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チョコレート・ファウンテンと1羽のインコ
お気に入りの画像を紹介します。

このチョコレートフォンデュ用のチョコレートが溢れる噴水、チョコレート・ファウンテンっていう名前らしいです。
チョコレートフォンデュのマウンテンだから、チョコレート・ファウンテンなのでしょうか。

そこにあらわれた、1匹の羽の白いインコ。

インコとチョコレート・ファウンテン1
インコとチョコレート・ファウンテン2
インコとチョコレート・ファウンテン3
インコとチョコレート・ファウンテン4
インコとチョコレート・ファウンテン5



あうw


一瞬、何が起きたかわからないと思いますが、この理解したときの衝撃たるや。

このインコくんが、このあとどうなってしまったか心配になりますが、
実はこの画像は、有名な映画のワンシーンで、インコくんはCGなのだそうです。

らばQさんのページに、その辺が詳しく載っています。

一昨日紹介した天の川を撮影した動画は、CGではない映像である事がすばらしいですが、
今日のインコはCGであった事が残念であったかというと、それはちょっと違いますよね。

もちろん動物愛護の観点から見ると、CGであって良かったとなるわけですが。

人って、例え作り物だとわかったとしても本気で笑うことができたなら、それを受け入れて好きになれるんですよね。


これって演劇も同じだと思うんです。

例え作り物の世界であっても『そうあって欲しい。』とお客に願ってもらわなければいけないと思うのです。

演劇は、気持ちよくダマしてほしいと願う優しい人が、劇場に足を運んでいるのです。

観客はなにも悪くない。
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bananaman live 2012「TURQUOISE MANIA」のチケットが発売になります。
バナナマンの単独ライブ2012 「TURQUOISE MANIA」(ターコイズ・マニア)のチケットが発売となります。

6/30(土)の10:00から発売です。

《TURQUOISE MANIA -ターコイズ・マニア-》
バナナマン単独ライブ・「TURQUOISE MANIA」(ターコイズ・マニア)

◆日程◆
8月2日(木)~8月5日(日) 全5公演

8月2日(木)①19:00
8月3日(金)②19:00
8月4日(土)③15:00、④19:00
8月5日(日)⑤14:00
※開場は30分前
※未就学児入場不可


◆会場◆
俳優座劇場(港区六本木4-9-2)


◆チケット◆
*ローソンチケット
0570-084-003 (Lコード:35304)
http://l-tike.com/
お問い合わせ:0570-000-777 (10:00-20:00)
※一般発売初日より、ローソン店頭Loppiでの直販あり。
※0570ぁら始まる電話番号は、一部携帯電話、全社PHS、IP電話・CATV電話からはご利用になれません。

◆発売日◆
6月30日(土)発売

◆料金◆
¥5,800(全席指定席)

ローソンチケット:http://l-tike.com/
ホリプロ・オフィシャルホームページ:http://com.horipro.co.jp/news/mania.html


一応、8/3(金)にしようかと思ってるんですが、買えるのかなぁ。。

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=_=) 電話がつながった時には、全日売れ切れてました・・・。←6/30追記
微速度撮影された天の川  『クロノス映画祭』 2011年度最優秀賞作品
アメリカの写真家であるRandy Halverson(ランディー・ハルバーソン)氏が、
サウスダコタ州、ウィスコンシン州、ユタ州、コロラド州の平原上空の天の川を撮影した動画を紹介します。

もちろん、CGではありません。

《「Plains Milky Way」by Randy Halverson》

Plains Milky Way from Randy Halverson on Vimeo.



息をのむ美しさですよね。自然に対する畏敬の念がわき上がってきます。

動画の10秒間は、現実世界の2時間20分にもなるそうです。

そこに小屋が建っているように、私たち人間も、この美しい大地に立っています。

太古の人達は、この星空を、さも当然のごとく見上げてきたのかも知れません。
目先の照明にとらわれがちの現代ですが、私たち人間もこの美しい星々の一部なんですよね。

私たちも、宇宙の輝きの一つを担っている。

憎しみあっている場合ではない。
写真で一言ボケて「bokete」の中のお気に入り(6)
写真で一言ボケて「bokete」に投稿されたネタの中から、私が好きなやつを紹介します。

《庭につながれている犬に自由を見せびらかしに来る》

『庭につながれている犬に自由を見せびらかしに来る』

◆感想◆

もしこれが、『庭につながれている犬に自由を見せびらかしている』であったならば、登場人物は『猫と犬』になります。
状況を客観的に分析した人間が、この一瞬をうまく説明するための言葉を選択したという事になるでしょう。

しかし今回は、『庭につながれている犬に自由を見せびらかしに来る』です。
この場合は、登場人物は『猫と犬と人』となります。

つまり、この状況を見ている『人』も、この現場にいたという事になります。


しかも、『来る』は、『毎日来る』か『たびたび来る』かわかりませんが、
『来る』と言っている以上、今回が初めてではないことを、暗に示しているわけです。

ひょっとしたら雨の日は来ないのかも知れません。

この現場にいた第三者の人間目線で盛り込まれた『来る』の部分が、この状況の説明的な表現をうまく回避し、
かつ、切り取る時間軸に幅を持たせて物語性を盛り込み、そこに天丼効果さえも盛り込んでいるのです。

なお、手前の白猫に対する奥の3匹の黒猫は、彼らの腹黒を暗に示しており、
白猫の静と、黒猫の動の『静と動の対比』も、うまく引き出されています。

猫たちは、犬に姿を見せに来ているにも関わらず、シャッターを切っている人間と目線が合っています。
このことにより、彼らの、人をも恐れぬふてぶてしさも、見事に強調されているのです。

ほんとか?
東洋人と西洋人の物の見方の違い
日テレの『世界まる見え!テレビ特捜部 』で放映された海外番組の一コマ。

画像の花を、AかBに分類すると、あなたはどちらに分類しますか?

東洋人と西洋人の物の見方の違い

それでは、下記の動画をご覧ください。

《おもしろ心理テスト・あなたの答えは?》


質問のしかたが誘導的だというコメントがあるようなんですが、試みとしてはおもしろいですよね。

さて。

演劇には、役者がどうやって演劇を組み立てるべきかという方法論『メソッド』が存在します。

アメリカでアクターの勉強をした場合、自分の経験からいかに感情を引き出すかという訓練を重要視します。
日本で役者の勉強をした場合、いかにその空間に存在するか・存在に説得力を持たせられるかという点を重要視します。

日本人が使う一人称、『私、俺、僕、自分』などは、相手によってどれを使うかが決まります。
病院の待合室と学食では、声の出し方が違います。

やはり日本人は、相手と自分の関係性、空間と自分の関係性を大切にしており、
だからこそ日本の演技は、役者と対象の関係性を見えてくるかが、非常に重要視されるのです。

そんなんで海外のメソッドを絶賛しているアクターズスクールを見ると、私は『うーん。』と思っちゃうんですよね。
1989年~2011年の間に、放送禁止とかになったCM集
《放送禁止とかになったCM集【1989~2011】》

◇画面右下の[・・・]を押して[×]に切り替えることで、画面に現れる文字を消すことができます

懐かしいCMもありますが、放送禁止になっていたとは意外です。

薬事法などの法律に抵触する場合もあれば、モラルに反するとされるもの。
単に不快に感じるというクレームが多かったもの。様々な当事者への配慮のために放送されなくなったもの。

色々な理由で放送が中止になっているのですね。

公共広告機構のACが作った、チャイルドマザー・チャイルドファザー増加に対する警鐘CM(3:43~)はズシンときますね。

これは放送した方が良いんじゃないかという意見もあるようですが、
育児放棄してしまってる当事者を、追い詰めるだけじゃないかという意見にも納得です。


だいぶ前ですが『ボクらの時代(フジテレビ・日曜7:00~7:30)』に出演していた、
谷川俊太郎さん×宮藤官九郎さん×箭内道彦さんの3人が『震災後にものの見え方が変わった』という話をしていましたが、
動画の後半にある、震災後に放送されなくなったCMというのが、まさにそれだと思います。

なんでもかんでも規制の対象になっていくのは、良くないことですけど、
相手の気持ちをおもんばかるというのも、日本人の良いところだと思うんですよね。

こうやってCMを見て時代を感じるって事は、昔はCMが、もっと生活に密着していたんでしょうね。


1:15~の桃井かおりさん、好きだったなぁ。
役者にも必要な一点集中力と状況判断力
2012/6/23放送の
『ごるふなでしこ(テレビ東京)』で、興味深いメンタルトレーニングをやっていました。
『ごるふなでしこ』は、AKB48(team4)の山内鈴蘭さんがプロゴルファーを目指すゴルフ番組です。

イチローや北島康介さんのメンタルトレーニングも担当している高畑好秀さんが、今回も出演していました。

今回の高畑さんがのトレーニングは、集中力を鍛えるものです。

渦巻きがプリントされた紙を使います。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん

外側から内側に線を目で追って、終えなくなった時点で終了です。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん2

ここまでは、誰でも想像できると思います。面白かったのは、この先です。
今度は先ほどとは逆に、内側から外側に(中→外)向けて、線を目で追っていくのです。

高畑さんはこの番組内で、2つの集中について話されています。

◆外側から内側に追う → 一点集中力
◆内側から外側に追う → 状況判断力

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん3

高畑さんは、スポーツの場合はボールに対する一点集中力と、
状況を判断するために必要な、広がる集中力の両方が大切であると鈴蘭に話しています。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん4

目から鱗だったんですよね。
私が役者に必要なのは、まさにこれだと思っていたのです。

役者は稽古場で『集中力が足りないよ』と言われることがあるのですが、
みなさんも、どこかで集中力が足りないって言われた経験はありませんか。

おそらくその場合、一点集中力を高めたと思うのです。

役者が演技に集中しようとすると、相手の顔だけを追いかけたり、
相手のアクションの初動を見逃さないようにしようと、努力します。

このことにより、体が変に硬直したり、
またネズミを襲う猫のように、一人だけ過剰な熱量を帯びたりします。

過剰な一点集中力により、逆に状況判断力が下がってしまっているのです。
そして、頑張り(努力)だけが際だって見えてくるという、悪循環に陥るわけです。

このことは、ダメを出す側にも問題はあるとは思いますが、
演者自身が、集中力には2つの側面がある事を理解することで、ある程度は解消できるのではないでしょうか。

そうすれば、どんな現場であっても、役者は自分自身でニュートラルな状態に立ち返ることができると思うのです。

《●1/2● ごるふなでしこ EP12 山内鈴蘭 20120623》 メンタルトレーニングは4:00~


高畑さんは、渦巻きの線を内側から外側を追うスピードを高めていくことにより、
(スポーツ選手は)瞬時のうちに、パッと状況判断ができるようになると言っていますね。

つまり、役者の状況判断力も、自分の努力で高めていけると言っているわけです。


そうそう、なんか7/1(日)から放送時間が変更になるみたいですよ。
写真で一言ボケて「bokete」の中のお気に入り(5)
写真で一言ボケて「bokete」に投稿されたネタの中から、私が好きなやつを紹介します。

