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【演劇論】 言葉が当たる
言葉が当たる

『言葉が当たる』の前に、
『言葉が刺さる』について書いた方が、イメージし易いのではないかと思う。


日頃、誰かの発言が身にしみた時、『今の刺さった。』などと言わないだろうか。


発言が心に刺さってちくっと痛かったことを『言葉が刺さる』というが、
中には研ぎ澄まされた名刀を持っていて、
刺さるどころかバッサリ斬られたことに気が付かない場合もある。

どちらの表現も、言葉に鋭さや切れ味があることを認識しているため、
『言葉が刺さる』や『知らぬ間に斬られてた』といった言葉で、
人はイメージを共有できるのである。



言葉とは、のどから発せられた音である。




物体Aが物体Bに衝突した場合、
物体Aは物体Bを振動させ、それが空気を伝わって耳に届く。

つまり、それが音なわけだが、
この物体Aを「音」に置き換えると、

音(言葉)が誰かの心に向けて放たれた場合、
その言葉は、その人の心を揺さぶり、心に響く。そして感動する。


演劇の世界ではこれをまさしく、
『言葉が当たる』もしくは『当たる台詞』という言い回しを用いる。




台詞(言葉)を当てようとするとき、まずは誰に向かって言うかが重要である。

「当たる台詞」の反語に、「歌う台詞」というのがある。

不特定多数に向かって歌う『唄』になぞらえて、
誰に向かって言っているのかわからない台詞を、台詞を歌うというのであろう。



例えば、仏壇の前に『お鈴』があるとする、
お鈴をおもいっきり叩くと、カーンと甲高い音を立て、きれいな音では響かない。

当てるときは、その力加減も重要である。



『言葉が当たってない。』
『言葉が当たらない。』

この二つは、似ているようで、実は微妙に違う。

『言葉が当たってない。』は、
誰に向かって言っているのかわからない。という時に用いるのに対し、

『言葉が当たらない。』は、
あなたの言葉は心に響いてこない。という時に用いる。


もう一度、物理的な例えをすると、

バットにボールが当たってホームランとなる場合、
スイングに余計な力が入っていると、実はバットにボールが当たっても遠くまで飛ばない。


スイング自体は非常にシンプル良い。ボールの芯をとらえるだけである。


両親や兄弟の小言が、やけに心に刺さることはないだろうか。
それは感情的ではなく、的を得ている場合が多いからだ。


人は、感情的な物は、感情論で無視ができたりする。
しかし、感情をまとわない素の言葉は、非常に心に刺さるのだ。


だからこそ、誰かに思いを告げるとき、
素直な気持ちをそのまま伝えた方が、伝わったりする。


あなたが言葉を届けるとき、台詞を読むときに、余計な感情はいらない。


言葉は、それ自体に力がある。


芯をとらえたとき、その人の心は大きく揺れる。

その心の動きがその人の人生を変える。

それが、言葉がドラマを生む瞬間である。
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【生き方】 自分らしく生きるという事
「自分らしく生きるってどういう事?」 と聞くと、

たいていの人は、
「好きなことをやって生きる事」 と答える。



『お前はいいよな。自分らしく生きていて。』


確かに私は、好きな芝居して生きている。
しかし、私だけが自分らしく生きているわけではない。
あなたも、あなたらしく生きているじゃないか。

『○○さんらしいよね。』

というフレーズがある。
このフレーズは、いい意味でも悪い意味でも使える事に案外気付いていない。



『○○さんらしいよね(笑)』
『○○さんらしいよね(苦笑)』



「○○さんらしい」というフレーズは、
その人が好きなことをやっているかどうかに関係なく使う。

その人が何かに直面したとき、
その人なりのやり方でやり通した時に、
『○○さんらしいよね。』と言われるのだ。

もっと言えば、問題が解決したかどうかも関係ない。
解決できなかったことが、あなたらしいのかも知れない。

でも、それでいいじゃないか。


生きていれば、好きなことも嫌いなこともある。
問題がうまく解決する場合もあれば、しない場合もある。
こればっかりはしかたがない。

例え失敗したとしても、あなたは失敗を望んだのだろうか。
失敗をどこかで予測していたとして、今も同じ気持ちであるだろうか。


あなたは、優しい人だ。


まずは、認めてあげることである。


あの時のあなたの選択が、最良であったかどうかは誰もわからない。
でもあなたは、あなたらしかった。そうでしょ?

