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【演出論】つかこうへい氏の「口立て」法
2010年7月10日、劇作家で演出家の、つかこうへい氏が死去した。

『つか以前』『つか以後』とさえ言われる演出家、つかこうへい氏。
今回は、つかこうへい氏の口立て法(くちだてほう)について記述する。

私がつかこうへい氏の名前を知ったのは、大学生の時である。
当時、つかこうへい氏の熱烈なファンであった女性の役者に、
彼女が自主公演でやった、熱海殺人事件のビデオを見せられたのである。


 当時の私は、つかこうへい氏が、口立て法で芝居を作ることは知っていたが、
 つかこうへい氏が、どれほどすごい人物なのか、理解できていなかった。


口立て法というのは、
演出家が稽古場で台詞を言い、それを役者が同じように繰り返す。


つまり、『役者が演出家の言い回しをマネをして、作品を作っていく方法』である。


この方法、これだけ聞くと、別にたいした事ではない。

稽古場でも、演出家が台詞を言ってみせることはある。


つかこうへい氏の革命的な演出法は、
実は口立て法だけではなく、複数の要素で成り立っているのである。



◆1.作家が稽古場で演出を付ける。

つか氏がそもそも口立てを行ったのは、
演出に関して、全く知識を持たない素人だったからである。

つか氏は、大学在学中に、知人に頼まれ作品を書いた。
そもそも、つかこうへい氏は、劇作家として始まっている。

つか氏は、稽古を見たときに、役者が発する台詞に違和感を覚えた。
どうして自分の書いたニュアンスで、台詞を言ってくれないのだろう。

自分にとって、そのニュアンスではないと言う事を、言葉で説明できず、
自分で再現して、それを役者に言ってもらった。

これが、口立て法のはじまりである。



◆2.言葉には人それぞれの距離があり、その人に近い言葉で作品を作った。

つか氏は、千秋楽の幕があくまで、台本を変え続けるのも有名だ。

それは一見、芸術家の気まぐれのように思えるが、つか氏が台詞を変え続けたことには、根拠がある。


「まじで!?」


といきなり書いてみたが、
この「まじで!?」を、80台の病床の男性が言ったところで、絶対に嘘くさい。

「それは、真実なのでしょうか。」という台詞を、5歳の少女が言ったところで、絶対に嘘くさい。


言葉には、その言葉がその人にとって身近かどうかの『距離』がある。
日頃から使っている言葉は、その人にとって身近なフレーズであり、安定感があるのだ。

その言葉の距離を縮めるために、本来役者は努力するべきなのだが、
つか氏は、それを信じなかった。


たかだか、数十日の稽古で、言葉の距離が縮まるわけがない。


だったら、作家が稽古場にいるんだから、
目の前の役者の身近な言葉で、作品自体を書き直せば良いではないか。


この台本を書き直すという作業は、単に言い回しを変えるというわけではない。


作品のドラマを書き換えるのである。


つか氏の代表作「熱海殺人事件」は、まさに作品の背景のみならず、
登場人物の職業までも、一切合切書き換えたバージョンが存在する。

つまり、自分が選んだ役者にあわせて、
「熱海殺人事件」をベースに全く新しい作品を、何度も書き上げたのである。

いわゆるドラマを描くために役者がいるのではなく、
役者にとって身近な言葉で、その人にとってのドラマを、稽古場で書いていったのだ。



◆3.その人がそこにいれば、自分はいくらでも捨てられる。

私は良く「医者を演じる」という事を例に出す。

そもそも医者が出てくる作品では、役者は医者に見えなければならない。
そこで、医者じゃない人間が、医者に見えるにはどうしたらいいかを普通は考える。

これが、演出家の普通の思考だと思う。


つか氏は、違った。


つか氏は、演出家である前に、作家である。


つか氏は、そもそも医者に見える人であれば、
何を言わせても、何をさせても、その人は医者で居続けると考えた。

もっと言うと、医者じゃなくてゲイに見えるなら、
自分がゲイのドラマを書けばいいだけだと言うのが、つか氏のスタンスなのだ。


役者は自分の存在を信じ、そのままで舞台に立って良いと保証される。
台詞が言いにくいなら、何度でも作家が目の前で書き直してくれる。


しかしそれは逆に、役者は何も言い訳にできないという事でもある。


つか氏がそこまで役者のためにやってくれている以上、
役者は、その役に全力で情熱を注ぎ込み、
作品を成立させるために、一切の迷い無く、その役として居続けなければいけない。


