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「ナシャ・クラサ」私たちは共に学んだ -歴史の授業・全14課-の感想
林田一高さんが自身のブログで、必見の価値ありと書いていたため、
当日券の発売開始の11時から文学座に電話をかけ続け、無事チケットをゲットして観て参りました。

《文学座75周年記念公演「NASZA KLASA(ナシャクラサ)」》
文学座75周年記念公演「ナシャクラサ」

5/30(水) マチネ 補助席21番で観劇

ポーランドの劇作家の戯曲による、2時間40分の作品。演出は文学座の高瀬久男さん。
題名の「ナシャ・クラサ」は、同級生の意味。クラスがポーランド語だと、クラサになるのでしょうかね。

1919年~1920年に生まれた子どもたち10名が、
小学校に通い始める第1課から、最後の1人が死んでいく第14課までの人生の物語。


見終わって、私の中の価値観が、変化したような気もする。


私はポーランドの歴史は知らない。
チラシの中に、作中用語と略式年表が書かれた両面印刷の資料が挟まれていた。
一応目を通したが、もちろん覚えきれるわけではない。

それでもよかった。


作品は途中15分間の休憩を挟む。

第二次世界大戦下のポーランド。とある街で起きた1941年のユダヤ人大量虐殺。
ドラ(女性)が燃えさかる炎の中で叫ぶ、「人の一生は、こんなものなの」みたいな台詞で第一幕は終わる。

客席からすすり泣く声が漏れ、私も泣いていた。


休憩中に、舞台には木製の机が複雑に積み上げられていた。


それは、火をかけられた建物の中で折り重なるように死んでいった700人のユダヤ人を象徴しており、
それは、クラスメイトを殺すことになってしまった彼らの一生消えないトラウマとして、
終演まで崩されることなく、舞台上に有り続ける。


ドラマチックなシーンのピークは、第一章の最後にある。

ドラ(女性)の最後の言葉を「みたいな台詞」と書いてしまって申し訳ないが、
正直、何を言ったのか、今となっては正確に思い出せない。

彼女が赤子を抱き、悲痛に叫んでいたことだけが、鮮明に残っている。
この作品に、象徴的な台詞はない気がする。

作品のテーマを代弁するような、一人歩きしそうな言葉はないのだ。
彼らはあの時代に、あの場に生き、生きるために発した言葉しかあそこにはない。

だからこそ、印象に残るフレーズがないにも関わらず、起きた事実に私は涙したような気がする。


第二章は、彼らが戦中にクラスメイトを殺害したという過去をタブーとし、
それがいつばれるかという恐怖とトラウマを持って生き続け、死んでいく物語である。

一昨年のNHKの朝の連続テレビ小説のゲゲゲの女房も、昨年のカーネーションも、今年の梅ちゃん先生も、
戦争を描く際、人が人を殺すという残酷さではなく、
戦後になってもトラウマを持ち続け、後遺症を抱え苦しむ人々を描いている。

この作品も、同じである。

「あの時、死んでいたら、どれほど楽だったか。」

みたいな事をマリアンナが言っていたような気もするが、やはりはっきり覚えていない。


私はこの作品を見て、たき火を見ている感覚に近いものを感じた。

第一幕で火はかけられるが、たき火となるのは第二幕である。


赤々と燃える炭火を、黙って見続けた夏の夜の感覚なんだが、わからないだろうか。
赤々と燃える炭火は、やがて一つ、また一つと赤みを失い、灰となっていった。

そして、幕が下りた。


なので、私にとっての第二幕は、炭火を見ながら、ただただ話を聞いていただけである。


チロチロと燃える炭を見て、面白いも、面白くないもない。

でも見てしまう。

この感覚がうまく伝わると良いのだが。



終演後の拍手は暖かく、長かった。

熱い拍手は経験した事があるが、この何ともぬるく、長々と続く拍手というのも、初めての経験だった。

拍手が終わって、最後の火が消えたことを痛感した。そして、みんな劇場から帰って行った。



今日の芝居を見た後の私の感覚は、
「私は以前も人間であり、今も人間で有り、これからも人間なんだな。」というものだった。

それは、10人のこども達の人生に、良いも悪いも正解も失敗も、何も言うことができなかったからこそ、
このような感想になるのかも知れない。


高瀬さんの芝居は、いつも不思議だ。

良い芝居でした。
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顧客が本当に必要だった物
ネットで見つけた、ビジネスに関連の風刺画です。
元ネタがなんなのか調べてみましたが、諸説あるようですね。

自分なりに分析して、解説してみました。

《顧客が本当に必要だった物》
顧客が説明した用件~顧客が本当に必要だった物


◆顧客が説明した用件
顧客はブランコはこういった物だと絵に書ければ別ですが、
ブランコとはなんなのかを説明することさえ、難しかったのかも知れません。
顧客はおそらく、やりたいことを漠然な言葉で並列化して説明したのかも知れませんね。
どこの役割が一本化できるかもわかりませんので、ブランコの板が複数あるのかも知れません。


◆プロジェクトリーダーの理解
木の枝を使って、人が乗れる装置だと言うことを理解していますが、
そもそもブランコはこいで揺れることが楽しいと理解しておらず、
乗って揺れることができないと、ブランコでさえないこともわかっていません。

◆アナリストのデザイン
アナリストとは分析家、または評論家のことです。
要は作り上げて、板が揺れればいいと思っているわけですね。
幹を伐採した時点で、木は枯れ、ブランコとしての強度を保てなくなります。現実離れしており、机上の空論です。
そもそも自然を生かして、自然の大切さを知って欲しいというコンセプトであれば、それすらも反しています。

◆プログラマのコード
とりあえず板の両端から出たロープで枝を縛っているので、言われたことはやったのかも。
でもこれでは、状況をコンピュータの言語で再現しただけで、全く動きませんけどね。

◆営業の表現、約束
きっと実現できれば、それは快適な座り心地なのでしょうね。でも顧客は、ここまで求めていないのでしょう。
そもそも、椅子を乗っけたら木の枝は間違いなく折れるでしょうから、現実的な約束ではないのでしょう。
営業は大風呂敷を広げて仕事を取ってきたとしても、数字を上げれば良いとされるわけですね。

◆プロジェクトの書類
おそらく、この会社にはブランコを作ったことがある人がいないのに、この仕事を取ってきたんでしょうね。
だから、何もかも白紙なのでしょう。

◆実装された運用
おそらく、どんなものなのか、やってみたんでしょうね。
それで、彼らにはこれが限界なので、顧客に妥協してもらって、こうなりましたという事でしょうか。
これなら、別にこの会社に頼まなくても、自分でできたっちゅうねん。

◆顧客への請求金額
このクラスの請求したのなら、明らかにぼったくりw

◆得られたサポート
そこに、木がある事を、とりあえず管理してくれるのでしょうか。
まぁ、ほっといても切り株は勝手に歩いて行きませんが、切り株を持ってかれないように、保守してくれるのでしょう。
これでは人が腰掛けて休むか、集合場所の目印として使うぐらいしか、使い道がなさそうですね。

◆顧客が本当に必要だった物
顧客はおそらく、自然の大切さを子どもたちに知って欲しい。自然の中で遊ぶことの喜びを知って欲しい。
そんな子どもたちが集まる場を、自然の中に作りたいと思っていたのかも知れません。
すでに廃棄されたタイヤを使う事は、ゴミを減らすという事で、自然を守ることに繋がるのかも知れません。

タイヤを1本のロープで繋いだだけでは、前後に正確に揺れることはできなくなります。
しかし、言ってしまえば、ブランコは他にもあるはずです。
遊んで楽しければ、別に前後に揺れることの正確性は、顧客にとってはさほど重要ではないのかも知れません。

ひょっとするとこのタイヤで遊んだ少年は成長して、子どもの頃は乗って遊んだこのタイヤで、
野球のスイングの練習をするかも知れない。空手の蹴りの訓練をするかも知れない。

正直、木の枝にロープでタイヤをくくりつけるだけであれば、顧客は自分自身で作れたのかも知れませんね。
そういった意味では、コンセプトを理解し、助言できる人が身近にいさえいれば、この顧客は、一番幸せだったのかも知れません。


私が舞台演出家として必要なことは、私が大きな舞台を実現できる会社を持つことではなく、
いかにコンセプトを理解し、人の幸せの形を、具体的に提示していけるかどうかだと思うのです。



理想を追い求める私は、未だに考えが甘いかも知れませんが、
きっとこの顧客は、幹にタイヤをつるした図を描ければ、誰かが賛同して、一緒に実現してくれたと思うのです。

そう信じるからこそ、私は舞台演出家として、何をしたいかを示さなければいけない。


そういう段階なんです。
NTTドコモ携帯CM 「森の木琴」ロングバージョン

お気に入りのテレビCMを紹介します。

《NTTドコモ携帯CM-森の木琴篇-》


曲目は、バッハのカンタータ147番「主よ、人の望みの喜びを」です。

ボディに本物のヒノキを使用したNTTドコモの携帯電話「TOUCH WOOD SH-08C」のテレビCM。
2011年のカンヌ広告祭では、この森の木琴CMが金賞を獲得しています。

全長44メートルに配置された鍵盤の数は、24種413枚。
福岡県嘉麻市と朝倉市の境にある古処山の山中で撮影されたそうです。


ちなみに、このCMのメイキング映像も見ることができるんです。


《森の木琴 -メイキングムービー-》(別窓)
NTTドコモ携帯CM-森の木琴篇

CMを見終わると、なぜか部屋の空気も美味しくなった気がしてくる、私がいるのでした。
教科書のいたずら書き(光村図書 国語1 中学校1年生 国語科教科書)
またお気に入りの画像を紹介します。

