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コントを演劇的に見る(5) - バナナマンの『hasty』
まずは、見て頂くのがいいかも知れません。

《バナナマンのコント『hasty』》


それでは、このコントを演劇的に考察していこうと思います。(いつものように敬称略で書かせて頂きます。)

今回は、コントの題名である『hasty』という単語に注目します。

題名の「hasty」は、「急な。気が早い。」という意味です。これは単に「突発的」という意味ではありません。
別な訳を与えるならば、日村が何度か言っている「まだ早い。」という言葉が一番的確かと思います。

私はこの「まだ早い。」が、このコントが演劇的と感じる重要なポイントだと考えています。
「まだ早い。」というのは、「その発言は言ってもいいけど、言うのはまだ早いんじゃない?」という事ですよね。

つまりこのコントは、不条理な発言を続ける男の、実際にはあり得ない話ではなく、
距離感をつかめていない男の、実際にあり得る話になっている点が、ポイントなのです。

もしこのコントが、いかに突発的に変なことを言うかを追求したコントであるならば、
設楽が単に不条理な言葉を連発するだけの、舞台上にバカがいるだけのコントになってしまったことでしょう。

バナナマンの二人は、わかっているのです。
「まだ早い。」を形にしていくには、二人の関係性を綿密に描いていかなければならないという事を。


二人の演技がすごい点は、熱量の蓄積ができている点です。
熱量の蓄積をもう少しわかりやすく言うならば、「日村の怒りの蓄積」と思って頂ければ良いと思います。

設楽の発言に対して、日村がいらだちを示すという流れが、終始行われるわけですが、
一般的には、「設楽が言う(ボケる)→日村が答える(つっこむ)→リセット」を繰り返す事が多いのです。

例えばいわゆる『天丼+ノリつっこみ』の場合、知らず知らず同じ展開が繰り返す事が面白いというのはわかると思います。
しかし、同じ事を繰り返す際に、全く新鮮な気持ちで相手の話に乗っかるために、
今まで登場人物に与えられてきた負荷を、リセットしてしまうことが多いのです。

コントが「言ってることが面白いだけ」と思われてしまうことが多いのも、この点にあります。

今回のコントでは、同じようなことが起きているにも関わらず、日村の精神的負荷は蓄積されていきます。
バナナマンのコントには熱量の蓄積があるからこそ、人間の成長を描く事ができ、だからこそ演劇的であると言えるのです。

このコントで日村は、「もういいよ。」とは、絶対に言いません。
日村は、あきらめないのです。だからこそ、日村に蓄積された熱量が逃げていかないのです。


会話とは、言葉のキャッチボールです。
この言葉のキャッチボールには、想定されるダメなケースが存在します。

◆1.設楽が複数のボールを投げるケース
   設楽がどんだけ変な玉を投げたか(どんだけ面白い事を言ったか)を楽しむしかないコントになります。
   もしくは、日村がどんだけオーバーリアクションしたかを楽しむしかないコントになります。

◆2.設楽も日村も、相手のボールを無視して互いに投げ続けるケース。
   段取りで、自分の順番が来たから台詞を言ったというだけのコントになります。
   要は会話が成り立ってないという印象を受けることになります。

◆3.日村が複数のボールを投げるケース
   日村が投げた玉を、設楽がひたすら無視することになり、設楽がただの変人になります。
   日村は変な人に遭遇してしまった、運の悪い人なってしまい、次第にどうでもよくなってきます。


このコントの言葉のキャッチボールが絶妙なのは、
この二人は1つのボールを、ものすごいところに投げ合って会話を成立させているからです。

日村はあきらめないからこそ、どんな玉にも飛びついて取ります。
しかも日村は、玉をもらってから自己完結しません。必ず設楽に玉を返します。

だからこそ、二人の関係性が見えてくるのです。

例えば、コントの中で何度も登場する「急」という言葉ですが、「ちょっと急」「急」「すげぇ急」と変化していきます。
この「急」というフレーズが持ってるスピードの変化も、日村は意識して使っています。

日村は設楽の言葉の緩急を認識した上で、相手に言葉を投げ返しているのです。


ちなみに日村は、07:12に「てめぇ頭おかしいのかよ。」とまで言います。


「てめぇ頭おかしいのかよ。」は、つっこみとしては、ある意味、どんな場でも使える言葉だと思います。
しかし、この言葉は諸刃の剣だと思うのです。

コントにおいて、「てめぇ頭おかしいのかよ。」は、それを言ってはおしまいの言葉とも言えると思うのです。
しかし、このコントにおいては、とても自然な日村の言葉として、成立しています。