フランダースの犬・保健所に預けた

『保健所に預けた』

◆感想◆

らんらんらー。らんらんらー。

彼はフランダースの犬の主人公の、ネロでしょうか。

首の傾きがなんとも言えないですが、目線もおかしいんじゃないでしょうか。

どこ見て、走ってるんだよ。


パトラッシュの事が、どんだけ重荷だったのかわかりませんが、

おまえだけは、それをやってはいけない。
クリスチャン・ディオールの類似品
お気に入りの画像を紹介します。

画像の文字をお読みください。

クリスチャン・ディオールの類似品
◆◇クリスチャン・ディオールの類似品◇◆

>フラソス製
>100%コットソ

>アイロソは裏かち当てて下さい
>ドティクリーニゾグして下ちぃ
>クリスチャソディオール(株)

◆感想◆

ナイツかよっ!

フランスのデザイナー、クリスチャン・ディオールのぱっちもんです。
どこの国で作られたかはわかりませんが、おそらく隣国?

どうなんでしょう。

ここまでくると、もはやオリジナルと呼んであげてもいい気がしますが、甘すぎますか。

あれか。

クリスチャン・ディオールがOKでも。

ナイツが許すかどうかが、ポイントか。
テルマエ・ロマエ -時空を越えた入浴スペクタル-を見てきました。
テルマエ・ロマエ 時空を越えた入浴スペクタル
◆◇テルマエ・ロマエ 時空を越えた入浴スペクタル◇◆

面白かったぁ。


下記は感想。ちょっとネタバレです。
==============================

演劇で、日本人が外国人を演じることはよくありますが、
映画で、日本人がローマ人を演じるって、はたしてどうなんだろって思っていました。

最初のシーンでも、阿部寛は日本語で話してるのに、ローマ人は吹き替えでしたよね。

では、それが気になったかというと、そんなことはない。

見終わった感想は『とっても良かった』です。


なんでしょう。

最初から最後まで、みんなクスクス、あははははって、笑ってました。
この、なんともゆるい作りが、なんとも心地よい。

どことなくB級っぽいにおいもするので、映画祭で1番を取る作品ではない気がします。
でも、日本人にずっと愛されていく作品の1つではないでしょうか。

ちょっと話が変わりますが、私は以前に、社長が中国人の貿易会社で働いていたことがあるんです。
その社長がドリフの大ファンで、社長はレンタルビデオショップでよくドリフのDVDを借りてきては、見ていたんです。

その社長曰く、
『日本のドリフは、子どもから大人までみんなで笑える。こんなのは、私の国にはない。』とのこと。

このテルマエロマエも、私は同じだと思うんですよね。
子どもから大人まで、みんなで楽しめる、日本人だからこそ作ることができた素敵な映画だと思います。


上戸彩の芋くさいヒロインは、
ヒロインが芋くさいのか、上戸彩の演技が芋くさいのか、その辺も途中からわからなくなってきますが、
正直、そんなことはどうでもいい。

ヒロインがラテン語を、初級レベルどころか完璧なまで短期間で習得できたのも、どうでもいい。
歴史が変わってしまうことを『神格化されるか』という観点から分析できちゃうのも、どうでもいい。

それぐらい、私はこの世界が好きでした。

なんだか胸が熱くなって、泣くかと思ったもん。


それにしても、時折、作りがチープになのに、物語がチープにならないのは、なんででしょう。

私は、アニメのテルマエ・ロマエは、途中で嫌になってやめたんですよね。
これって、原作がしっかりしてるんでしょうか。それとも、監督がうまいんだろうか。よくわかりません。

ただ私が感じたのは、この映画は観客を取り残して、物語が勝手に進んでいかないんですよね。

そこがすごいと思う。


ちなみにこの作品は、SFなんでしょうか。ラブロマンスなんでしょうか。
単なるコメディとは、なんか呼びたくないなぁ。

誰と一緒に見に行ってもOKな、おすすめの映画ですよ!
東京藝術大学大学美術館「芸大コレクション展-春の名品選-」(2)(2012/4/5~6/24)
前回に引き続き、東京藝術大学大学美術館「芸大コレクション展-春の名品選-」(2)を書きます。

東京藝術大学大学美術館「芸大コレクション展-春の名品選-」(1)の続きになります。

では、藤田嗣治(1886-1968)の猫から。

《猫》藤田嗣治(レオナール・フジタ)(1929年頃製作)東京芸術大学蔵
《猫》藤田嗣治(レオナール・フジタ)(1929年頃製作)東京芸術大学蔵

たぶん、展示されていたのはこれだと思うのですが、違ったらすみません。

全くの美術の素人の私でも名前は聞いたことある、藤田嗣治。
本人の写真を見て頂きましょう。

藤田嗣治(レオナール・フジタ)
◆◇藤田嗣治(レオナール・フジタ)◇◆

かっこいいでしょ。

実は、こないだ国立近代美術館に行ったときに、
藤田嗣治の「ソロモン海域に於ける米兵の末路」という作品が展示されていまして、
いわゆる戦争画と呼ばれる、プロパガンダ用の絵だったんです。

戦争画を描いてるって事は、てっきり大正生まれの人だと思っていたら、藤田が生まれたのは明治19年。
東京美術学校(後の東京芸術大学)に入学して、黒田清輝の教えを受けていたのですね。

しかし、印象派の強い影響を受け写実を重要視した黒田清輝には全く評価されず、卒業後に渡仏。
そこでキュビズムやシュールレアリズムと出会い、藤田は衝撃を受けます。

Wikipediaの藤田嗣治によると、

>「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」
>と藤田は自身の著書で語っている。

とあります。

ここで藤田は、展覧会でも一切評価してくれなかった黒田清輝の事を、それでも『先生』と記していますね。

きっとこの藤田の一連の行動は、黒田清輝や日本画壇に対する単純な怒りではなく、
これからは自らの信じる道を突き進もうという、藤田の決別と決意でありつつも、
『自分はこれでいいんだ』と、やっと自分を受け入れることができた、自己肯定の瞬間でもあったのでしょう。

きっと藤田は、大粒の涙を流したに違いない。

ちなみに戦争画を書いた後の藤田は、半ば戦犯のように非難され、再び日本を離れています。
「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」のになぜ非難されなければならないのかという、藤田の思いは悲しすぎます。

詳しくは、Wikipediaの藤田嗣治をお読み下さい。

それにしても、藤田の猫、かわいいなぁ。
実物は、もうすごいですよ。猫の毛が、ふわぁぁぁってなってて。


では、もう一つ。
長谷川潔(1891-1980)銅版画をどうぞ。

《摩天楼上空のポアン・ダンテロガシオン号[ニューヨーク上空の]》長谷川潔(1930年製作)東京芸術大学蔵
《摩天楼上空のポアン・ダンテロガシオン号[ニューヨーク上空の]》長谷川潔(1930年製作)東京芸術大学蔵

ポアン・ダンテロガシオン号は、1930年にパリ→ニューヨークをノンストップ飛行をした飛行機の名前です。

なんでしょう。

美しいんですが、不安になってくる感覚。
現代の私には、自然を凌駕したと錯覚している都市の姿に、見えてくるからでしょうか。

そんな意図では、おそらく作られていないんでしょうけどね。


ちなみに長谷川潔(はせがわきよし)の事は、鑑定団で知りました。
『草花とアカリョム』という作品が、鑑定団に出たことがあるんです。

それが、これです。

《草花とアカリョム》長谷川潔(1969年製作)東京国立近代美術蔵
《草花とアカリョム》長谷川潔(1969年製作)東京国立近代美術蔵

いいですよね。これ。(※国立近代美術館の収蔵品です)

この時の放送の、長谷川潔の紹介VTRの中に、こんなシーンがありました。

一木一草を追求すれば神にたどりつく

私には、長谷川潔のこの言葉が、強烈に記憶に残ったんですよね。

私は特定の信仰を持たない人間なんですが、日本のアニミズム的な自然信仰は好きです。

「一木一草を掴もうとすると、必ず神に突きあたる。」

こうやって人は神と繋がって、宇宙と一つになるのかも知れません。

そんな哲学っぽい事を書いて、今回はおしまい。


さすが芸大。いいもん、もってますよ。

みなさんも是非どうぞ。
東京藝術大学大学美術館「芸大コレクション展-春の名品選-」(1)(2012/4/5~6/24)
東京芸術大学大学美術館の高橋由一展を見に行ったついでに、同美術館の『春の名品選』も見てきました。

まず私が心を奪われたのは、白井雨山(1864-1928)の作品。

白井雨山は、東京美術学校彫刻科に塑造(そぞう)科を開設した方です。
私は美術に関して素人なので、存じ上げませんでした。

でも、この作品のモデルとなった人なら、知っています。

《太田道灌(おおたどうかん)》白井雨山(1907年製作)東京芸術大学蔵
《太田道灌(おおたどうかん)》白井雨山(1907年製作)東京芸術大学蔵


太田道灌!!

カッコイイ!!