しかし、それは役者にとって、至福の一時なのであろう。

だからこそ、役者の中には、つか氏の作品の熱烈なファンが多いのだと思う。


ではつか氏は、なぜ自分のドラマを捨てて、新しいドラマを書けたのか。


それはきっと「人」を信じていたのだと、私は思う。


いかに奇想天外な物語を思いついたかで勝負するのではない。

「そこに、その人がいた。」という事実からすべてが始まれば、
物語は、その人の魅力を引き出すエピソードに過ぎない。


人を描くためにエピソードを用意したつか氏は、「人を愛した人」なのだと、私は考えている。



◆4.大音量の音楽と、ダイナミックなストーリー展開でも破綻しない安定感。

つか氏の作品は、大音量の音楽と、ダイナミックな展開も注目されるが、
なぜそれが成立し、それが客席に大きなエネルギーとなってなだれ込むかは、
まさに、今までの部分に根拠がある。


役者の見た目も、声も、言葉も。すべてが、前提としてそう見えるのであれば。
舞台上でどんなにダイナミックにストーリーが展開しようと、物語は成立する。

こんな世界は、あり得ないとわかっていても、
その世界が目の前に存在する以上、人はそれを認めざるを得ない。

だからこそ人は、冷静な判断さえ捨てて直感的に心が動き、涙を流すのである。



そこに至った、つか氏は、やはりすごい人なのだと思う。




さて。逆説的に考えて見よう。

つか氏の芝居は、口立て法のみならず、
作家であるつか氏がその場にいて、ドラマさえも書き換えていくからこそ、成立するのである。


だからこそ、つか氏が死去した今、もはや、つか芝居は成立しない。


そう思っているからこそ、
「つかこうへい氏の作品を、今度やるんです。」と言われても、私は見に行かないことにしている。

つか氏がいないのに、つか氏の作品をやると言う事は、
普通の芝居の方法論で、つか芝居を作ると言う事だと思っている。


口立てで作りましたと言われても、私にとっては、全く魅力を感じないのだ。


つかこうへい氏の芝居は、残念ながら、もう見れない。


誰か、第二のつかさんになりませんか?


私には、この演出法は、マネできない。
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【おすすめ】会員制ラジオ番組 うまいっしょクラブ
北海道出身の面白い人と言えば、
最近は大泉洋さんの名前が出てくるのかも知れません。

チバテレビの再放送で私も『水曜どうでしょう』を見直して大いに笑わせて頂きましたが、
実は北海道には、すごく面白かった伝説のラジオ番組があったんです。

それが、『うまいっしょクラブ』通称うまクラ。

STVラジオで今も現役の、明石英一郎アナウンサーが、平日夜にやっていたラジオ番組です。


ブログでは硬い文章ばかり書いておりますが、
子どもの頃は、漫画やアニメやラジオが大好きな子でして、
今の私を作ってくれた、貴重な番組のひとつです。

ネットで検索すると、うまクラがいくつもヒットしますが、
あまりにシモネタ満載なのも多いため、普通に笑えるやつを、ひとつ貼っておきます。

よろしければ、息抜きにお聞き下さい。


会員制ラジオ番組・うまいっしょクラブ

※1度目は、コメント非表示推奨。動画再生後、右下[・・・]をクリックして[×]へ。


『かつて、北海道のSTVラジオで放送していた人気番組。
 家の中を整理したら当時笑い転げたネタばかりを編集したカセットテープが出てきました。
 喋っているのは明石英一郎アナウンサー、一緒になって笑っているのは、
 現在他局でレポーターをしている安達祐子さん。

【追記】 当時、釧路で「K」が付く高校は「湖陵」の他、
 「工業」、「江南」、「北」(現・明輝)と他に3校もあり、後日ボツボ13で突っ込まれていました。』

                                       (ニコニコ動画投稿者・コメント欄より引用)
【演出論】言葉を紡ぐ仕事
何年か前のNHKの「のど自慢」の年末総集編で、
外国人に対する評価が低いと審査に抗議した外国人の話を特集していた。

その時のNHK側の返答は、

「外国人だからといって、差別をしているわけではありません。
歌の心というのは、自分が気持ちよくなるためではなく、
聞き手を気持ちよくするものなのです。

外国人の方々は、どうしても自分が気持ちよくなるために歌っている方が多いため、
このような評価となっているのです。」

といったものであったと記憶している。


「いきものがかり」のVocal吉岡聖恵さんが番組のインタビューで、
歌う時は、聴いている人が感情を乗せやすいように、自分の感情はあまり込めないようにしている
と答えていたのを見たことがある。


吉岡さんも、言葉を伝えることに主眼を置いているのだと思う。


芝居を見に行くと、頑張ってる人がいっぱいいる。

人は、頑張っている人を応援したくなる。
しかしそれは、役ではなく、その人自身がそこにいたという事ではないだろうか。

役者である以上、役として板の上に立ち、
役者として、評価を受けるべきだと思うし、
私もその土俵で、演出家として勝負をしていきたいと思う。

私は自分自身の生き様とその作品の両方をもって、
人々に、明日を生きる力を届けたい。


愛と哀しみのボレロ - Les Uns et les Autres -
清水建設のテレビCMでかかっているクラシック音楽が思い出せず調べてみたところ、
フランスの作曲家ラヴェルのバレエ音楽『ボレロ』だったのですね。