私は「てめぇ頭おかしいのかよ。」という言葉が成立している時点で、このコントは間違いなく演劇であると感じるのです。


ベネズエラ、やばい。笑い死ぬ。
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「夢であいましょう」と「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」
何年か前のNHKの番組で、大橋巨泉さんが出演されており、NHKの夢であいましょうについて語っていました。

NHKアーカイブス-番組を語るシリーズ3回目 ←これでした。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2010/101121.html



夢であいましょうは、NHKの放送作家であった、永六輔さんの番組。
昭和36年(1961年)4月8日~昭和41年(1966年)4月2日にかけて放送。

当時、民放の放送作家であった大橋巨泉さんは、この番組を見て、「やられた。」と思ったそうです。


「夢であいましょう」の放送時間は30分。毎回、生放送。スタジオからの生中継。

バラエティと言っても、今の芸人さんが自分の私生活をトークするものではなく、
かといって、30分間コントを見せ続けるわけでもありません。

歌あり、コントあり、詩の朗読あり、『今月の歌』というコーナーで歌う、歌の歌詞も永六輔さんが手がけ、
「こんにちは赤ちゃん」や「上を向いて歩こう」も、この番組のコーナーから生まれました。


Wikipediaの「夢であいましょう」には、こうあります。

>番組には毎回ごとのテーマが設けられて、これに沿ったショートコントで進行し、
>その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などが挿入された。
>歌手のコント出演や、コメディアンの歌唱などの企画は、後続のバラエティーショー番組の原型となった。


そもそもバラエティ(Variety)という単語は、「変種・品種・変化・多様性・寄せ集め」の意味です。
バラエティに富むというフレーズがあるように、多種多様な魅力を詰め合わせた番組が、「夢であいましょう」だったのです。


《夢であいましょう-短縮版-》← アーカイブで紹介された回とは別です。

夢で逢いましょう Yume de Aimashou 投稿者 rakushisha


この番組を、生でやってるというから、すごい。


この夢であいましょうに触発され、
大橋巨泉さんが自分で作ったのが、日本テレビ系列で放送された『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』です。

(1969年10月7日~1970年3月31日)及び(1970年10月6日~1971年3月30日)にかけて放送。


大橋巨泉さんは、役者を集めてバラエティをやることを重要視したそうです。


Wikipediaの「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」には、こうあります。

>進行は台本に完全に忠実でアドリブは一切許されず、一見雑談に見えるような所でも全て台本どおり展開されていた。
>前田武彦が一言二言アドリブをいれただけで「台本どおりにやれ。」と怒鳴られた程であったという

だからこそ、アドリブによる笑いや、ハプニングによる笑いを避けたのでしょう。


大橋巨泉さんは、アドリブによる笑いや、ハプニングによる笑いが、いけないと言っているわけではないと思うのです。
作り込まれた笑いには、上記にはない魅力があり、それを大切にしたと言うことだと思っています。


それでは、ご覧下さい。


《ゲバゲバ90分(1)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 1 投稿者 devo12120928

《ゲバゲバ90分(2)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 2 投稿者 devo12120928

《ゲバゲバ90分(3)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 3 投稿者 devo12120928


安心して笑えますよね。

これを作った人たちの才能に、改めてびびります。
コントを演劇的に見る(4) - バナナマンの『LAZY』
このコントを、演劇的だと感じる点を9つあげておきます。

◆1.明かりが付いていない段階から台詞が始まる。明かりが付く前から、物語は続いている事を想像させる。

◆2.ここがどこで相手が誰なのか、なぜこのような自体になっているかを、いきなり説明しない。つまり設定を設定として説明しない。
   何が起きているのか特定されない漠然とした情報から、
   個人を特定される情報(登場人物の名前や役割)へと徐々に情報を開示していくことで、
   観客は、物語を自主的に追いかけようとする。観客の想像力を駆り立てて物語へ引き込む、効果的な手法である。

◆3.設楽が横になってコーヒーを飲むシーンなど、一般的なコントに見られる体の緊張はなく、非常にリラックスしている。
   台詞をウケを狙って意図的に言うのではなく、物語の世界に、その役としている事をなによりも優先している。
   そのため、声の強弱・高低・緩急・広角と鋭角・意図的に崩した音など、二人の出している音のバリエーションが非常に多い。

◆4.自分の台詞が相手の台詞にかぶさることも、物語の自然な流れであれば恐れない。
   どこが面白いかという情報を伝えることよりも、会話を成立させることを優先している。
   だからこそ、台詞をかんでも気にしない。うまく伝わらなかったら、言い直せば問題ないのである。