そんな自分を認めてあげれば、今日は泣いても明日は笑えるかも知れない。

ほら、笑えるじゃないか。

【演劇論】 サンドィッチマンと演劇
連日、笑いと演劇とに付いて書いてきたが、
最後にサンドウィッチマンについて書きたいと思う。

私はサンドウィッチマンの笑いは、非常に演劇的だと思っている。


 ⑤サンドウィッチマン
 富澤たけし:非常識なことを言う
 伊達みきお:現実的なことを言う(見た目は強面で非常識かと思ってしまう)
 現実のライン:伊達担当


彼らはまず、ネタに入る前に余計な説明をしない。
つまり、観客にこう見て欲しいといったことを、押しつけないのである。

しかも彼らのネタは、冒頭で必ず伊達みきお氏の強面の部分をいじる。

これは、変な動きやポーズであるとかつっこみの破壊力など、デフォルメした部分ではなく、
会話の中の関係性を見て欲しいと観客に自然と訴えることに成功している。
見た目をいじるのは最初で終わり。あとは自然と会話の中身に、意識が向くのである。

また、二人は特殊なステータスを演じようとしない。

演劇のはじまりは、人が神をあがめ、神を演じる者が生まれ、
神を演じる者が、神の代理として人々に答えた事であると考えられている。

ある意味、突飛なキャラクターを演じる事は、容易なのだ。

そういう意味では、オードリーの春日も突飛なキャラクターではあるのだが、
春日を演じることは容易ではない事は、言うまでもない。


ともかく、サンドウィッチマンが演じるのは、『一般の人』であり、特異なキャラクターではない。
富澤たけし氏が演ずる役は、一貫性があり、最初と最後で小さな変化(ドラマ)がある。
だからこそ、物語が積み重なるように、笑いが積み重なっていくのだと思う。



さて、サンドウィッチマンのネタに、「ピザの配達」というのがある。
2007年M-1王者の彼らが決勝で披露したネタである。

知っている人もいると思うが、
これは、エンタの神様で一度コントとしてやられている。

M-1は今まで未公開のネタにこだわっていないため、
その点に関しては問題ない。

ポイントは、同じネタがコントと漫才で表現が違ったという点にある。

エンタの神様で「ピザの配達」がコントとして行われた時は、
セットが組まれ、もちろんピザ自体も、小道具として登場した。
それに対し、M-1の場合は漫才のためにピザ自体は小道具として登場しない。
ピザはあるものとしてマイムで表現され、話は進むのだ。

エンタの神様では、冒頭に、
ピザを縦に運んできたことを指摘するところがある。

これが良くない。

観客は、ピザを縦に運んできたという事実だけを把握し、
その非常識さを認めなければ行けない世界が、
今後展開することを無意識の上に容認してしまう。

つまり、この部分があるために、
今後の非常識なやりとりにおける、
現実のラインと非常識加減の相対的な位置関係が縮まり、
何が起きても「それもありか」となりかねない状況で、
コントは進まざる終えなくなるのである。

それでもサンドウィッチマンが笑いを取り続けることができたのは、
もちろん彼らの実力であるが、実にもったいないと思ったシーンである。

彼らは観客を暖めるために、ある意味一発ギャグを飛ばし、
それを受け入れてもらおうとしたのかも知れない。

しかし、その部分がないM-1における漫才の方が、
構成的に優れていると私は思っている。
しかも、客に媚びていない。

もう一つM-1における漫才の方が優れているのは、
ピザを出さないことにより、
観客に情景を想像させることに、成功しているのだ。

彼らのマイムが優れているわけではないが、
話を聞いているうちに、ピザが見えてくる。
また逆説的に言えば、ピザの存在などどうでも良くなるのだ。

目の前に実際に物がある方が、情報は伝えやすい。
しかし、逆に物がない方が、想像力を刺激する。

以上の点を踏まえた上で、
私はサンドウィッチマンのスタイルは演劇に通じるものがあると考えるのである。
【演劇論】 ナンセンスコメディにおける現実のライン
1999年、ノストラダムスの大予言ははずれ、
終末を迎えるはずだった世界は図らずも続いた。