江戸城を築城した武将として有名な、あの太田道潅の狩り姿です。

私が今まで見てきた彫刻は、
対象の威厳を示すために作られたものか、肉体が内包するエネルギーを立体的に造形したものであった気がします。
他の言い回しをするなら、頑張ってる姿を作っているのです。

しかし、この太田道潅の姿は、それとは別物な気がします。
威厳ではなく、風格を備えている気がするのです。無理をしていないのです。

だからこそ、かっこいいという言葉が、まず出てくるのかも知れません。

実際の展示は裏側からも見ることができるのですが、この道灌の背中がいい!
口元を強く結び、背中で語ってくる職人気質な立ち姿は、まさに太田道潅のイメージにぴったりです。


次に心を奪われたのは、私の大好きな円山応挙(1733-1795)

《若芽南天(わかめなんてん)》円山応挙(1765年製作)東京芸術大学蔵
《若芽南天(わかめなんてん)》円山応挙(1765年製作)東京芸術大学蔵

芸大は、円山応挙も所蔵してるのですね。

南天は植物の名前で、とまっているのは雀です。
付立法(ついたてほう)という、輪郭線を一切用いない手法で描かれています。

ただの枝じゃないかいう南天に、ここまで魅せられてしまう。

やっぱり、応挙はいい。


その並びにある、椿椿山(つばきちんざん)や、川合玉堂(かわいぎょくどう)もビックネームですが、
これまた私の好きな、菱田春草があるじゃない。

《水鏡(みずかがみ)》菱田春草(1897年製作)東京芸術大学蔵
《水鏡(みずかがみ)》菱田春草(1897年製作)東京芸術大学蔵

春草の初期の作品だそうです。

天女が持つ右手の紫陽花と、腰のあたりから後ろに回り込む紫陽花を比較すると、
一瞬、構図が不自然な気もしましたが、まぁ、いいじゃない。

添えられていた解説によると、紫陽花は赤から紫に七色に変わり、色を失って枯れていく。
天女もその紫陽花のイメージで描かれており、美の衰えを暗に示しているのだそうです。

だからこそ、一瞬の美の輝きや、母性をメインに描いたものではないという印象を受けるのかも知れません。


ここで、再び彫刻を。

《観音像木型(かんのんぞうきがた)》高村光雲(1892年製作)東京芸術大学蔵
《観音像木型(かんのんぞうきがた)》高村光雲(1892年製作)東京芸術大学蔵

京都の知恩院友禅苑の池の真ん中にある観音様の木型です。

これが、また、すごいんですよ。画像では伝わりませんが、実物を見たら飲み込まれます。

私は高校の修学旅行で、京都・奈良をまわりましたが、
あの頃はまだ、『仏像と寺ばかり見せやがって!』という思いがないわけではありませんでした。

でも、最近思うんです。

私が書くまでもないことですが、日本の仏教美術って、人であり、人で無い物を長年作り続けてきたわけです。
そのフォルム(造形美?)は、人を越えたところにあるのだと思うのです。

それが形をもって3Dで目の前に現れたときの、この美に飲み込まれる感覚ときたら、とてつもないです。

アスリートの鍛えられた肉体にも美はありますが、
この高村光雲の観音様が放つ美は、人の姿を保ちつつも、人の存在を超越している美があります。

だからこそこの彫刻には、日本人が模索した美の到達点の一つの形があるのだと、私は感じたのでした。


ちょっと、旅行サイトから拝借した知恩院・友禅苑の観音様をご覧下さい。

知恩院・友禅苑 高村光雲作 立誉大教正紀菩薩

遠すぎる。

これを池の真ん中に置いておいては、もったいないですよ。

長くなってきたので、東京藝術大学大学美術館「芸大コレクション展-春の名品選-」(2)へ続きます。
東京藝術大学大学美術館「近代洋画の開拓者 高橋由一」(2) (2012/4/28~6/24)
前回に引き続き、東京藝術大学大学美術館「近代洋画の開拓者 高橋由一」(2)を書きます。

東京藝術大学大学美術館「近代洋画の開拓者 高橋由一」(1)の続きになります。

前回は人物画について書きましたので、今回は風景画と静物画の感想を書きます。

由一は、西洋画が日本に普及するには、日本人がより多くの西洋画を目にする機会を増やす必要がある考えていました。
そのため、由一は精力的に新作を発表しており、風景画もたくさん描いています。

その中から、気に入った作品を1枚。

《真崎の渡(まさきのわたし)》高橋由一(製作年不明)町立久万美術館蔵
《真崎の渡(まさきのわたし)》高橋由一(製作年不明)町立久万美術館蔵

真崎は現在の荒川区の南千住辺りで、描かれているのは隅田川です。
写生帖(しゃせいじょう)に明治6年8月29日(1873年)にスケッチしたものを、後に描いたそうです。

久万美術館のホームページによると、1873-1876年の間に描かれたないかと書かれています。

由一の作品の中では、明るい作品になります。
画像で見てもうまく伝わらないと思いますが、清涼感を感じさせてくれるのです。

ネットで調べたところ、三重県立美術館のホームページに、このような解説を見つけました。

>「油彩画は、これら〔《写生帖第Ⅳ冊、Ⅵ冊》〕の素描と同構図であって、
>墨水をへだてて真崎稲荷付近を望み、中景に葦の生えた中洲を描き、近景画面右手に葉の茂った樹木を表わしている。
>しかし、異なる点は油彩画においては河に帆船と渡舟を描き、さらに画面右端に老樹の幹を加えた点である。

やはり。

素人の私の感想ですが、他の風景画の中は、これは構図的に必要ないんじゃないかと思うものもあったのです。
そして、そう感じる絵の解説を音声ガイドで聞くと、案の定『写真をもとにし・・・』と言っているのです。

この『真崎の渡』は、スケッチから製作に取りかかるまで日を置いたからこそ、
当時の印象が美化されたのではないかと思っていたのですが、右下の幹や船も書き加えられていたのですね。

やはり由一は、写真を見て仕上げたがゆえに、つまらないものにしてしまった作品がある気がしてきます。


では、メインディッシュの3本の鮭をどうぞ。

左-        《鮭図》高橋由一(1887年以降製作)山形美術館寄託
中央- 重要文化財《鮭》高橋由一(1877年頃製作)東京芸術大学蔵
右-        《鮭図》高橋由一(1878年以降製作)笠間日動美術館蔵

《鮭図》高橋由一(1887年以降製作)山形美術館寄託重要文化財《鮭》高橋由一(1877年頃製作)東京芸術大学蔵《鮭図》高橋由一(1878年以降製作)笠間日動美術館蔵


由一=鮭というのは、当時から有名であったらしく、
山形美術館寄託の鮭図と、笠間日動美術館蔵の鮭図と併せて3本の鮭が展示されていますが、
私は中央の東京芸術大学収蔵の鮭が、段違いにすばらしいと感じました。

日動美術館の板に直接描かれた鮭図も確かにすごいのですが、私にはどうもピンと来ないのです。
どうしてだろうと思いつつ振り返ると、そこにあった『鴨図』が眼に入ってきました。

《鴨図(かもず)》高橋由一(1878年製作)山口県立美術館蔵
《鴨図(かもず)》高橋由一(1878年製作)山口県立美術館蔵

ちなみにこの『鴨図』、500円で借りた音声ガイドによりますと、
日本画で鴨を描く際は、花鳥画としての生きた鴨を描くのが普通ですが、
由一は、油絵をより身近に感じて欲しいという思いから、食材としての鴨を描いたとのこと。


私はそれを聞いて、本当にそれが理由だろうかと思ってしまったんですよね。

あくまで素人の感想ですが、由一は『眼』を描く事を苦手としていたのではないかと思うのです。

前回見て頂いたヤマトタケルも、実は目をつぶっているんです。私はそこがずっと引っかかっていました。
私は演劇をやっているせいか、『眼』にこだわってしまいます。生きた『眼』には、生命力が宿るからです。

先ほどの三本の鮭は、どう見たって死んでいるわけですが、
真ん中の重要文化財の鮭は、例え死んでいても、品格があります。

これは、由一が鮭を描こうと思いたち、その魅力を引き出そうとした『写意』が作品に込められているからこそ、
ただの食材としての鮭ではなく、品格を備えた、輝きに満ちた鮭になっているのではないかと思うのです。

是非この機会に、3本の鮭を見比べてみて下さい。

この鮭だけでも、必見の価値がありますよ。


次回は同時開催されていた、芸大コレクション展『春の名品選』について書きたいと思います。
東京藝術大学大学美術館「近代洋画の開拓者 高橋由一」(1) (2012/4/28~6/24)
美術の教科書に載ってる、高橋由一の鮭が見れるということで行ってきました。

東京藝術大学大学美術館「近代洋画の開拓者 高橋由一」


高橋由一(1828年3~1894年)は、幕末から明治にかけて生きた、日本人最初の洋画家と言われています。

高橋由一は、幕末の佐倉堀田藩に生まれた、武家の子でした。
佐倉堀田藩というのは、老中・堀田正睦(ほったまさよし)の、あの堀田です。

当時の日本は黒船が来航し、アメリカに開国を迫られていました。

ペリーの使節団は、軍事力を背景に日本に開国を迫ったわけですが、
軍事力を見せつけるために、アメリカとメキシコの戦争を描いた石版画を持ってきていたのです。

それらの石版画は幕府に贈られ、堀田正睦を通じて高橋由一も目にするところとなりました。

由一が驚いたのは、風景や人物までも忠実に写し取る、西洋画の表現力です。
狩野派の絵師に学んでいた由一は、これに強い衝撃を受け、西洋画を学んでいこうと決心したそうです。


さて、会場にまず展示されているのは肖像画群。
その中から、丁髷姿の自画像(ちょんまげすがたのじがぞう)と、原田直次郎が描いた高橋由一像をご覧ください。

《丁髷姿の自画像》高橋由一(1866年頃製作)笠間日動美術館蔵 《高橋由一像》原田直次郎(1893年製作)東京芸術大学蔵
《丁髷姿の自画像(ちょんまげすがたのじがぞう)》高橋由一(1866年頃)笠間日動美術館蔵《高橋由一像》原田直次郎(1893年頃)東京芸術大学蔵

先日、国立近代美術館で原田直次郎の騎龍観音を見てきましたが、原田直次郎は高橋由一の弟子だったのですね。

その時に、「原田直次郎は脂派(やには)と呼ばれ、画壇の中心は黒田清輝に移っていったそうです。」と書きましたが、
美術を知らない私は、「画壇の中心が移るって、大げさなんじゃないの?中心ってどこだよ。」と正直思ってたんです。

しかし、脂派調の作品がこうもいっぱい並んでいると、どうにもこうにも気が重くなってくるわけですよ。

なんか、わかったんですよね。もっと明るい洋画を見たくなる、当時の人の気持ちが。


さて。

近代日本では、廃仏毀釈運動が起きており、日本古来の仏教美術品が二束三文で処分されていました。

それに異を唱えた外国人のフェノロサは、日本美術を保護する意味でも、美術品を大量に買い集めます。
そこで買い集められた美術品の展覧会が、こないだのボストン美術展ですよね。