そこで、なんでもいいのでボレロを聞こうとして見つけたのが、


愛と哀しみのボレロ - Les Uns et les Autres -(最大化もおすすめです。3:30~見てもいいかも。)



愛と哀しみのボレロ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
『愛と哀しみのボレロ』(Les Uns et les Autres)は、
クロード・ルルーシュ監督の傑作として広く知られる1981年公開のフランス映画。

1930年代から1960年代に渡りパリ、ニューヨーク、モスクワ、
ベルリンを中心とするフランス、アメリカ、ロシア、ドイツにおいて交錯する四つの家族の人生を描く。
作中ではジョルジュ・ドンによるバレエのボレロが強い印象を残す。

                                     (Wikipediaより引用)


一回見ただけで、思い切り引き込まれてしまいました。

踊っているジョルジュ・ドンの力もすごいのでしょうが、
振り付けを行ったモーリス・ベジャールも、世界的評価を受けている人のようです。


ちなみに、こちらは女性バージョン?

シルヴィ・ギエム - ボレロ - Sylvie Guillem - BOLERO - (With Tokyo BALLET)



シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem, 1965年2月25日 - )は、フランス・パリ生まれのバレエダンサー。

100年に1人の逸材とまで称される現代バレエの女王。

シルヴィ・ギエムは、ボレロを2005年の公演を最後に封印したが、
2007年に亡くなった天才的な振付家モーリス・ベジャールの追悼として改めて最後のツアーを行なった。

東京での公演は、2009年2月6日、7日と9日の夜。8日は昼(7日の昼が追加)

収録の公演は、2009年2月9日 東京 五反田 ゆうぽうとホール

                                     (YouTube投稿者・追記欄より引用)


シルヴィ・ギエム版も、これまた、すごいですよね。



では、ついでにもう一つ。

東京バレエ団「ボレロ」[モーリス・ベジャール振付]



『・・・』
【演出論】想像してもらい、それを超えていく事
芝居をする人は、劇場を小屋といい、
バンドをする人は、スタジオを箱という。

そもそも、その空間には何も無く、
そこにどのような世界を作り出せるかに、作り手は情熱をかける。



文章を読んで、
「イメージできるもの」と「イメージできないもの」がある。


何も無い空間に、世界を生み出すとき、
作り手の思いだけでは、実はどうしようもない。


 見る側の『想像力』が必要なのである。



物語は、大きく裏切った方がわかりやすい。

かといって、大きく裏切る事だけがすばらしいわけではない。



 展開がダイナミックな事がいいのではないのだ。

 想像を裏切り、なおかつ想像してしまうからこそ、面白いのである。



だからこそ、観客を一歩先に行かせる必要がある。
観客の集中を切らないために、緻密な作りこみが必要となるのである。



『想像していたけど、やっぱりあれは、これの複線だったのね。』

『想像していたけど、これってこうなっちゃうの?それで?』



観客の想像力の力を借りて、作り物が本物を超えていくのである。



想像してもらい、それを超えていく事というのは、
期待してもらい、期待に応えていく事と同じ気がするのだ。


だからこそ、次が見たくなるのだと思う。


自作のマリオっぽいステージのゲームを先輩方にやらせてみた(※音ありがオススメ)


↓続きも見たい人はこちら
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【私の生き方】いつ死んでも後悔するように生きる
先日のブログで『一期一会』に関して触れた。

実はあの話には、少しだけ続きがある。
今日は、そのことを記しておこうと思う。


 そこで、前回と同じ文章ではじめる。


私は好きな言葉を聞かれると『一期一会』と答えることにしている。

父がまだ生きていた頃に「好きな言葉はなんだ」と問われ、
私は、『一期一会』と答えた。

すると父に、「なんだ、普通だな。」と言われた。

そして、父はこう続けた。


「一期一会は俺も好きだ。
 だからこそ、いつ死んでも後悔しないように、俺は日々を一生懸命に生きる。」


と。


その時私は、しばらく考えて、こう言った。

『たぶん、僕と父さんは、考え方が違うんだと思う。
 僕は、いつ死んでも後悔するように、一生懸命生きる。』

すると父は、『なんだ、一緒じゃないか。』と言った。


父は、気持ちよくお酒を飲んでいたし、
私はその時、自分の違和感を言葉にする力を持ち合わせていなかった。
父と一緒と思われてもかまわないと、その時は、それ以上その話に触れなかった。

