スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010年11月頃の話になります。
今、今一度、一歩を踏み出すにあたり、
どうしても過去の自分の事を書いて整理したい思いに駆られています。

あの時の自分の事を吐き出して、ちょっとだけ身軽になりたいのです。
自分勝手な理由ですみません。

なんで今更の、約6年前の2010年11月頃の話を書きます。

あの頃の私は、秋葉原のパソコンのパーツショップで働いていました。
2階フロアでバイトしていた私は、閉店後の店舗で落とし物のSuicaを拾いました。

それは男子高校生のものだったらしく、
社員さんにSuicaが落ちていた事を報告したところ、
「そんなもの捨ててしまえ」と言われました。

最初は何を言ってるんだと耳を疑いましたが、
社員さんの言い分としては、
落とし物の社内処理をするのが面倒だから、レジ横のゴミ箱に捨てろというのです。

私が「いや、でも、これ定期でまだ期限も残ってますし…」と答えると、
社員さんは、「そんなものJRで無くしたって言えば、再発行できるだろう」と言うのです。

私は「でも、なかにチャージが残ってるかも知れないですし…」と言うと、
社員さんは、「そんなもの、俺らが気にする必要はない。」と。

社員さんに、「いつまで突っ立ってんだ。閉店後の商品補充するから、
はやく捨ててこい。お前の時給は誰が払ってると思ってるんだ。」と言われるものの、
私は、「でも、ここに置いておきますね。」とレジ裏の棚に私はSuicaを置きました。

それを見た社員さんは、Suicaを手に取り、ゴミ箱に放り込みました。
「捨てろって、いってんだろうが!!!」
私は、それを拾い直す事ができなかった。

6年以上たった今でも、あの時の事が後悔として残っています。
本当にごめんなさい。私はこの事を一生忘れません。

そして、もし同じような事があれば、
例え誰になんと言われようと、落とし主に届ける努力をする事を誓います。

あの時の高校生の人、本当に、ごめんなさい。
あの時の自分は、弱かったんです。

結局、その店ですが、2010年の12月に辞めました。
ていうか、潰れました。なので、今はもうありません。

なんか、そのショップの親会社が脱税していたらしく、
ある日に出社すると、事務所に黒いスーツの男の人たちがわんさかいまして、
いったい何が起こったかと思ったんですが、
国税局の査察部が会社に入り、子会社である店舗の運転資金を差し押さえたんです。

その後、店舗は資金繰りに行き詰まり、PCパーツショップは12月末に倒産しました。

ある日の朝に出社すると、朝礼で倒産が発表され、
希望者は店舗を買収した別会社へ全員就職できると説明がありました。

私はこのショップの社員さんと二度と仕事したくないと思い、
斡旋された別会社への再就職の手続きは取りませんでした。

「ざまぁみろ」と心で叫んで、私は1番最初に退社しました。

あの日はすがすがしかったなぁ。

結局、会社都合での失業で失業保険を翌月からもらうことができたため、
せっかくなので新しい事にチャレンジしようと、
職業訓練でホームヘルパー2級を取りに行く事にしました。

そんな事がありました。という話です。
スポンサーサイト
奇跡の国・日本の海
私は北海道出身です。

子どもの頃は、ウニを取って食べていました。
ちなみに北海道で取れるウニは、主に2種類あります。

北海道様似郡様似町(さまにまち)の、様似郷土館のスタッフブログさんから画像を拝借。
上がムラサキウニで、下がバフンウニ(馬糞ウニ)です。


上がムラサキウニで、下がバフンウニ(馬糞ウニ)です。


二つのウニは、色も違いますが、

『ムラサキウニ』:栗みたいにトゲが長い
 『バフンウニ』:タワシみたいにトゲが短い

と覚えると、良いかもしれません。


このバフンウニが、うまいんですよ。
ムラサキウニは、取っても海に捨ててました。

※ちなみに、子どもの頃の私の密漁は時効ですが、今それをやると普通に捕まるそうですので、ご注意下さい。


なんで馬糞ウニが美味しいのか、子どもの頃はわからなかったんですが、
なんでも、馬糞ウニは昆布を好んで食べるので、うまみが凝縮するのだとか。

子どもの頃はじいちゃんが取ってきた昆布を普通に食べてましたが、
日高昆布(ひだかこんぶ)や羅臼昆布(らうすこんぶ)とか、利尻昆布(りしりこんぶ)とか、有名ですもんね。

