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他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(1)の続きを書きます。


さて、私が芝居の話をしていると、「誰の作品が好きですか?」と聞かれることがあります。

でも、正直どう答えようかと、困るんですよね。


高校生の時に見た富良野塾の「谷は眠っていた」は、知らぬ間に涙してました。
大学生の時に見たエル・カンパニーの「ウインズ・オブ・ゴッド」は、会場中が号泣してスタンディングオベーションをしました。

ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの芝居も、野田秀樹さんの芝居も、平田オリザさんの芝居も面白いと思いました。



私は、他人の戯曲を演出する演出家になろうと思っているせいか、
私が面白いと感じた作品は、ジャンルや、作者(考え出した人)に依存しないんです。


お芝居を観るということは、料理を食べる事と似ている気がします。
私はカツ丼とラーメンが好きですが、中華丼も蕎麦も好きです。


中華だけでなく和食も美味しいですよね。麺類だけでなくご飯物も美味しいですよね。
ほら、ジャンルも考え出した人も、関係ないじゃないですか。

美味しい料理に出会ったから、その料理が好きなだけなんですよ。


ちなみに皆さんは、好きなものだけ食べて生きていませんよね。
次の食事で何を食べるのかわかりませんが、何を食べるにしても、美味しいものを食べたいはずです。

日によって食べたいものが違うように、見たい芝居も変わっていいと思うのです。
面白ければ、それが美味しければ、人は満足できるんですよ。


では、こういう例えはどうでしょう。

◆お腹が空いたので、立ち寄ったお店でカツ丼を頼んだら、中華丼のアンがかかったカツ丼が出てきた。
◆シェフはカツ丼に中華丼の風味を加えるアレンジをし、しかも野菜もたっぷりとれて栄養満点です。
◆『私のオリジナリティあふれるカツ丼は、どう思いますか?』と聞かれる。


私は、『ウォォォ!!』と、頭上でグーを握りしめることでしょう。


私は、カツ丼が食べたかったからこそ、カツ丼を頼んだ。
創作料理のお店なら、そのように看板に書いておけ。
しかも、カツ丼の名前を使わず、いっそ別な名前でその料理を出せよと思う。

お代は払いますけどね。


私が求めたのは、まずカツ丼であるという前提で、なおかつ美味しいことです。

シェフは、そのことを理解してないわけですね。


私の演出も同じで、作者を無視して、独自の世界を作り出せればいいわけではありません。

いままで何度も上演されてきた戯曲であっても、同じ台詞をいった上で、
作者の描いた世界を尊重した上で、それでもなお、私のオリジナリティを出せなければならない。


ちなみに太線部分が、前回と同じ文面です。


私がシェフならば、まずカツ丼を作るべきで、なおかつ、美味しいカツ丼を作ることが、私の仕事なわけですね。



さて、私が演出をする場合は、劇作家が台本に、どういう言葉で書いたのかを重要視します。

音楽で例えるなら、私が譜面を見て、いきなり原曲をどうアレンジするかを考えるのではなく、
譜面には、どのように演奏するべきかが書いてありますので、そこを理解する事からはじめるというわけです。



例えば、こんな台詞があったとしましょう。

A:『なにこれ。タカミナが食べてるのと、同じの買って来てって言ったよね。また無視するんだ。』
B:『だから、そうじゃないんです。』



Aは、怒ってますよね。怒ってる=感情的と解釈して、『また無視するんだ!!!』と叫ぶ役者がいたりします。

でも、よく考えてみてください。


「また無視するんだ。」って言葉を言いながら、大人はキレたりしますか?
「ふざけないでよ。」「バカじゃないの。」「ケンカ売ってるんでしょ。」とかなら、まだ感情的ですよね。

「また無視するんだ。」は、あきれているのか、問い詰めているのか、
はらわたが煮えくりかえっている言い回しであって、決して、爆発する怒りを表す時に、この言葉をわざわざ選ばないですよね。


役者の中には、台詞はすべて、感情を込めて言う物だと勘違いしている人がいます。
しかも、「怒り」だと思い込むと、全部怒りで押し通せばいいと思い込んでいる人もいます。

このAの台詞に、私が勝手に言葉を補うと、

A:『(カツ丼を楽しみにしてたのに)なにこれ。(どういうこと?ほっかほか亭のCMで高橋みなみ・通称)タカミナが食べてるのと、同じの買って来てって(あなたに直接)言ったよね。(前にも私の言ったことを無視したことあったけどさ)また(私の言ったこと)無視するんだ。(どういうつもり?)