 父が言う、『いつ死んでも後悔しないように、日々を一生懸命に生きる。』
 私が言った『いつ死んでも後悔するように、 日々を一生懸命に生きる。』


一生懸命に生きる事は同じだ。では、どう違うのか。
今の自分ならば、言葉にできる。



そもそも、人は死ぬときに後悔はしたくないものだ。


父は、59歳という年齢で癌で死んだ。
『まだ生きたい』という強い思いを持ちながら、この世を去った。

それは、自分の死を受け入れることができず、短命である事を恨みながらの死であった。


私は、自分の死を受け入れられない父を批判するつもりはない。
しかし、父は、後悔するべくして、後悔したのだと思っている。


私も死ぬときは、後悔はしたくない。
それなのに、『いつ死んでも後悔するように生きる』とは、矛盾していると思われて当然だろう。

ただ、私には、私の考えの方が、結果的に後悔しない気がするのだ。



私は今までに、いくつもアルバイトを転々としてきた。
私のバイト仲間には、バイト先に対する不満を強く持っていて、
『辞めてやる。こんな会社潰れちまえ。』と言っている人を、何度も見てきた。

辞めて『やる』という言い回しには、
自分が辞めたことを『後悔させてやる。』という思いが込められている。


それを聞くたびに、
『別におまえが辞めたところで、会社は潰れたりしない。
 どんな会社も、誰かが辞めても、どうにかして続いていくものだ。
 そもそも、会社が潰れるときは、おまえが辞めなくても潰れる。』

と思っていたものだ。
と思っていたら、自分のバイト先が、誰も辞めないのに潰れた。


実は、この社会も同じである。
誰が死んでも、世界は続いていく。


私は、父の『いつ死んでも後悔しないように、日々を一生懸命に生きる。』という言い回しは、
今日をやりきったという思いを、自身が勝手に決めているように感じていた。

例え今日をやりきったとしても、明日をやり終えることができないなら、
それは結局、後悔するではないか。


しかも人は、終わったと思ったら、もっとやりたいという欲求が出てくるものだ。
そもそも1度の人生で、やりたいことをすべてやれる人生があるなど、私は信じていない。


私が言う、『いつ死んでも後悔するように、日々を一生懸命に生きる。』という言い回しは、
そもそも人生は、やり終えて終わるものではないという考えが、根底にある。


私がやり残した事は、他の人が引き継いでくれればいい。


その為に、私は一生懸命に生きる。

私のやりたいことを引き継いでくれる人がいれば、私は悔しいが、引退できる。



結果的に、いつ死んでも後悔するように生きた方が、結果的に後悔しないと思うのだ。



この事を、あの時の父に言葉にしてあげられなかった事は、私の後悔だ。

ただし、父から学んだ多くのことは、私が引き継いで、つないでいく。



だからこそ私は、つながっていく人生を選ぶのだ。


KAN『よければ一緒に』
【演出論】言葉における、明度と彩度
開運!なんでも鑑定団で西洋画の鑑定をしている永井龍之介さんが、
『鑑定団が3倍面白くなる!目からウロコの骨董塾』という番組で、
油絵具の明度について話をしていました。
(記憶をもとに書くので、事実と違った場合は連絡ください。)


まず絵具の種類についてですが、
そもそも、絵具というのは、顔料に何を混ぜるかで決まるらしいです。
そして、絵具に混ぜるものを、固着材と呼びます。


(顔料+固着材=絵具)


    水彩絵具:アカシア樹脂(ガム アラビック)を固着材に用いる絵具。
 水性テンペラ:卵、カゼインなどによるエマルションを展色材とする絵具。
     油絵具:乾性油を固着材に用いた絵具。

  ※展開材(固着材+溶剤) 詳しくは、Wikipediaの絵具を参照してください。


  ちなみに水彩絵具は水に溶け、油絵具は水に溶けないですよね。
  水性テンペラは水に溶けますが、乾くと重ね塗りができるらしいです。
  つまり、水性テンペラは水彩絵具と油絵具の中間の特性らしいです。



さて、絵具は時代と共に改良が加えられてきましたが、
絵画の世界に変革をもたらした、画期的な発明があったというのです。


実はそれが、『チューブ式の絵具』の発明。


では、なぜこれが、大きな変革をもたらしたのでしょう。


チューブ式の絵具が発明され、絵具を携帯できるようになった事で、
屋外で色を塗ることが容易なり、着色の為に工房にいちいち戻る必要が無くなったため、
風景画が多く描かれるようになったそうです。


携帯電話の普及が社会のありようを変えたのと、おそらく同じでしょう。

しかし、絵具を携帯できるようになったことだけが、すばらしかったわけではなかったのです。


チューブ式の絵具が生み出された事により、
着色の際に、実際にその風景を見ながらその場で色を塗れるようになったのが、
実は、現代絵画に大きな影響を与えたというのです。


