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【演出論】つかこうへい氏の「口立て」法
2010年7月10日、劇作家で演出家の、つかこうへい氏が死去した。

『つか以前』『つか以後』とさえ言われる演出家、つかこうへい氏。
今回は、つかこうへい氏の口立て法(くちだてほう)について記述する。

私がつかこうへい氏の名前を知ったのは、大学生の時である。
当時、つかこうへい氏の熱烈なファンであった女性の役者に、
彼女が自主公演でやった、熱海殺人事件のビデオを見せられたのである。


 当時の私は、つかこうへい氏が、口立て法で芝居を作ることは知っていたが、
 つかこうへい氏が、どれほどすごい人物なのか、理解できていなかった。


口立て法というのは、
演出家が稽古場で台詞を言い、それを役者が同じように繰り返す。


つまり、『役者が演出家の言い回しをマネをして、作品を作っていく方法』である。


この方法、これだけ聞くと、別にたいした事ではない。

稽古場でも、演出家が台詞を言ってみせることはある。


つかこうへい氏の革命的な演出法は、
実は口立て法だけではなく、複数の要素で成り立っているのである。



◆1.作家が稽古場で演出を付ける。

つか氏がそもそも口立てを行ったのは、
演出に関して、全く知識を持たない素人だったからである。

つか氏は、大学在学中に、知人に頼まれ作品を書いた。
そもそも、つかこうへい氏は、劇作家として始まっている。

つか氏は、稽古を見たときに、役者が発する台詞に違和感を覚えた。
どうして自分の書いたニュアンスで、台詞を言ってくれないのだろう。

自分にとって、そのニュアンスではないと言う事を、言葉で説明できず、
自分で再現して、それを役者に言ってもらった。

これが、口立て法のはじまりである。



◆2.言葉には人それぞれの距離があり、その人に近い言葉で作品を作った。

つか氏は、千秋楽の幕があくまで、台本を変え続けるのも有名だ。

それは一見、芸術家の気まぐれのように思えるが、つか氏が台詞を変え続けたことには、根拠がある。


「まじで!?」


といきなり書いてみたが、
この「まじで!?」を、80台の病床の男性が言ったところで、絶対に嘘くさい。

「それは、真実なのでしょうか。」という台詞を、5歳の少女が言ったところで、絶対に嘘くさい。


言葉には、その言葉がその人にとって身近かどうかの『距離』がある。
日頃から使っている言葉は、その人にとって身近なフレーズであり、安定感があるのだ。

その言葉の距離を縮めるために、本来役者は努力するべきなのだが、
つか氏は、それを信じなかった。


たかだか、数十日の稽古で、言葉の距離が縮まるわけがない。


だったら、作家が稽古場にいるんだから、
目の前の役者の身近な言葉で、作品自体を書き直せば良いではないか。


この台本を書き直すという作業は、単に言い回しを変えるというわけではない。


作品のドラマを書き換えるのである。


つか氏の代表作「熱海殺人事件」は、まさに作品の背景のみならず、
登場人物の職業までも、一切合切書き換えたバージョンが存在する。

つまり、自分が選んだ役者にあわせて、
「熱海殺人事件」をベースに全く新しい作品を、何度も書き上げたのである。

いわゆるドラマを描くために役者がいるのではなく、
役者にとって身近な言葉で、その人にとってのドラマを、稽古場で書いていったのだ。



◆3.その人がそこにいれば、自分はいくらでも捨てられる。

私は良く「医者を演じる」という事を例に出す。

そもそも医者が出てくる作品では、役者は医者に見えなければならない。
そこで、医者じゃない人間が、医者に見えるにはどうしたらいいかを普通は考える。

これが、演出家の普通の思考だと思う。


つか氏は、違った。


つか氏は、演出家である前に、作家である。


つか氏は、そもそも医者に見える人であれば、
何を言わせても、何をさせても、その人は医者で居続けると考えた。

もっと言うと、医者じゃなくてゲイに見えるなら、
自分がゲイのドラマを書けばいいだけだと言うのが、つか氏のスタンスなのだ。


役者は自分の存在を信じ、そのままで舞台に立って良いと保証される。
台詞が言いにくいなら、何度でも作家が目の前で書き直してくれる。


しかしそれは逆に、役者は何も言い訳にできないという事でもある。


つか氏がそこまで役者のためにやってくれている以上、
役者は、その役に全力で情熱を注ぎ込み、
作品を成立させるために、一切の迷い無く、その役として居続けなければいけない。


しかし、それは役者にとって、至福の一時なのであろう。

だからこそ、役者の中には、つか氏の作品の熱烈なファンが多いのだと思う。


ではつか氏は、なぜ自分のドラマを捨てて、新しいドラマを書けたのか。


それはきっと「人」を信じていたのだと、私は思う。


いかに奇想天外な物語を思いついたかで勝負するのではない。

「そこに、その人がいた。」という事実からすべてが始まれば、
物語は、その人の魅力を引き出すエピソードに過ぎない。


人を描くためにエピソードを用意したつか氏は、「人を愛した人」なのだと、私は考えている。



◆4.大音量の音楽と、ダイナミックなストーリー展開でも破綻しない安定感。

つか氏の作品は、大音量の音楽と、ダイナミックな展開も注目されるが、
なぜそれが成立し、それが客席に大きなエネルギーとなってなだれ込むかは、
まさに、今までの部分に根拠がある。


役者の見た目も、声も、言葉も。すべてが、前提としてそう見えるのであれば。
舞台上でどんなにダイナミックにストーリーが展開しようと、物語は成立する。

こんな世界は、あり得ないとわかっていても、
その世界が目の前に存在する以上、人はそれを認めざるを得ない。

だからこそ人は、冷静な判断さえ捨てて直感的に心が動き、涙を流すのである。



そこに至った、つか氏は、やはりすごい人なのだと思う。




さて。逆説的に考えて見よう。

つか氏の芝居は、口立て法のみならず、
作家であるつか氏がその場にいて、ドラマさえも書き換えていくからこそ、成立するのである。


だからこそ、つか氏が死去した今、もはや、つか芝居は成立しない。


そう思っているからこそ、
「つかこうへい氏の作品を、今度やるんです。」と言われても、私は見に行かないことにしている。

つか氏がいないのに、つか氏の作品をやると言う事は、
普通の芝居の方法論で、つか芝居を作ると言う事だと思っている。


口立てで作りましたと言われても、私にとっては、全く魅力を感じないのだ。


つかこうへい氏の芝居は、残念ながら、もう見れない。


誰か、第二のつかさんになりませんか?


私には、この演出法は、マネできない。
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