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【演劇論】 ナンセンスコメディにおける現実のライン
1999年、ノストラダムスの大予言ははずれ、
終末を迎えるはずだった世界は図らずも続いた。

そんな1999年を境に、妖怪が生息できる場所が無くなった気がする。

そんなことを書くと、
近年のゲゲゲの鬼太郎映画版のファンに怒られる気もするが、
ゲゲゲの鬼太郎映画版は、現代と妖怪をうまく共存させた傑作だと思っている。
今それについては論じない。

「妖怪とは、社会の隙間に生息してきた生き物だ。」


1999年より数年前の話ではあるが、
死海文書を題材としたエヴァンゲリオン(1995ー1996)が社会現象となった。

「この世界は、明日終わるかも知れない。」

そんな不安が、この世界を絶対なものとすることを許さなかったため、
あれだけ壮大な物語を現実の延長に組み立てることができたと思っている。
もちろんエヴァンゲリオンが優れている点は言うまでもない。


ナンセンスコメディの代表格であるケラリーノサンドロヴィッチ氏が、
ナイロン100℃で『薔薇と大砲~フリドニア日記#2~』を手がけたのが、1999年である。
フレドリアという地図にも載ってない街で起こる数奇な出来事をまとめたおとぎ話であった。


ナンセンスコメディは、
舞台上でありえない会話が平然と続く。

お客は、目の前にあるのはおとぎ話の世界であり、
そんなふざけた会話が許される世界なのねと受け入れる。

そもそも、この世界とは違う世界の、くだらない会話の連続だと錯覚する。

しかし、ケラさんのすごいところは、ある瞬間に、
その「ありえない世界」であったはずのものが、「ありえると世界」だと気付かされ、身震いするのである。


ナンセンスコメディの世界では、
登場人物の誰かが、常識的な発言をし、現実のライン引くわけではない。
仮に常識的に指摘した場合も、理由無くその不条理を容認せざるを得ないまま物語は進む。

そして、それを見て笑っているお客の中に、
「自分がまっとう」であると、お客自身に現実のラインを引かせる。

しかし作品は、物語に引き込ませた後に、
『その現実のラインは、本当に正しいの?』と問いかけてくるのだ。

そこで、自分はまともだと安全圏で見ていたはずの観客は、足下をすくわれ、
不安のままどん底につきはなされ、物語は勝手に終わるのである。
観客は見終わった後、何が現実か一瞬分からなくなる。

ここが非常におもしろい。


ここまで現実のラインについて散々書いてきたが、
現実のラインとは、登場人物の誰かが引かなければいけないわけではない。

ただし、どこかに引いていなければならない。


現実のラインが消滅したとき、物語は一気にわからなくなる。
物語が観客の元から離れてしまうのだ。


そして観客は、言葉を手探りに、今一度現実のラインを引こうとする。


しかし、時はすでに遅く、もはや嘘は嘘のまま、幕は引かれるのである。


嘘である演劇が、唯一ノンフィクションに勝てるとすれば、
想像力の力を借りなければ行けないと思っている。

その為には、
観客が生きている今のリアルな世界や時間軸を揺るがし、
絶対なんて存在しないという曖昧な世界観の中で、物語の結末に引き込むのだ。


演劇の魅力とは、LIVEであるという人もいる。しかし私の考えは違う。


物語に引き込まれていくうちに、今自分が立っている世界が崩れ、
別な世界へいける点が、演劇の醍醐味であると、私は思っている。
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