《光村図書 国語1 中学校1年生 国語科教科書 (二)自然の不思議をさぐる》
水口博也(写真家・ジャーナリスト) 光村図書 国語1 中学校1年生 国語科教科書

中学校1年生の国語の教科書ですので、
もし授業中に書いたのだとしたら、12歳でコレを書いたと言うことでしょうか。


きっと、いい子に違いない。

きっと、みんなから愛されたに違いない。
ピカチューおまんじゅう。1個80円だそうです。
《ピカチューおまんじゅう / ツイッターで話題》
ピカチュウのお饅頭


ネットにあったピカチュウのお饅頭の画像です。

ものすごい破壊力があります。


これは、どこで売ってるんでしょうね。

海外かな?と一瞬思いましたが、円を要求しているあたり、日本国内なのでしょうね。


  「ピカチューおまんじゅうです。少しちがくない。1コ80円デース」


学園祭とかですかね。留学生を受け入れている学校とかの。

何も情報がないまま憶測で書いてしまいますが、
きっとこの「ピカチューおまんじゅう」は、商品化の許可を受けてはいないと思うんですよね。


でも、なんでなんでしょう。この許せてしまう感覚。


それは、第三者がお金儲けのために、肖像権を勝手に使っていると言うよりは、
作者が生み出したキャラクターを本当に愛しているのねと、このピカチューが思わせてくれるからでしょうか。


手作りって、ステキ。
THE BACK HORN(ザ・バックホーン)の「美しい名前」のMV
ザ・バックホーンの「美しい名前」という楽曲のミュージックビデオが好きなので紹介します。

2007年3月にリリースされていますので、今から5年前の曲ですけどね。

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《THE BACK HORN / 美しい名前 -マッチversion-》

美しい名前 -マッチversion- 投稿者 tomoka15

作詞 菅波栄純
作曲 THE BACK HORN
唄 THE BACK HORN


泣きたい時ほど涙は出なくて 唇噛んでる真っ白い夜
体中に管をたくさん付けて そうかちょっと疲れて眠ってるんだね

世界で一番悲しい答えと 悲しくなれない真っ黒い影
擦れそうな声で名前を呼んだ ふいにゾッとするほど虚しく響いた

あぁ 時計の針を戻す魔法があれば
あぁ この無力な両手を切り落とすのに

世界は二人のために回り続けているよ
世界に二人ぼっちで 鼓動が聞こえるくらいに

微かにこの手をなぞった指先 小さなサインに敏感になる
こんなふうに君の心の音に 耳をずっと澄まして過ごせばよかった

あぁ 想いを隠したまま笑っていたね
あぁ 知らない振りをしてた 僕への罰だ

世界は二人のために回り続けているよ
離れてしまわぬように 呼吸もできないくらいに

何度だって呼ぶよ 君のその名前を だから目を覚ましておくれよ
今頃気付いたんだ 君のその名前がとても美しいということ

世界は二人のために回り続けているよ
世界に二人ぼっちで 鼓動が聞こえるくらいに

世界は二人のために回り続けているよ
離れてしまわぬように 呼吸もできないくらいに

何度だって呼ぶよ 君のその名前を だから目を覚ましておくれよ
今頃気付いたんだ 君のその名前がとても美しいということ

==================================

マッチの炎は、音楽の高鳴りとシンクロします。

炎は、人の命の輝きを表しているのでしょうか。
灯がともり、燃えさかり、やがて消えていく様は、人生を象徴しているのでしょうか。

マッチが燃えているだけのMVで、こんなにも胸が熱くなるのは、
MVの中に「人」が描かれていることを、見ている側が感じ取っているからだと思います。


私はこの曲の歌詞も好きです。


スローテンポなこの曲は、平易な言葉で事実を伝えています。
強い言葉を用いず、劇的に歌いあげようとしていません。

物語は、意図的に進めようとしなくても、事実が積み上がれば勝手に進むものです。
進んでいく二人の時間と、変化することのない現実は、なんと切ない対比でしょうか。


「世界は二人のために回り続けているよ」の言葉は、傲慢な言葉ではありません。
「僕」にとっての世界は、自分と「君」がすべてであり、それでも回り続ける世界は、あまりに残酷です。


もし、物語の最初と最後で人が変わることをドラマとするならば、この曲にもドラマがあります。

それは、「今頃気付いたんだ 君のその名前がとても美しいということ」という、
あまりにシンプルなものだからこそ、聞き手の心に強く響いてくるのかも知れません。


ちなみに、歌詞を書いているのは、ギターを担当されている菅波栄純(すがなみ えいじゅん)さんです。
販売されたCDには、このようなメモが添えられていたそうです。


>  あの日、あなたが倒れたという知らせを聞いて
>  すぐ病院へ向かいました。
>  原因がわからず、意識不明のあなたの手を
>  さすりながらあなたのお母さんは、
>  何度も何度も名前を呼びかけていました。
>  どんな状況でもあきらめない姿を見て、
>  このことを歌にしなくてはいけないと思いました。
>  今度聞かせにいきます。
>                  菅波 栄純


おそらく、この曲は実話をもとに作られたのでしょう。

MVをもう一度再生してしまうのは、「人の願い」からでしょうか。
レナード・バーンスタインとカラヤンから学ぶ演出論

指揮者の佐渡裕さんが、恩師のレナード・バーンスタインについて語る番組
こだわり人物伝 ~バーンスタイン 愛弟子が語る~が、今から2年前のNHKのプレミアム8で再放映されました。

この番組の中で佐渡さんは、バーンスタインとカラヤンの、二人の指揮のタイプの違いを語っています。

放送開始39分(第二章終盤)より録画を見て書き起こしました。

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◆佐渡:カラヤンの指揮姿というのは、この・・・、ちょっと立ちますね。この・・・両手の中にね、こうやって目をつぶって振ってるでしょ。カラヤンの指揮というのは、この両手の中に自分の理想のオーケストラがいる。自分の目の前に、ベルリンフィルなりウィーンフィルなりという、すばらしいオーケストラがいるにもかかわらず、ある種それを無視して、目をつぶって、この自分の腕の中に、理想のオーケストラを描いている。ここにあのバイオリンが鳴ってて、ここに木管楽器が鳴ってて、コントラバスが鳴ってて、それがある音楽のクライマックスが来たときに、それをバァアアアアンと解放する。すると、この腕の中にいた理想のオーケストラと、実際目の前にあるオーケストラが、実はその瞬間に、バァアアアアンとやった時に一致する。この時にカラヤンマジックがドカーンと起こるわけね。

◆佐渡:レニーの場合は、あの、指揮台に上がった瞬間から、「おぉー田中君。」「おぉー林君が吹いているのか。」「おお久しぶりだな。お前どこであったっけ。あぁぁ!」みたいなことが、もう、色んなそうやりとりが行われていて、一人一人苗字と名前が付いたメンバーで、ここで音楽作っていると。だから、もう指揮の仕方も、何もかも最初からすべてがオープンで、「音楽の神様のもとに、俺も田中君も山田君もみんなが一つになって、行くんだ。」で、このたどり着くとこってのは実は一緒だと思っている。僕は。

◆佐渡:カラヤンの、こうやって、こっから現実のオーケストラに行くのも、現実のオーケストラを、みんなが連れて行くとこも。その連れて行くとこというのは、不思議な力に操られた 人が鳴らしているんだけれども、神の存在が・・・音楽の神様がいなければ、こんな瞬間にはありえないという。ある種、オーケストラの快感というかな。そういう、こうエクスタシーみたいなところに連れて行かれるっていうのが、この二人の全然違うアプローチにしかたであり、共通点だと思う。

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レニーというのは、レナード・バーンスタインの愛称です。

私なりに二人の指揮を分析すると、

●カラヤンは、自らの強烈なイメージで、カラヤンの腕の中に理想のオーケストラを描きます。
演奏者は、そこに確かに、カラヤンの理想のオーケストラがある事を実感し、自分もそこに行きたいという思いを強めます。
つまり、演奏者に嫉妬心と向上心を持たせます。そして機が満ちた時、演奏者が、カラヤンの理想とシンクロするわけです。

●バーンスタインは、演奏者を心理的にリラックスさせ、力みを取り除きます。
自分も演奏者側の方におりてきて演奏者を解放していくことで、演奏者同士のケミストリー(化学反応)を起こさせます。
バーンスタインは演奏者の目の前の霧を取り除き、自らが先導して、全員で、理想の音楽へと歩み始めるのです。


以前に文学座の林田一高さんが、高瀬久男さんと西川信廣さんの演出の違いについて教えてくれたことがあります。


記憶をもとに林田さんが仰っていた事を文章に起こすと、こんな感じであったと思います。

高瀬さんと自分(林田)はよく仕事でご一緒するんだけど、高瀬さんの演出は怖いんだよね。役者に隙を作らせない。
高瀬さんの圧倒的な台本の読解力のもとに稽古が進む。すべて見透かされているんじゃないかと思うときもある。
でもそれは、役者としてはとても刺激的で楽しいんだよね。

西川さんの演出は、またちょっと違って、西川さんは、基本的に役者の手柄にしてくれるんだよね。
「それいいね。それで行こう。」と役者が気持ちよくなっているうちに、いつの間にか西川さんの舞台になっている。
役者をその気にさせておいて、最終的に美味しいところを、ちゃんと持って行くのが西川さんのすごいところだよね。


恐らくこの二人は、

◆高瀬久男さん=カラヤンタイプ
◆西川信廣さん=バーンスタインタイプ

ではないかと、思うのです。


役者さんにも、色んなタイプがいます。

役に近づいていく役者さんもいれば、役を自分に引き寄せる役者さんもいる。


役に近づいていく役者は、カラヤンタイプの演出で、確固とした理想を示してあげれば良い。
役を自分に引き寄せる役者は、バーンスタインタイプの演出で、理想に導いていけば良い。

私は、この二人のどちらの指揮も、魅力的だなと感じているのでした。


《Karajan's Rehearsal -カラヤンのリハーサル-》


《レナード・バーンスタイン/わたしの愛するオーケストラ》
プロのオーケストラによるフラッシュモブ 電車内で生演奏
2012年4月に、デンマークの首都であるコペンハーゲンの地下鉄の車内で、
突如コペンハーゲン・フィルの生演奏がはじまるという、フラッシュモブが行われました。

