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他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(1)
若い頃、誰もが一度は『自分は何者なんだろう』と問いかけることがあったと思います。
同じように、私が自らに問い続けてきたのは『私の演出とはなんなのだろう。』という事でした。


これだけだと、ただの思春期の悩みの一つと思われるかも知れませんが、
正直『舞台演出家』というのは、何をする仕事なのか、何のためにあるのかも、答えるのが難しい職業だと思っています。



私が舞台演出家を志しているというと、「宮本亜門さんと、同じでしょ?」と言われることもあります。
確かに宮本亜門さんは、日本を代表する演出家ではありますが、宮本亜門さんはミュージカルを演出する人ですよね。


私が演出するのは、いわゆるセリフ劇で、演劇の中でも『ストレートプレイ』と呼ばれているものです。


では、演劇を少し知ってる人であれば、
「つかこうへいさんや、野田秀樹さん、三谷幸喜さんと、同じだ。」と言ったりします。

確かに三人とも、ストレートプレイの演出家さんですが、私と一緒かと問われると、どうも違う気がしてくる。


大きくわけて2点、違う気がしてくるのです。

まず第1点。三人とも全くジャンルが違います。音楽に例えて言うなら、ハードロックと、ジャズと、テクノぐらい違う。
しかしそれは、突き詰めれば、私にとってはどうでも良い点なのかも知れません。


もう1点の方が、私にとっては重要でした。

それは、三人とも劇作家であり、かつ演出家でもある人たちであるという点です。
私は自分で作品を書いたこともありますが、基本的に『他人の書いた芝居を演出する演出家』なのです。

なぜ、この点にこだわってしまうかと言いますと、
劇作家であり演出家であるこの三人は、この人たちが考えなければ、
この世に存在しなかった世界を最初から作っているという、前提があるわけです。

つまり、自分で書いて、自分で演出する場合は、オリジナリティが最初から存在している。


しかし、私の場合は違います。

私が演出する作品は、私ではなく、劇作家さんが書いた戯曲です。

演出家としての私の存在意義は、現場の潤滑剤として機能するだけではない。
かといって、どうオリジナリティを出して良いかが、わからなかったのです。


『演出家なんだから、好きに作品を作れば良いじゃない。』


そう言う人も、確かにいます。
しかし私は『演出家は作品を好きに作って良い』とは思っていなかったのです。


演劇において、役者や演出効果は、より個性的な方がいいと思ってる人が多い気がします。
個性的=オリジナリティがある=良いと、認識されている面があるからでしょう。

私は個性的である事=良いととらえることを否定したいわけではありませんが、
個性的である事を優先するばかりに、作者が描きたかった本来の世界と、
全く別の世界になってしまっていると感じてしまう作品に出会うことが、非常に多かったのです。


では演出家は、作家が現場にいないから、演出家が代わりをするだけなのだろうか。


いや、違う。


演出家は、現場でもめ事が起きないようにする、単なる潤滑剤ではなく、
作者が現場に来れないから、作者の代理で台本の解釈を伝える存在だけではない。

演出家は、演出家としてのオリジナリティを持った上で、役者と作者の間で、演出家として責任を果たさなければならない。
では、他人の作品を演出する私のオリジナリティは、どこで出すべきなのかを悩んでいたのです。




そこで気付いたのは、私の舞台演出家という仕事は、オーケストラの指揮者に似ているという事です。
オーケストラの指揮者は、みんながみんな、自ら作曲をしているわけではないですよね。

人が書いた楽譜をみて、指揮者が指揮をするわけです。

前回、佐渡裕さんとその師匠に当たる、レナード・バーンスタインの演奏の動画を紹介しましたが、
同じビゼーのカルメンの譜面で指揮をしているにもかかわらず、二人から生み出された音楽は、全くの別の魅力があります。


J-POPの音楽番組においても、ジャズミュージックであっても、そこに指揮者はいません。
もちろんオーケストラに指揮者がいなくても、音は鳴るはずです。


では、「オーケストラに指揮者はいらないと思いますか?」と問うと、首を傾げたくなる。


指揮者の中には、佐渡裕さんやバーンスタインの他にも、世界で活躍し、実際に評価されている人が大勢います。

オーケストラの指揮者は長い歴史の中で、指揮者の果たすべき役割が明確になり、認知されているからこそ、
オーケストラに指揮者はいなくてもいいとは、思えないわけです。


もう1点注目すべき点は、佐渡裕さんのカルメンは、佐渡さんならではの、ビゼーのカルメンであり、
レナード・バーンスタインのビゼーのカルメンは、バーンスタインならではの、ビレーのカルメンになっている点です。


つまり佐渡裕さんもバーンスタインも、楽譜に新たに音符を書き加えたわけではなく、
鳴っている音符は一緒なのに、『音符の解釈が違う』から、彼らにしか作れないオリジナリティを持った音楽になっているわけです。


独自の魅力があるけれど、演奏されている楽曲は、間違いなくビゼーのカルメンなわけです。



そうなんです。私は、これだと思ったのです。



私の演出も同じで、作者を無視して、独自の世界を作り出せればいいわけではありません。



いままで何度も上演されてきた戯曲であっても、同じ台詞をいった上で、
作者の描いた世界を尊重した上で、それでもなお、私のオリジナリティを出せなければならない。



では、『私の演出とは、なんなのか。』

そして『私のオリジナリティとは、どうやって出していくべきなのか。』



次回は、そのことをまとめてみたいと思います。


他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)に続きます。
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