そんな1999年を境に、妖怪が生息できる場所が無くなった気がする。

そんなことを書くと、
近年のゲゲゲの鬼太郎映画版のファンに怒られる気もするが、
ゲゲゲの鬼太郎映画版は、現代と妖怪をうまく共存させた傑作だと思っている。
今それについては論じない。

「妖怪とは、社会の隙間に生息してきた生き物だ。」


1999年より数年前の話ではあるが、
死海文書を題材としたエヴァンゲリオン(1995ー1996)が社会現象となった。

「この世界は、明日終わるかも知れない。」

そんな不安が、この世界を絶対なものとすることを許さなかったため、
あれだけ壮大な物語を現実の延長に組み立てることができたと思っている。
もちろんエヴァンゲリオンが優れている点は言うまでもない。


ナンセンスコメディの代表格であるケラリーノサンドロヴィッチ氏が、
ナイロン100℃で『薔薇と大砲~フリドニア日記#2~』を手がけたのが、1999年である。
フレドリアという地図にも載ってない街で起こる数奇な出来事をまとめたおとぎ話であった。


ナンセンスコメディは、
舞台上でありえない会話が平然と続く。

お客は、目の前にあるのはおとぎ話の世界であり、
そんなふざけた会話が許される世界なのねと受け入れる。

そもそも、この世界とは違う世界の、くだらない会話の連続だと錯覚する。

しかし、ケラさんのすごいところは、ある瞬間に、
その「ありえない世界」であったはずのものが、「ありえると世界」だと気付かされ、身震いするのである。


ナンセンスコメディの世界では、
登場人物の誰かが、常識的な発言をし、現実のライン引くわけではない。
仮に常識的に指摘した場合も、理由無くその不条理を容認せざるを得ないまま物語は進む。

そして、それを見て笑っているお客の中に、
「自分がまっとう」であると、お客自身に現実のラインを引かせる。

しかし作品は、物語に引き込ませた後に、
『その現実のラインは、本当に正しいの?』と問いかけてくるのだ。

そこで、自分はまともだと安全圏で見ていたはずの観客は、足下をすくわれ、
不安のままどん底につきはなされ、物語は勝手に終わるのである。
観客は見終わった後、何が現実か一瞬分からなくなる。

ここが非常におもしろい。


ここまで現実のラインについて散々書いてきたが、
現実のラインとは、登場人物の誰かが引かなければいけないわけではない。

ただし、どこかに引いていなければならない。


現実のラインが消滅したとき、物語は一気にわからなくなる。
物語が観客の元から離れてしまうのだ。


そして観客は、言葉を手探りに、今一度現実のラインを引こうとする。


しかし、時はすでに遅く、もはや嘘は嘘のまま、幕は引かれるのである。


嘘である演劇が、唯一ノンフィクションに勝てるとすれば、
想像力の力を借りなければ行けないと思っている。

その為には、
観客が生きている今のリアルな世界や時間軸を揺るがし、
絶対なんて存在しないという曖昧な世界観の中で、物語の結末に引き込むのだ。


演劇の魅力とは、LIVEであるという人もいる。しかし私の考えは違う。


物語に引き込まれていくうちに、今自分が立っている世界が崩れ、
別な世界へいける点が、演劇の醍醐味であると、私は思っている。
【演劇論】 笑いとステータス
演劇において『ステータス』がどう笑いに影響するかは、
劇作家である平田オリザ氏が、その著書「演技と演出」にて記述している。

あいにくその本が見あたらず、
記憶をたぐりに内容を引用させて頂くが、

チャップリンがバナナの皮で滑るのと、
サザエさんがバナナの皮で滑るのは違う。 という話であったと思う。

平田オリザ氏はチャップリンとサザエさんの、
両者の『ステータス』の違いに注目している。

両者とも、バナナの皮ですべる点は一緒である。
しかし、サザエさんがバナナの皮で滑るのは、
バナナの皮で滑ったことが面白い、
もしくは転んだ格好が面白いのに対し、

チャップリンの場合、
タキシードに蝶ネクタイという姿の人がバナナの皮で滑るという、
高貴な人の滑稽さを笑っているというのである。

ステータスがその人の人物像に深みを与えており、
それが笑いに添加されていると言うのである。

             (著書を発見次第、正確に記述します。)