フラッシュモブ(Flash mob)とは、
インターネット、特にEメールを介して不特定多数の人間が公共の場に突如集合し、目的を達成すると即座に解散する行為。

Wikipediaにはあります。


このサプライズは、地元のラジオ番組「Radio Klassisk」の企画で行われ、多くの人から賞賛の声が上がっているそうです。

Klassiskとは、ノルウェー語でクラシックの意味ですね。

《Flash mob in the Copenhagen Metro. Copenhagen Phil playing Peer Gynt. 》



演奏されているのは、グリーグ「ペール・ギュント」より「朝」です。
表情を変えずに、イヤホンを外す男性、いいですよねぇ。

日本のどっきりって、誰かを傷つけるものが多いじゃないですか。

芸人だったら、ひどいどっきりを仕掛けても、テレビ局側が訴えられる事はないんでしょうけど、
ちょっと日本のどっきりは、笑った後に後味が悪いんですよね。


このどっきりは、仕掛けられた人が驚いて、笑顔になっていきますよね。
しかも、仕掛けた方も笑顔になっていく。


こんな奇跡に出会えた日は、いつもより人に優しくなれる気がします。


ちなみにコペンハーゲン・フィルは、以前にもコペンハーゲン駅構内で、フラッシュモブを仕掛けています。


よろしければ、こちらもどうぞ。

《Flash mob at Copenhagen Central Station. Copenhagen Phil playing Ravel's Bolero. 》



素敵な大人達だ。
大阪駅の水時計(サウスゲートビルディング)がすごいって知らなかった。
《大阪駅の水時計 [ Osaka Station City ] e》


《大阪駅の水時計 [ Osaka Station City ] a2》




この動画を見るまで、こんな水時計が大阪駅にあるって知りませんでした。
サウスゲートビルディング開業が2011年3月ってなってますので、結構最近のことなんでしょうかね。


ちなみに同じ仕掛けのものが、京都と博多にもあるようです。

でも、大阪の水時計が、落ち着いて見れそうでいいかも。



《キャナルシティ博多 水のカーテン》


《京都駅近鉄名店街 水のアート》



時間を忘れて、ずっと見てしまいますよね。

おそらく視覚だけではなく、聴覚的にも楽しんでいるんだと思います。
実際にその場で見れば、水しぶきやマイナスイオンの様なものを、触覚や嗅覚を通じて感じることもできるのかも知れませんね。

仕組みとしては、水量をコンピューター制御しているだけのことで、複雑なことをしているわけではないようです。

それにしても、これを作り出した人って素敵ですね。

ちなみに、どの水のアートも無料で見れるようですよ。
ガンダム & フィグマ ストップモーション:セイバー・リリィ
《Gundam & Figma Stop Motion : Saber Lily FATE賽芭(ガンダム & フィグマ ストップモーション:セイバー・リリィ)》


この動画は、台湾の人が作っています。

ガンダムと、Fate/Zeroのセイバー・リリィがメインで戦っていますね。

フィグマは、マックスファクトリーが企画・開発、
グッドスマイルカンパニーが販売しているアクションフィギュアシリーズです。Wikipediaによるfigma

動画の題名にある賽芭とは、セイバーを繁体字で表記しているだけです。(賽芭=セイバー)

プラモデルをストップモーションで撮影して、パソコンで動画のようにコマを繋ぎ、最終的に特殊効果を加えて作られています。


こんな動画を個人で作れる時代になったのですね。


カメラの性能やパソコンの特殊効果の技術もあがったのでしょうけど、
プラモデルやフィギアの、間接の可動域が大幅に上がったことや、精巧さや質感の向上も関係してるのでしょう。


でも、一番驚いたのは、作者の描写力のすごさです。


コマ数をどう割り当てるかで、動きのダイナミックさは変わると思うのですが、
私が注目したのは、『発見』と『リアクション』の丁寧な描写です。


ダイナミックな稼働やアクションをしたところで、それは一人の演技です。
『発見』と『リアクション』は、相手に対して自分がどう反応するかであり、これは、関係性を描写しているわけです。

だからこそ、この動画のフィギア達は、生きているように感じるのだと思うのです。
「貞子3D」プロモーション活動 渋谷に出没した宣伝トラック
《「貞子3D」プロモーション活動 渋谷に出没した宣伝トラック》


以前に、貞子3Dのプロモーション活動として、
貞子がプロ野球の始球式に登場している動画を紹介しましたが、
今回は、渋谷を走っていたらしい宣伝カーの動画です。

この他にも、50人(体?)の貞子が、渋谷をジャックして話題となっています。

《貞子3D プロモーション活動 渋谷を50人でジャック


しかもこの貞子が、ビラを手渡しで配っていたと言うから、さらに驚き。

《貞子3D プロモーション活動 渋谷を50人でジャック2


今回の貞子3Dの宣伝チームは、ほんとすごいと思う。

これ、誰が考えてるんでしょう。チームがすごいんですかね。


楽しい気持ちにさせて巻き込んでいくやり方が、とっても素敵だと思います。

とても勉強になりました。
矢野顕子さんと佐野元春さんの『SOME DAY(サムデイ)』
矢野顕子さんと佐野元春さんの『SOME DAY(サムデイ)』

以前に矢野顕子さんがカバーした『中央線』について書いたことがありましたが、
今回は矢野顕子さんがカバーした『SOME DAY』について書いてみます。

『SOME DAY』は、佐野元春さんの曲です。

佐野元春さんの『SOME DAY』は、こちらで視聴できます。

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《矢野顕子さんの『SOME DAY』》


矢野顕子 - SOMEDAY
作曲:佐野元春
作詞:佐野元春

街の唄が聴こえてきて
真夜中に恋を抱きしめた
あの頃
踊り続けていた
夜のフラッシュライト浴びながら
時の流れも感じないまま
窓辺にもたれ夢のひとつひとつを
消してゆくのはつらいけど
若すぎてなんだか解からなかったことが
リアルに感じてしまうこの頃さ

Happiness & Rest
約束してくれた君
だからもう一度あきらめないで
まごころがつかめるその時まで
SOMEDAY
この胸にSOMEDAY
ちかうよSOMEDAY
信じる心いつまでも
SOMEDAY

「手おくれ」と言われても
口笛で答えていたあの頃
誰にも従わず
傷の手当もせずただ
時の流れに身をゆだねて
いつかは誰でも
愛の謎が解けて
ひとりきりじゃいられなくなる
Oh!ダーリン
こんな気持ちに揺れてしまうのは
君のせいかもしれないんだぜ

Happiness & Rest
約束してくれた君
だからもう一度あきらめないで
まごころがつかめるその時まで
SOMEDAY
この胸にSOMEDAY
ちかうよSOMEDAY
信じる心いつまでも
SOMEDAY

いつかは誰でも
愛の謎が解けて
ひとりきりじゃいられなくなる
ステキなことはステキだと
無邪気に笑える心がスキさ

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SUPER FOLK SONGSUPER FOLK SONG
(1992/06/01)
矢野顕子

商品詳細を見る



以前に書いた『中央線』と同じアルバム、『SUPER FOLK SONG』(スーパー・フォーク・ソング)に収められています。

佐野元春さんが、『約束してくれた君』と書いた歌詞を、
矢野顕子さんは、『約束してくれたあなた』と言い換えて、歌っています。


『SOME DAY』は、『いつかきっと』
『Happiness & Rest』は、『幸福と安息』『幸せと安らぎ』といったところでしょうか。


ネットをふらふらしていて、SITEDOIさんのページに、このような文章がありました。

>矢野顕子の「SOMEDAY」(のカヴァー)を聴いた佐野元春は
>「男性は理想に向かって山を登るけれど、女性というのは限りなく平原を歩いていくのだなぁ」と思ったそうだ。
>佐野元春が希望を胸に"いつか、きっと"と歌ったとするなら、矢野顕子は"いつか、きっと"と現実的に希求する。
>そういった意味だと思う。 《SITEDOIさんのページからの部分転載》


これは、どういうことなのか、私なりに解釈してみたのです。


男性にとって、夢を追いかけるというのは『山を登る』ようなものである。
それは、つらく厳しい作業で有り、転げ落ちていく者もいる。
登っているうちは頂上が見えない。どこまで続かもわからない。でも頂上は間違いなくある。
登り続ければ、きっといつか頂上は現れ、頂上に登ったものにしか味わえない世界がそこには広がっている。

女性にとって、夢を追いかけるというのは『平原を歩む』ようなものである。
それは、まだ見ぬ世界に出会うために、夜明け前の平原を歩いて行くようなものである。
きっと、どうしても見てみたい景色があって、地図を広げ、そこに向かって旅立ったのでしょう。
今はもう、地図は役に立っていないのかも知れません。

男性は、いつしか頂上に登ることが目的になっていくのに対し、
女性は、望んだ景色がいつか見れると信じ、歩み続けるのでしょう。

それが、男性の「希望を胸に"いつかきっと"」と、
女性の「"いつかきっと"を現実に希求する」の違いなのかなと、思うのです。


男性は頂上を目指すあまり、足下に何があるのかに、全く目が行かないのかも知れない。
女性は出会うものを肌で感じ、受け入れ、自分を作り替えていくのかも知れない。

男性にとって、頂上がゴールなのに対し、
女性にとっては、歩みを止めたところがゴールなのかも知れない。

どちらにせよ、スタートがあるからゴールがあるだけです。
そこですべてが終わるわけではありません。

ゴールは、一つの終着点でしかないのでしょう。



私は、矢野顕子さんの『SOME DAY』に、闇を感じるんです。

私が矢野顕子さんの『SOME DAY』を好きなのは、その闇が好きだからかも知れません。


夜の闇が、私を深く包み込んでくれます。
自信を持ってその言葉を発すれば良い。
役を演じるとき、説得力がないとその人物が嘘くさく見える。


感情は言葉を発するきっかけで有り、感情的な人ほど、時に避けたくなる。
それなのに役者は、感情を込めないと、言葉は発することができないと考えていたりする。


説得力というのは、内容で決まる物ではない。
根拠なんてなくてもかまわない。自信を持ってその言葉を発すれば良い。


そうすれば、自然とその人に見えてくる。


《東進イミフハイスクール》


《浪人イミフハイスクール(東進CM アフレコ2)》


どうやったら説得力が出るかを頭で考えるよりも、何も考えない方がリアリティがあったりする。

役者は感情を説明することが仕事ではない。
その言葉を発する人として、ただその場にいれば良いのだ。
『赤ずきんと健康』 金沢美術工芸大学 井上涼さんの作品
私は、ミュージカルがどうも苦手なんです。