この昆布、寒いところでしか育たないらしく、
南に行くと昆布が取れなくなり、自然と馬糞ウニもいなくなるのだそうです。


では、話を変えて、画像をご覧下さい。

2012年5月14日(昨日)の海の温度のデータです。

《海洋地図-世界の海水の温度》
《海洋地図-世界の海水の温度》

ウエザー・アンダーグラウンド:http://www.wunderground.com/MAR/


日本を見つけましたでしょうか。


お気づきでしょうか。


日本はこんなに小さいのに、紫から赤まで、すべての温度の海洋を持っているんです。
こんな世界に類を見ない豊かな海に面していたら、そりゃ海産物がうまいわけですよ。

ちなみに日本の伝統文化の茶道。

韓国では、戦後の技術開発で、お茶の木を育てられるようになったらしいですが、
日本より若干北緯に位置するだけで、お茶の木は普通は育たないのだそうです。

日本の風土の、様々な条件の奇跡的な組み合わせが、日本文化を培ったんでしょうね。


さて。


最近、NHKのBSで再放送されている、『篤姫』を見ているんです。

幕末のドラマを見ていると、
日本は開国しないと日本は占領されてしまう、世界からみたらちっぽけな国である。
と、そんな印象ばかりですが、

19世紀前半の世界の大都市として、ロンドン、パリ、北京などがあげられますが、
産業革命でロンドンが江戸を抜くまでは、なんと江戸が世界で一番人口が多い都市だったのだそうです。

そりゃ、アメリカもイギリスもオランダもフランスも、日本と交易したいって来るわけですよ。



別番組ですが、赤道直下の国の人々に日本の四季折々の写真を見せたところ、
こんな幻想的な国はあるのかと、驚いてました。

ミシュランガイドでも、東京が世界で一番三つ星を獲得している都市なんでしたっけ。


私は、せっかく日本人に生まれたのだから、
流行を追いかけるだけではなく、日本人である事を、もっと楽しめないかなと、日々思うのでした。
クリエイティブに生きるその先に
『良い大学に行けば、幸福な人生を歩めるなんて幻想だ。』

この考え方を、私はいつ手に入れたのか、覚えていない。


学校教育の中で、そう教えられたのか、
それとも父が、そう言っていたのか。

社会への抵抗の意味で、自分にそう言い聞かせたのか。
はたまた、コンプレックスを持つ自分を弁護する意味で、そう言い始めたのか。


私は、いつのまにか、そう考えるようになっていた。




『人生は、お金が全てではない。』


これもまた、いつの間にやら、私が受け入れていた哲学である。



私は大人になっても「お金がある≠幸福である」という考え方は捨てなかったが、
ただ消費して終わる人生ではなく、クリエイティブに生きようと思うようになった。


私は自身のブログで、そのことについて触れている。

【生き方】クリエイティブに生きると言う事 (2010/06/10)



 しかし、私の中で、引っかかっていたことがあった。

 ふと、思い出す記憶がある。もう、何年も前の話だ。



誰の友人であったか知人であったか、もう忘れたが、
私は、友人が連れてきた大学生と、私の部屋で酒を飲んでいた。

その大学生は、
『自分は大学を出て、吉野家で牛丼を作るような大人になりたくはない。』と言い、
私たちは、『仕事に優劣はない。』と彼に説いた。


確かに私は、『仕事に優劣はない。』と彼に言ったが、
もしベルトコンベアで運ばれてくる荷物をトラックに積む仕事を一生しろと言われたら、
おそらく私は拒否するだろう。

