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「ナシャ・クラサ」私たちは共に学んだ -歴史の授業・全14課-の感想
林田一高さんが自身のブログで、必見の価値ありと書いていたため、
当日券の発売開始の11時から文学座に電話をかけ続け、無事チケットをゲットして観て参りました。

《文学座75周年記念公演「NASZA KLASA(ナシャクラサ)」》
文学座75周年記念公演「ナシャクラサ」

5/30(水) マチネ 補助席21番で観劇

ポーランドの劇作家の戯曲による、2時間40分の作品。演出は文学座の高瀬久男さん。
題名の「ナシャ・クラサ」は、同級生の意味。クラスがポーランド語だと、クラサになるのでしょうかね。

1919年~1920年に生まれた子どもたち10名が、
小学校に通い始める第1課から、最後の1人が死んでいく第14課までの人生の物語。


見終わって、私の中の価値観が、変化したような気もする。


私はポーランドの歴史は知らない。
チラシの中に、作中用語と略式年表が書かれた両面印刷の資料が挟まれていた。
一応目を通したが、もちろん覚えきれるわけではない。

それでもよかった。


作品は途中15分間の休憩を挟む。

第二次世界大戦下のポーランド。とある街で起きた1941年のユダヤ人大量虐殺。
ドラ(女性)が燃えさかる炎の中で叫ぶ、「人の一生は、こんなものなの」みたいな台詞で第一幕は終わる。

客席からすすり泣く声が漏れ、私も泣いていた。


休憩中に、舞台には木製の机が複雑に積み上げられていた。


それは、火をかけられた建物の中で折り重なるように死んでいった700人のユダヤ人を象徴しており、
それは、クラスメイトを殺すことになってしまった彼らの一生消えないトラウマとして、
終演まで崩されることなく、舞台上に有り続ける。


ドラマチックなシーンのピークは、第一章の最後にある。

ドラ(女性)の最後の言葉を「みたいな台詞」と書いてしまって申し訳ないが、
正直、何を言ったのか、今となっては正確に思い出せない。

彼女が赤子を抱き、悲痛に叫んでいたことだけが、鮮明に残っている。
この作品に、象徴的な台詞はない気がする。

作品のテーマを代弁するような、一人歩きしそうな言葉はないのだ。
彼らはあの時代に、あの場に生き、生きるために発した言葉しかあそこにはない。

だからこそ、印象に残るフレーズがないにも関わらず、起きた事実に私は涙したような気がする。


第二章は、彼らが戦中にクラスメイトを殺害したという過去をタブーとし、
それがいつばれるかという恐怖とトラウマを持って生き続け、死んでいく物語である。

一昨年のNHKの朝の連続テレビ小説のゲゲゲの女房も、昨年のカーネーションも、今年の梅ちゃん先生も、
戦争を描く際、人が人を殺すという残酷さではなく、
戦後になってもトラウマを持ち続け、後遺症を抱え苦しむ人々を描いている。

この作品も、同じである。

「あの時、死んでいたら、どれほど楽だったか。」

みたいな事をマリアンナが言っていたような気もするが、やはりはっきり覚えていない。


私はこの作品を見て、たき火を見ている感覚に近いものを感じた。

第一幕で火はかけられるが、たき火となるのは第二幕である。


赤々と燃える炭火を、黙って見続けた夏の夜の感覚なんだが、わからないだろうか。
赤々と燃える炭火は、やがて一つ、また一つと赤みを失い、灰となっていった。

そして、幕が下りた。


なので、私にとっての第二幕は、炭火を見ながら、ただただ話を聞いていただけである。


チロチロと燃える炭を見て、面白いも、面白くないもない。

でも見てしまう。

この感覚がうまく伝わると良いのだが。



終演後の拍手は暖かく、長かった。

熱い拍手は経験した事があるが、この何ともぬるく、長々と続く拍手というのも、初めての経験だった。

拍手が終わって、最後の火が消えたことを痛感した。そして、みんな劇場から帰って行った。



今日の芝居を見た後の私の感覚は、
「私は以前も人間であり、今も人間で有り、これからも人間なんだな。」というものだった。

それは、10人のこども達の人生に、良いも悪いも正解も失敗も、何も言うことができなかったからこそ、
このような感想になるのかも知れない。


高瀬さんの芝居は、いつも不思議だ。

良い芝居でした。
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