スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【演劇論】 サンドィッチマンと演劇
連日、笑いと演劇とに付いて書いてきたが、
最後にサンドウィッチマンについて書きたいと思う。

私はサンドウィッチマンの笑いは、非常に演劇的だと思っている。


 ⑤サンドウィッチマン
 富澤たけし:非常識なことを言う
 伊達みきお:現実的なことを言う(見た目は強面で非常識かと思ってしまう)
 現実のライン:伊達担当


彼らはまず、ネタに入る前に余計な説明をしない。
つまり、観客にこう見て欲しいといったことを、押しつけないのである。

しかも彼らのネタは、冒頭で必ず伊達みきお氏の強面の部分をいじる。

これは、変な動きやポーズであるとかつっこみの破壊力など、デフォルメした部分ではなく、
会話の中の関係性を見て欲しいと観客に自然と訴えることに成功している。
見た目をいじるのは最初で終わり。あとは自然と会話の中身に、意識が向くのである。

また、二人は特殊なステータスを演じようとしない。

演劇のはじまりは、人が神をあがめ、神を演じる者が生まれ、
神を演じる者が、神の代理として人々に答えた事であると考えられている。

ある意味、突飛なキャラクターを演じる事は、容易なのだ。

そういう意味では、オードリーの春日も突飛なキャラクターではあるのだが、
春日を演じることは容易ではない事は、言うまでもない。


ともかく、サンドウィッチマンが演じるのは、『一般の人』であり、特異なキャラクターではない。
富澤たけし氏が演ずる役は、一貫性があり、最初と最後で小さな変化(ドラマ)がある。
だからこそ、物語が積み重なるように、笑いが積み重なっていくのだと思う。



さて、サンドウィッチマンのネタに、「ピザの配達」というのがある。
2007年M-1王者の彼らが決勝で披露したネタである。

知っている人もいると思うが、
これは、エンタの神様で一度コントとしてやられている。

M-1は今まで未公開のネタにこだわっていないため、
その点に関しては問題ない。

ポイントは、同じネタがコントと漫才で表現が違ったという点にある。

エンタの神様で「ピザの配達」がコントとして行われた時は、
セットが組まれ、もちろんピザ自体も、小道具として登場した。
それに対し、M-1の場合は漫才のためにピザ自体は小道具として登場しない。
ピザはあるものとしてマイムで表現され、話は進むのだ。

エンタの神様では、冒頭に、
ピザを縦に運んできたことを指摘するところがある。

これが良くない。

観客は、ピザを縦に運んできたという事実だけを把握し、
その非常識さを認めなければ行けない世界が、
今後展開することを無意識の上に容認してしまう。

つまり、この部分があるために、
今後の非常識なやりとりにおける、
現実のラインと非常識加減の相対的な位置関係が縮まり、
何が起きても「それもありか」となりかねない状況で、
コントは進まざる終えなくなるのである。

それでもサンドウィッチマンが笑いを取り続けることができたのは、
もちろん彼らの実力であるが、実にもったいないと思ったシーンである。

彼らは観客を暖めるために、ある意味一発ギャグを飛ばし、
それを受け入れてもらおうとしたのかも知れない。

しかし、その部分がないM-1における漫才の方が、
構成的に優れていると私は思っている。
しかも、客に媚びていない。

もう一つM-1における漫才の方が優れているのは、
ピザを出さないことにより、
観客に情景を想像させることに、成功しているのだ。

彼らのマイムが優れているわけではないが、
話を聞いているうちに、ピザが見えてくる。
また逆説的に言えば、ピザの存在などどうでも良くなるのだ。

目の前に実際に物がある方が、情報は伝えやすい。
しかし、逆に物がない方が、想像力を刺激する。

以上の点を踏まえた上で、
私はサンドウィッチマンのスタイルは演劇に通じるものがあると考えるのである。
関連記事
トラックバック
トラックバック URL

Copyright © 『すべて持ち込み可』. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。