ところが日本美術が見直されはじめると、今度は「洋画はいらないんじゃないか」という運動が起きます。
そんな洋画排斥運動と戦ったのが、高橋由一や原田直次郎になります。

高橋由一が取った作戦は、油絵は、写真のような劣化が起きない。
つまり『油絵は長期保存がきくために、資料を描くのに最適である。』という売り込み方法でした。

そのため高橋由一の肖像画の多くは、写真をもとに描かれています。
しかし、これがいけなかったんだと、素人ながら思うんです・・・。

重要文化財の花魁(おいらん)をご覧下さい。

重要文化財《花魁(おいらん)》高橋由一(1872年製作)東京芸術大学蔵
重要文化財《花魁(おいらん)》高橋由一(1872年製作)東京芸術大学蔵

新吉原の稲本楼の小稲(こいな)を描いた作品です。

その頃の吉原も時代の流れに逆らず、衰退の一途をたどっていました。

そこで、注目されつつある西洋画で花魁を描いてもらって、
今一度、街に活気を呼び戻せないかと、街おこしが企画されました。

消えゆく花魁の姿を、しっかりと記録しておきたいという思いもあったそうです。

そこで白羽の矢が立った由一が、写真を描くように花魁を描いて見せたわけですが、
できあがった作品を見て、「あちきは、こんな顔ではありゃんせん。」と小稲は泣き出してしまったそうです。

そうですよね・・・。

街おこしのポスターを作りたいからモデルになってくれと女優を呼んできたのに、
本気モードではない姿を、美化せずそのままポスターにされたら、そりゃ女優は泣きますって・・・。

当時のチラシは浮世絵が一般的で、まさかこんな風に描かれるとは、想像してなかったんでしょうけど。


当時の海外の美術は、単に写真のように描いたものはつまらないって事から、すでにその先にある美を模索していました。
日本美術でも円山応挙が、写実とは単にものの形を写し取るわけではないって、言ってますよね。

しかし高橋由一は、西洋画に全く最初に触れた日本人なものだから、
まずは、どこまで忠実に写実できるか挑戦してみようとしてるんだと思うんですよね。

だから現代に生きている私は、『花魁の姿を撮った写真と、同じじゃない。』と思ってしまうのでしょう。


正直、由一の人物画は、総じてピンとこなかったのですが、1点だけ気に入った絵がありました。

日本神話にも出てくる、ヤマトタケルです。

《大和武尊(やまとたけるのみこと)》高橋由一(製作年不明)東京芸術大学蔵
《大和武尊(やまとたけるのみこと)》高橋由一(製作年不明)東京芸術大学蔵

原田直次郎が楊柳観音を西洋画で描いて、日本人に洋画を受け入れてもらおうと努力したように、
高橋由一も、ヤマトタケルをモチーフにして洋画を描いているのです。

この絵が、由一の他の人物画と大きく違うのは、想像で描いたという点だと思うんですよね。
だからこそ、内面から溢れる力強さがあるのだと思うのです。

では、長くなってきたので、東京藝術大学大学美術館「近代洋画の開拓者 高橋由一」(2))に続きます。

しゃけの話は、次で。
世界初の口パク・プロポーズ大作戦
動画の最初には、英文でこうあります。

2012年5月23日(水) 私はガールフレンドに、私の両親の家で一緒に夕食を食べようと言いました。
彼女が来ると、彼女をホンダCRVの後ろに乗せ、ヘッドホンを付けてもらうよう弟に指示を出しました。

ある曲を聞いてもらうために・・・。

そこで彼女が目にしたものは、世界初の口パクLIVEプロポーズだったのです。

《アイザックのくちパクプロポーズ(日本語字幕) 》オリジナル動画はこちら http://youtu.be/5_v7QrIW0zY


使われた曲は、ブルーノ・マーズ(Bruno Mars)の“Marry You”『マリー・ユー~ふたりの未来』です。

すでに世界中で話題になっているようですね。
RocketNews24(http://rocketnews24.com/2012/05/28/215863/)
bmr.jp(http://bmr.jp/news/detail/0000013342.html)

投稿されてから1週間で800万アクセスを越えたと記事にありますが、今日現在では再生数が1380万を越えています。


まさか他人のプロポーズを見て、ここまで涙が溢れるとは思わなかったです。

僕にも、幸福をありがとう。
写真で一言ボケて「bokete」の中のお気に入り(4)
写真で一言ボケて「bokete」に投稿されたネタの中から、私が好きなやつを紹介します。

《二次会行くって!》

『二次会行くって!』

◆感想◆

わかりやすい!

この作品のすごい点は、
はじめは、誰か助けを呼んでいるんだろうと思い、実は、二次会行くって言ってるだけと知り、一通り笑った後に、


『二次会に行くために、助けを呼んでいるのか!?』

  と、思い始めて、てことは、

『はじめから正解だったのか!?』

  と、思い始めて、では、

『なぜ自分は笑ったんだ!?』

  と、どうして笑ったのか、一瞬わからなくなる点にあります。


通常、写真で一言というのは、普通は言わない台詞=似つかわしくない台詞を用いて、そのギャップを笑うのです。

今回の場合は、立っている男性は助けを求めているという先入観に対し、『二次会行くって!』がギャップとなるわけですが、
この『二次会行くって!』が、あまりに状況にマッチしてしまい、もうそのシーンにしか見えてこなくなるのです。

一見、状況に対して遠い言葉を持ってきたように見えて、実は、状況に対して非常に近い言葉を選択している。


だからこそ、虚構が現実にすり替わったような感覚におちいるのです。
写真で一言ボケて「bokete」の中のお気に入り(3)
写真で一言ボケて「bokete」に投稿されたネタの中から、私が好きなやつを紹介します。

《お前がラフな格好でええからって言うたんちゃうんか!》

『お前が「ラフな格好でええから」って言うたんちゃうんか!』

◆感想◆

骸骨の彼は、男のアドバイスに従ったが故に、何か大きな失敗をしたのでしょう。

彼は、自分の選択を後悔しつつも、選択をしたのは自分だからと、
受け入れがたい現実を、どうにか受け入れようと努力していました。

そこに現れた男は、自分がアドバイスをしたにも関わらず、彼に向かって無責任な発言をしてしまったのです。
その発言が琴線に触れた彼は、耐えきれず、このようにブチ切れたわけですね。

この一言は、骸骨の彼が発した一言のみによって、
一瞬を切り取るだけではなく、過去から現在にかけての壮大なドラマまでも描き出しているのです。

骸骨の彼は、バイトの面接に行ったのか、合コンに行ったのかわかりませんが、
受け手の想像力をかき立てる作品だからこそ、「ほんとに格好が問題だったのかよ!!」とツッコミたくてしょうがなくなります。

ここまでの人間ドラマを想像させて、かつ笑いに転化する「一言」を持ってくるとは、この投稿者はすごい。


ちなみに、この骸骨が神官(?)の首を絞める画像は、タロットカードなのでしょうか。
なんの画像かはわかりませんが、私は、この画像はおそらく意味を持って描かれたと考えます。


そして、特筆すべきは、この「意味があった」(であろう)という点です。


写真で一言は、わけがわからない奇抜な写真に、面白い言葉をそえて楽しむ行為です。

しかし今回は、わけのわからない画像に、面白い言葉をあわせるのとは、ちょっと違います。
本来、意味を持って描かれたであろう絵に、イメージを完全に裏切り、全く別の合致する言葉を持ってきているのです。


だからこそ私は、この一言を不意打ちの一本ではなく、技有りの一本と評価したいのである。
煮るなり 焼くなり 食べるなり
お気に入りの画像を紹介します。画像の文字をお読みください。

おはようございます。あべです。

>社長へ

>おはようございます。あべです。
>月曜日は資料を準備しておらず
>申し訳ございませんでした。
>作って参りましたので
>煮るなり 焼くなり 食べるなり
>いやいや
>きざむなり 活けるなり 叩くなり
>つぶすなり 踏むなり コロ助なり


◆感想◆

>月曜日は資料を準備しておらず
>申し訳ございませんでした。

ここまでは、誰も異論はないはずです。問題は、この先です。

>煮るなり 焼くなり 食べるなり
>いやいや

この突然来る、話し言葉の「いやいや」が、ものすごく効いてますよね。
ちなみに、「いやいや」を抜くと、こうなります。

 >煮るなり 焼くなり 食べるなり
 >きざむなり 活けるなり 叩くなり
 >つぶすなり 踏むなり コロ助なり


「いやいや」を抜くだけで、いまいちになってしまいます。
「いやいや」が、良いアクセントになっているわけです。

おそらくですけど、話し言葉である「いやいや」が急に来ることで、軽く集中力が飛ぶのではないかと思うのです。そこから、


>きざむなり 活けるなり 叩くなり

と、イメージしにくい3つの動作で、読解スピードが若干落ちてきます。そこから、


>つぶすなり 踏むなり

と、イメージしやすい2つの動作で、気を許して再び加速して、


>コロ助なり

と、読み手の心配を完全無視で、突き抜けていくわけです。


つまり、この「いやいや」の部分が、後半部分に絶妙なリズム感を作り出しているナリよ。キテレツ。
写真で一言ボケて「bokete」の中のお気に入り(2)
写真で一言ボケて「bokete」に投稿されたネタの中から、私が好きなやつを紹介します。

《さっきまで食べていたパンが見当たらない。》

『さっきまで食べていたパンが見当たらない。』

◆感想◆

写真のインパクトが強いので、まず写真へ目が行き、その後に文章で状況を理解するのだと思います。


「見つからない。」ではなく、「見当たらない。」です。

「見つからない。」は、「探してみたけど見つからない。」であるのに対し、
「見当たらない。」は、「さっきまであったけど、見当たらない。」です。

まるで、めがねめがね状態。

言葉の選択が絶妙です。


食パンは撮影者がわざとはめたのではないかと推測し、写真のリアリティが下がるかと思いきや、
左下に写っているウスターソースが、食事時というシチュエーションを強化してくれます。

なにより表情がいい。

「?」が見える。
写真で一言ボケて「bokete」の中のお気に入り(1)
写真で一言ボケて「bokete」に投稿されたネタの中から、私が好きなやつを紹介します。

《ヤバイ!!キジと桃太郎が一撃でやられた!!!》

『ヤバイ!!キジと桃太郎が一撃でやられた!!!』

◆感想◆

年齢を問わず笑えるんじゃないでしょうか。

最初の「ヤバイ!!」をカタカナで表記することで、
サルは言わないだろうというギャップのあるフレーズからはじまり、日本人ならまず知っている、桃太郎の話とかぶせてくる。

イメージされにくい情報から開示することによって、受け手の想像力を高めるという効果が見事にきまっています。

1.ヤバイ!!
2.キジと
3.桃太郎が
4.一撃でやられた!!!