 自然の風景は、光を浴びて、様々な色彩を放ちます。


画家達は、工房でスケッチしたときの色を想像して色を塗るのではなく、
実際の風景を目にして色を塗り始めたとき、その光が生み出す輝きの多様性に気付き、
その色彩の力強さを表現するために、今まで以上に表現を追求し始めたというのです。


そこで着目されたのが、「色の明度」です。


色(絵具)には、明度というのがあります。
それは、色本来が持つ輝きであり、力と言うことができるでしょう。

この絵具の明度、実は、混ぜると下がってしまうそうなんです。
そこで画家達は、油絵具を用いて、
あえて、今まで以上に絵の具を混ぜないように心がけて、絵を描きました。


近くで見たら青と黄色の点なのに、
遠目に見ると、日差しを受け様々に変化する、緑の草原が広がっている。


ちなみに、かのルノワールは12色。
光の魔術師と呼ばれた画家(誰か忘れた)は、10色の絵具で作品を描くそうです。



このように、チューブ式絵具の発明が、
表現の新しい可能性を追求させる、きっかけを作ったというわけです。



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さて、実はここからが本題。

今回の話は、かみ砕いて話すことができていません。
何を言っているかわからない人は、ごめんなさい。
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まず、私の考える「台詞と感情の関係」について書きます。

 人が言葉を発する時、
 「感情を込めて言う」のが普通で、「感情を込めないで言う」のが特別ではない。
 「感情を込めないで言う」のが普通で、「感情を込めて言う」のが特別である。

 人は感情を感情的に伝えるために、言葉を発しているわけではなく、
 むしろ、言葉にして説明する必要を感じるからこそ、言うのある。

 人は、感じたままを口にするわけでもない。
 言葉はシチュエーションから引き出されるものある。
 
 そこで感情は、言葉と切り離した上で考え、どう結びつけて表現とするかは、役者の手腕である。

これが、私の考えです。



栗山民也さんは、著書「演出家の仕事」の冒頭においてイギリスのメソッドを例に挙げ、

 『役者は手を開いて閉じる間における、人間の感情のひだを感じ取るべきだ。』


と書かれています。

これは、感情を作って手を動かせと言う事ではなく、
手を動かした中から沸き上がってくる感情を、役者はすくい上げるべきだと言っているのだと思います、


このことは、私は台詞を発する時にも同じことが言え、


 『言葉は、発した後に、心の動きを探れ』


と置き換えることができると考えています。



そもそも言葉には、言葉の力があります。
私はそれは、絵画における絵具の明度に似たものを感じるのです。

言葉を発した後にわき上がる感情は、喜怒哀楽の4通りではなく、
シチュエーションに応じた数だけ、沸き上がってくる感情の数があると考えます。

しかし、その何万通りの感情を音に乗せようとすると、言葉本来の力を失う。
これは、感情を自分の内面で、言葉と混ぜてしまうからではないでしょうか。

混ざった感情を音に乗せようとすると明度は下がり、
結果、言葉の力を失ってしまうのではないかと考えるのです。


言葉として発せられる音というのは、
それは絵具の数のように、実はそれほどバリエーションはいらないのだと思います。


つまり役者は、何万通りの音を用意する必要はない。


しかし、表現すべき感情は、無限に存在する。

そこで役者は、既存の音を組み合わせていくのだと思うのです、



言葉に感情を混ぜずに、言葉を組み合わせていくことで、
言葉の明度を失わず、その発言をする人物として、
力強く板の上に立てるのではないかと考えるのです。




ちなみに、明度とよく比較されるのが『彩度』です。
彩度を上げると、その色合いは、どぎつくなります。


台詞における彩度とは、言葉の強弱ではないかと、私は考えています。


特定の台詞を強く言うと、その言葉自体が立ちすぎてしまい、浮いてしまいます。
それは、彩度を強調する=コントラストをつける事と同じだと思うのです。

だからこそ、言葉のコントラストを強調すると、
本来見えてくるべきものからずれてきて、嘘くさい印象を与えるのだと考えます。


では役者は、どう言葉を紡ぐべきなのでしょう。
キャンバスにどのように点を打っていくべきなのでしょうか。
点の大きさはどうするのか。点の間隔はどうするのか。


それが、言葉の音として発したときの音の高低とスピードに関係していると思うのです。

そして、その高低とスピードの根拠が、感情となると思うのです。


役者は観客を想像させるべきである。


ひとつの色で、染め上げてしまう、
つまり説明して、平坦に見せてしまうのではなく、

輝きを持った言葉ひとつひとつを組み合わせ、
いかに力強くそこに存在するかを追求することが、
役者と演出家に課せられた使命のように、思えてならないのです。
【私の生き方】私のために生きた父
このブログは、父が死んだ2009年3月前後は、完全に更新が止まっている。
父の死から2年ちょっと。父の死ぬ間際の話を、少し書いておこうと思う。