劇団四季の「オペラ座の怪人」や、「李香蘭」などを見に行ったこともあるんですが、

『なぜ歌うのか』に、引っかかってしまったんですよね。


どうやら、タモリさんもその点は同じらしく、ミュージカルに誘われても、断ってきたそうです。


そこに目を付けたのが三谷幸喜さん。

「主人公は、しゃべることができず、歌うことしかできない。」という設定で
ミュージカル『TALK LIKE SINGING』を書き、タモリさんを劇場に招待したそうです。

タモリさんも、「これは断る理由がないので見に行った。」と、いいともで言ってました。2009年の6月の話です。


ここで見て頂きたいのは、ミュージカル風アニメーション


『赤ずきんと健康』金沢美術工芸大学 井上涼さんの作品 ニコニコ大百科(仮)より転載

>『赤ずきんと健康』とは、BACA-JA2007(ばかじゃ2007)において映像コンテンツ部門で佳作を受賞した動画作品である。
>なおBACA-JAとは、学生を対象とした映像・ネットワーク作品のコンテスト(主催:関西テレビ、協賛:アドビシステム)
>2002年からの開催以来、受賞者からプロの映像クリエイターを生み出した実績のある、由緒あるコンテストである。

《赤ずきんと健康(あかずきんとけんこう》


この動画を見てると、「もっと歌って欲しい」と思えてくるんですよね。
AKB48『板野友美 いたぁ~のHigH』動画
《トイレ掃除をするAKB48の板野友美さん
◆◇トイレ掃除をする板野友美さん◇◆

AKBに全く興味がなかった私なのですが、
私の友人が、思いっきりAKBにはまってまして、その影響でAKBに詳しくなってきた私です。


まだ島田紳助さんがテレビに出ていた、2010年の9月頃の話です。

日本テレビの深イイ話に、AKB48の大島優子さんと宮崎美穂さんがゲストに出てまして、
紳助さんに「AKB48って全体で見たら可愛いけど、一人一人でみたらそうでもないな。」って言われてました。

それを見てた私も「確かにそうだ」って思ってたんですよね。

そうしたら翌日の新聞で、その発言が紙面を賑わせてまして、
AKBって、こんなにも注目されているんだって、驚いたものです。


それと同じ頃、友人がAKBにどっぷりはまりまして、
会うたび会うたびAKBの話をされ、家にきてはネットの動画を散々見せて帰って行くわけですよ。

私はアイドルに全く興味がなかったんですが、
なんで友人が、こんなにAKBにはまってるのか、ひたすら聞いたんですよね。


聞いて、(動画を)見せられて。
聞いて、(動画を)見せられて。


そんな日々が続いていくうちに、彼女たちの個々の輝く瞬間に、ドキッとするようになってたんです。

私は今も、推しメン(一押しの子)がいるわけではないのですが、
AKBのメンバーが、どんなことをやって注目されているのか、いつしか目が離せなくなっていたんです。

今やCMも含めれば、AKBがテレビに出ていない日はないですよね。


ナイナイの岡村隆史さんと噂になった、グラビアアイドルの熊田曜子さんは、こんな事を言っているそうです。

>熊田は「ごめんね、グラビアの話するけどさ。AKBはいいよ。ほとんどの雑誌が表紙も中のグラビアもAKBでしょ」と前置きし、
>グラビアアイドル界の現状の話題に。
>熊田はAKB研究生たちに言い聞かせるように「ちょっと前に全盛期だったモーニング娘。とかは、
>全盛時代に水着やんなかったのよ。だから私たちも『水着だったらやります!』って行けたけど、
>(今は)水着もAKBがいるから大丈夫ってなっちゃうし、知名度もAKBの方が断然あるからいいですってなるから、
>本当に(私たちは)出るところがないんだよね」と、グチとも苦言ともとれる発言をした。 livedoorニュースより転載


ちょっと前の私なら、おそらくこの熊田さんの発言に、同意していたと思うんです。

でも、今の私は、「あなたが負けているのは、知名度だけ?」と思ってしまうんですよね。


AKBが業界に出ずっぱりなのは、おそらく色々事情があるんだと思います。


AKB関連の番組を見ても、AKBグループの楽曲のCMが結構流れています。

おそらく、AKBが稼いだお金で、自身でテレビ局のスポンサーとなり、AKBの番組を作っているのか、

もしくは出演料を抑える代わりに、CMを流してもらっているのでしょうか。どうなんでしょう。

ていうか、私は、仮にそうであったとしても、そこを問題にしたいわけではないのです。



今や社会現象的にAKBが注目されていますが、それが強い圧力がどっかからかかっていたとしても、
結局、彼女たちを応援したいという人がいるからこそ、商業的に成り立っているわけですよね。

AKBのファンの方々も、騙されてお金を使っているわけではなくて、
実際に輝いている彼女たちを目にしているからこそ、お金をかけてまでも応援したいと思っているんだと思うのです。


さて。


話はちょっと変わって、板野友美さんっていますよね。

イトーヨーカドーのCMに出て、注目されたAKBのメンバーです。


板野さんはホリプロ所属なんですが、同じ事務所に、和田アキ子さんがいるんです。

ついこないだも、こんなニュースがありました。

>3月下旬に都内でホリプロのパーティが開催された際、事務所の大御所でもある和田が遅れて参加。
>しかし、同じくパーティに参加していた板野が挨拶もせずにずっと携帯をいじっていたため、
>それを見た和田は「挨拶ぐらいせんかい!!」とブチ切れ、板野の携帯を真っ二つに折ったという。
>その後パーティ会場で号泣する板野の姿が目撃されたようだが、
>彼女は週末に行なわれるコンサートの振付を携帯で確認していたのだとも報じられている。

◆和田アキ子が板野友美に「挨拶せんかい!」と激怒、携帯真っ二つに「やりすぎ」の声 livedoorニュースより転載


「和田アキ子さんが二つにへし折った携帯は、スマートフォンか!!?」と、そっちも話題になってました。


私はこのニュースを見た時、「あー、板野友美さんなら、ありそう。」って思ったんですよね。

板野さんって、やる気なさそうに、見えるじゃないですか。


でも、ネットを散策しているうちに、板野友美さんは、やる気がないわけじゃないという記事を読んだのです。

◆新規の俺に板野△なエピソード教えて AKBまとめんばーより転載


そこで知ったのが、この動画です。

《いたぁ~のHigh -さまぁ~ずHigh・板野友美動画ー》


なんかコレを見て、板野さんの新しい魅力に気付かされたんですよね。

こうやってAKBのメンバーの、知らなかった一面を目にするうちに、自分の中の、価値観が、広がってく気がするんです。
私が芝居でしたいことは、人の輝いた一面を切り取ることではなく、人の一面を、輝かせることにある気がするのです。


人は、こんな瞬間にも人間を好きになれる。


私は最近のAKBを見ながら、そんな事を考えるんですよね。
笑えるハプニング
ハプニング動画を一つ。




私がお芝居を見に行くと、役者が台詞を噛んだところで笑いが起きたりします。
噛んだことで面白くなる芝居もあれば、噛んだことで興ざめする芝居もあります。

お芝居におけるハプニングの笑いの大半は、内輪ウケなんだと思います。
目の前の芝居よりもリアリティのある失敗を、観客に笑われているだけです。

お芝居のハプニングは、ないにこしたことはない。


その点、テレビはハプニングがあると面白いですよね。


良い意味で、テレビは現実味がないからでしょう。
画面の向こうでハプニングが起きたとしても、自分には影響してこないと思っている。


だからこそ、テレビのハプニングは、安心して笑うことができるのでしょう。

だからこそ、貞子が3Dで出てくると、逆に笑えないのかも知れませんね。
「夢であいましょう」と「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」
何年か前のNHKの番組で、大橋巨泉さんが出演されており、NHKの夢であいましょうについて語っていました。

NHKアーカイブス-番組を語るシリーズ3回目 ←これでした。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2010/101121.html



夢であいましょうは、NHKの放送作家であった、永六輔さんの番組。
昭和36年(1961年)4月8日~昭和41年(1966年)4月2日にかけて放送。

当時、民放の放送作家であった大橋巨泉さんは、この番組を見て、「やられた。」と思ったそうです。


「夢であいましょう」の放送時間は30分。毎回、生放送。スタジオからの生中継。

バラエティと言っても、今の芸人さんが自分の私生活をトークするものではなく、
かといって、30分間コントを見せ続けるわけでもありません。

歌あり、コントあり、詩の朗読あり、『今月の歌』というコーナーで歌う、歌の歌詞も永六輔さんが手がけ、
「こんにちは赤ちゃん」や「上を向いて歩こう」も、この番組のコーナーから生まれました。


Wikipediaの「夢であいましょう」には、こうあります。

>番組には毎回ごとのテーマが設けられて、これに沿ったショートコントで進行し、
>その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などが挿入された。
>歌手のコント出演や、コメディアンの歌唱などの企画は、後続のバラエティーショー番組の原型となった。


そもそもバラエティ(Variety)という単語は、「変種・品種・変化・多様性・寄せ集め」の意味です。
バラエティに富むというフレーズがあるように、多種多様な魅力を詰め合わせた番組が、「夢であいましょう」だったのです。


《夢であいましょう-短縮版-》← アーカイブで紹介された回とは別です。

夢で逢いましょう Yume de Aimashou 投稿者 rakushisha


この番組を、生でやってるというから、すごい。


この夢であいましょうに触発され、
大橋巨泉さんが自分で作ったのが、日本テレビ系列で放送された『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』です。

(1969年10月7日~1970年3月31日)及び(1970年10月6日~1971年3月30日)にかけて放送。


大橋巨泉さんは、役者を集めてバラエティをやることを重要視したそうです。


Wikipediaの「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」には、こうあります。

>進行は台本に完全に忠実でアドリブは一切許されず、一見雑談に見えるような所でも全て台本どおり展開されていた。
>前田武彦が一言二言アドリブをいれただけで「台本どおりにやれ。」と怒鳴られた程であったという

だからこそ、アドリブによる笑いや、ハプニングによる笑いを避けたのでしょう。


大橋巨泉さんは、アドリブによる笑いや、ハプニングによる笑いが、いけないと言っているわけではないと思うのです。
作り込まれた笑いには、上記にはない魅力があり、それを大切にしたと言うことだと思っています。


それでは、ご覧下さい。


《ゲバゲバ90分(1)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 1 投稿者 devo12120928