順番を入れ替えると、こうなります。

 ◇基本系:ヤバイ!!キジと桃太郎が一撃でやられた!!!

 ◇派生系1:ヤバイ!!桃太郎とキジが一撃でやられた!!! ← キジと桃太郎の位置を入れ替えただけで説明感が増します。

 ◇派生系2:桃太郎とキジが一撃でやられた!!ヤバイ!!! ← おもいっきり説明的

なにより、「逃げろ!!」と言ってしまわないのが、すごくいいですよね。
「あ、オニから逃げてるよ。」は、受け手が自身の経験から自然と補足できる。

最後まで読んで再び画像に目が行ったとき、
1~4のワードが、まるで伏線のごとく見事に繋がり、笑いがこみ上げてきます。

サルの『動』と、イヌの『静』の対比もすばらしいですよね。

それにしても、「一言」がここまで作品に命を吹き込むとは、ほんと驚きです。
ダンスができるオタク!豊橋駅前のダンスバトル
何年か前にネットに出回った、ダンスバトルの動画を紹介します。

ブレイクダンスを見ている、一人のオタクにご注目ください。

《ダンスが出来るおたく1! 》


ある意味、社会的地位が弱者であり、内向的というイメージのオタクが、
本格的なブレイクダンスを踊ってしまうところに裏切られ、笑ってしまう気がします。

また、内向的でかっこわるい的なイメージを持っているオタクと、
どちらかというと外向的でカッコイイ的なイメージのダンサーとのバトルという、
物語を空想してしまう点も、この動画に引き込まれてしまう点かも知れません。

ちなみに踊っている方は、涼宮あつきと名乗っている、ネットの世界では有名なダンサーさんだそうです。

あつきさんは、単に「オタクの格好をして踊りました」ではなく、身振り手振りもそれっぽい振りを入れていますよね。

一見、オタクを馬鹿にしたような動きではありますけど、
これは、オタクの人が見ても、悪い気はしないんじゃないかと思うんです。

まぁ、オタクはダンスはできないだろうと思うこと自体、思い込みであるという事は、わかるんですが、
わかるんですけど、笑ってしまう。

それでは、延長戦をどうぞ。

《ダンスが出来るおたく2! 》


ほんとこの人、エンターテイナーですねぇ。
コントを演劇的に見る(5) - バナナマンの『hasty』
まずは、見て頂くのがいいかも知れません。

《バナナマンのコント『hasty』》


それでは、このコントを演劇的に考察していこうと思います。(いつものように敬称略で書かせて頂きます。)

今回は、コントの題名である『hasty』という単語に注目します。

題名の「hasty」は、「急な。気が早い。」という意味です。これは単に「突発的」という意味ではありません。
別な訳を与えるならば、日村が何度か言っている「まだ早い。」という言葉が一番的確かと思います。

私はこの「まだ早い。」が、このコントが演劇的と感じる重要なポイントだと考えています。
「まだ早い。」というのは、「その発言は言ってもいいけど、言うのはまだ早いんじゃない?」という事ですよね。

つまりこのコントは、不条理な発言を続ける男の、実際にはあり得ない話ではなく、
距離感をつかめていない男の、実際にあり得る話になっている点が、ポイントなのです。

もしこのコントが、いかに突発的に変なことを言うかを追求したコントであるならば、
設楽が単に不条理な言葉を連発するだけの、舞台上にバカがいるだけのコントになってしまったことでしょう。

バナナマンの二人は、わかっているのです。
「まだ早い。」を形にしていくには、二人の関係性を綿密に描いていかなければならないという事を。


二人の演技がすごい点は、熱量の蓄積ができている点です。
熱量の蓄積をもう少しわかりやすく言うならば、「日村の怒りの蓄積」と思って頂ければ良いと思います。

設楽の発言に対して、日村がいらだちを示すという流れが、終始行われるわけですが、
一般的には、「設楽が言う(ボケる)→日村が答える(つっこむ)→リセット」を繰り返す事が多いのです。

例えばいわゆる『天丼+ノリつっこみ』の場合、知らず知らず同じ展開が繰り返す事が面白いというのはわかると思います。
しかし、同じ事を繰り返す際に、全く新鮮な気持ちで相手の話に乗っかるために、
今まで登場人物に与えられてきた負荷を、リセットしてしまうことが多いのです。

コントが「言ってることが面白いだけ」と思われてしまうことが多いのも、この点にあります。

今回のコントでは、同じようなことが起きているにも関わらず、日村の精神的負荷は蓄積されていきます。
バナナマンのコントには熱量の蓄積があるからこそ、人間の成長を描く事ができ、だからこそ演劇的であると言えるのです。

このコントで日村は、「もういいよ。」とは、絶対に言いません。
日村は、あきらめないのです。だからこそ、日村に蓄積された熱量が逃げていかないのです。


会話とは、言葉のキャッチボールです。
この言葉のキャッチボールには、想定されるダメなケースが存在します。

◆1.設楽が複数のボールを投げるケース
   設楽がどんだけ変な玉を投げたか(どんだけ面白い事を言ったか)を楽しむしかないコントになります。
   もしくは、日村がどんだけオーバーリアクションしたかを楽しむしかないコントになります。

◆2.設楽も日村も、相手のボールを無視して互いに投げ続けるケース。
   段取りで、自分の順番が来たから台詞を言ったというだけのコントになります。
   要は会話が成り立ってないという印象を受けることになります。

◆3.日村が複数のボールを投げるケース
   日村が投げた玉を、設楽がひたすら無視することになり、設楽がただの変人になります。
   日村は変な人に遭遇してしまった、運の悪い人なってしまい、次第にどうでもよくなってきます。


このコントの言葉のキャッチボールが絶妙なのは、
この二人は1つのボールを、ものすごいところに投げ合って会話を成立させているからです。

日村はあきらめないからこそ、どんな玉にも飛びついて取ります。
しかも日村は、玉をもらってから自己完結しません。必ず設楽に玉を返します。

だからこそ、二人の関係性が見えてくるのです。

例えば、コントの中で何度も登場する「急」という言葉ですが、「ちょっと急」「急」「すげぇ急」と変化していきます。
この「急」というフレーズが持ってるスピードの変化も、日村は意識して使っています。

日村は設楽の言葉の緩急を認識した上で、相手に言葉を投げ返しているのです。


ちなみに日村は、07:12に「てめぇ頭おかしいのかよ。」とまで言います。


「てめぇ頭おかしいのかよ。」は、つっこみとしては、ある意味、どんな場でも使える言葉だと思います。
しかし、この言葉は諸刃の剣だと思うのです。

コントにおいて、「てめぇ頭おかしいのかよ。」は、それを言ってはおしまいの言葉とも言えると思うのです。
しかし、このコントにおいては、とても自然な日村の言葉として、成立しています。

私は「てめぇ頭おかしいのかよ。」という言葉が成立している時点で、このコントは間違いなく演劇であると感じるのです。


ベネズエラ、やばい。笑い死ぬ。
カナダのショッピングモールで行われたフラッシュモブ

私の昔話にお付き合い下さい。今から10年くらい前の話です。

私は仕事帰りで、電車で帰宅する途中でした。
座席に座ってると、目の前を200cc前後のコーヒーの缶が車内に転がってました。

その頃は9.11のちょうどあとで、駅構内のゴミ箱が使用禁止になっていまして、
拾いに行ったら、自分が座っている座席が取られるだろうという思いもあり、
私は空き缶を拾いに行くのを躊躇していました。

すると、すっと目の前に現れた学生風の女子が、
空き缶をコンッと垂直に立てて壁側に押しつけ、電車を降りていったんです。

そうか。自分で捨てなくても、立てるという選択肢があったのか。
自分の発想が貧困である事を悔いた後に、どうにもキモチワルイ思いが残りました。

なぜ自分は、彼女が立てた空き缶を持って、電車を降りてこなかったのだろう・・・。


自分が日々の生活に疲れていたのはそれはそれとして、別に一日一善をしようという話でもなく、
後から後悔するぐらいなら、今度は拾おう。そう決意したのでした。


さて今後は、今から4年ぐらい前の話です。

その頃の私は、以前とまた別の仕事をしていましたが、
再び仕事帰りの私は、帰りの電車の中で任天堂のDSをしていました。

その日は強風で、私の目の前に、スポーツ紙がわさわさと飛んで来ました。

車内には4~5人の人がいましたが、通路に広がる新聞紙を認識はしていますが拾おうとしません。
私も、しばらくDSをやっていたのですが、そろそろ最寄り駅に近くなりましたので、
DSをしまって座席を立ち、新聞紙を集め出したんです。

そうしたら、戸口付近で携帯をいじっていたスーツを着たサラリーマンの男性が、慌てて一緒に協力してくれました。
男性が集めた新聞紙を、「あ、どうぞ下さい。私、次で降りますので。」と言って受け取るとき、
男性は、恥ずかしそうな、申し訳なさそうな顔をしていました。

私は、スポーツ紙のたばを握りしめ駅のホームを歩いている途中も、とても気持ちが良かったです。
誰かに勝ったという話ではなく、後悔していないことが気持ちよかったんですよね。

