スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
贅沢を楽しむ -夏の終わりのハーモニー 玉置浩二 井上陽水-
今の日本経済を考えれば、消費を推奨するべきなのはわかっている。
しかし日本人は心のどこかで、『贅沢は敵だ』と思っていたりはしないだろうか。

贅沢を辞書で引くとこうなる。

【贅沢】
 贅沢とは、必要以上に金や物を使う事。分に過ぎたおごり。必要限度を超えていること。 (出典:語源由来辞典)


贅沢をする時は、人は、奮発(ふんぱつ)をする。

 しかし、奮発して、それで終わりになっていないだろうか。
 大切なのは、奮発した後に、それをしっかりと楽しむことだと思う。

 もし、奮発したこと自体に満足しまっていたら、それは少しばかり、心が貧しいのかも知れない。



そんな事を、タモリさんの発言を聞きながら考えた。



夏の終わりのハーモニー 玉置浩二 井上陽水

リクエストによる埋め込み無効のため、画面中央をクリックして、リンク先でお楽しみ下さい。



身に余るという謙虚さを持っていれば、
日本人は、もっともっと贅沢を楽しむ事ができると思う。

日本人だからこそ、この試練を乗り越えられる気がするのだ。
スポンサーサイト
クリエイティブに生きるその先に
『良い大学に行けば、幸福な人生を歩めるなんて幻想だ。』

この考え方を、私はいつ手に入れたのか、覚えていない。


学校教育の中で、そう教えられたのか、
それとも父が、そう言っていたのか。

社会への抵抗の意味で、自分にそう言い聞かせたのか。
はたまた、コンプレックスを持つ自分を弁護する意味で、そう言い始めたのか。


私は、いつのまにか、そう考えるようになっていた。




『人生は、お金が全てではない。』


これもまた、いつの間にやら、私が受け入れていた哲学である。



私は大人になっても「お金がある≠幸福である」という考え方は捨てなかったが、
ただ消費して終わる人生ではなく、クリエイティブに生きようと思うようになった。


私は自身のブログで、そのことについて触れている。

【生き方】クリエイティブに生きると言う事 (2010/06/10)



 しかし、私の中で、引っかかっていたことがあった。

 ふと、思い出す記憶がある。もう、何年も前の話だ。



誰の友人であったか知人であったか、もう忘れたが、
私は、友人が連れてきた大学生と、私の部屋で酒を飲んでいた。

その大学生は、
『自分は大学を出て、吉野家で牛丼を作るような大人になりたくはない。』と言い、
私たちは、『仕事に優劣はない。』と彼に説いた。


確かに私は、『仕事に優劣はない。』と彼に言ったが、
もしベルトコンベアで運ばれてくる荷物をトラックに積む仕事を一生しろと言われたら、
おそらく私は拒否するだろう。

『仕事に優劣はない。』と言った私ではあるが、
やりたい仕事と、やりたくない仕事は、確かにある。


では、お前は、なぜその仕事をやりたくないのかと、自らに問い直せば、


『別に楽な仕事を選びたいわけではない。
 クリエイティブでない仕事は、興味がわかないから。』という考えに至った。


  -でもそれって、優劣を付けているって事だよね。-


私は仕事に優劣を付けてしまっているのか。

いや、違う。そういう事ではない。


  ※荷物の運搬がクリエイティブではないと決めつけて済みません。そこは流して下さい。



父が好きであった言葉に、
『一隅を照らす、これ則ち国宝なり』(いちぐうをてらす、これすなわちこくほうなり)、というのがある。

天台宗の開祖、最澄の言葉である。

意味としては、

 花ならば、置かれたところで咲きなさい。
 中心で大きく輝かなくとも、片隅をしっかりと照らし続ける生き方は、国の宝である。


と言う意味になろうか。


私は、荷積みの仕事も、まさにこれだと思っている。


言ってしまえば、地味な仕事かも知れない。
しかし、一隅を照らしている人生であれば、今の私よりも、幸福に近いところにある気さえしてくる。



必ずしも、クリエイティブに生きる人生が優れているわけではない。

人は、輝いてさえいればいいのだ。



クリエイティブに生きると言う事は、
閃光のように眩しい輝きとなって、華々しく目に飛び込んでくるイメージがある。


しかし、例え地味な仕事をしていても、
大切な人を守ろうとし、他人の幸福をも願う人生は、優しい光を放っている。


震災で街のネオンは消えたが、
優しさと悲しみを分かち合った人々は、自らの中にある光に気が付いた。
その穏やかな光はぬくもりとなり、悲しみに寄り添った。
幸せは、確かにそばにあった。