《ゲバゲバ90分(2)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 2 投稿者 devo12120928

《ゲバゲバ90分(3)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 3 投稿者 devo12120928


安心して笑えますよね。

これを作った人たちの才能に、改めてびびります。
奇跡の国・日本の海
私は北海道出身です。

子どもの頃は、ウニを取って食べていました。
ちなみに北海道で取れるウニは、主に2種類あります。

北海道様似郡様似町(さまにまち)の、様似郷土館のスタッフブログさんから画像を拝借。
上がムラサキウニで、下がバフンウニ(馬糞ウニ)です。


上がムラサキウニで、下がバフンウニ(馬糞ウニ)です。


二つのウニは、色も違いますが、

『ムラサキウニ』:栗みたいにトゲが長い
 『バフンウニ』:タワシみたいにトゲが短い

と覚えると、良いかもしれません。


このバフンウニが、うまいんですよ。
ムラサキウニは、取っても海に捨ててました。

※ちなみに、子どもの頃の私の密漁は時効ですが、今それをやると普通に捕まるそうですので、ご注意下さい。


なんで馬糞ウニが美味しいのか、子どもの頃はわからなかったんですが、
なんでも、馬糞ウニは昆布を好んで食べるので、うまみが凝縮するのだとか。

子どもの頃はじいちゃんが取ってきた昆布を普通に食べてましたが、
日高昆布(ひだかこんぶ)や羅臼昆布(らうすこんぶ)とか、利尻昆布(りしりこんぶ)とか、有名ですもんね。

この昆布、寒いところでしか育たないらしく、
南に行くと昆布が取れなくなり、自然と馬糞ウニもいなくなるのだそうです。


では、話を変えて、画像をご覧下さい。

2012年5月14日(昨日)の海の温度のデータです。

《海洋地図-世界の海水の温度》
《海洋地図-世界の海水の温度》

ウエザー・アンダーグラウンド:http://www.wunderground.com/MAR/


日本を見つけましたでしょうか。


お気づきでしょうか。


日本はこんなに小さいのに、紫から赤まで、すべての温度の海洋を持っているんです。
こんな世界に類を見ない豊かな海に面していたら、そりゃ海産物がうまいわけですよ。

ちなみに日本の伝統文化の茶道。

韓国では、戦後の技術開発で、お茶の木を育てられるようになったらしいですが、
日本より若干北緯に位置するだけで、お茶の木は普通は育たないのだそうです。

日本の風土の、様々な条件の奇跡的な組み合わせが、日本文化を培ったんでしょうね。


さて。


最近、NHKのBSで再放送されている、『篤姫』を見ているんです。

幕末のドラマを見ていると、
日本は開国しないと日本は占領されてしまう、世界からみたらちっぽけな国である。
と、そんな印象ばかりですが、

19世紀前半の世界の大都市として、ロンドン、パリ、北京などがあげられますが、
産業革命でロンドンが江戸を抜くまでは、なんと江戸が世界で一番人口が多い都市だったのだそうです。

そりゃ、アメリカもイギリスもオランダもフランスも、日本と交易したいって来るわけですよ。



別番組ですが、赤道直下の国の人々に日本の四季折々の写真を見せたところ、
こんな幻想的な国はあるのかと、驚いてました。

ミシュランガイドでも、東京が世界で一番三つ星を獲得している都市なんでしたっけ。


私は、せっかく日本人に生まれたのだから、
流行を追いかけるだけではなく、日本人である事を、もっと楽しめないかなと、日々思うのでした。
東芝「LED10年カレンダー」 (第41回フジサンケイグループ広告大賞受賞CM広告)
TVCMなので、目にしたことがある方もいると思います。

東芝「LED10年カレンダー」篇



LEDが照らし続けた10年間の家族の姿が、シルエットによって綴られています。

東芝のホームページには、このようにあります。

>■作品紹介:
>ある男性がダイニングのあかりをLED電球に交換してからの10年(3653日)を、
>影絵タッチで表現し、変わりゆく日常を常に照らしていたのは寿命10年の「LED電球」であったことを訴求します。
>LEDの長寿命をアピールするとともに、あかりの温かさを表現しています。
>第41回フジサンケイグループ広告大賞にて、メディアミックス部門グランプリほか2部門4賞を受賞しました。


描かれているのは、10年間のイベントの連続ではなく、10年間の日常の断片です。
日々過ぎていく日常の中に、大切な時間がある事を気付かせてくれます。

人生を劇的に描く演劇が多い気がしますが、私はこういった日常の幸せを板の上に上げ、共有できないかと思うのです。
オウムライス(王蟲ライス)
昨晩は金曜ロードショーで『風の谷のナウシカ』をやってましたね。

ジブリアニメは何度放映してても、見てしまいます。


さて、昨夜の興奮が覚め遣らぬあなた。

ネットで話題のオムライスならぬ、『オウムライス(王蟲ライス)』はご存じでしたでしょうか。

《オウムライスを作ってみた》

画面右下の[・・・]を押して[×]に切り替えることで、画面に現れる文字を消すことができます。


Googleの画像検索で「オウムライス」を検索したら、大人気みたいです。

これを夕食に出す奥さんって、素敵ですねw
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(4)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)の続きを書きます。

桜美林大学教授であり青年団を主催する平田オリザさんは、その著書『演劇と演出』の中で、
演出家に必要な能力は『世界観、方法論、構成力、説得力、リーダーシップ』の5つに分類できると書いています。

演技と演出 (講談社現代新書)演技と演出 (講談社現代新書)
(2004/06/21)
平田 オリザ

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「演技と演出」の本は誰かに貸したままになっており、内容を確認することができないのですが、
平田さんは著書の中で、この5要素のうちの2つ以上が優れていたら、演出はとれると書いていたように思います。

手元に著書がないため、私なりの解釈で、5つの要素を別な言葉に置き換えてみました。

●リーダーシップ=集団をまとめて率いる能力
●世界観=作品のイメージを感じ取る能力
●構成力=作品世界を具現化する能力
●説得力=役者の疑問を解消する能力
●方法論=解決する手段を提示する能力


ちなみに私が演出を初めてとったのは、大学の演劇部に入ってからです。

演劇部の演出は、ある種の『持ち回り』で決められました。
つまり、「前回はあの人がやったから、今回は誰にする?」という流れです。

そこで、なによりも必要となってくる条件は、「本番当日まで、稽古場を取りまとめられるかどうか」であり、
平田さんの5要素で言うならば、リーダーシップが重要であったわけです。


私は、演出家に必要とされるこの5つの要素は、演出を取る環境や立場によって、重要度が変わると考えています。



◆サークルの演劇部で演出を取るケース:『リーダーシップ > 世界観 > 構成力 > 説得力 > 方法論』

=考察=
とりあえずリーダーシップがあれば、みんなが付いてきて来てくれるので作品は作れます。
演出家にイメージ(世界観)を言葉にする力(説得力)はなかった場合も、
演出家が悩んでいると、時間がもったいないので、とりあえず先に進もうとなります。
作品に音楽を入れると、作品はそれっぽく(構成力)見えてきます。
どうやって作るか(方法論)は、先輩が伝統的な練習方法を引き継いでるので、上級生が指導してくれます。



◆自分で戯曲を書いて演出するケース:『 世界観 > 説得力 > 構成力 >リーダーシップ > 方法論』

=考察=
演出家が自身で書いた作品なので、作品に対するイメージ(世界観)は、誰よりも持っているはずです。
構成力がなかったとしても、構成に問題があれば、世界観が壊れるわけですから、
演出家が妥協せずに言い続けているうちに、演出家の理想の構成へ近づきます。
感じ取った違和感を言葉にすることができなくても、作者が違うと言えば、それだけで説得力があります。
集団をまとめる必要はありますが、もともとその作品がやりたくて集まってきてるのであれば、協力は得やすいです。
方法論は語れなくても、演出家が世界観を語ることに終始すれば、あとは役者が自分で形にするしかなくなります。



◆他人の戯曲を演出する(私がダメだと思う)演出家のケース:『方法論 > 説得力 > リーダーシップ > 構成力 > 世界観』

=考察=
演出家という特権を振りかざし、役者に言うことを聞かせます。
メソッドなどの演劇の方法論を持ち出し、その方法論の説得力で、役者を黙らせます。
演劇的約束事項に基づいて芝居を作り、作家の描きたかった世界観から離れても、修正できません。
最終的に台本を読んだときの印象と全く違う作品になっても、役者の技量が備わっていないからだと考えます。



◆他人の戯曲を演出する演出家(私)のケース:『 世界観 > 構成力 > 説得力 > リーダーシップ > 方法論』

=考察=
私は、作品から感じ取ったイメージ(世界観)を何よりも優先します。
方法論は万能ではないため、特定のメソッドに準じて演技指導をすることはしません。
方法論は必要なときに引き出せればいいので、知識として覚えておけばいい程度に考えています。
演出がやりたいことを明確に言葉にできれば、方法論を演出が言わなくても、行きたい方向に自然と集約するものです。

リーダーシップは必要ですが、私はリーダーシップを前面に出した演出は控えるようにしています。
リーダーシップに頼りすぎると、役者は、演出家の見ていないところで、手を抜くようになるからです。

人を動かすのは、最終的には人間性なのかも知れませんが、
演出家が自らの人間性を武器としてとらえるのは、作品と真摯に向き合う上で邪魔になると考えています。

このケースでは、演出家が作品を書いたわけではありません。
本を書いた演出家に比べて、本を書いてない演出家の説得力は自ずと落ちます。

現場では、役者にどう作りたいのかを誠心誠意説明して、演出家のビジョン(世界観)を積み上げなければなりません。


さて。

私が考える演出家としての理想の姿は、最後のケースです。

演出家は独自の世界観を展開する前に、作家の世界観を大切にします。
しかし、演出家の世界観は、作家の世界観とイコールではありません。

そこで演出家は、作者と違うスタンスで、作品と向き合う必要があると思っています。

では、そのスタンスの違いとは、どういったものなのか。


●自分で本を書いて演出する演出家は、作品を書き始めた時点で、物作りがスタートします。
そのため、実際に舞台を演出する場合は、それを忠実に具現化することを優先されるのだと思います。

