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国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(1)前期:2012/5/12~6/17
最近、美術館や博物館を散策しているので、
近現代も見ておこうと思いまして、6/3(日)に国立近代美術館に行ってきました。

毎月の第一週の日曜日は、無料観覧日になっていまして、この日も無料でした。

まず、11時からのガイドスタッフによるハイライト・ツアーに参加。
「初めての方はいらっしゃいますか?」と聞かれ、私を含め数人が手を上げていました。

まず私が驚いたのは、展示物の距離の近さとスタッフの多さ。

ガイドスタッフの方の話は60分ほどでしたが、話に意識がいってふらふらと横にずれていると、
「お気をつけ下さい。」や「他の方が通られるので、もう少しお進みください」と何度か指摘を受けました。

彫刻などは、リストを見ながら歩いたら普通にぶつかるんじゃないかと思うぐらい、間近にあります。
ガイドスタッフが話している間も、他2名(もしくはそれ以上)のスタッフが、まわりに気を配っているのです。

作品をよりしっかりと見て欲しいという、美術館側の配慮をすごく感じました。


さて、ガイドの方がまず案内してくださったのが、原田直次郎(はらだなおじろう)の騎龍観音です。

重要文化財《騎龍観音(きりゅうかんのん)》原田直次郎(1890年製作) 国立近代美術館蔵
《騎龍観音(きりゅうかんのん)》原田直次郎(1890年製作) 国立近代美術館蔵

天井まであるかという大きさで、すごい迫力です。
この作品は1890年の第三回内国勧業博覧会に出品され、2007年に重要文化財に指摘されています。

ドイツに留学した原田は、西洋の教会の天井に描かれた宗教画に感銘を受け、
日本で起きていた廃仏毀釈運動や、洋画排斥運動に対抗すべく、西洋画の技法を使って、楊柳(ようりゅう)観音を描いたそうです。

画面は右上と左下を結ぶラインを境目に、左上側と右下側が対比で描かれているそうです。
楊柳観音の静に対しての、龍の動。雲間からの光と楊柳観音の輝きに対しての、龍がまとう闇。

でも、なんでしょ。龍がね。目がくりくりして、可愛すぎやしませんか。
あと、もうちょっと龍の頭が大きい方が、個人的には好みかなと思ったのでした。


こんなすごい絵を描いていた原田直次郎ですが、画壇の主流は外光派の黒田清輝(くろだせいき)に移っていきます。

原田のような初期の西洋画の画家は、明暗で遠近法を明確に描こうとしたのに対し、
外光派の黒田は、明るい色彩の中で遠近感を出そうとしたために、色が自由に使え、画面が暗くならずにすんだそうです。

《落葉(らくよう)》黒田清輝(1891年製作) 国立近代美術館蔵
《落葉(らくよう)》黒田清輝(1891年製作) 国立近代美術館蔵

うん。確かに明るい。

木々の上の部分をあえて描かず、落ち葉に埋もれた根元の位置で遠近感を出すあたりが、
菱田春草の落葉と非常に似てるなと思ってみていました。

黒田清輝も東京美術学校の設立に関わっていますので、お互いに影響受けてるんでしょうか。どうなんでしょう。

通りがかった美大生風の女子2人が、「うまいー!うわっ、黒田清輝だって。」と話してました。
さすが黒田清輝。この時代に生きていれば、さぞやもてたに違いない。


次に目に飛び込んできたのは、朝倉文夫(あさくらふみお)の「墓守」。

《墓守(はかもり)》朝倉文夫(1910年製作) 国立近代美術館蔵
《墓守(はかもり)》朝倉文夫(1910年製作) 国立近代美術館蔵

国指定文化財等データベースより引用
>モデルは、学生時代より馴染みのあった谷中天王寺の墓守であるという。朝倉によればモデル台に立たせると固くなるためブラブラ歩いて面白いと思った姿勢をとり、家のものが指す将棋を見て無心に笑っている自然な姿を横からとらえて作ったという。

ニュートラルな立ち姿でありながら、実に見事な存在感です。

ブログを書くためにちょっと調べ物をしていたら、この墓守の石膏型が、重要文化財指定を受けているようですね。
まぁ、石膏型が貴重だというのもあるのでしょうが、この作品自体、とても魅力的だと感じました。