 クリエイティブに生きるというのは、手段に過ぎない。



閃光でなくてかまわない。

穏やかに、そこにあればいい。


そうか。私は輝きではなく、ぬくもりを届けたいのか。
日本人だからこそ描ける世界
私は「開運!なんでも鑑定団」が好きで欠かさず見ているのだが、
最近、物の『価値』について、改めて考えた。


きっかけは2011年7月19日の放送で、中島誠之助さんが楽茶碗を
『本物に間違いないが、茶碗は60万。もし箱があれば180万でしょう』と鑑定したことにある。


茶碗は、謂れ(いわれ)が大事である。
それはわかる。


しかし、箱があるだけで120万も価格が変わることに驚いた。



↑楽茶碗とは、こういうものです。



さて、私は芸大を出たわけではないので、下記考察は、曖昧な部分を含むものだと思って読んでほしい。



茶碗の価値を決めるには、

 美的価値=そのものが美しいことに対する価値?(物によってはコピー可?)
 芸術的価値=創造されたオリジナリティに対する価値?(コピー不可?)
 骨董的価値=歴史的価値=文化的価値。年を重ねたことに対する価値?
 希少価値=現存数に対する需要の量によって決まる価値
 利用価値=茶碗として使用できるという価値
 資料的価値=学術的価値

などがあると思う。


楽茶碗そのものの美的価値・希少価値などに対して、
箱があることにより、歴史的価値・文化的価値が付加されるため、
今回の楽茶碗は、箱があれば180万に跳ね上がる。

また箱には、資料的価値もあるのかも知れない。



さて、西洋アンティークと東洋の食器(茶器)を比べると、
西洋アンティークの価値は、技巧の細かさでほぼ決まるのに対し、
東洋の食器(茶器)は、無造作に自然発生した美的価値を大きく重んじる傾向がある。


例えば、朝鮮王朝時代に作られた井戸茶碗。

日本でも国宝や重要文化財に認定されている井戸茶碗であるが、
もともとは、日常雑器である。

つまり、飯を食うために裏庭から掘った土で茶碗を焼いたら、
それが、今や国宝として美術館に入っているのである。



↑井戸茶碗とは、こういうものです。



井戸茶碗の魅力は、その無造作な自然美にある。

私は、茶器にそれほどの価値=美を見いだした日本人を誇りに思う。



さて、3月に東日本大震災が起き、
私は自分の中に、『価値』とは何かを問い直した。


お金って大事ですよね。
私も、お金は大事です。

でも、それはそれでいいじゃないですか。

でも、あの震災があって、
お金じゃない物も、大事だって気付かされましたよね。



では、私の作る演劇に、どのような『価値』があるのか。



それは、独りよがりなものではなく、
かといって、人に媚びるものでもない。

未だこの世にない、新しい芸術を生み出すことでもない。
かといって、失われたものを取り戻すものでもない。


私にとっての芸術とは、自然美の中にある気がします。


生きているってすばらしい。


このことを、作品に込めることができたら、素敵だと思う。



演劇は、所詮嘘です。

演劇の中で起こる奇跡は、人の人生を救うことはできない。

今回の震災で、私は演劇の無力さを感じました。



しかし演劇は、誰かの人生に、寄り添うことができる。

人の悲しみに寄り添い、明日への力となす事ができる気がする。


その時、私の演劇は人間賛歌となり、
はじめて、『芸術』となるのだと信じて頑張ろうと思う。


日本人の自分だからこそ描ける世界が、必ずある。


それを信じて、踏み出せ。俺。
台本を書き終えました。
ご報告致します。

2011/8/1に『辛酉年・文久秘記』を書き終え、
台本は、日本劇作家協会の新人賞に応募致しました。


今までに、台本を数本書いてきましたが、
誰の助けも受けず、完全に自分一人で本を書いたのは、今回が初めてでした。


実は、もっと簡単に書けると思っていたんです。
想像以上に、苦戦しました。


戯曲賞の結果発表は、2011/12月となります。
この結果を待つことはできないため、動き出さなければ。

ワークショップはいつ再開するのかと問い合わせて頂いたみなさま、
本当にありがとうございます。



まずは、ワークショップの再開からはじめたいと思います。


震災は、私の生き方を変えました。
私の予定は大幅に狂ったままですが、今一度、動き出せ、俺の心。


歩きながら、考えろ。
Copyright © 『すべて持ち込み可』. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。