次に、前回例としてあげた漫才師(芸人)とステータスについて考察する。


  ①やすきよ(やす・きよ)」
  横山やすし:非常識なことを言う(時々発言が非常識なやすしがあえてつっこむ。)
  西川きよし:現実的なことを言う
  現実のライン:西川担当

やすきよは、西川きよし氏と横山やすし氏の両方にステータスがある。

品格を備えた西川きよし氏が、
破天荒な横山やすし氏の発言をツッコミで訂正するので、
非常にわかりやすく、安心して笑えるのである。

もしくは、品格を備えた西川きよし氏が、
破天荒であるはず横山やすし氏に振り回されている姿が実に面白い。


  ②爆笑問題
  太田光  :非常識なことを言う(一見常識的な太田がボケる)
  田中裕二 :現実的なことを言う
  現実のライン:田中担当


爆笑問題は、太田光氏の方にステータスがある。
賢い発言を続けてきたかと思えば、いきなり壊れる。
田中裕二氏は、観客の代表としてお客さんと同じ立場からつっこむ。
その為、田中裕二氏はお客やゲストの意識が、
自分と同じであるように向けることに、非常に気を使っている。


  ③オードリー
  春日俊彰 :非常識なことを言う(発言が非常識な春日があえてつっこむ)
  若林正恭 :現実的なことを言う
  現実のライン:若林担当


オードリーは、説明とか抜きに好きなのだが、
春日氏が演じているのは、紛れもないキャラクターである。
そのため若林氏が、必死でお客とのコミュニケーションを取ろうとする。

今までの3組に共通して言える事は、
現実のラインを引く担当者が、
積極的に観客と同じ目線でいようとする点である。
その為のアピールを欠かさない。

だからこそ、お客は安心してみていられるのである。
春日だけでは不安で不安でしょうがない。


またステータスは、
時に主人公を身近に感じさせ、
時に住む世界が違う主人公故の葛藤を、描くことを可能とする。


先日、役作りにおけるリアクション型とステータス型の話をしたが、
現実のラインを引くのを得意とするのは、ステータス型の役者である。

ステータス型は何が起ころうと、自分の立ち位置を見失わない。
もしくは、何が起ころうと変われないので、
そこにラインが生まれやすいのだ。


それに対して、

  ④笑い飯
  西田幸治 :非常識なことを言う(非常識と思いきや、現実的につっこむ)
  哲夫   :現実的なことを言う(常識的と思いきや、ボケたりもする)
  現実のライン:ダブルボケのため相方がつっこみ、現実のラインを引く
         もしくはお客自身が自分の中に引く

笑い飯の場合は、ちょっと違う。

笑い飯の場合は、哲夫が冒頭で話をしきる。
これは今までの3組と同じように、
現実のラインを引いていることになる。

しかし後半は、ダブルボケの為に、ツッコミも両者持ち回りとなる。
これは大変冒険的であり、ある意味なんでもありの状況になる可能性もある。

そこで彼らは、何でもありの状況にしないために、
とてつもなくシンプルな題材を、ネタにする。

つまり観客が、自分の経験で必ず知っているようなことを題材にしてボケるのだ。

これがある意味、笑い飯の弱点ではないかと思う。
言うなれば、防御無視のダブル攻撃。

その為、成功すれば大きな笑いになるが、
不発になる危うさを常にはらんでいるのが、彼らである。



演劇の中でも、なんでもありの中で、お芝居が展開する場合がある。
それが、ナンセンスコメディの世界である。

次回は、ナンセンスコメディにおける現実のラインの話をしたい。
【演劇論】 ボケとツッコミにおける現実のライン
笑いの基本は、ボケとツッコミである。


かつて松本人志と中居正広が出演していた『伝説の教師』08話の説明を借りれば、

『漫才には役割分担があり、ツッコミとは、ボケが言う非常識なことを、
 客にわかりやすく、常識的なことで訂正するのがツッコミである。』

つまりお客は、その二人の会話の常識と非常識の度合いを想像し、
その程度のはなはだしさに笑っているわけだ。


昨年2月に、劇団まるおはなさん主宰のワークショップに参加した際、
テレビディレクターであり、映画監督の植松義貴氏とお会いする機会があった。

ワークショップの一環で、植松氏は役者に、
『巨人(大男)を見せて下さい。』と指示を出したところ、
役者は胸を張り、のっしのっしと歩いたのである。

これは、役者が自分の気持ちから役作りをする、典型的な例である。

それに対し植松氏は、
『大きな巨人ほど、足下に注意が行くんじゃないかな。』と指示を出したところ、
巨人は、その大きな手でとても小さな100円玉をつかみ、
自販機でジュースを買うために大変苦労をし、そこで笑いが起きた。

