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【私の生き方】私のために生きた父
このブログは、父が死んだ2009年3月前後は、完全に更新が止まっている。
父の死から2年ちょっと。父の死ぬ間際の話を、少し書いておこうと思う。



父の癌が再発したことがわかったのは、2008年1月である。
当時、私は文学座の林田一高氏のプロジェクト団体である、
Trigger Line(トリガーライン)に所属をし、演出補として芝居の勉強をしていた。

急遽入院が決まった父の癌はすでにステージ4、
当時58歳であった父の癌の進行は速く、
抗がん剤使用の副作用は激しく、父はみるみるやせていった。

そして8ヶ月後の、2008年10月の時点で、
医者からは、いつ父の容態が急変してもおかしくないと言われていた。


父は、幾度もの抗がん剤使用で免疫が低下しており、
合併症を併発していたのである。


それでも、父は耐えた。


2009年2月下旬。

癌の再発がわかってから、すでに1年と1ヶ月がたっていた。
母は、いよいよ父は、危ないという。



2009年3月下旬に、私はトリガーラインのワークショップを控えていた。

トリガーラインに演出補として参加して、この時点で3年。
私ははじめて林田さんのもとで、
トリガーラインワークショップの短編の演出を取ってみないかと話を頂いていた。

たかが、1ワークショップの、数分の短編である。
ただし、私にとっては、大変貴重な機会であった。


この1年間、私は2ヶ月に1度の頻度で札幌にもどっていた。
そしてこの年は、正月にも札幌に帰っていた。

この時、父と母と、家族3人で写真を撮った。

そして、この正月の時点で、
今度は3月のワークショップが終わるまで帰れないと、
父にも、母にも伝えていた。



だからこそ私は、「3月に入ると帰れない。」と電話で伝えた。
母は、「わかっている。」と答えた。

そして、母はこう切り出した。

『もし、お父さんがあなたが帰ってくる前に他界した場合、
 お兄さん(父の兄・私の伯父)は、自分が施主をやるので、
 哲行は戻ってこなくても大丈夫だと、哲行に伝えてくれって言っている。

 でも私(私の母)は、もしお父さんがあなたが帰ってくる前に他界した場合は、
 お父さんの遺体を冷凍保存して、あなたが帰ってくるまで葬儀を待つつもりでいるから、
 あなたは安心して、精一杯、公演(ワークショップ)に打ち込みなさい。』


ワークショップとは、体を使って一定期間トレーニングをする、勉強会のようなものである。


ワークショップで演出を取るということは、
言ってしまえば、発表会で演出を取ることに等しくもある。

私は自分で劇団を主宰した事もあり、規模で言うならもっと大きな公演を打ってきた。

ただし、私にとってこのワークショップは特別なものであり、
母と伯父は、そこを理解してくれていた。



2009年3/20(土)~3/22(日)、
3日間のトリガーラインのワークショップは無事終わり、
私が札幌のホスピス、東札幌病院に駆けつけたのは、2009年の3/23(月)であった。

私が戻ってきて父と面会して言った第一声は、
「なんだ。思ったより元気そうで、安心したよ。」であった。

3/23(月)は、WBC第2回大会が開催されており、日本が韓国に勝った日であった。
野球好きの父と野球の話をし、私は実家に帰宅した。

3/24(火)は、いよいよWBCの決勝だった。
午後に病院に顔を出した時点で、父はすでにうつらうつらしており、
夕方から父は、昏睡状態に入った。

3/25(水)早朝、父はいよいよ最期を迎えるだろうとなり、親戚中が、病院に駆けつけた。
しかし父は、急変する事無く、そのまま眠り続けた。

3/26(木)駆けつけられる親戚は面会できたが、
この状態が何日続くかわからないため、
親戚達には一度帰宅してもらい、母はこの日も一人、病院に泊まることにした。

3/27(金)午前10時すぎ、
母に、一度家に帰り、荷物を取ってきたいので、付き添いを交代して欲しいと言われた。

私が母と交代し、父と2人で病室にいたときに、父の鼻筋に、黒い血筋が二本流れた。

私が慌てて母の携帯に電話をかけると、
「私に電話する前に、すぐに看護師さんを呼びなさい。」と言って、母は電話を切った。

私がナースコールを押すと看護師はすぐに現れ、
看護師は父を見るなり「きれいにしましょうね。」と鼻から出ている血筋を拭き始めた。

私が、「呼吸は、もうしていないですよね。」と尋ねると、看護師は「ええ。」と静かに答えた。



担当医が来た。

担当医が「奥様は、どこに行きましたか」というので、私が、
「母は、いま荷物を取りに家に戻っており、まもなく戻ってきます。
母が戻ってくるまで、待って頂けますか。」と伝えると、
「わかりました。」と言って、担当医は席を外した。

母が病室に戻ってきた。

母は、父の手を取り、「頑張ったね。」と涙を流した。

そこに担当医が、再び現れた。



2009年3月27日、10時35分。父は、永眠した。



泣きじゃくる母を傍目に、私には父の死の実感がなかった。

私が、「伯父さんに連絡した方がいいよね。」と母に尋ねると、
母は、「そうして。」と泣きながら答えた。

そして私は伯父に、携帯で電話をかけた。



「今、父が、死にました。」



言葉にしたことで、すべてが、現実になってしまった気がした。
叔父との電話口、私は、嗚咽を止める事ができなかった。


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葬儀の後、母から聞いた話である。


父は自分の死の一週間前ほど前から、
自分の死期が迫っているのを、自ら感じ取っていた。

2009年3月の時点で、再発からすでに1年以上。

当初入院した札幌医科大学から、ホスピスの東札幌病院に転移しており、
父の癌に、もはや治療手段が残されていない事は、
父が一番わかっていた。

3/20(土)~3/22(日)のワークショップがはじまる前の、3/19(金)の事である。

いつものように栄養剤の点滴を交換しに来た看護師さんの腕を掴み、
父は、泣きながらこう言ったという。

「どうか。
 どうかあと3日、生かしてほしい。
 今息子は、東京で非常に大事な公演を控えている。
 その息子が、あと3日で帰ってくる。
 だから、どうにかして、あと3日だけ、俺を生かしてほしい。」


この時点で父の体はすでにボロボロで、抗がん剤治療は再開できていなかった。
自分にはすでに、栄養剤しか投与されていないことを、父は知っていた。

高等学校の進路指導部長として、そして教頭として、
生徒達に怖いと恐れられていた父が、
涙を流しながら、看護師に3日の延命を懇願した。

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自分の為に生きるのが正しいのか、
他人の為に生きるのが正しいのか、私にはわからない。


父は、私のために最期まで生きた。

私も、誰かのために、最期まで生きようと思う。
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