◆5.設楽がだるまのTシャツを見つけてしまうことで観客が目撃者になるが、その認識の差を安易に埋めない。
   やはりあったことが面白いだけではない。二人の認識の差が、その後の二人の行動に、どう影響するかが目が離せない。
   つまり、あったというハプニングが面白いだけではなく、その後の二人の関係が、どうなっていくかが面白いのである。

◆6.二人のステータスの違いを明確にして、二人の関係性を描く作品はよく見かけるが、
   通常はそのステータス(どちらが立場が上か・どちらに発言力があるか)は変動しない。
   この作品は、本来対等であった二人の関係が、物語が進むに連れステータスの上下が定義され、
   物語の進行において、それが何度も入れ替わる。
   ボケと突っ込みが入れ替わるのではなく、二人のステータスが何度も入れ替わる点が、すばらしい。

◆7.(5/5)の展開は少々突飛である。ただし、日村の話が本当かも知れないし、
   ひょっとすると嘘かも知れないが、観客はそこを含めて受け入れてしまう。
   観客にとっては、もはや本当でも嘘でもいいのだと思う。日村と設楽を見たいのである。

◆8.全編を通しての観客の笑っているポイントを細かく観察すると、観客の笑って瞬間は、まとまっていない。
   言っていることが面白いのではない。物語から紡ぎ出される、二人の関係性が面白いのである。
   だからこそ、お客さんが笑うタイミングは、一つに集約されない。

◆9.物語の最初と最後で、状況の変化だけではなく、人間の成長が描かれている。



最後に起きる観客の拍手は、本当の賞賛であろうと思わせるほど力強く、説得力がある。

ここまで書いてて気付いたが、バナナマンのコントが演劇的なのもあるが、
最近の芝居が、コント的になってしまっているんでしょうね。

いやぁ。バナナマンおもしろい。

1/5


2/5


3/5


4/5


5/5
コントを演劇的に見る(3) - バナナマンの『宮沢さんとメシ』
またバナナマンのコントで、インターバルをとります。

このコントを、演劇的だと感じる点を4つあげておきます。

◆1.演者が二人の物理的な距離が、二人の精神的な距離(親密度)にも影響していることを理解した上で、
   二人の関係性を描く上で必要な物理的な距離を、舞台上でも的確にとっている。

◆2.言葉尻ひとつ、イントネーションひとつで、言葉の意味が全然変わってしまうことは、
   日常も舞台上も同じだという事を理解して、細密なリアクションで話が紡がれる。

◆3.不条理に対して、単純に『キレル』という行為に終始しない。
   人がどう怒りを表し、どう受け入れるかを、バリエーションを持って再現する。

◆4.『物語の世界における時間の進むスピード』が、『観客の体内時間の進むスピード』と一致する。
   照明が付いてから、消えるまでの(1シーン)中で、演者の都合で時間をワープしたと感じさせない。



コントを演劇的に見る(2) - バナナマンの『Are you satisfied now?』
ここのところ美術史について書いてきましたが、
『写意』についてまとめる段階で苦戦してますので、
バナナマンのコントで、一回インターバルをとります。


satisfiedという単語は、「満足した。満ち足りた。」という意味。
題名の『Are you satisfied now?』は、『これで満足したか?』という意味になります。

非常に演劇的な作品です。1/2と2/2と、続けてどうぞ。



コントを演劇的に見る - バナナマンの『WANDER MOON』
バナナマンの『WANDER MOON』



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00:00
冒頭、日村が振り向いて「きれいな月だなぁ。」と言う。
常に正面を向いて話を進めるスタイルの、漫才ではないということを客は理解する。

また、冒頭で客が月を認識することにより、
月と日村の位置関係(距離)を理解し、舞台の外にも空間が広がっていると想像する。

この月を、日村が客席後方に視線を送り、無対称芝居で客に感じさせることもできる。

しかし、無対称芝居を行う場合、そこに月はあるものとしてほしいと、
舞台の約束事項を、客に押しつける事にもなりかねない。

「きれいな月だなぁ。」の台詞が説明となっていないのも、
振り向いて言葉が口から漏れるまでの流れを丁寧に行い、しっかりと成立させているからであろう。

またこの物語は、日村が、すでに月を見ている状態からはじめることもできたはずだ。

日村が月を見ている状態からはじまった方が、情緒は生まれるかも知れない。

しかし、仮に後ろを向いた状態で始まった場合、
月を見ているところからはじまったという状況は説明しやすいが、
明かりが入ってきたとき、すでにどれほど月を見ていたのかはわからない。