ポイントは、役者が「自分は大きいんだ」と自覚することではなく、
どれだけ大きいのかを、客に想像させる事ができたかどうかという点にある。


ここで、もう一度ボケとツッコミの話に戻すが、
私は、ボケとツッコミで笑いを起こすには、
ボケの非常識な発言に対し、ツッコミが現実のラインを引き、
その発言がどれくらい非常識であるかを、お客に想像させる必要があると考えている。


演劇では、この現実のラインを引くのを忘れてしまいがちではないだろうか。


もともと嘘が前提ではじまるお芝居は、
二人ともおかしな事を言ってしまう(つまり現実のラインを引かないで話が展開する)場合、
目の前の世界は『これを許容しなければいけない世界なんだ』と、
お客は、それを受け入れようとしてしまう。

そうすることにより、
目の前で繰り広げられているものは、何でもありの世界となり、
言っていることが面白いのか、そうでないかで楽しむしか無くなり、
結局、その世界を遠巻きにただ見るしかない結果となるのである。


では、どうすれば良いのか。


私の考えは、
1/11に記述した「変わるべきこと、変わってはいけないこと 」と、
1/13に記述した「コントと演劇の笑いの違い」をふまえた上で、
『ステータス』という観点から、次回記述します。

========================
下記は、例を出して記述しようとして、結局使わなかったもの。
とりあえず、残しておきます。


①やすきよ(やす・きよ)」
横山やすし:非常識なことを言う(時々発言が非常識なやすしがあえてつっこむ。)
西川きよし:現実的なことを言う
現実のライン:西川担当

②爆笑問題
太田光  :非常識なことを言う(一見常識的な太田がボケる)
田中裕二 :現実的なことを言う
現実のライン:田中担当

③オードリー
春日俊彰 :非常識なことを言う(発言が非常識な春日があえてつっこむ)
若林正恭 :現実的なことを言う
現実のライン:若林担当

④笑い飯
西田幸治 :非常識なことを言う(非常識と思いきや、現実的につっこむ)
哲夫   :現実的なことを言う(常識的と思いきや、ボケたりもする)
現実のライン:ダブルボケのため相方がつっこみ、現実のラインを引く
         もしくはお客自身が自分の中に引く

⑤サンドウィッチマン
富澤たけし:非常識なことを言う
伊達みきお:現実的なことを言う(見た目は強面で非常識かと思ってしまう)
現実のライン:伊達担当
【演劇論】 そこにドラマがある
『ドラマチック』という言葉は、
劇を見るように感動的。劇を見るように印象的な様。劇的。と訳す。
または、「夢のような信じられない展開」として使っていないかと思うときもある。

演劇が大きな感動を生むのでドラマチックなのか、
もしくは、お芝居の世界でしかあり得ないほどのハプニングを、
劇的と揶揄っているのかはわからないが、
『チック』を『的』と訳すことから、『ドラマ』とは『劇』である事がわかる。


では、

『そこにドラマがある』 の『ドラマ』とは、はたしてなんだろうか。


英単語における「感動する」といった動詞は『move』である。
心が揺れ動く事を「感動する」ととらえ『move』を用いるのであろう。

人が心を動かし感動する対象が、『ドラマ』だとすると、
『ドラマ』とは何かを考えるとき、人が何に心を動かされたのかを考えれば良い。



『人情ドラマ』・『家族ドラマ』・『恋愛ドラマ』

人は作品の中に感情を移入し、そこに感動する。
感情を移入する対象は、主人公(人物)に限定はされない。

そもそも主人公を置かず、その置かれた状況の空気感を表現する作品も増えている。
主人公が動物であったり、りんごの木のように植物の場合もある。

しかし、共通して言えることは、
視聴者が感情を移入する対象が、その世界の中で何かを感じ変化する様、
もしくは、感じたのだけれど、変化しなかったところに、人は感動する。

