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演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(2)
前回の演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(1)の続きを書きます。

前回、映像におけるイマジナリーライン越えは、撮影対象が入れ替わったり、テレポーテーションしたと錯覚してしまうために、一般的にはタブーとされているという話を書きました。では、文学座の「ナシャ・クラサ」で行われていた演出効果はどのようなものであったかを書きます。

それは、第一幕の中盤から後半にかけてのシーンであったと思います。ユダヤ人の青年ヤクプ・カツは、ポーランド人でカトリックのポーランド人の男達3名にリンチされ、殺害されます。街のあぜ道で遭遇した1人対3人は、舞台上で対峙の構図を取ります。向き合う1対3人の間には、木製の机が存在します(図1)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図1

構図をわかりやすくするため、これを「男」と「敵1~3」という表現で説明させて下さい。構図に関係ない人物や舞台装置は、すべて省略しています。「対峙の構図」と文字が入っている方が、便宜上、客席側と考えて下さい。

さて、敵は男ににじり寄ります。男は敵のただならぬ雰囲気に、身の危険を感じます。台本では、その時の男の心境がモノローグとして語られます。ある瞬間、4人は陸上のハードルを飛び越えるようにして机を飛び越え、手前と奥が入れ替わります(図2)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図2「ナシャ・クラサ」における対峙の構図3

今度は敵である男達のモノローグや、3人の会話が行われます。そして、ある瞬間に再び4人は机を飛び越えます。つまり、図2→図3→図2→図3の構図を複数回にわたって繰り返します。その後、男は机に脚をひっかけて、机が倒れます(図4)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図4「ナシャ・クラサ」における対峙の構図5

机が倒れた瞬間から、敵1~3は、倒れた机=男としリンチを繰り返します。その状況を男は俯瞰的に見ており、心境をモノローグで語ります。その後、敵1が15㎏はあろうかという石を男の頭へと投げつけ、男は絶命します(図5)。

論述するために、あたりまえの事をあえて書きますが、このシーンにおいて4人の男達が机を飛び越えるという行為は、彼らのリアルな行動ではありません。演出家は、机を飛び越えるという方法で、イマジナリーラインを飛び越え、対峙する4人の構図を2つの視点で描きました。机を飛び越えた後に発生する足音は、あぜ道で獲物を追いかける男達のリアルな足音として劇場内に響きます。男が机を倒した時に発生した鈍い衝撃音は、実際に男が倒され脳しんとうを起こしたときの、男の中で響いた衝撃音とシンクロします。

おそらくこのシーンは、回り込み動線で作ることもできたでしょう(図6)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図6

そうした場合、敵1が石を男の頭に向かって投げ付ける段階でも、男は床に寝そべりモノローグを続ける事となり、あまりにリアルすぎるか、もしくはあまりにリアリティのないものとなっていたに違いありません。

なぜ私がこの演出を、映像におけるイマジナリーラインの飛び越えと似た要素があると感じたかと言うと、図1においては男から見て敵のならびは、「(左から)敵1-敵2-敵3」となっているのに対し、机を飛び越えた後の図2における男から見た敵の並びは、「(左から)敵3-敵2-敵1」と入れ替わっている点にあります。

つまり、一見、舞台上の空間はリアルな物理的距離感で作られていると感じていたものが、イマジネーションラインを飛び越えた時点で、急に距離感はリアルではないと認識され、本来であればそこで作品はリアリティを失ってしまうかと思いきや、4人の関係性は空間における物理的距離から解放され、抽出された本質が逆に観客に迫ってくるわけです。

もしこれを図6のような回り込み動線で演出し、そこにリアリティを持たせた場合、目を覆いたくなる自体に観客は舞台上を見ていられないかも知れません。しかし、高瀬演出のすばらしいところは、あくまで3人の敵が痛めつけるのは、男に見立てた机なのです。痛めつけられる机だからこそ、見ていられる。ポーランド人の3人の男にとっては、同級生のヤクプ・カツは、すでに人ではなく机であったのかも知れません。

だからこそ私は、なんてすごい演出なんだと感じていました。

蛇足的かも知れませんが、実は物語はこの後、3人の男達はユダヤ人のかつてのクラスメイトであるドラの家へと行き、酒をあおり、3人でドラをレイプします。このシーンにおいて机は、ある瞬間からドラの肉体へと変わります。男達二人はドラの両足を押さえつけ、もう一人が姦通します。状況的にとても見ていられるシーンではありません。しかし、男達が犯しているのは机なのです。ドラは自らが犯され、それでも体が反応してしまった事を恥じた事を、男達からちょっと離れたところから俯瞰して語ります。机だからこそ、私はそのシーンを最後まで見ることができました。そして、男達が押さえつけた木製の机の脚は、消して閉じることができないにも関わらず、どうか脚よ、閉じてくれと願っていたのでした。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図7

私は演劇における動線とは、自由でありつつも、よりリアルな距離感を追求するべきだと思っていました。それは、日常のリアルな距離感を舞台上に上げれば良いという話ではありません。舞台における動線は自由であるからこそ、意味を持たせなければいけない。意味を持たせるべきであると感じていたのです。それは、作品をリアルなものとして届ける上での一助となると考えていたのです。しかし、本作品では、リアルな物理的距離が失われたからこそ、本質を抽出することに成功していると感じたのです。

演劇は、距離感からリアルを生み出すこともできれば、距離感の消失からリアルを紡ぎ出すこともできる。

このことは、私を舞台のルールから、一つ解放してくれた出来事だったのでした。
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