みたいな、感じになるのでしょうか。

「なにこれ」の後ろと、「また無視するんだ。」の前で、台詞が変調する(高低が変化する)のはわかりますか?



もちろん、このAの「また無視するんだ。」は、絶対にキレて言ったらダメなわけではないんです。
もしくは、キレやすいように、『バカじゃないの!!』に書き換えることが、演出家権限でできないわけでもないんです。

でもやはり、作者がこのように書いてる以上、まず書いてる通りに演じるのが筋じゃないですか。

私が言ってきた、『作者を尊重した上で、作品を作っていきたい』というのは、こういうことなのです。

だからこそ、「また無視するんだ。」を、「また無視するんだー。」にも、したくないのです。


一定レベルの台本解釈ができるようになると、台本を読んだときに、頭の中で台詞が音になって聞こえるようになります。
これは超能力でも何でも無く、おそらくオーケストラの指揮者も譜面を見た時に、頭の中で音符が鳴るのだと思います。


私の稽古場には、ほとんどの場合、作者は稽古場にいませんでした。

私は、この頭の中に鳴った音を足がかりに、どう演技を変えて欲しいかを役者に指示するわけですが、
私の頭の中で鳴った音が、作者が書いた音と同じであるという保証は、どこにもありません。

私にとっての『書いてる通りに演じるのが筋』という論理は、役者にとっての筋と違うかも知れない。

『私の頭の中で、こう鳴ってるから、そうやってくれるかな。』では、
結局、演出家のエゴで作品を作っているのと、同じと思われてもしょうがないわけです。


役者にしてみれば、
『正解は、すべて演出家に聞かなければ、いけないのか。役者は演出家のコマなのか。』となりかねないわけです。


私が、『他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティはどこにあるのか』を悩んできたように、
役者も、『他人の戯曲を演じる役者のオリジナリティはどこにあるのか』を悩んでいたりするわけです。


もっと言うならば、

『私はここで怒りを爆発させたい。爆発させたいからする。それがなんでいけないの?』

と思う役者も、中にはいるでしょう。


でも結局そこは、話し合うしかないわけです。
話し合った上で、最終的に結論は出さなければいけない。



例えば、とあるラーメン屋のオーナーである私(演出家)が、
今はもう存在しない、昭和の名店の醤油ラーメンのレシピ(台本)を持ってきて、コック達(役者)と新製品を作るとします。

レシピには、メンマの太さに関しての記述がない。
だったら、食べてみてどれが一番良いか、話し合えば良いですよね。

あるコックが、そこにタラバガニを入れたらどうかと言ったとしますよね。
でもそれは、再現したい醤油ラーメンと、コンセプトが変わってしまうんじゃないか?となりますよね。

あるコックが、隠し味にコーヒーを入れてたらどうかと言ったとしますよね。
レシピにはスープを作る醤油の調合方法が書かれていますが、実際に同じ醤油を手に入れることは、もうできない。
コーヒーを少量足すことで味に深みが出る。コーヒーを入れても見た目は変わらない。でもコーヒーなんて入れて良いのか。

話し合うしか、ないですよね。

名店のラーメンを食べたことがある人が、コーヒーがある方が、あのラーメンに近いと言うかも知れないし。
かといって、コーヒーを入れすぎたら、コーヒーラーメンになる事は、わかりますよね。


オーナーである私は、どこまでは譲歩でき、どこまでは譲歩できないのか。


しかも、味を再現する事が目的ではないんです。

最終的に再現した懐かしい味を、『美味しい』と言ってもらえなければいけない。


当時の食文化を再現する事が、私の目的ではなく、
その一杯を食べた事による満足感や幸福感を再現することが、私の目的だからです。


結局、料理をする(舞台で演じる)のはコックです。
オーナー(演出家)である私には、やれることとやれないことがある。

ただし、オーナーであるからこそ、『俺が責任を取るからやってみろ。』と言うこともできる。



だからこそ演出家である私は、『どこまでは譲歩でき、どこまでは譲歩できないのか。』を明確にする必要があるわけです。



さて、長くなってきたので、この辺で。

他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)に続きます。
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