父の癌が再発したことがわかったのは、2008年1月である。
当時、私は文学座の林田一高氏のプロジェクト団体である、
Trigger Line(トリガーライン)に所属をし、演出補として芝居の勉強をしていた。

急遽入院が決まった父の癌はすでにステージ4、
当時58歳であった父の癌の進行は速く、
抗がん剤使用の副作用は激しく、父はみるみるやせていった。

そして8ヶ月後の、2008年10月の時点で、
医者からは、いつ父の容態が急変してもおかしくないと言われていた。


父は、幾度もの抗がん剤使用で免疫が低下しており、
合併症を併発していたのである。


それでも、父は耐えた。


2009年2月下旬。

癌の再発がわかってから、すでに1年と1ヶ月がたっていた。
母は、いよいよ父は、危ないという。



2009年3月下旬に、私はトリガーラインのワークショップを控えていた。

トリガーラインに演出補として参加して、この時点で3年。
私ははじめて林田さんのもとで、
トリガーラインワークショップの短編の演出を取ってみないかと話を頂いていた。

たかが、1ワークショップの、数分の短編である。
ただし、私にとっては、大変貴重な機会であった。


この1年間、私は2ヶ月に1度の頻度で札幌にもどっていた。
そしてこの年は、正月にも札幌に帰っていた。

この時、父と母と、家族3人で写真を撮った。

そして、この正月の時点で、
今度は3月のワークショップが終わるまで帰れないと、
父にも、母にも伝えていた。



だからこそ私は、「3月に入ると帰れない。」と電話で伝えた。
母は、「わかっている。」と答えた。

そして、母はこう切り出した。

『もし、お父さんがあなたが帰ってくる前に他界した場合、
 お兄さん(父の兄・私の伯父)は、自分が施主をやるので、
 哲行は戻ってこなくても大丈夫だと、哲行に伝えてくれって言っている。

 でも私(私の母)は、もしお父さんがあなたが帰ってくる前に他界した場合は、
 お父さんの遺体を冷凍保存して、あなたが帰ってくるまで葬儀を待つつもりでいるから、
 あなたは安心して、精一杯、公演(ワークショップ)に打ち込みなさい。』


ワークショップとは、体を使って一定期間トレーニングをする、勉強会のようなものである。


ワークショップで演出を取るということは、
言ってしまえば、発表会で演出を取ることに等しくもある。

私は自分で劇団を主宰した事もあり、規模で言うならもっと大きな公演を打ってきた。

ただし、私にとってこのワークショップは特別なものであり、
母と伯父は、そこを理解してくれていた。



2009年3/20(土)~3/22(日)、
3日間のトリガーラインのワークショップは無事終わり、
私が札幌のホスピス、東札幌病院に駆けつけたのは、2009年の3/23(月)であった。

私が戻ってきて父と面会して言った第一声は、
「なんだ。思ったより元気そうで、安心したよ。」であった。

3/23(月)は、WBC第2回大会が開催されており、日本が韓国に勝った日であった。
野球好きの父と野球の話をし、私は実家に帰宅した。

3/24(火)は、いよいよWBCの決勝だった。
午後に病院に顔を出した時点で、父はすでにうつらうつらしており、
夕方から父は、昏睡状態に入った。

3/25(水)早朝、父はいよいよ最期を迎えるだろうとなり、親戚中が、病院に駆けつけた。
しかし父は、急変する事無く、そのまま眠り続けた。

3/26(木)駆けつけられる親戚は面会できたが、
この状態が何日続くかわからないため、
親戚達には一度帰宅してもらい、母はこの日も一人、病院に泊まることにした。

3/27(金)午前10時すぎ、
母に、一度家に帰り、荷物を取ってきたいので、付き添いを交代して欲しいと言われた。

私が母と交代し、父と2人で病室にいたときに、父の鼻筋に、黒い血筋が二本流れた。

私が慌てて母の携帯に電話をかけると、
「私に電話する前に、すぐに看護師さんを呼びなさい。」と言って、母は電話を切った。

私がナースコールを押すと看護師はすぐに現れ、
看護師は父を見るなり「きれいにしましょうね。」と鼻から出ている血筋を拭き始めた。

私が、「呼吸は、もうしていないですよね。」と尋ねると、看護師は「ええ。」と静かに答えた。



担当医が来た。

担当医が「奥様は、どこに行きましたか」というので、私が、
「母は、いま荷物を取りに家に戻っており、まもなく戻ってきます。
母が戻ってくるまで、待って頂けますか。」と伝えると、
「わかりました。」と言って、担当医は席を外した。

