料で見れる『笑っていいとも!』ですが、
ではなぜ、スタジオ観覧で、お客さんは足を運ぶのでしょう。

それは、『生で見たいから』ですよね。
それは、『そこに芸能人が、実際にいるのを、自分の目で見れるから。』だと思うのです。

私の憶測ですが、皆さん一度は、
タモリはひょっとしたら、空想上の生き物じゃないか?

と思ったことは、ありませんか?

私は、何度もあります。

でも、そんな私も、この目で確認したら、信じられると思うのです。
『タモリは実在する』と。


お芝居は、所詮嘘です。
しかし、嘘でも人は、信じたい時がある。

子どもたちが信じれば、信じた子どもの数だけティンカーベルが増えるように、
人は、空想さえも信じたいことがある。

もうこの世にいないあの人が、戻ってくると信じたい時がある。


3.11に対して、演劇は無力でした。


当たり前の事ですが、演劇が濁流に飲まれていく人に、手を差し伸べる事はできません。

しかし私は、演劇は人の悲しみに、寄り添えられると信じていた。
しかし人は、そんな演劇の寄り添いなど、邪魔くさくてしょうが無い時もある。

絶望に瀕した人に、全く部外者の寄り添いなんて、余計なお世話の場合がある。

それでもなお、なぜ、演劇は必要なのか。


それは、人は、絶望の淵から戻ってくるために、
『何かを信じる事』から、はじめる必要がある。

その時、演劇の嘘が、絶望の淵にたたずむ人の手を引いて、明日へ引き戻すかも知れない。




この瞬間、私の中での、3者の共通点が見つかったのです。

役者:役としてその場にいたい。その事が、演技がうまいという評価につながる。
演出家:役としてその場にいてもらいたい。その事が、作品を伝える為に不可欠だから。
お客:物語に入り込めるよう、その役でいて欲しい。最低限、出演して欲しい。


私がいままでワークショップで言ってきた、

『言葉が当たってこない。』
『それではリアクションがとれない。』
『もっと相手に、引っかかるように、台詞を言って。』

これらは、演出家の独りよがりな欲求ではないんだ。



その役として、その場いるために必要なことだからこそ、
役者には、絶対にクリアしてもらわなければいけないハードルであり、
自分は、演出家としてそこをあきらめてはいけないんだ。

大丈夫だ。これでやっと、稽古場を停めない自信が付いた。

そう思えたのは、年明けの1月の上旬の事だったように思えます。
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