つまりドラマとは、登場人物の物語の始まりと最後における、
葛藤する様、心情の機微をさすのだと思っている。

人は置かれた状況で、なにかしらの決断を行う。
その決断には引き金となった事象が存在し、それに気付いた者だけが、変わる事ができる。

今、あなたの中で何かが変わっているのであれば、
それは、紛れもなく『ドラマ』である。

その『小さなドラマ』が、
やがて『ドラマチック』な物語を生むかは、あなたの気付きと小さな決断次第である。

あなたが今向き合っている『劇』には、『ドラマ』がちゃんと描かれてますか?
コントと演劇の笑いの違い(1)
例えば、舞台の真ん中で二人がおかしな話をしているとする。

すると、突然片方が怒り、舞台袖まで行ってしまう。
その人を舞台中心まで引き戻して話を続けたら、コント。
袖でそのまま話を続けたら、演劇。

そんなことを、昔、ラサール石井さんが言っていたように思う。

「コントの笑い」であろうが、「お芝居の笑い」であろうが、『笑い』には違いがないのだが、
あえて強引にでも線引きをするのならば、
言っていることがおかしいのが、コント。
その人との関係性が面白いのが、演劇なんだと思う。

舞台袖で話を続けるというのは、
その去ろうとした人と、引き留める人の、
物理的距離、かつ中心からの相対的な距離(空間的な位置付け)が、
その二人の心理面の距離感を表しており、
それが二人の関係性を示す一要因となり、笑いに転嫁されるのであろう。

例えば、とある事情で逃げ込んだトイレの個室に、
すでに人が座っていて用を足していたとする。
本来ならば距離を取りたいはずの二人が、非常に狭い密室におり、
それが、通常では得ない距離感で会話をしなければいけない状況を生み、
なおかつ、沈黙の間にも、物語が進んでいく。

沈黙の間にも、関係性を追わなければならない空間が、
非常に演劇的な笑いを生みやすい環境であったりする。


かといって、最近お笑いを見ていても、ネタが非常に演劇的だと感じており、
もはや、その線引きをすることが意味をなさない気もするが、
面白くないお芝居には、関係性や距離感が薄いと感じることが多い。


『キャラクター』という言葉がある。

そもそも、本来の意味では、性格や人格と訳されるのだが、
日本人の用いる「キャラクター」という言葉は、
「アニメのキャラクター」や「マスコットキャラクター」の用に、
特徴的な一面をさして用いている事が多い気がする。

キャラクターという言葉自体に、
一面性という意味が内包してはいないが、
人が得意な一面ととらえることができるものを、
「キャラクターとして面白い」などと用いてきたため、
とらえやすい簡単なもの、明瞭なものとして、
キャラクターという言葉に、
日本人が一面的な意味合いを含めて用いてきた結果だと思う。

人は、多面的な性格を持っている。
多重人格とまで言わなくとも、
家族といる自分、恋人といる自分、会社の中の自分。
それぞれが同じであって、同じではない。

特に日本人は、一番に思っていることを、あまり口にしない。
逆に言うと、本音を言える相手がいたりもする。
電話の相手が誰であるからで、出る音が微妙に違ったりもする。

そして、その多面性すべてを含めて、一人の人格が構成されている。

演劇とは、その多面性の表現であって、
一面的な人物像は、インパクトを与えることはあっても、
そこに人間ドラマを見せることは、容易ではない。

あるシーンを作るとき、
そこに求められているのが、ある種のキャラクターなのか、
人間の感情の機微なのか、考える必要がある。

キャラクターとは、時に幼く見え、言ってることがおかしいだけで、
同じシーンをもう一度見ても、案外笑えなかったりしないだろうか。

かといって、面白いコントは、何度見ても面白い。

そこには、やはり関係性も表現されているような気がするのだ。


   追記:「コントと演劇の違い」というワードで、この記事に来る方が非常に多いです。

   この記事のエントリーは何年も前のもので、今読むと、わかりにくい文章だなと感じております。
   よろしければ、「コントと演劇」のカテゴリーにある『コントを演劇的に見る』も、併せてご確認ください。

追記:松尾スズキさんとラサール石井さんの、コントと演劇に関する対談を見つけました。
コントと演劇の笑いの違い(2)をご覧下さい。
【演劇論】 変わるべきこと、変わってはいけないこと
『舞台上で大きな音が鳴ったとき、
 その方向を向いてしまう役者の方が良い役者である。』