私は横に並んで同じスタイルを取ってましたので、美術館の人に、きっと変なやつだと思われたに違いない。


もう一つブロンズ像をご紹介。荻原守衛(荻原碌山)の「文覚」と「女」です。

Wikipediaの荻原碌山に、「文覚」と「女」の関するいわれが書かれていますので、部分引用します。

>碌山が17歳の時、運命的な出会いが訪れる。通りがかった女性から声をかけられた。田舎で珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳が印象的な美しい女性であった。その人の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩、相馬愛蔵の新妻で3歳年上の女性であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる知識の芸術を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。

~中略~

>1907年 (明治40年) フランスでロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。年末フランスを離れ、イタリア、ギリシャ、エジプトを経て1908年帰国。そして東京新宿にアトリエを構え、彫刻家として活動を始める。そんな碌山に運命の再会が待っていた。憧れの女性、黒光である。黒光はその頃、夫の相馬愛蔵と上京し、新宿にパン屋を開業していた。碌山は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされた。相馬夫妻はそんな碌山を夕食に招くなど、家族ぐるみのつき合いが始まった。黒光の夫、愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には碌山が父親代わりとなって子供たちと遊んだ。黒光は碌山を頼りにし、碌山はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになった。しかし、それは決して許されない恋であった。ある日のこと、碌山は黒光から悩みを打ち明けられる。夫の愛蔵が浮気をしてると告白された。愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持ちはもはや抑えようにもない炎となって燃え始めた。碌山は当時、パリにいた友人に高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸のうちを明かしている。行き場ない思いを叩きつけるかのように碌山はひとつの作品を作り上げる。1908年 (明治41年) 第二回文展で「文覚」が入選。

《文覚(もんがく》荻原碌山(荻原守衛)(1908年製作) 国立近代美術館蔵
《文覚(もんがく》荻原碌山(荻原守衛)(1908年製作) 国立近代美術館蔵

※文覚(もんがく)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧

>人妻に恋した文覚は、思い余ってその夫を殺害しようとした。ところが誤って愛する人妻を殺してしまった。大きく目を見開き、虚空をにらみつけた文覚。力強くガッシリとした太い腕。そこにはあふれる激情を押さえ込もうとした表現されているかのようであった。碌山は愛する人を殺め、もだえ苦しむ文覚の姿に抑えがたい自らの恋の衝動とそれを戒める激しい葛藤を重ね合わせた。一方、黒光は碌山の気持ちを知りながらも、不倫を続ける夫の憎しみにもがき苦しんでいた。碌山は黒光に「なぜ別れないんだ ? 」と迫った。しかし、その時黒光は新しい命を宿していた。母として妻として守るべきものがあった。

>1910年 (明治43年) 追い討ちをかけるように不幸な出来事が起こる。黒光の次男の体調が悪くなり、病に伏せる日が多くなった。次男を抱える黒光を碌山は黒光を来る日も来る日も描き続け、「母と病める子」を世に出した。消えかかる幼い命を必死に抱きとめようとする黒光。しかし、母の願いもむなしく次男はこの世を去った。悲しみのなか、気丈に振舞う黒光に碌山は運命に抗う人間の強さを見出してゆく。そして思いのたけをぶつけるように、同年「女」を制作。

重要文化財《女(おんな》荻原碌山(荻原守衛)(1910年製作) 国立近代美術館蔵
《女(おんな》荻原碌山(荻原守衛)(1910年製作) 国立近代美術館蔵


この作品を完成させた数か月後に、碌山は喀血して、この世を去ります。
碌山の死後に「女」は文部省に買い上げられ、日本の近代彫刻としてはじめて重要文化財に指定されます。

ちなみに相馬黒光さんのお写真はこちら。
相馬黒光 -新宿中村屋創始者-
◆◇相馬黒光 -新宿中村屋創始者-◇◆

黒光の子どもたちは、碌山の死後にこの像を見て、「お母ちゃんだ!」と口々に言ったのだそうです。

うーん。切ない。

Wikipediaの荻原碌山は、全部読んで良いかも知れません。


長くなってきたので、国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(2)へ続きます。
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