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出光美術館「祭 MATSURI -遊楽・祭礼・名所-」(2)(2012/6/16~7/22)
出光美術館「祭 MATSURI -遊楽・祭礼・名所-」(1)の続きになります。

「祭 MATSURI -遊楽・祭礼・名所-」の水曜講習会へ行って参りました。

前回の(1)に書きました「洛中洛外図は、誰がなんのために注文したのか。」のかという疑問。
講師に来ていた早稲田大学の成澤勝嗣先生が、講義の冒頭でちゃんと説明してくれました。

やっぱり、疑問だと思うんですよね。


◆(1)洛中洛外図は、なぜ作られたのか。

洛中洛外図が作られたことがわかる最古の歴史的資料は、
室町時代後期の公家、三条西実隆(さんじょうにし さねたか)の「実隆公記」(さねたかこうき)なのだそうです。

その中に、越前の朝倉氏が、土佐光信に洛中洛外図を発注したという記録が残っているそうです。

「越前朝倉屏風新調一双、画京中、土佐刑部大輔新図、尤珍重之物也」-『実隆公記』永正3年(1506年)12月22日条


この洛中洛外図は、京都の人が発注したものではなく、京都以外の人が、発注している点がポイントなのでそうです。

当時の人たちは、京都を手にした者は、天下を取ると信じていました。
そこで諸大名は、京都を手中に収める事にあこがれを持っており、京都という街自体を財産と考えていたそうです。

つまり、洛中洛外図は京都の人の自画像ではなく、京を治める事へのあこがれから、作成されたのです。

また当時にも、寺社仏閣などの名所を描いた美術品は、多数ありました。

洛中洛外図は、その部分部分を合成してパノラマとして見せた点が、非常に新しい描写だったのだそうです。
この見せ方を、土佐光信が考え出したかどうかは、何とも言えませんが、その可能性はあるというお話でした。

重要文化財《祇園祭礼図屏風(右隻部分)山鉾巡行》桃山時代 出光美術館蔵
重要文化財《祇園祭礼図屏風(右隻部分)山鉾巡行》桃山時代 出光美術館蔵


◆(2)洛中洛外図の制作年数は、どのように判別するか。

出光美術館の展示では、京都の祇園祭の山鉾巡行は、開催年度によって巡行の順番が違うため、
巡行の順番によって、制作年度を特定することができるといった記載がされておりましたが、
はたして洛中洛外図が、巡行した年にリアルタイムに描かれたかどうかは、ちょっと疑問が残りますよね。

その点に関しても、成澤先生が説明して下さっています。

ちょっと、歴史のおさらいです。

徳川家康は、豊臣秀吉の死後に、豊臣家の財力を削ぐ意味で、豊臣秀頼に畿内の寺社復興を命じました。
その寺社復興の一環で作られたのが、1607年(慶長12年)に増築された、北野天満宮を取り囲む回廊です。

つまり、北野天満宮を取り囲む、象徴的な回廊があれば、1607年以降を描いており、
回廊がなければ1607年以前の可能性が高いというわけです。

では、この回廊だけで判断しているかというと、違います。
洛中洛外図の制作年度を特定する場合は、そこに登場する建築物の、すべての製作年数を調べるのだそうです。

そうすると、本来、火災などで消失してしまった物が、作者の想像で加筆されているといったケースも出てくるそうです。
そういった条件を、複合的に考えて、製作年度を特定していくそうです。

洛中洛外図の研究は、そういった意味で検証しなければいけない事象が非常に多く、
研究のやりがいがある反面、非常に大変な作業であるというお話でした。

《江戸名所図屏風(右隻部分)三社権現の舟祭礼》江戸時代 出光美術館蔵
《江戸名所図屏風(右隻部分)三社権現の舟祭礼》江戸時代 出光美術館蔵


◆(3)江戸時代に入ってからの洛中洛外図は、なんのために作られたか。

洛中洛外図は、京都の名所が多数描かれます。
そこには、天皇の住まいである御所と、将軍家の象徴である二条城が、よく描かれます。

そこで、洛中洛外図によく描かれる題材として、

元和6年(1620年)の徳川和子入内と、
寛永3年(1626年)の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)行幸が、よく取り上げられるそうです。