平田オリザさんがそんな事を言っていた気がする。

あるシーンを役者を変えて演じる事がある。
仮に、役者Aと役者Bで演じていたのを、役者Aと役者Cで演じたとしよう。

演者が変わると、
急にそのシーンがおもしろくなったり、逆につまらなくなったりする。

問題は、役者Bと役者Cのどちらがうまい役者であるのかではない。

相手が変ったことにより、
役者Aがよりおもしろく感じたり、よりつまらなく感じることだ。

役者は、相手が変わって変わるべきこと、変えてはいけないことがある。


それは、

変わるべきこと:リアクション(反応)
変わってはいけないこと:ステータス(社会的地位) だと、私は思っている。


相手が変われば、相手から発せられる音が変わる。
その音に対して、しっかりとリアクションを取ること。
想定した演技は、ひとりよがりのものとなり、空間が成立しなくなる。

逆に、相手が変わって自分の立場や社会的地位を変える役者がいる。
台本に立場やステータスは書かれている。
そこを崩してしまうと、関係性が破綻し、やはり空間が成立しなくなる。

つまり、すべてが嘘になるのだ。

役者が役作りをする際、このリアクション型と、ステータス型がいる気がする。

リアクション型の欠点は、常に自分がおもしろいと思うことをやりがちで、
台本本来のおもしろさ(関係性や機微)が消えてしまいがちになる。
また、その場しのぎの極端なリアクションを取る傾向があり、
作品を通して、役としての一貫性が保たれず、人格が破綻した人間に見える。
1人の人間というよりは、キャラクターとして見られてしまう傾向がある。

ステータス型の欠点は、自分の役柄に対するイメージに固執し、型から入る。
自分がどんな演技をしたいかを事前に決め、相手が変わっても同じように演技する。
相手が変わっても、自分の演技はぶれないと本人は思っているが、
それは相手の演技を全く無視したひとりよがりの演技をしているにすぎない。
その為、相手の台詞をちゃんと聞いているのかと言われる。


私は役者とは、リアクションとステータスの両面から役作りをするべきだと思っている。

リアクション型の役者は、なによりおもしろい。
だからこそ、自分がどんな立場の人間を演じているのか、決して忘れないことだ。

ステータス型の役者は、そもそも品がある。
もっと相手の言葉を聞き、板の上でもっと自由になるべきだ。


そうすれば、自分にまだやれる事があることに、気が付くはずだ。
【演劇論】 成立するまでの3段階
作品がおもしろいかどうかの前に、
『成立しているかどうか』が、まず重要である。

板の上で行われることは、嘘である。
嘘が嘘のまま終わってしまうと、どうしようもなくつまらない。
しかし、はじまりが嘘であるからこそ、真実を越えることができる。

では、嘘が嘘でなくなるために、何から始めればいいのか。

演出家は、下記の三つを成立させようとダメ出しをする。

①会話の成立(空間の成立)
②役としての成立
③作品としての成立

まずは、会話が成り立たないといけない。
受け答えがなってないと、嘘付けと突っ込みたくなる。
リアクションも、これに含まれる。
ようは、一瞬、その瞬間だけでも、成立させるのが大前提である。

次に、1人の人間として、
作品を通して、破綻していないかを確認する。

そして最後に、台本本来が伝えたいことが、
誤解無く伝わっているのかどうかを、確認するのだ。

仮に、役者が突拍子のない演技をしたとする。

それが、作品として伝えたいものが変わってしまうのでダメなのか、
役の人格としての一貫性が保てず、破綻してしまうのでダメなのか、
それとも、そもそも会話にもなっていないのか、
そのどの段階でダメなのかで、役者の力量が分かる。