冒頭、正面から振り向くという行為が、物語のスタートを明確にし、
その後の「きれいな月だなぁ。」を言うまでの間が有効に働いている。
振り向いて台詞を言う事で、導入部の時間短縮に成功しているのだ。


また「きれいな月だなぁ」という台詞は、
思わず口に出た言葉なのか、それとも誰かに向けて発した言葉なのか、
最初の一瞬だけでは、判別することはできない。

しかし、このあと「うん(納得。」と自己完結することにより、
「きれいな月だなぁ」は、思わず口に出た言葉だとわかる。

しかも月が出ていることから、舞台上は夜であり、
夜に大きな声で「きれいな月だなぁ」と言えるほど、
周りに他に人がいない場所であり、
そんな中でも、大きな声で感動を言葉にできるほど、
日村は、純粋な存在である事を、客に瞬時に理解させている。



00:26
その後、日村はかみしも(上手・下手)に友人を探す。
相手を探す際に左右に体を揺らし、背伸びをすることで、
そこに遮蔽物が存在し、その視線の運びを細かく再現することで、
舞台の外に空間が広がっている事を、客にしっかりと想像させている。



00:29
ここに設楽が現れるが、設楽が近づくにつれて、日村は声のトーンを徐々に下げている。
これは、舞台上に明確な物理的距離感が存在していることを客に理解させている。



00:38
日村は「いきなりしゃべり始めるのかよ。」をしっかりと設楽を見て言う。

ここには、相手(設楽)と自分(日村)しかいなく、
ここで客席に「こいつおかしいでしょ」と同意を求める事をしない。

しっかりと相手を見て言うという行為が、このコントを、より演劇的なものにしている。

また設楽が日村を指す右手を、日村はさりげなく押している。

これは、設楽の指が、日村のテリトリーを犯しており、
日村が、設楽の指さし行為を「うざい」と感じたことを、さりげなく提示している。
つまり、日村は設楽にそこまで近づいて欲しくないのだ。

この物理的距離感をいきなり埋めてくるという行為が、
設楽の「空気の読めなさ。」のひとつの象徴である。

また日村は、設楽の手を押しのけるも、その後にすぐ謝罪をする。

日村は設楽にイラッとしたが、
日村がおりてきて、二人の関係は対等なのである。

だからこそ日村は、決して設楽を見下しているのではなく、設楽とは友人なのである。



00:44
ここから、設楽のゴムホースの話がはじまる。



01:15
あたりから、客席が笑いはじめる。
設楽の話はまだ途中である。途中なのに客席が笑いはじめるのは、
日村のリアクションを見て、笑っているのである。

では日村はオーバーリアクションをしているのかというと、そうではない。
日村は、設楽の話を聞いているだけである。

では、日村が設楽の話をだまって聞いているのが、なぜおかしいのか。

日村は、それゴムホースだよね。と思って話を聞いている。
そのことでストレスが貯まっていく日村を、客は見て笑っている。

だからこそ設楽の話の途中から、客の視線は、日村の表情を追う。

この設楽の話を聞く数秒間に、日村の変化がしっかりと描かれている。
この心の変化は、小さいことだがドラマである。

また、この設楽の話は、話のオチを想像させながら進む。
つまり、客も日村も「ゴムホースの話だよね。」と思って設楽の話を聞いている。

この先を想像させて、期待を裏切るのか、はたまた期待を裏切らないのか。
物語の先を想像させて、そこに追いついてくるあたりが、
このコントが、非常に演劇的だと感じる、重要な要素だと思う。

01:58
設楽がゴムホースだったという話のオチを聞いた時点で、
客は『そうだよね。ゴムホースだよね(笑。』と安心して笑う。

そしてその後の日村の「へたくそか、お前」で、よくぞ言ったと、客はすっきりする。

言ってることがただ面白いのではない。
二人の関係性が、面白いのである。



00:13
「ゴムホースだったんだよ。だよ。」
この台詞の、最後の繰り返しの「だよ。」
この「だよ。」には、日村の何とも言えない感情が、しっかりと込められている。

この「だよ。」は、「わかれよ。」の意味なのかも知れない。

では、「わかれよ。」と言えばいいというかというと、そうではない。

『だよ。』ですませるあたりに、
日村と設楽の、二人の距離の近さが表れている。


長くなりそうなので、とりあえず、ここまでにします。

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演劇は、連続する時間の中で、登場人物の関係性を紡ぎ、
物語の最初と最後における人の変化を、ドラマとして描くのだと、思っています。
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