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他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)の続きを書きます。


私が縁あって文学座の林田一高さんと出会ったのは、2005年の事です。
私が林田さんの演技を見た時の印象は、『なんて自由な役者さんなんだろう。』というものでした。

私の言う『自由』は、身勝手とは違います。

『舞台の上でのびのびと魅力を発揮できる状態にあること』という意味合いが近いかも知れません。


役を演じているにもかかわらず、
板の上でこんなにも解放されている役者さんに、これまでに出会ったことがなかったのです。


舞台上の役者は、色々な制約を踏まえて演技をします。

私は後先考えず、本番で稽古場と違うことをやる役者を、好きではありませんでした。


しかし、一見作品を壊してると思った役者が、稽古場より輝いてしまうケースもあります。
本番でより輝く役者を見るたびに、演出家としての力不足を感じたものです。


では、どうしてその役者は、本番の方が輝いたのでしょう。


役者も演出家も、作品を作る時に台本解釈をします。
台本には、その役が何をするか、そして何が起きるか、それに対してどう思うかなど、色々なことが書いています。

どうやって役作りをして良いかわからない役者さんは、
台本を読んだ後に、『どうやるか』を決めて、決めた事を反復練習しているうちに本番を迎えてしまいます。


『役作りをする事』=『段取り(どうやるか)を決める事』 と思っているのでしょう。


役者さんは、稽古中は不安でしょうがありません。

その不安を解消するために、何が起きるか把握するわけですが、
それだけで安心できない役者は、本番に向けて『制約』をたくさん決めるのです。

決めごとが増えると、役者は安心するからです。
そして、舞台上で一人で勝手に安心して、必要なリアクションを取り忘れる。

例えば、ボールが飛んでくることがわかっていれば、それだけで良いのに、自分がどう投げるかに必死になる。

自分も投げるという決めごとに安心して、相手のボールを受けることをしなくなるんです。
相手のボールを受けてないのに、自分のボールを勝手に創造して、自分の順番が来たから相手に投げてしまうのです。

アクション(相手が投げる)に、リアクション(自分が受ける)をしないで、
アクション(相手が投げる)に、アクション(自分が投げる)で返してしまうわけです。


段取りを1つ決めると、役者にとっての制約が1つ増えた事になります。
しかし、この段取りが役者を固くし、役者の自由を奪っているわけです。

自分で首を絞めてしまっているわけですね。


もちろん、お芝居には段取りが必要です。

しかし、私の考える段取りとは、
舞台上で接触事故が起きないためと、観客にとってわかりやすい位置で演技するためのルール作りです。
演技そのものが、段取りではないんです。

役者の方は、演技が段取りになっていると言われたことはありませんか?
段取りではなく、初めて感じたようにリアクションしてほしいと言われたことがありませんでしょうか。

もしこのダメをもらって、初めてリアクションしたように段取りを決めたのなら、結局はだめなのです。
演技を段取りにした時点で、役者の自由は奪われてしまうからです。

段取りにしない方法を、選択しなければなりません。



演技を段取りとすることの弊害は、役者の自由を奪う事だけではありません。


演技を段取りにする役者さんは、
漫画のコマのように、象徴的なコマを印象的に描けば、滑らかにつながると勘違いをしています。

物語の始まりから終わりまで、いくつも点を打って、
その点をより細かく打つことができれば、一人の人格として見えてくると信じているのです。

そういう役者さんは、演技のうまさを、
どれだけ多くの点を打てたか(どれだけアクションしたか)で決まると思っていたりします。



私たちが生きている世界は、連続した時間が流れています。
役者は物語が始まったら、その連続した時間を役として演じきらなければなりません。

ただし、人が日々感じている『時間』は、あくまで切れることなく続く線であって、コマの連続(点の連続)ではありません。


アクションの連続(点)で演技をつないだ場合、
AアクションとBアクションの間に、その役として、その空間に居続けることができなくなってしまうんです。

AアクションとBアクションの間に、何もしないでその場にいるケースや、
Bアクションを身構え体を硬直させ、相手の演技を全く見えていない場合もあります。

相手のアクションに、アクションで返すのではありません。
相手のアクションに、リアクションするのです。

リアクションは、反応・反射であり、段取りでは決してないです。


点を打つという行為は、点と点の間に隙間を作ります。その隙間が、役者が素に見えてくる瞬間なのです。

その点と点の隙間を埋めることができなければ、結局は、段取りは100決めようが、1000決めようがダメなのです。



私もかつて、役者が安心するようにダメ出しで、どんどん制約を作っていく演出家でした。
役者はどんどん安心していくので、演出家を信頼していきます。

一見、順調に芝居ができあがっている気がしますが、
ある瞬間に、演出家に何か言ってもらえないと、全く動けなくなっている自分に、役者は気付くのです。

そして、なぜ稽古すればするほど、つまらなくなっていくのだろう。
なぜ自分は、やってて楽しくないのだろうと思いつつ、本番を迎えてしまいます。


そして本番で開き直って、役者が稽古場と違うことをやるわけです。


私が思うに、自分で本を書いている演出家さんは、世界観をしっかりと持った上で、演出をします。
そのため、演出家がうまく言葉にできない事象が現場で起こったとしても、何を描きたいかがぶれないのです。

反対に、他人の戯曲を演出する演出家というのは、
演出家が持ってる技法や知識で役者の不満を押し切って、作品を作ってしまう割合が高い気がするのです。

演出家は、本番に向かってダメを積み重ね、どこまでいけたかで勝負しているわけではありません。
描きたかった世界を、描けているかどうかが勝負なのです。

そのためには演出家は、役者の魅力を引き出し、その上で作品の魅力を引き出さなければなりません。


そのできあがった作品自体が、他人の戯曲を演出する演出家だからこそ描ける作品でなければならない。


長くなってきたので、分割します。

次回は、『他人の戯曲を演出する演出家が持つべき視点』について書いてみます。



他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(4)へ続きます。
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