母が病室に戻ってきた。

母は、父の手を取り、「頑張ったね。」と涙を流した。

そこに担当医が、再び現れた。



2009年3月27日、10時35分。父は、永眠した。



泣きじゃくる母を傍目に、私には父の死の実感がなかった。

私が、「伯父さんに連絡した方がいいよね。」と母に尋ねると、
母は、「そうして。」と泣きながら答えた。

そして私は伯父に、携帯で電話をかけた。



「今、父が、死にました。」



言葉にしたことで、すべてが、現実になってしまった気がした。
叔父との電話口、私は、嗚咽を止める事ができなかった。


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葬儀の後、母から聞いた話である。


父は自分の死の一週間前ほど前から、
自分の死期が迫っているのを、自ら感じ取っていた。

2009年3月の時点で、再発からすでに1年以上。

当初入院した札幌医科大学から、ホスピスの東札幌病院に転移しており、
父の癌に、もはや治療手段が残されていない事は、
父が一番わかっていた。

3/20(土)~3/22(日)のワークショップがはじまる前の、3/19(金)の事である。

いつものように栄養剤の点滴を交換しに来た看護師さんの腕を掴み、
父は、泣きながらこう言ったという。

「どうか。
 どうかあと3日、生かしてほしい。
 今息子は、東京で非常に大事な公演を控えている。
 その息子が、あと3日で帰ってくる。
 だから、どうにかして、あと3日だけ、俺を生かしてほしい。」


この時点で父の体はすでにボロボロで、抗がん剤治療は再開できていなかった。
自分にはすでに、栄養剤しか投与されていないことを、父は知っていた。

高等学校の進路指導部長として、そして教頭として、
生徒達に怖いと恐れられていた父が、
涙を流しながら、看護師に3日の延命を懇願した。

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自分の為に生きるのが正しいのか、
他人の為に生きるのが正しいのか、私にはわからない。


父は、私のために最期まで生きた。

私も、誰かのために、最期まで生きようと思う。
【私の生き方】一期一会
最近自分の周りで耳にする、
「縁を結ぶ」「縁が切れる」という言葉。

私は両方とも嫌いだ。


私は好きな言葉を聞かれると『一期一会』と答えることにしている。

父がまだ生きていた頃に「好きな言葉はなんだ」と問われ、
私は、『一期一会』と答えた。

すると父に、「なんだ、普通だな。」と言われた。

確かに普通である。
ただし、当たり前な事ではない。



人は、ご縁を結んだことを喜ぶ。

ただし、そのご縁に本当に感謝しているだろうか。
今も感謝し続けているだろうか。

そもそもご縁を、今後のために大事にするから色々面倒になるのである。
『一期一会』とは、今を大事にすることである。


そして、縁を切ったという表現がこれまた腹立たしい。
そもそも切れるなら、そんなもの縁ではないではないか。

自分に都合の良い物しか『縁』として考えないから、
縁は、勝手に切れるものだと勘違いしている気がする。

そして、そういう人こそ、
勝手に一人になって、一人で勝手に社会を恨む気がするのだ。



愛が人に力をくれるのは、エネルギーを循環させるからだ。
愛を与え、愛をもらう。だから減らない。
あなたは勝手に、一人になってはいけない。


『一期一会』

今が良ければそれでいい、という考えでない。
今は過去の延長にあり、未来が決まる。

今を本当に大事にするということは、
過去の過ちを認め、過去に感謝をし、今を創造していく事である。

今だけを大事にしていくのではない。
いままでも、これからも大事にするからこそ『一期一会』なのだと思う。



 ご縁とは「結ぶもの」でも「切るもの」でもない。
 ご縁とは「あるもの」である。


 本人が望む、望まずに関わらず、ご縁とは、「あり続けるもの」なのである。


あなたとのこのご縁、あなたが望む望まずに関わらず、
ここに確かに存在し、つながっていく。

私は、そう信じている。
【私の生き方】一級品
先日、NHKのドキュメント番組『わたしが子どもだったころ』の、
小池栄子さんの回を見る機会があり、
再現VTRの中で、小池さんのお父さんが、こんなことを言っていた。

『Not the Best,But the first.』

 一番は自分が決めたもの。
 一級は他人が決めるもの。

 一番である必要はない。一級品になりなさい。


そうか。



一級であることは、つながっていくことなのですね。
ホームヘルパー2級の免許を取りました。
ブログを更新していない間に、
失業保険を受け取りながら、ホームヘルパー2級の免許を取得しました。