戯曲を書いた作家は、おそらくすべてのシーン・すべての登場人物を愛しているでしょう。
だからこそ、どこも省略なんてできないと、考えていると思います。


●対照的に他人の本を演出する演出家は、台本を手に取った段階で、物作りがスタートします。
作品として形にすることはもちろんですが、
作品自体がどう輝きを放っているのか、どこが魅力的なのかを、第三者的にとらえることができます。

そのため演出家は、作品の本質をとらえられれば、ある意味、ト書きに縛られずに作品を省略していく事もできるのです。


これは、戯曲を削ると言うことではありません。
戯曲を削るということは、楽譜の音符を削ることと同じだからです。

すべての言葉を拾いつつ、その解釈から、作品の見せ方を変えるのです。


例えば、「主人公がたたずみ、天を仰ぎ、一筋の涙が頬を伝う」と書かれているとします。


それを瞬間を客席に見せるのか、あえて後ろ向きで見せないのか。
はたまた、鼻をすするのか。それとも、涙をぬぐった手だけを見せるのか。

作品の本質をとらえることができれば、あえて見せないという選択肢を選ぶことも可能だと思うのです。


それが、私の言う『省略』です。


私は、演出家というのは、正解か不正解かをジャッジする仕事ではないと思っています。

好きか嫌いかを言うだけでは、不十分ではないかと思っています。
演劇的にありかなしかを判断するだけでは、ダメなのだと思うのです。

演出家は、『なにが自分にしっくりくるか。』を自信を持って示し、それを役者や観客と共有していかなければなりません。



そのためにも、作者が作品で何を描こうとしたのか、何が魅力的なのか、作品の魅力の本質を理解すること。
そして、なぜこの作品を演出したいと思ったのか、初読で何が面白かったのかを、最後まで忘れないことが重要です。


私はここのところ、なぜか美術史について書いてきました。


日本美術は欧米の画壇に、多大な影響を与えました。

欧米の絵画が追求してきた『写実性』に対し、日本画が追求してきた『精神性』が新鮮なものとして受け入れられたからです。


そして、その『精神性』を表す言葉として、日本画の世界には『写意』という言葉があります。


『客観写意』:対象が輝きを放った、対象本来が持つ魅力(生命力・気品)=対象の本質を表現すること
『主観写意』:対象を描きたいと思った、書き手がすくい上げたい対象の魅力=画家の精神を表現すること

日本画における『写意』の考察は、なぜか美術史、そのうち芝居(6)に書いております。



演出家は時として、リアリティを追求したくなります。
しかし、リアルに作るところに、演出家のオリジナリティはありません。

演出家は時として、独自のオリジナリティを盛り込む事を優先したくなります。
しかしそれが、作者をおざなりにした独自の解釈であるならば、演出家のオリジナリティと呼ぶべきではありません。

演出家はそんな時に、この『写意』という言葉を思い出すべきだと思うのです。


『写意』は、演出家が原点回帰するきっかけを与えてくれるからです。

そして、この『写意』があるからこそ演劇は芸術となるのだと、私は思っています。

最後に、なぜか美術史、そのうち芝居(7)でも書きましたが、日本画の大家、横山大観は、朝日新聞の取材にこう答えています。

>(前略)富士の形だけなら子供でも描ける。富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。
>心とはひっきょう人格に他ならぬ。それはまた気品であり、気はくである。
>富士を描くということは、つまり己を描くことである。
>己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描かねければならぬ
                              (大観「私の富士観」『朝日新聞』昭和29年5月6日より引用)


私が演出家だからこそ、すくい上げられた、日本人の心がある。

そう自負できたならば、他人の戯曲を演出する私のオリジナリティは、自ずと作品に備ると言えると思うのです。


私のオリジナリティは、きっとそこにあると思うのです。
三の丸尚蔵館「内国勧業博覧会-明治美術の幕開け-(第1期:2012/4/21~5/13)」
以前になぜか美術史、そのうち芝居(6)で伊藤若冲の動植綵絵について、書いたことがありました。

>Wikipediaの動植綵絵によると、「動植綵絵」は、若冲が臨済宗相国寺に寄贈したものですが、
>明治22年に相国寺から明治天皇に献納され、その下賜金1万円のおかげで、
>相国寺は廃仏毀釈の波の中も、1万8千坪の敷地を維持できたそうです。

この「動植綵絵」を所蔵しているの博物館が、皇居東御苑内にある三の丸尚蔵館です。

皇室は、献納された美術品を所有しているだけではなく、
院展などの美術展で買い上げた美術品など、多くの文化財を保有していました。

私が小学生の時に、昭和天皇が崩御されましたが、
その時、皇室所有の美術品の一部が、国庫に寄贈されたのです。

そういった美術品を一般公開してくれているのが、三の丸尚蔵館です。

三の丸尚蔵館 / 内国勧業博覧会-明治美術の幕開け-
(第1期:2012/4/21~5/13)(第2期:2012/5/19~6/10)(第1期:2012/6/16~7/8)



武士の時代が、いよいよ終わろうとした明治前期。
最後の武士の戦いである西南戦争開戦の1877年に、第一回内国勧業博覧会が行われました。

当時の日本は、武士の時代が終わることで日本刀や武具を作ってきた職人達は働き場を失い、
諸大名が多額の資金で支えてきた日本芸術も、大口顧客を失い、衰退の危機にありました。

そこで内務卿であった大久保利通は、西洋化の波に日本の技術がこのまま飲み込まれてしまうのではなく、
積極的に欧米の技術を取り入れ、新しい産業を興こす必要があると考えたのです。


そんなわけで、今回は明治初期の日本芸術展なわけです。

今回の展示会では、並河靖之(なみかわやすゆき)の七宝(しっぽう)が展示されるという事で、行って参りました。


まずは、荒木寛畝の孔雀之図から。

《孔雀之図(くじゃくのず)》荒木寛畝(1831年-1915年)筆 三の丸尚蔵館蔵
《孔雀之図(くじゃくのず)》荒木寛畝(1831年-1915年)筆 三の丸尚蔵館

実物は、こんな色あせた羽ではありません。

孔雀の羽の青さが、圧倒されるほど鮮やかでした。
サイズも襖(1.8M×1.8M)以上はあったと思います。

でも、正直どうも私には、ぴんと来なかったんですよね。

今回は友人のO川くんも一緒だったのですが、
友人曰く、「あれほど尾っぽを振っているのに、足の踏ん張りが足りない気がする。」との事。

確かに。


私の感想としては、孔雀の羽の付け根から尾びれの部分が、ダイナミックに展開しているわけですが、
この羽の広げ具合からいくと、孔雀からはさほど離れず、魚眼レンズで孔雀をとらえたような視点で描かれている気がするのです。

この作品も1~1.5mの距離で見ると、一本一本の羽が信じられないぐらい細密に描かれているのですが、
実際目に飛び込んできて、印象に残るのは『羽だけ』なんですよね。

ただのひいき目かも知れませんが、私は長沢蘆雪や円山応挙の孔雀の方が好きです。

蘆雪の孔雀の方が、気品そのものが、伝わってくる気がするんです。

右下にいる孔雀も、蘆雪なら描かない気がしました。



《蘭陵王置物(らんりょうおうおきもの)》海野勝(1844年‐1915年)作 三の丸尚蔵館蔵
《蘭陵王置物(らんりょうおうおきもの)》海野勝(1844年‐1915年)作 三の丸尚蔵館


すっごい細かいです。

見てると、頭が痛くなってくるぐらい、細かいです。

友人は「秋葉原のフィギアに通じる物があるよね」と言っていました。



さて。

面白かったのは、大蔵省印刷局の國華余芳(こっかよほう)です。


國華余芳(こっかよほう)とは、「受け継がれるべき国のすぐれた宝」の意味。

これは正倉院御物や伊勢神宮神宝などの収蔵物を印刷した美術品図集なのですが、
印刷に使われた石版印刷の技術が、とんでもないのです。

実際に見たページの画像が見つからないので、他のページの画像をご紹介。

《國華余芳-正倉院御物(こっかよほう)》大蔵省印刷局
《國華余芳-正倉院御物(こっかよほう)》大蔵省印刷局

《國華余芳-伊勢神宮神宝(こっかよほう)》大蔵省印刷局
《國華余芳-伊勢神宮神宝(こっかよほう)》大蔵省印刷局

なんと13版の多色刷り印刷。

当時の偽造紙幣対策として、大蔵省が本気を出せばここまでやれると内外へ示すために、
技術のすべてをつぎ込んで大蔵省が印刷したものの、あまりのできのすごさに、
この技術で偽造紙幣を作られると、偽造紙幣を防ぐすべがなくなると公にされなかった、歴史に埋もれた技術なのだとか(笑)

これは、すごい。

印刷物なのに、3Dかと思いました。


しかも正倉院の収蔵物は、欠損部分を修復した状態で印刷したものもあるとのこと。
写真ではなく石版印刷だからこそできたのでしょうけど、正直、今のCGでも、ここまで質感を再現できないと思います。


さて、


私が見たかった並河靖之は、第2期(5/19~6/10)の展示で、今回はありませんでした。

「展示替えの期間は、お休みです」ではなくて、「会期を3つに分け、展示替えを行います。」と書いて欲しかった・・・。



行ってみて思ったのですが、意外と狭いのですね。今回展示されていたのも、11点。

ちなみに入場料は無料です。

休館日が多いですので、行かれる場合はご注意下さい。

三の丸尚蔵館 休館日カレンダー
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/sannnomaru-close.html
コントと演劇の笑いの違い(2)
松尾スズキさんとラサール石井さんの、
コントと演劇の違いについての対談について書いて下さっているサイトを見つけました。

私がまさに読みたかったやつです。

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「いやしのつえ」~君にホイミを僕にはべホイミを~
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iyatsue/ ←「いやしのつえ」さんのトップページ

「コント」と「コメディ」と「笑いの多い舞台」の違い
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20061024 ←こちらのページからの転載
==================================


演技でいいから友達でいて―僕が学んだ舞台の達人 (幻冬舎文庫)演技でいいから友達でいて―僕が学んだ舞台の達人 (幻冬舎文庫)
(2006/10)
松尾 スズキ

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「演技でいいから友達でいて~僕が学んだ舞台の達人」松尾スズキ著・幻冬舎文庫


ラサール石井 × 松尾スズキ (下記・部分転載)

◆松尾:ところで石井さんは、コントとコメディと笑いの多い舞台の違いを、実際すべて経験している人間として、どう捉えているんでしょう?