徳川和子は、徳川家から天皇家に嫁いでいった人です。
将軍家と天皇家の中を取り持った人として、公武合体の象徴として、洛中洛外図に描かれるそうです。

後水尾天皇(ごみずのおてんのう)行幸の、『行幸』(ぎょうこう)とは、天皇が外出することです。

3代将軍家光は、二条城を改築したので是非見に来て下さいと、後水尾天皇に申し入れをし、
1624年に、後水尾天皇行幸が実現します。

この後水尾天皇行幸は、それはそれはすごい行列で京都中が熱狂したため、洛中洛外図によく描かれるのだそうです。

では、すべてが「公武合体」の象徴的な意味合いで作成されたというと、そうではないそうです。

洛中洛外図というのは、現在100点ほど見つかっているそうですが、
誰の発注で、なんのために作られたのか、わからないものが、実は大半なのだそうです。


成澤先生は、このように分析されていました。

>洛中洛外図の中には、主人の帰りを待つ退屈そうな篭屋や、祭りのケンカや、貧乏人まで描かれている物もある。
>当時の殿様や奥方が、このような物を、なんのために注文したのか、理由はわかりませんが、
>都市が財産であった初期の洛中洛外図に対して、庶民の生活や喜びを知る、民政上の研究資料として、
>江戸時代の洛中洛外図は、お殿様に好まれた可能性があると推測しています。

みたいな話でした。


◆(4)出雲の阿国の屏風は、なんのために作られたか。

出雲阿国は、歌舞伎の創始者と言われていますが、
歌舞伎というのは、昔は『傾奇』と書いて、それは衝撃的な踊りだったそうです。

洛中洛外図の中にも、阿国歌舞伎が描かれており、
菅原道真の命日に行われる毎月25日には、北野天満宮内で興行が行われていたそうです。

なぜ描かれたかに対して、成澤先生からの説明はありませんでしたが、
当時、相当珍しかった阿国歌舞伎であれば、描く題材として描かれても、不思議では無いのかも知れません。

また、なぜ遊女が描かれる屏風が多数存在するかも、個人的に疑問だったのですが、
遊女は、単純に売春婦として見るから、描かれる理由が想像できませんが、
阿国歌舞伎は、遊女歌舞伎となって発展していくという流れがあるんです。

そういった意味では、阿国歌舞伎が一大ブームになっていたのであれば、
遊女も阿国歌舞伎の流れをくむ表現者として、屏風に描かれたのかも知れませんね。

《歌舞伎図屏風(右隻部分)》江戸時代 出光美術館蔵
《歌舞伎図屏風(右隻部分)》江戸時代 出光美術館蔵


◆(5)感想

そんなこんなで、90分間の講義でした。

会場はご年配者の方が多くて、冷房が控えめになっており、暑くて溶けそうでした。

成澤先生はプロジェクターで、
出光美術館が収蔵している以外の洛中洛外図の画像を見せながら、
「これも下手ですよねー。これも下手ですよねー。」と説明されておりました。

やっぱりね、思うんですよ。

出光美術館の学芸員さんが言う、
洛中洛外図に描かれる人の描写から、祭りの熱気を感じろというのは、ちょっと無理があるんですよ。

洛中洛外図は、京の名所を一つの関係性のもとに描くために、祭りをモチーフにしているだけで、
そもそも祭りを描きたくて、洛中洛外図を描いているわけじゃないんだもの。

そんなわけで、私は出光美術館の展示のしかたに、
何となくこじつけというか、言い訳くさいものを感じたのでした。まる。
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