ここを区別せずに、ダメを出している人もいる。

そもそも会話として成立していない段階で、作品を作れるわけなどないのに、
作品に対するダメを出しても、無駄である。

しかし、どこかで役者に、作品に対するダメを出すなかで、
会話として成立させてくれ。と思って言う場合もある。

そういう演出家は、優しいなと思って見てしまう。


この三つをクリアしたからと行って、
イコールおもしろい芝居なわけではない。

逆に、この三つをクリアしてからである。
どうやったら、よりおもしろくなるのかを考えるのは。

トリガーラインで演出助手を取るようになってなって、
そんなことを考えた。

やはり、うまい役者とやるのは、おもしろい。
【演劇論】 演劇の三要素
演劇の三要素という話がある。

諸説有るようであるが、
それは、舞台を構成するなくてはならない三つの要素であり、
役者・観客・場所だと考えられている。


平田オリザ氏は、演劇のはじまりは『祭り』にあるとしている。

日本における『祭り』は、人々が神に一年の豊作を祈るものであった。

やがて祭りの中で、神を演じるものが現れ、
神を演じる者は願いを聞き遂げ、人々に豊作と無事を約束した。


古代ギリシアのコロセウムでお芝居が行われていた頃、
コロス(語り部)と呼ばれる役割の人たちが、ト書きを読んだり歌を歌っていた。
現在のコーラスの語源であり、木々のざわめきを口で表現したりする。


近年の演劇は非常に多様化しており、
演劇の三要素に、音響効果、照明効果、美術効果を含めて考える人もいるが、
私はこれらを、三要素に含めない。


効果音はなくともかまわない。なくともできるではないか。
太陽が照っていれば明かりはいらず、暗闇の中で物語が展開する芝居もある。
脚本もいらない。即興劇に脚本など存在しない。
言葉もいらない。言葉がなくとも、物語は紡げる。無言劇がそうである。
演出がなくとも、役者が中から作品を作ることが可能である。
そもそも演出という職業が生まれたのは、100年ほど前である。


では、お芝居を料理に例えて考えてみよう。

むき出しの野菜を皿に盛りお客に提供したとしても、それは料理である。
役者は、その料理の素材となる。鮮度が落ちていては、美味しくない。

特殊効果は、スパイスではないかと思う。

スパイスが効きすぎた料理は、その印象しか残らない。
あの黒胡椒が効いていた。というのはありだが、
胡椒の味しかしなかった料理は、失敗である。

では演出とは、何に当たるのだろうか。

演出がコックであると考える人もいるだろう。
確かに、そういう演出家もいる。


しかし、演技指導は演出家の役割の一つであるが、全体ではない。


私の考える演出とは、オーナーに近いのかも知れない。
その空間でどうその料理を提供し、どう帰って行って欲しいのか。


限りなく表に出なく、至高の時間を提供したい。

そんな演出家になりたいものである。
【生き方】 大きな運は、後ろからやってくる
あけましておめでとうございます。
年末年始は、札幌の実家で過ごしていました。

年があけて4日のことです。
母が、どこからか年末ジャンボを出してきました。

なんでも、銀行の定期預金の利子を、
宝くじでかわりに受け取るようにしているとのこと。

母は新聞をがさがさとひらき、当選番号を確認しつつ、
「おしぃっ!!!」と、ひとこと。

なんと1等の当選番号が、120番違いだったのです。もちろん組もあってます。
うちに30枚届いていることを考えると、母の数人後の人が1億円。
もしくは、前後賞で3億円手に入れてたかも知れません。

その時わたしは、今年はなにかあるなと思いつつ、
昨年NHKで放映された、萩本欽一さんの特集番組を思い出していました。

 『大きな運は、後ろからやってくる。』
 
           萩本欽一さんの言葉です。

自分の目先をいくら探しても、大きな運なんか見つからない。
大きな運は、いつも自分の背後に生まれるんだ。



【前向き】という言葉があります。
きっと、前を向いて歩いている人の後ろに、大きな運は生まれ、
それは追い風となり、その人をより前へと推し進めるのでしょう。

 後ろ向きな時に自分の背後に大きな運が生まれ、
 そのまま勝手に先に行ってしまわないようにしなければいけない。

  また、帆に風を受け、前進する時、
  自分がどこに向かいたいのか、明確にしていなければ行けない。

さもなくば、せっかくの大きな風もただの突風となり、船が転覆するか、
もしくは、予期せぬ方向へ進路を誤るかも知れないですもんね。

 大きな運とは、棚からぼた餅なのかも知れません。

でも、誰かが言ってました。

ぼた餅がある神棚なんか、どこにでもあるわけじゃない。
ちゃんと神棚の下に行く努力をした人が、落ちてきたぼた餅を拾えるのだ。と。

 『さぁ、明日はどこに行こう。』

^-^)。本年も、どうぞよろしくお願いしますね。
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