◇石井:まずやっぱり、コントは時間的にも内容的にも圧縮されてますよね。で、笑わせることをまず目的としている。その度合いがいちばん強いのがコントですね。でもリアリティーは絶対なきゃいけない。下手な漫才が会話に見えないから笑えないのと同じように、リアリティーがないと絶対に笑えないから。ただ、その振幅の幅は極端なほうがいい。技術的に言うと、声が大きいほうがいいとか、できるだけ正面を向いたほうがいいとかね。コントは長くても15分だから、芝居をやるときみたいに、最初はわざとシリアスなトーンで入ってみるとか、ものすごく日常的な設定を見せるとか、そういう演劇的なことをやっていると、笑いまで届かない。笑いを求める度合いが強いだけに、その辺は省いていかないと。

◆松尾:コメディはどうですか?

◇石井:ある程度筋があるから、ストーリーに沿って進みますよね。そこでちょっと日常的なことは出てきますけど、まあコメディだったら、CMネタを言っても楽屋落ちがあってもOKだし、演者が先走っていることがあってもいい。でも、それが「笑いが多い芝居」ということになると、「そこにいるその人はそれは言わないだろう」っていう最低限のルールを守らないといけないと思うんですね。あえてそれを壊す喜劇もあるだろうけど、そしたらそれを満たすだけの計算が随所にないと、演劇として成り立たないから。いずれにしても、どれをやるにしろリアリティーは必要で、そのためには芝居がちゃんとできないとダメですよね。よく、コントと芝居は別だと思ってる俳優さんに、「僕もコントがやりたいな」なんてふざけて言われるんだけど、「いや、あなたはその前に演技をやったほうがいい」って、僕はいつも思うんですよ。

◆松尾:コントが上手い人って、基本的に芝居も上手いですからね。

◇石井:芝居をちゃんとしないと、人は笑わないんですよ。僕はときどきコントのワークショップをやるんだけど、だいたいいつもやる設定は、学校をエスケープしようとする不良学生と、それをやめさせようとする真面目学生。それをアドリブでやらせると、まず不良学生がそこに居ようとするんだよね。2人がそこにいることが予定調和になってしまって。で、「不良学生はエスケープしたいんだから、行けよ」って言って、袖のほうに行かせると、今度は真面目学生がそれをボーっと見てる。だから「それじゃダメだよ、止めなきゃ」って言って、引き留めさせて、「学校のどこがつまんないんだ?」とかいろいろ質問させて。ちなみに、さっきのコントとコメディの違いで言えば、このとき袖の近くで引き留めても、そこでそのまま芝居を続けるのがコメディ、不良学生をそこから中央にいちいち引っ張ってくるのがコントですよね。

◆松尾:なるほどなあ。

◇石井:ワークショップでは、そうやって僕がああしろ、こうしろって指図しながらコントを続けさせて、参加者はその間を覚えていくわけなんですが、じつはこれ、コントの練習じゃなくて、芝居の練習なんですね。要は、常にどうリアルさを保っているかっていうことなんですよ。芝居のワークショップとして、コントを使っているんですよね。

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コメディって、最近あまり聞きませんよね。Wikipediaのコメディには、このような記載があります。

>喜劇(きげき、英語:Comedy)とは、人を笑わせることを主体とした演劇や映画、
>ラジオやテレビのドラマ作品や、それらのなかの笑いを誘うやりとりを指す。コメディとも言う。

>ただしコメディの西洋における元義は、悲劇の対照を成す意味での演劇である(例えばギリシア悲劇に対するギリシア喜劇)。

>従って本来は必ずしも笑えるものだけを意味するとは限らない。
>例えば、ダンテの『神曲』も原題は「La Divina Commedia」であり、
>日本語で通常の直訳では「神聖な(もしくは神の)喜劇」となるが、笑えるものを意味しているわけではない。



ラサール石井さんは、『コメディ』と『笑いが多い芝居』の違いの部分で、

>それが「笑いが多い芝居」ということになると、
>「そこにいるその人はそれは言わないだろう」っていう最低限のルールを守らないといけないと思うんですね。

と書いて下さっています。

そうなんですよね。「そこにいる人は、それは言わないだろう。」という演劇が、ほんと多いんですよね。


ラサール石井さんの発言を読んで、『コントは設定を説明するものだ』というとらえ方は、間違っていたと感じました。

あくまコントは、時間的な制約が大きいため、
笑いに到達するまでの省略を追求した結果、説明するという選択肢に至ることがあるという事なのですね。

その他の部分は、私が常日頃感じていた部分と同じため、すとんと落ちました。

いやぁ。やっぱりすごい。


私がかつて書いた、
コントと演劇の笑いの違い(1)コントを演劇的に見るも、よろしければご覧下さい。
観客は、ありかなしを見抜いている
うまい役者さんって、いますよね。

普段お芝居を観ない人であっても、うまい役者さんと、へたな役者さんの違いは、なんとなくわかるものです。

言葉にできないだけです。

その人の言う『うまい』が、本当にうまいのかは、わかりませんよ。


では、へたな役者さんは駄目なのかというと、私はそうではないと思っているんです。
へたであっても観客に受け入れられる、『ありな役者さん』もいるからです。


  台詞回しがへたであっても、感情表現がへたであっても、その世界の住人として存在しているなら、ありです。
  台詞回しがうまくなっても、 感情表現がうまくなっても、 その世界の住人としていられなかったら、なしです。


それでは、聞いて頂きましょう。

映画「2001年宇宙の旅」のテーマ:R・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラはかく語りき」



想像を絶する、へたくそさ加減です。


でも、もしありかなしかを問われれば、

私的には、これは「あり」です。
1.2.3.4.5.6...
中国の教科書を撮影した画像なのだそうです。ネットサーフィンしてて見つけました。

一、二、三、四、五、六・・・。


中国式の数の数え方

六?

六!!?

七!!!!!!!!?


・・・両手使えよ。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)の続きを書きます。


私が縁あって文学座の林田一高さんと出会ったのは、2005年の事です。
私が林田さんの演技を見た時の印象は、『なんて自由な役者さんなんだろう。』というものでした。

私の言う『自由』は、身勝手とは違います。

『舞台の上でのびのびと魅力を発揮できる状態にあること』という意味合いが近いかも知れません。


役を演じているにもかかわらず、
板の上でこんなにも解放されている役者さんに、これまでに出会ったことがなかったのです。


舞台上の役者は、色々な制約を踏まえて演技をします。

私は後先考えず、本番で稽古場と違うことをやる役者を、好きではありませんでした。


しかし、一見作品を壊してると思った役者が、稽古場より輝いてしまうケースもあります。
本番でより輝く役者を見るたびに、演出家としての力不足を感じたものです。


では、どうしてその役者は、本番の方が輝いたのでしょう。


役者も演出家も、作品を作る時に台本解釈をします。
台本には、その役が何をするか、そして何が起きるか、それに対してどう思うかなど、色々なことが書いています。

どうやって役作りをして良いかわからない役者さんは、
台本を読んだ後に、『どうやるか』を決めて、決めた事を反復練習しているうちに本番を迎えてしまいます。


『役作りをする事』=『段取り(どうやるか)を決める事』 と思っているのでしょう。


役者さんは、稽古中は不安でしょうがありません。

その不安を解消するために、何が起きるか把握するわけですが、
それだけで安心できない役者は、本番に向けて『制約』をたくさん決めるのです。

決めごとが増えると、役者は安心するからです。
そして、舞台上で一人で勝手に安心して、必要なリアクションを取り忘れる。

例えば、ボールが飛んでくることがわかっていれば、それだけで良いのに、自分がどう投げるかに必死になる。

自分も投げるという決めごとに安心して、相手のボールを受けることをしなくなるんです。
相手のボールを受けてないのに、自分のボールを勝手に創造して、自分の順番が来たから相手に投げてしまうのです。

アクション(相手が投げる)に、リアクション(自分が受ける)をしないで、
アクション(相手が投げる)に、アクション(自分が投げる)で返してしまうわけです。


段取りを1つ決めると、役者にとっての制約が1つ増えた事になります。
しかし、この段取りが役者を固くし、役者の自由を奪っているわけです。

自分で首を絞めてしまっているわけですね。


もちろん、お芝居には段取りが必要です。

しかし、私の考える段取りとは、
舞台上で接触事故が起きないためと、観客にとってわかりやすい位置で演技するためのルール作りです。
演技そのものが、段取りではないんです。

役者の方は、演技が段取りになっていると言われたことはありませんか?
段取りではなく、初めて感じたようにリアクションしてほしいと言われたことがありませんでしょうか。

もしこのダメをもらって、初めてリアクションしたように段取りを決めたのなら、結局はだめなのです。
演技を段取りにした時点で、役者の自由は奪われてしまうからです。

段取りにしない方法を、選択しなければなりません。



演技を段取りとすることの弊害は、役者の自由を奪う事だけではありません。


演技を段取りにする役者さんは、
漫画のコマのように、象徴的なコマを印象的に描けば、滑らかにつながると勘違いをしています。

物語の始まりから終わりまで、いくつも点を打って、
その点をより細かく打つことができれば、一人の人格として見えてくると信じているのです。

そういう役者さんは、演技のうまさを、
どれだけ多くの点を打てたか(どれだけアクションしたか)で決まると思っていたりします。



私たちが生きている世界は、連続した時間が流れています。
役者は物語が始まったら、その連続した時間を役として演じきらなければなりません。

ただし、人が日々感じている『時間』は、あくまで切れることなく続く線であって、コマの連続(点の連続)ではありません。


アクションの連続(点)で演技をつないだ場合、
AアクションとBアクションの間に、その役として、その空間に居続けることができなくなってしまうんです。

AアクションとBアクションの間に、何もしないでその場にいるケースや、
Bアクションを身構え体を硬直させ、相手の演技を全く見えていない場合もあります。

相手のアクションに、アクションで返すのではありません。
相手のアクションに、リアクションするのです。

リアクションは、反応・反射であり、段取りでは決してないです。


点を打つという行為は、点と点の間に隙間を作ります。その隙間が、役者が素に見えてくる瞬間なのです。

その点と点の隙間を埋めることができなければ、結局は、段取りは100決めようが、1000決めようがダメなのです。



私もかつて、役者が安心するようにダメ出しで、どんどん制約を作っていく演出家でした。
役者はどんどん安心していくので、演出家を信頼していきます。

一見、順調に芝居ができあがっている気がしますが、
ある瞬間に、演出家に何か言ってもらえないと、全く動けなくなっている自分に、役者は気付くのです。

そして、なぜ稽古すればするほど、つまらなくなっていくのだろう。
なぜ自分は、やってて楽しくないのだろうと思いつつ、本番を迎えてしまいます。


そして本番で開き直って、役者が稽古場と違うことをやるわけです。


私が思うに、自分で本を書いている演出家さんは、世界観をしっかりと持った上で、演出をします。
そのため、演出家がうまく言葉にできない事象が現場で起こったとしても、何を描きたいかがぶれないのです。