こんなに気持ちがいいなら、拾った方がお得じゃないか。


さて今度は、今から半年ほど前の話です。

JRで一駅乗って、その後都営線乗り換えで、友人に会いに行く予定でした。
開いたドアの反対側に、ビックルのような、ジュースの瓶が転がっていました。

私は乗車後まっすぐに瓶を拾いに行き振り返ると、数人の視線を感じました。
きっと、いきなり乗車してきた人が瓶を拾ったので、びっくりしたのでしょう。

座席の端に座っていた男子学生風の人は、膝元のリュックをぎゅっと握り、視線を外しました。

私は心の中で、「あなたは10年前の私と同じだ。何も恥じることはない。次は拾ったらいいよ。気持ちいいぞ。」

と心の中で思いつつ、次の駅で降りていきました。


=========================================

さて、以前にデンマークのコペンハーゲンフィルのフラッシュモブを紹介しましたが、
今度は2011年、カナダケベック州にあるショッピングモールで行われたフラッシュモブを紹介。

《ペットボトル拾ったあなたはエライ!フラッシュモブ》


学校の先生が、ゴミを拾うと気持ちが良いと教えてくれていたのは、どこの国でも同じです。

あれは真実です。
学級日誌 「実は、僕は閻魔界の住人なんですよ。」
お気に入り画像を紹介。2009年にネットで出回ったようです。

《実は、僕は閻魔界の住人なんですよ。》学級日誌
《実は、僕は閻魔界の住人なんですよ。》学級日誌

>実は、僕は閻魔界の住人なんですよ。何っ!
>あっちの世界では「ソドム」という名で通っていて、
>この表の世界なんてすぐに征服できるんですよ。やはりそうか。
>それはそうと、お腹痛い なめんな

>普段から怪しいと思っていだが、まさかソドムとは
>知らなかった。
>試験前に病院で診てもらえ。頭だぞ


担任の先生、良い味出してますよね。

最後の「頭だぞ」は、(腹じゃなくて)「頭だぞ」と、ちゃんと上の「お腹痛い」もひろっているところがすばらしい。
ちなみに上に見切れている「れぞれ」は、おそらくこういうことだと思います。

時限 科目   担当  授業内容
 5  芸(術) それぞ   そ
 6  芸(術)  れ    れぞれ


このやりとりが試験前に行われている事が、担任の返答からわかりますが、
ただ単に「病院で診てもらえ」ではなく、「試験前に病院で診てもらえ」という言い回しだからこそ、
先生なのに乗ってくれている感がでていてなおさら良いのかも知れません。

先生の愛情を感じますよね。


笑った後に、胸がほっこりする笑いって、ほんとステキだと思う。
うまい棒1本だけ買ったら消費税いくらですか? Yahoo!Japan知恵袋
うまい棒1本だけ買ったら消費税いくらですか?

1本10円のうまい棒ですが、うまい棒を1本だけ買ったらいくらになるか教えて欲しいという質問です。
Yahoo!Japan知恵袋に実際に投稿された内容です。

消費税は四捨五入や切り上げではなく、「切り捨てが原則」ですので、
10円×0.05=10.5 小数点以下切り捨てで、10円のままなわけですね。

《うまい棒1本だけ買ったら消費税いくらですか?》Yahoo!Japan知恵袋
《うまい棒1本だけ買ったら消費税いくらですか?》Yahoo!Japan知恵袋

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1133896766

これをベストアンサーにした質問者と、役に立ったと評価した884人の仲間達に拍手。
国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(3)前期:2012/5/12~6/17

前回に引き続き、国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(3)を書きます。

国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(2)の続きになります。

11時からのハイライト・ツアーに参加した私ですが、その後、14時の所蔵品ガイドにも参加しました。
そこで案内されたのが、徳岡神泉(とくおかしんせん)の仔鹿です。

《仔鹿(こじか)》徳岡神泉(1961年製作) 国立近代美術館蔵
《仔鹿(こじか)》徳岡神泉(1961年製作) 国立近代美術館蔵

一面の緑の上に、赤々と燃えるような赤の仔鹿。

最初私は、夕陽を見ているのかと思ったのですが、
後方を見つめる仔鹿が赤いということは、太陽の光は手前から当たっていることになりますよね。
そうなると、夕陽を見ているわけではないと気付きました。

では、母鹿がその先にいるかのかと思いました。しかし、仔鹿は少し驚いた様子にも見えます。
母鹿を描くのならば、普通は仔鹿に寄り添ってる姿を描き、仔鹿はもっと安心してその場にいる気がしたのです。

次に、なぜ仔鹿の影は、草原に映っていないのだろうと考えました。
きっとこの緑は、草原そのものを描いているわけではなく、
作者に飛び込んできた緑を、印象のままに描いたのだのではないかと思いました。

ならば、仔鹿が見ているのは、「過去」なのかも知れない。

ちなみにこの作品は、夕暮れの梵鐘に振り向いた、奈良の鹿を描いたと作者が言っているそうです。


では、もう一つ。徳岡神泉の「菖蒲」(あやめ)です。

《菖蒲(あやめ)》徳岡神泉(1939年製作) 国立近代美術館蔵
《菖蒲(あやめ)》徳岡神泉(1939年製作) 国立近代美術館蔵


非常に写実的ですよね。

私はあやめの根元の位置から遠近感を感じ、そのまま花を見に視線を上へ移し、一つだけ白い花に、心を奪われました。
再び根元へ視線を移し、そこには池の水があるのだろうと想像し、その水は、画面一杯に広がっているのだと感じました。

そういえば日本の風景画って、海外のものとちょっと違うらしいですよね。

海外でも印象派がたくさんの風景を描いていますが、
自然の中の、ほんと一部分を切り取って描写するというのは、日本の作品が圧倒的に多いそうです。

それだけ、日本の自然が、いかに美しかったかという事ではないかと、私は思うんですけどね。

神泉は、このような写実的な菖蒲を描いた後に、先ほどの仔鹿を描いています。
だからこそ、先ほどの仔鹿にも、写実的な印象を受けるのかも知れません。

最後に徳岡神泉を、もう一枚。

《蓮(はす)》徳岡神泉(1925年製作) 国立近代美術館蔵
《蓮(はす)》徳岡神泉(1925年製作) 国立近代美術館蔵

正直に申しまして、私はこの蓮は、全然ピンとこなかったんです。300円で借りた音声ガイドを、何度リピートして聞いたことか。


音声ガイド:「蓮の下に下にカメがいます。・・・蓮の葉一本一本を丁寧に・・・」


そんなガイドを聞きながら、「丁寧に描くのは当たり前だろ。言われなくてもわかるわい。」と、
聞いているうちに、だんだん腹が立ってきまして見るのをやめました。

帰ってきてWikipediaの徳岡神泉を読んでわかったのですが、徳岡神泉って、若い頃は全く評価されなかったようですね。


静岡県立美術館のページには、このように紹介されていました。

>(徳岡神泉は)連続して文展に落選し、1919(大正8)年、芸術上の煩悶から京都をはなれ、一時期静岡県庵原郡富士川町に住むが、1923(同12)年、画家としての再出発をかけて帰洛。その後の歩みは順調で、1925(同14)年、第6回帝展に≪罌栗(けし)≫が初入選。第7回・第10回帝展で特選を重ねた。そして1939(昭和14)年、第3回新文展に出品した≪菖蒲≫において、その画業は大きな転機をむかえ、簡潔な構図と深い色調による神泉様式を確立した。

なるほど。

私は、ここまで画風を変化させ自分を高めて行った、徳岡神泉のファンになってしまいました。


あとは、もう、私には理解不能な現代美術がいっぱいありました。

わからないものが、いつかわかるようになるかも知れないのでここでは触れませんが、
時間や音符や言語など、それを芸術的に表そうとしたした人がいたという事実は、確かに私の中に残りましたし、
これがいつか、演劇を見つめ直すきっかけになれば良いかなと思います。

ちなみに、結局5時間半も国立近代美術館内をうろうろしてましたが、
わからないものは、何時間見ても、結局わかりませんでしたね。あはは。
国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(2)前期:2012/5/12~6/17

前回に引き続き、国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(2)を書きます。

国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(1)の続きになります。

毎週なんでも鑑定団を見ているぐらいで、美術に関して全くの素人の私ですが、
そんな私でも名前を知っているのが、岸田劉生の麗子像。

麗子は岸田劉生の娘ですので、生涯に何枚も書いていますが、
その一番初期の作品とされる、麗子肖像(麗子五歳之像)が東京近代博物館にあります。

《麗子肖像(麗子五歳之像・れいこごさいのぞう)》岸田劉生(1918年製作) 国立近代美術館蔵
《麗子肖像(麗子五歳之像・れいこごさいのぞう)》岸田劉生(1918年製作) 国立近代美術館蔵

見た瞬間。ああ、これこれと思いました。私が好きな日本画の雰囲気が、ここにある。

岸田劉生は、自身の絵を振り返って、このように述べています。

>「麗子の肖像を描いてから、僕はまた一段とある進み方をしたことを自覚する。今までのものはこれ以後にくらべると唯物的な美が主で、これより以後のものはより唯心的な域が多くなっている。すなわち形に即した美以上のもの、その物の持つ精神の美、全体から来る無形の美、顔や眼に宿る心の美、一口に言えば深さ、このことを僕はこの子供の小さい肖像を描きながらある処まで会得した。このことはレオナルドに教えられる処が多かった。」  (岸田劉生「自分の踏んできた道」「個人展覧会に際して」『白樺』第10巻第4号 1919年4月より引用)


非常に写実的な描写でありつつも、頭は若干大きくデフォルメされているそうです。
対象本来の魅力と、作者がすくい上げたい精神性のバランスが絵の中で調和しており、それが私にとって心地よいのだと思いました


その隣に展示されていたのが、道路と土手と塀(切通之写生)

《道路と土手と塀(切通之写生・きりどうしのしゃせい)》岸田劉生(1915年製作) 国立近代美術館蔵
《道路と土手と塀(切通之写生・きりどうしのしゃせい)》岸田劉生(1915年製作) 国立近代美術館蔵

力強い。

300円で借りた音声ガイドによると、
画面を半分以上占める、むき出しの褐色の土手と白い塀のつながりは、よくよく見るとおかしいそうです。
しかし、右手前にあるはずの2本の電柱の影が、不自然までに盛り上がった土手を成立させるのに、一役かっているそうです。