そもそも、なんでヘルパーの免許なのか。


自分がこれから本を書いていくとき、登場人物が現実に直面した上で、
それでもなお、どのように笑うのだろうと考えたのが、そもそものきっかけでした。

単純に言うと、お年寄りはなにをしているのか。
どんなことに、笑っているのか。


『もっと、人と向き合うきっかけになれば』と思ったのが、はじまりです。



人は、嫌なことがあると心を閉ざしがちです。

ましてや、高齢であった場合、
変な意味ではなく、「もう死んでもいいや。」と思っていたりするんです。


もう死んで良いと思っている人が、どう生きているのか。
ベッドで24時間寝たきりで過ごしている人が、どう生きているのか。

そして、どのように死んでいくのか。


人生の華やかな時間だけを追いかけるのではなく、
「やがてくる死」を、今、見つめ直すことで、自分が変わる気がしたのです。


そんな介護の仕事は、『向き合うこと』の連続でした。


認知症が重度で、
自分でトイレに行くこともできず、排泄物を片付けてもらう人の気持ち。
親類が全くおらず、誰が尋ねてくるわけでもなく、
特別養護老人ホームの同じフロアで終える一生。


自分がそうなったと想像したら、
絶望以外のなにものでもない日々のはずなのに、ご老人達は、笑ってました。


私が実習でお世話になった渋谷区の老人特別養護老人ホームは、
要介護度平均が4.7という、入所者全員が認知症という介護施設でした。


私が食事の見守りをしたおばあちゃんは、私の言葉に何も反応しません。

一人で食べられるから、手を出してはいけないと指示されたものの、
器の食事の1/3は、前掛けにこぼれていきました。

そんなおばあちゃんが、
私が食べやすいようにと、ペースト状の肉じゃがを器の手前に箸で寄せたとき、
すっと拝むように、片手を前に出しました。

『あ、この人は、私に感謝してくれている。』


あるおじいちゃんは、私に満州の話をしてくれました。
記憶が断片的で、正直、話がさっぱりわかりません。

そのおじいちゃん、「前に、おまえの家に行ったよな。」と言うんです。
おそらく、誰かと勘違いをしているのでしょう。
私は、おじいちゃんに話をあわせてました。

すると、おじいちゃん、私にこう言ったんです。
「今度おまえが作ったときは、持ってこい。見てやるから。」


『この人は、このような状況でも、人のために生きようとしている。』


思い起こせば、こんなにも「ありがとう」という言葉が、心に届いた事は無かったかも知れません。

そして人は、どんなに認知症が進んでも、
感謝の気持ちと、人のために生きようという思いは、消えないんだ。

そのことが、私を少し、楽にしてくれました。



音楽会の慰問で歌を歌いに来ていた、
石原さん、というおばあちゃんと話す機会がありました。

「あそこのご夫婦、実は跳んだり跳ねたりしていた頃から、私のお友達だったのよ。」


今日も、石原さんはハーモニカの伴奏で、昭和の歌を歌っているのでしょう。
寝たきりの平田さんは車いすの上から、石原さんの歌に指揮をしているのでしょう。

そして、私たちの実習後に矢澤さんが天に召されたように、
お役目を終えた人が、また一人と、あの施設を出て行くのでしょう。


食べたら、出るんだ。当たり前じゃないか。
私が食べさせてもらって大きくなったように、私が食べさせてあげればいい。
それだけのことだ。

人は、大切な人の名前さえ、たとえ忘れてしまっても、
美しい心は失わない。


樋口了一/手紙~親愛なる子供たちへ~
半年ぶりの更新です。
ご無沙汰しております。しばたです。

昨年の年末から更新が止まっておりました。
その間もブログを読みに来て下さっていた皆様、すみませんでした。

つまらないことですが、
昨年末にバイト先が倒産しまして、
そのことは別に、どうって事はなかったのですが、
バイト先が無くなった事で、
自分の中でバイト先にためていた不満が爆発しまして、
ブログを書こうと思うと、その不満しか出てこない事に苦しんだのが、
ブログの更新が止まったきっかけです。


年明けにも、色々とありまして、
色々あったんですけど、ここに書けないことばかりです。

いや、たぶん、書かなくて良いことなのだと思います。


怒りやマイナスの感情って、
言葉にすると一時は楽になるものですが、
言葉にしたことで、その事実自体が形を持ってしまう気がするんです。
だから、個人的な愚痴みたいな事は、ここには書かないって決めているんです。


ブログを毎日更新する人って、すごいですよね。
私のブログは、ブログであって、ブログじゃないんでしょうけど。
だから書けなくなるんだ。うん。



2011年3月11日(金)に、東日本大震災が起こりました。

私は大学が仙台であった為、
友人の多くが、宮城と福島で被災しました。

大学の友人達は、震災から10日ほどで全員無事を確認できました。
しかし、私のネットの友人からの消息は不明でした。

震災から20日目。その友人からメールで連絡が来ました。

両親は津波で他界。
彼は片目を失明し、太ももの一部を欠損。歩行障害が残りました。


私は、1度にこんなにも不幸が襲った人を知りません。

彼のメールの最後の言葉は、「生きていて、良かった。」です。




「生きていて、良かった。」

私が芝居で届けたいメッセージは、これなんだと思っています。


彼が振り絞って言ったであろう、この言葉。
私は涙が止まりませんでした。
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