反対に、他人の戯曲を演出する演出家というのは、
演出家が持ってる技法や知識で役者の不満を押し切って、作品を作ってしまう割合が高い気がするのです。

演出家は、本番に向かってダメを積み重ね、どこまでいけたかで勝負しているわけではありません。
描きたかった世界を、描けているかどうかが勝負なのです。

そのためには演出家は、役者の魅力を引き出し、その上で作品の魅力を引き出さなければなりません。


そのできあがった作品自体が、他人の戯曲を演出する演出家だからこそ描ける作品でなければならない。


長くなってきたので、分割します。

次回は、『他人の戯曲を演出する演出家が持つべき視点』について書いてみます。



他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(4)へ続きます。
表参道ヒルズ 『清川あさみ・美女採集』 2012/4/27~5/6
美女採集・広末涼子×孔雀
◆◇美女採集・広末涼子×孔雀◇◆

表参道ヒルズで開催されている、清川あさみさんの『美女採集』を見てきました。

清川あさみさんの存在を知ったのは、2012年の2月5日の情熱大陸なので、比較的最近です。
その後、4月21日放送のナツメのオミミにも出演されており、そこで作品展があることを知りまして、行って参りました。

>『美女採集』には、上戸彩、加藤あい、佐々木希、寺島しのぶなど美女35人が並ぶ。清川がお気に入りの美女を「採集」。
>美女に似合う動植物のイメージで撮り下ろした写真に清川がCGを施し、紙焼きに糸やビーズ、
>布などでコラージュしていく作業は、まるで「写真を縫う」ようだ。 《朝日新聞デジタルより転載》



清川あさみさんは、もともとファッション誌のモデルをしていましたが、
自分がモデルとして表現できる美よりも、より幅広い表現をしたいと感じたことから、作り手側に回ったのだそうです。


清川さんの美女採集の特徴は、写真に針と糸で刺繍をする点にあります。


写真撮影自体は、カメラマンさんにお願いするのですが、傍らでポージングを指示します。
衣装は、布地をモデルさんの体にあてて仮留めを行い、その場で大胆にハサミを入れます。


写真に刺繍をする際は、下書きなどはせず、一気に針を突き刺します。
頭の中にイメージがあるため、ちょっとした合間に断続的に作業をしても、完成形はぶれないのだそうです。

ご存知なかった方は、ここを見ると良いかもしれません。 《朝日新聞デジタル(画像あり)へリンク》


画像を見ながら読んでいただくとわかりやすいとは思うのですが、
今回は納得いく画像を見つけられなかったため、文章だけで行くことにします。



とても面白かったです。

印象に残った作品について感想を書きます。

◆◇宮崎あおい×タヌキ◇◆ ←おすすめ
非常に驚いたのは、椅子に座った宮崎あおいさんの膝の上にチワワがいる点です。
清川あさみさんの作品の特徴は、採集対象を動植物に例えて、その美を引き立てる点です。
そこでやってしまうのは、対象を安易に動植物に近づける事だと思うのです。
動植物に例えるのに、違う動物がなんと作中におり、かつ、タヌキとチワワの接点はない。
それなのに、宮崎あおいさんの姿は、タヌキに見えてくる。
チワワを抱かせた点に、清川さんの自分の感性に対する自信を感じました。


◆◇相武紗季×ワニ◇◆ ←おすすめ
作中にワニを象徴する物は、対象がまとっている布地の模様程度。
作中には、花がいくつも咲いています。
正直、咲いている花とワニの共通点が、さっぱりわかりません。
それなのに、相武紗季さんは、ワニに見えてくる。
被写体の魅力を引き出せば、ワニである説明は、一切いらないと言うことでしょう。


◆◇堀北真希×グッピー◇◆ ←おすすめ
こちらも、画面に水草が漂うのみ。
それなのに、堀北真希さんは、グッピーに見えてくる。
この作品の好きな点は、手が込んでいない点です。
私は、物の本質をとらえると、手数は減っていくと考えています。
最小の仕事で、最大限の効果を生んでいる、すばらしい作品だと思います。


他にも惹かれた作品は一杯あるのですが、逆に『うーん』という作品も。


◆◇本上まなみ×フクロウ◇◆ ←ちょっとだけうーん
背景はきらびやかなビーズで、星が瞬く夜を表現していますが、
正直、なくてもいい気がしました。
星がきらめいている事を、作品が説明し始めている気がします。


◆◇剛力彩芽×キノコ◇◆ ←うーん・・・。
作中にお菓子の家のようなかわいらしい小屋があり、
煙突やら、そこいらに、キノコが飛び出ています。
キノコだらけに刺繍して、本人もキノコですと言われても、確かにそうでしょうけど・・・と口ごもりたくなります。
だいたいキノコって分類が、広すぎる気もするのです。
マッシュルームなり、しめじなり、なめこなり、全然違いますよね。

やっぱり、あれですかね。『剛力彩芽×なめこ』だと、事務所的にNGだったんでしょうかね。


他にも魅力的な採集が満載なのですが、全体を見てみて、
私の好きな作品と、そうでもない作品に分かれたので、なぜなのかを自分なりに整理してみました。


●私の好きな作品は、『採集対象の体部分に、大胆に針を入れている』

いくら写真といえども、人間の体に針を刺すという行為は、潜在的になんらかの抵抗があるのだと思うのです。
それでもかつ、躊躇なく採集対象の体に針を刺し、刺繍を施している作品は、刺繍そのものに迷いがないように感じました。

上記は、刺繍の一部が延びて対象の体にかかっている作品ではく、体の上に堂々と刺繍を行っている作品のことです。

刺繍を行うということは、刺繍した部分が、写真より浮き出て見えます。
つまり立体化された部分は、他の平面的な部分より、主張してきます。

私が惹き付けられた作品は、
立体化された刺繍が前面にあり、背面には写真におさめられ平面化された採集対象が存在しているわけですが、
作品としてみたときに、背面にある採集対象が、刺繍よりもさらに前に主張してくるのです。

これは、『清川さんの刺繍が採集対象の魅力を引き出した』と言えると思います。


●それに対して、採集対象の体部分に大胆に針を入れていない作品は、採集対象の背景である周辺部分が、
刺繍によって自己主張をし始め、結果的に採集対象の魅力は、刺繍の後ろに埋もれてしまっていると感じたのです。

これは、パソコンの画面で見ても判別できないでしょう。
実際に作品を、その目で見ないとわからない。

美女採集をパソコンの画像で確認した場合、刺繍部分の立体感が、写真と同一の平面となってしまうからです。


画像であっても、色彩の美しさと、採取対象と作品世界の一体感は少しは感じ取れるかも知れませんけど、

実物は、こんなものじゃない。


今回の作品展では、一部の作品の裏側も見ることができました。
作品を、裏から見ることができるのです。


その縫い筋の美しいこと。



是非、見に行っていただきたいです。

表参道ヒルズの作品展は、会期残りあと1日ですけどね・・・。



ただ、一つ不満だったのは、今回初展示となった初の男性モデルバージョン『男糸(だんし)』です。
確かに刺繍はきれいなんですけど、例えが動植物ではなく歴史上の人物なのです・・・。

◆金子ノブアキ×ミカエル
◆松坂桃李×森蘭丸
◆永瀬正敏×親鸞


ミカエルも親鸞も宗教がからんでしまってますが、
日本の艶っぽい男を大天使ミカエルと言われて、世界の人はどう感じるのでしょうね・・・。

森蘭丸は・・・戦国無双の森蘭丸でしょうか。それとも、戦国BASARAの方ですかね・・・。


やっぱり、人を人(?)に例えちゃうのは、少々無理を感じました。


私は、美女がいいです。
私は、美女がいいです。
全力でだましてあげるべきである
私が大学に入った頃、映画のタイタニックは作られた。

CGによって構成された船体は見事であったが、やはり『CGなんだよね』という思いが、そこにつきまとう。


映画は、演劇と同じように、所詮は作られた世界である。
作られた世界であるとわかって見ているはずの映画なのに、なぜCGという手法は、受け入れられないのか。


人は『思い描いた世界が、確かに存在していてほしい』とどこかで願っている。


例え映画が作られた世界だとわかっていても、さらにCGで描かれていると思うことで、
その世界が確かにあって欲しいと願う思いを、くじかれてしまうからではないだろうか。


少なくとも私は、どこまでがCGで再現されているのかまでは、知りたくなかった。
だましきって欲しかったし、だまされたままで良かった。


戦後、日本は焼け野原になったが、正義を問い直し、平和を願い、復興を信じた子どもたちが、今の日本を築いた。


未来のこの国のために、世界のために、いち戦隊ショーであっても、全力でだましてあげるべきである。



そして、できない日があっても、負けるなレッドよ。
人を惹き付ける立ち姿
稽古場で姿勢がおかしいと何度も指摘される人は、そもそも役者に向いてないんだと思います。
恐らくプロの現場では、姿勢がおかしいと指摘してくれる人なんて、いないと思うのです。

『立ち姿一つで、どれだけ品格を高め、どれほどの観客の視線を集める事ができるのか。』

私は板の上では自然と背筋が伸びます。頭で理解したなら、あとは本人の意識次第だと思うのです。

他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)が
=_=)まとまらねぇ。

追記:5/6に他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)をまとめました。
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