こんな言い方をしては、自分の無知さをさらけ出すだけな気もしますが、
こんなにどうでもいい物を描いた風景画を、正直、私は初めて見たかも知れません。

それなのに、むき出しの地面がなんとも生命力に満ちており、彼方の空が登っておいでよと誘ってくるようです。

これ、重要文化財だったのですね。
土手を描いて重要文化財とは、すごいなぁ。



さて、このあとにはシュルレアリズムと呼ばれる作品群が登場して来ます。
そんな中でも、なんかよくわからないけど、飛び込んでくる絵に遭遇しました。

《燃える人(もえるひと)》岡本太郎(1955年製作) 国立近代美術館蔵
《燃える人(もえるひと)》岡本太郎(1955年製作) 国立近代美術館蔵

よくわからないけど、心を揺さぶってくる。

左上に漫画太郎が書いたような人物が、口から舌だか血だかを出してますよね。
その横には、両眼を持った雲が、右下に向けて、小さくなりながらいくつも描かれています。

左下には、両眼を持った船が2隻描かれていますが、
これは1954年にビキニ環礁で起きた第五福竜丸の被爆事件をモチーフにしているそうです。
つまり、右下から吹き上がる灰色の雲は、水爆実験で生み出された、キノコ雲だったわけですね。

なるほど。

でも、シュルレアリズムの作品群で心に響いて来たのは、私にとっては岡本太郎の「燃える人」ぐらい。
靉光(あいみつ)の「目のある風景」は、おそらく鑑定団で見て知ってはいたのですが、実物を見ても響いて来ませんでした。
古賀春江の「海」も、だからなんなんだと思うばかり。

そんな話を帰ってきて友人のO川くんにしたところ、
「シュルレアリズムは、古い価値観や概念を壊すために生まれたようなところがあるから、今の自分たちには古くさいと思うことが多々あるんだと思う。もしその時代を自分たちが生きていて、その当時にそれを目にしたのなら、とても新鮮で面白かったんだと思うよ。」

との事。なるほどなるほど。

私にとっての芸術は、どこか普遍的なもの(例えば美?)を持っていて、
その普遍性を感じ取るために、美術館に行ってるようなところがありますから、
その時代に生きた作者が、その時代をどう切り取ったとか、どう壊したかったとか、
そもそも私の興味がないところなのかも知れません。

これは、私の芝居観にも言えることで、
「いかに現実からぶっとんだ作品を作るか」に力を注いでいる作品に私が興味がないのと、同じなのかも知れません。

私は、SFやファンタジーの世界が嫌いなわけではありません。
空想の世界であっても、私の演劇は、あくまで「人」をどう描くかにこだわっていくべきだと思うのです。

アナリストが、現実に生きている人から切り離したところで理想を語るのと、
画家がシュルレアリズムで社会を切り取り安心する事が、私にとっては同じような気がしてくるのです。

と言えるのも、今が平和な世の中であるからか。


長くなってきたので、国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(3)前期:2012/5/12~6/17 へ続きます。
国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(1)前期:2012/5/12~6/17
最近、美術館や博物館を散策しているので、
近現代も見ておこうと思いまして、6/3(日)に国立近代美術館に行ってきました。

毎月の第一週の日曜日は、無料観覧日になっていまして、この日も無料でした。

まず、11時からのガイドスタッフによるハイライト・ツアーに参加。
「初めての方はいらっしゃいますか?」と聞かれ、私を含め数人が手を上げていました。

まず私が驚いたのは、展示物の距離の近さとスタッフの多さ。

ガイドスタッフの方の話は60分ほどでしたが、話に意識がいってふらふらと横にずれていると、
「お気をつけ下さい。」や「他の方が通られるので、もう少しお進みください」と何度か指摘を受けました。

彫刻などは、リストを見ながら歩いたら普通にぶつかるんじゃないかと思うぐらい、間近にあります。
ガイドスタッフが話している間も、他2名(もしくはそれ以上)のスタッフが、まわりに気を配っているのです。

作品をよりしっかりと見て欲しいという、美術館側の配慮をすごく感じました。


さて、ガイドの方がまず案内してくださったのが、原田直次郎(はらだなおじろう)の騎龍観音です。

重要文化財《騎龍観音(きりゅうかんのん)》原田直次郎(1890年製作) 国立近代美術館蔵
《騎龍観音(きりゅうかんのん)》原田直次郎(1890年製作) 国立近代美術館蔵

天井まであるかという大きさで、すごい迫力です。
この作品は1890年の第三回内国勧業博覧会に出品され、2007年に重要文化財に指摘されています。

ドイツに留学した原田は、西洋の教会の天井に描かれた宗教画に感銘を受け、
日本で起きていた廃仏毀釈運動や、洋画排斥運動に対抗すべく、西洋画の技法を使って、楊柳(ようりゅう)観音を描いたそうです。

画面は右上と左下を結ぶラインを境目に、左上側と右下側が対比で描かれているそうです。
楊柳観音の静に対しての、龍の動。雲間からの光と楊柳観音の輝きに対しての、龍がまとう闇。

でも、なんでしょ。龍がね。目がくりくりして、可愛すぎやしませんか。
あと、もうちょっと龍の頭が大きい方が、個人的には好みかなと思ったのでした。


こんなすごい絵を描いていた原田直次郎ですが、画壇の主流は外光派の黒田清輝(くろだせいき)に移っていきます。

原田のような初期の西洋画の画家は、明暗で遠近法を明確に描こうとしたのに対し、
外光派の黒田は、明るい色彩の中で遠近感を出そうとしたために、色が自由に使え、画面が暗くならずにすんだそうです。

《落葉(らくよう)》黒田清輝(1891年製作) 国立近代美術館蔵
《落葉(らくよう)》黒田清輝(1891年製作) 国立近代美術館蔵

うん。確かに明るい。

木々の上の部分をあえて描かず、落ち葉に埋もれた根元の位置で遠近感を出すあたりが、
菱田春草の落葉と非常に似てるなと思ってみていました。

黒田清輝も東京美術学校の設立に関わっていますので、お互いに影響受けてるんでしょうか。どうなんでしょう。

通りがかった美大生風の女子2人が、「うまいー!うわっ、黒田清輝だって。」と話してました。
さすが黒田清輝。この時代に生きていれば、さぞやもてたに違いない。


次に目に飛び込んできたのは、朝倉文夫(あさくらふみお)の「墓守」。

《墓守(はかもり)》朝倉文夫(1910年製作) 国立近代美術館蔵
《墓守(はかもり)》朝倉文夫(1910年製作) 国立近代美術館蔵

国指定文化財等データベースより引用
>モデルは、学生時代より馴染みのあった谷中天王寺の墓守であるという。朝倉によればモデル台に立たせると固くなるためブラブラ歩いて面白いと思った姿勢をとり、家のものが指す将棋を見て無心に笑っている自然な姿を横からとらえて作ったという。

ニュートラルな立ち姿でありながら、実に見事な存在感です。

ブログを書くためにちょっと調べ物をしていたら、この墓守の石膏型が、重要文化財指定を受けているようですね。
まぁ、石膏型が貴重だというのもあるのでしょうが、この作品自体、とても魅力的だと感じました。

私は横に並んで同じスタイルを取ってましたので、美術館の人に、きっと変なやつだと思われたに違いない。


もう一つブロンズ像をご紹介。荻原守衛(荻原碌山)の「文覚」と「女」です。

Wikipediaの荻原碌山に、「文覚」と「女」の関するいわれが書かれていますので、部分引用します。

>碌山が17歳の時、運命的な出会いが訪れる。通りがかった女性から声をかけられた。田舎で珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳が印象的な美しい女性であった。その人の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩、相馬愛蔵の新妻で3歳年上の女性であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる知識の芸術を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。

~中略~

>1907年 (明治40年) フランスでロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。年末フランスを離れ、イタリア、ギリシャ、エジプトを経て1908年帰国。そして東京新宿にアトリエを構え、彫刻家として活動を始める。そんな碌山に運命の再会が待っていた。憧れの女性、黒光である。黒光はその頃、夫の相馬愛蔵と上京し、新宿にパン屋を開業していた。碌山は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされた。相馬夫妻はそんな碌山を夕食に招くなど、家族ぐるみのつき合いが始まった。黒光の夫、愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には碌山が父親代わりとなって子供たちと遊んだ。黒光は碌山を頼りにし、碌山はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになった。しかし、それは決して許されない恋であった。ある日のこと、碌山は黒光から悩みを打ち明けられる。夫の愛蔵が浮気をしてると告白された。愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持ちはもはや抑えようにもない炎となって燃え始めた。碌山は当時、パリにいた友人に高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸のうちを明かしている。行き場ない思いを叩きつけるかのように碌山はひとつの作品を作り上げる。1908年 (明治41年) 第二回文展で「文覚」が入選。

《文覚(もんがく》荻原碌山(荻原守衛)(1908年製作) 国立近代美術館蔵
《文覚(もんがく》荻原碌山(荻原守衛)(1908年製作) 国立近代美術館蔵

※文覚(もんがく)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧

>人妻に恋した文覚は、思い余ってその夫を殺害しようとした。ところが誤って愛する人妻を殺してしまった。大きく目を見開き、虚空をにらみつけた文覚。力強くガッシリとした太い腕。そこにはあふれる激情を押さえ込もうとした表現されているかのようであった。碌山は愛する人を殺め、もだえ苦しむ文覚の姿に抑えがたい自らの恋の衝動とそれを戒める激しい葛藤を重ね合わせた。一方、黒光は碌山の気持ちを知りながらも、不倫を続ける夫の憎しみにもがき苦しんでいた。碌山は黒光に「なぜ別れないんだ ? 」と迫った。しかし、その時黒光は新しい命を宿していた。母として妻として守るべきものがあった。

>1910年 (明治43年) 追い討ちをかけるように不幸な出来事が起こる。黒光の次男の体調が悪くなり、病に伏せる日が多くなった。次男を抱える黒光を碌山は黒光を来る日も来る日も描き続け、「母と病める子」を世に出した。消えかかる幼い命を必死に抱きとめようとする黒光。しかし、母の願いもむなしく次男はこの世を去った。悲しみのなか、気丈に振舞う黒光に碌山は運命に抗う人間の強さを見出してゆく。そして思いのたけをぶつけるように、同年「女」を制作。

重要文化財《女(おんな》荻原碌山(荻原守衛)(1910年製作) 国立近代美術館蔵
《女(おんな》荻原碌山(荻原守衛)(1910年製作) 国立近代美術館蔵


この作品を完成させた数か月後に、碌山は喀血して、この世を去ります。
碌山の死後に「女」は文部省に買い上げられ、日本の近代彫刻としてはじめて重要文化財に指定されます。

ちなみに相馬黒光さんのお写真はこちら。
相馬黒光 -新宿中村屋創始者-
◆◇相馬黒光 -新宿中村屋創始者-◇◆

黒光の子どもたちは、碌山の死後にこの像を見て、「お母ちゃんだ!」と口々に言ったのだそうです。

うーん。切ない。

Wikipediaの荻原碌山は、全部読んで良いかも知れません。


長くなってきたので、国立近代美術館 常設展「近代日本の美術」(2)へ続きます。
演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(2)
前回の演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(1)の続きを書きます。

前回、映像におけるイマジナリーライン越えは、撮影対象が入れ替わったり、テレポーテーションしたと錯覚してしまうために、一般的にはタブーとされているという話を書きました。では、文学座の「ナシャ・クラサ」で行われていた演出効果はどのようなものであったかを書きます。

それは、第一幕の中盤から後半にかけてのシーンであったと思います。ユダヤ人の青年ヤクプ・カツは、ポーランド人でカトリックのポーランド人の男達3名にリンチされ、殺害されます。街のあぜ道で遭遇した1人対3人は、舞台上で対峙の構図を取ります。向き合う1対3人の間には、木製の机が存在します(図1)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図1

構図をわかりやすくするため、これを「男」と「敵1~3」という表現で説明させて下さい。構図に関係ない人物や舞台装置は、すべて省略しています。「対峙の構図」と文字が入っている方が、便宜上、客席側と考えて下さい。

さて、敵は男ににじり寄ります。男は敵のただならぬ雰囲気に、身の危険を感じます。台本では、その時の男の心境がモノローグとして語られます。ある瞬間、4人は陸上のハードルを飛び越えるようにして机を飛び越え、手前と奥が入れ替わります(図2)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図2「ナシャ・クラサ」における対峙の構図3

今度は敵である男達のモノローグや、3人の会話が行われます。そして、ある瞬間に再び4人は机を飛び越えます。つまり、図2→図3→図2→図3の構図を複数回にわたって繰り返します。その後、男は机に脚をひっかけて、机が倒れます(図4)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図4「ナシャ・クラサ」における対峙の構図5

机が倒れた瞬間から、敵1~3は、倒れた机=男としリンチを繰り返します。その状況を男は俯瞰的に見ており、心境をモノローグで語ります。その後、敵1が15㎏はあろうかという石を男の頭へと投げつけ、男は絶命します(図5)。

論述するために、あたりまえの事をあえて書きますが、このシーンにおいて4人の男達が机を飛び越えるという行為は、彼らのリアルな行動ではありません。演出家は、机を飛び越えるという方法で、イマジナリーラインを飛び越え、対峙する4人の構図を2つの視点で描きました。机を飛び越えた後に発生する足音は、あぜ道で獲物を追いかける男達のリアルな足音として劇場内に響きます。男が机を倒した時に発生した鈍い衝撃音は、実際に男が倒され脳しんとうを起こしたときの、男の中で響いた衝撃音とシンクロします。

おそらくこのシーンは、回り込み動線で作ることもできたでしょう(図6)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図6

そうした場合、敵1が石を男の頭に向かって投げ付ける段階でも、男は床に寝そべりモノローグを続ける事となり、あまりにリアルすぎるか、もしくはあまりにリアリティのないものとなっていたに違いありません。

なぜ私がこの演出を、映像におけるイマジナリーラインの飛び越えと似た要素があると感じたかと言うと、図1においては男から見て敵のならびは、「(左から)敵1-敵2-敵3」となっているのに対し、机を飛び越えた後の図2における男から見た敵の並びは、「(左から)敵3-敵2-敵1」と入れ替わっている点にあります。

つまり、一見、舞台上の空間はリアルな物理的距離感で作られていると感じていたものが、イマジネーションラインを飛び越えた時点で、急に距離感はリアルではないと認識され、本来であればそこで作品はリアリティを失ってしまうかと思いきや、4人の関係性は空間における物理的距離から解放され、抽出された本質が逆に観客に迫ってくるわけです。

もしこれを図6のような回り込み動線で演出し、そこにリアリティを持たせた場合、目を覆いたくなる自体に観客は舞台上を見ていられないかも知れません。しかし、高瀬演出のすばらしいところは、あくまで3人の敵が痛めつけるのは、男に見立てた机なのです。痛めつけられる机だからこそ、見ていられる。ポーランド人の3人の男にとっては、同級生のヤクプ・カツは、すでに人ではなく机であったのかも知れません。

だからこそ私は、なんてすごい演出なんだと感じていました。

蛇足的かも知れませんが、実は物語はこの後、3人の男達はユダヤ人のかつてのクラスメイトであるドラの家へと行き、酒をあおり、3人でドラをレイプします。このシーンにおいて机は、ある瞬間からドラの肉体へと変わります。男達二人はドラの両足を押さえつけ、もう一人が姦通します。状況的にとても見ていられるシーンではありません。しかし、男達が犯しているのは机なのです。ドラは自らが犯され、それでも体が反応してしまった事を恥じた事を、男達からちょっと離れたところから俯瞰して語ります。机だからこそ、私はそのシーンを最後まで見ることができました。そして、男達が押さえつけた木製の机の脚は、消して閉じることができないにも関わらず、どうか脚よ、閉じてくれと願っていたのでした。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図7

私は演劇における動線とは、自由でありつつも、よりリアルな距離感を追求するべきだと思っていました。それは、日常のリアルな距離感を舞台上に上げれば良いという話ではありません。舞台における動線は自由であるからこそ、意味を持たせなければいけない。意味を持たせるべきであると感じていたのです。それは、作品をリアルなものとして届ける上での一助となると考えていたのです。しかし、本作品では、リアルな物理的距離が失われたからこそ、本質を抽出することに成功していると感じたのです。

演劇は、距離感からリアルを生み出すこともできれば、距離感の消失からリアルを紡ぎ出すこともできる。

このことは、私を舞台のルールから、一つ解放してくれた出来事だったのでした。
演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(1)
昨日のブログで、文学座の「ナシャ・クラサ」を見てきた感想を書きましたが、
演出効果にも、色々と考えさせられることがあったので、自分の今後のためにまとめておきます。

今回の話は非常にややこしく、大半の人が、私が何を言ってるかわからないと思います。
事前にお詫びしておきます。


まず、私が考える役者の基本動線について書きます。

演技の基本動線

図1をご覧下さい。私は動線を3つのケースに分類して考えています。

1.切り込み動線
2.回り込み動線
3.自由動線(1.2.に含まれない自由な動線)

ちなみに、この「切り込み動線」「回り込み動線」「自由動線」は私が説明するために便宜上名付けただけの名称であり、演劇用語ではありませんので、ご注意下さい。2の回り込み動線は、例えば2人の侍が刀を抜いて対峙した場合、互いに近寄ることも遠ざかることも容易ではなく、均衡した関係性を描く上で有効な動線です。

これがコントとなった場合、1の切り込み動線だけで演じられるケースが多い気がします。つまり客席に対して平行な、相手に寄るか、相手から離れるかの動きだけで、舞台の奥行きを使おうとしません。コントが奥への動きや回り込みを嫌うのは、コントは主に客席に体を開いて展開するケースが多く、かぶるという行為を嫌がるからなのかも知れません(図2)。

その点、以前に演劇的コントとして紹介した、バナナマンのコント『Are you satisfied now?』では、設楽さんは自転車で舞台後方に登場し、拳銃を引き抜いたあとに、回り込み動線を利用しています。安易に日村さんの横に出てくることはしないわけです。また設楽さんが降りた自転車が舞台後方に残っている事により、自転車が空間に奥行きを持たせ続け、回り込みの強調にも一役かっています。この空間の広がりも、このコントを演劇的と感じさせる要素の一つと言えるでしょう。

映像においても動線を意図的に見せる場合が存在します。火曜サスペンスにおいて船越英一郎さんが犯人を崖に追い詰めるシーンは、引きの映像で取られます。しかし、映像が演劇やコントと大きく違う特徴は、視点が変化する点です。犯人が崖から飛び降りるシーンは、役者の抜きの映像になります。映像においての引きの映像というのは、空間を説明するための意味合いが強く、事件が起きる瞬間の決定的な物理的距離には、あまり踏み込みません。例えば、船越英一郎のその1歩の踏み込みが、犯人のテリトリーを犯す決定的なものとなり、その1歩が犯人にとってどれほど苦痛であったかは、最近のテレビは描かないわけです。

おそらくそれは、演劇は舞台上のどこを見るかを観客に任せているのに対し、映像はカット割りにより視聴者の視点を固定するために、物理的距離が心理にいかに影響を及ぼしたかを描写すると、技法に走った説明的映像となりがちになるため、距離と心理に関する描写を、作り手が意図的に避けているのかも知れません。

映像に関してもう一点だけ。映像には、イマジナリーライン(想定線)という概念があり、基本的にはイマジナリーラインを越えていく映像展開は、タブーとされています。つまり、1シーンは通常片方の面から撮影するべきであり、いきなりイマジナリーラインを越えた映像を入れると、視聴者が空間を見失ったり、登場人物がテレポーテーションしたように感じてしまうという話です。Wikipediaにおけるイマジナリーラインの説明が詳しいですので、よろしければそちらもご覧ください。

映像におけるイマジナリーライン

例えは、こないだNHKでも再放送されていたアニメ「日常」のオープニングでも、イマジナリーライン越えが起きています。

アニメ日常におけるイマジナリーライン越え


言われてみないと気付かないと思いますが、ちょっとした違和感がありますよね。
実は、昨日見てきた「ナシャ・クラサ」でも、同じような現象が起きていたのです。

誤解をされないように、結論から先に書きますが、私は高瀬さんの「ナシャ・クラサ」の演出を見て、自分が考えていた演劇の表現の可能性が広がりました。映像だと違和感が出てしまうイマジナリーライン越えですが、演劇においては、私の想像し得なかった効果を生んでいたのです。そのためにも、「ナシャ・クラサ」における演出について、自分なりに整理していこうと思います。

長くなったので、演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(2))へ続きます。


本日は、日常のオープニング映像でもお楽しみ下さい。

抜粋したカットは、1:10ぐらいです。

《「日常」オープニング ヒャダインのカカカタ☆カタオモイ-C》


さすが京アニ。動く動く。
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