『仕事に優劣はない。』と言った私ではあるが、
やりたい仕事と、やりたくない仕事は、確かにある。


では、お前は、なぜその仕事をやりたくないのかと、自らに問い直せば、


『別に楽な仕事を選びたいわけではない。
 クリエイティブでない仕事は、興味がわかないから。』という考えに至った。


  -でもそれって、優劣を付けているって事だよね。-


私は仕事に優劣を付けてしまっているのか。

いや、違う。そういう事ではない。


  ※荷物の運搬がクリエイティブではないと決めつけて済みません。そこは流して下さい。



父が好きであった言葉に、
『一隅を照らす、これ則ち国宝なり』(いちぐうをてらす、これすなわちこくほうなり)、というのがある。

天台宗の開祖、最澄の言葉である。

意味としては、

 花ならば、置かれたところで咲きなさい。
 中心で大きく輝かなくとも、片隅をしっかりと照らし続ける生き方は、国の宝である。


と言う意味になろうか。


私は、荷積みの仕事も、まさにこれだと思っている。


言ってしまえば、地味な仕事かも知れない。
しかし、一隅を照らしている人生であれば、今の私よりも、幸福に近いところにある気さえしてくる。



必ずしも、クリエイティブに生きる人生が優れているわけではない。

人は、輝いてさえいればいいのだ。



クリエイティブに生きると言う事は、
閃光のように眩しい輝きとなって、華々しく目に飛び込んでくるイメージがある。


しかし、例え地味な仕事をしていても、
大切な人を守ろうとし、他人の幸福をも願う人生は、優しい光を放っている。


震災で街のネオンは消えたが、
優しさと悲しみを分かち合った人々は、自らの中にある光に気が付いた。
その穏やかな光はぬくもりとなり、悲しみに寄り添った。
幸せは、確かにそばにあった。




 クリエイティブに生きるというのは、手段に過ぎない。



閃光でなくてかまわない。

穏やかに、そこにあればいい。


そうか。私は輝きではなく、ぬくもりを届けたいのか。
【私の生き方】いつ死んでも後悔するように生きる
先日のブログで『一期一会』に関して触れた。

実はあの話には、少しだけ続きがある。
今日は、そのことを記しておこうと思う。


 そこで、前回と同じ文章ではじめる。


私は好きな言葉を聞かれると『一期一会』と答えることにしている。

父がまだ生きていた頃に「好きな言葉はなんだ」と問われ、
私は、『一期一会』と答えた。

すると父に、「なんだ、普通だな。」と言われた。

そして、父はこう続けた。


「一期一会は俺も好きだ。
 だからこそ、いつ死んでも後悔しないように、俺は日々を一生懸命に生きる。」


と。


その時私は、しばらく考えて、こう言った。

『たぶん、僕と父さんは、考え方が違うんだと思う。
 僕は、いつ死んでも後悔するように、一生懸命生きる。』

すると父は、『なんだ、一緒じゃないか。』と言った。


父は、気持ちよくお酒を飲んでいたし、
私はその時、自分の違和感を言葉にする力を持ち合わせていなかった。
父と一緒と思われてもかまわないと、その時は、それ以上その話に触れなかった。

 父が言う、『いつ死んでも後悔しないように、日々を一生懸命に生きる。』
 私が言った『いつ死んでも後悔するように、 日々を一生懸命に生きる。』


一生懸命に生きる事は同じだ。では、どう違うのか。
今の自分ならば、言葉にできる。



そもそも、人は死ぬときに後悔はしたくないものだ。


父は、59歳という年齢で癌で死んだ。
『まだ生きたい』という強い思いを持ちながら、この世を去った。

それは、自分の死を受け入れることができず、短命である事を恨みながらの死であった。


私は、自分の死を受け入れられない父を批判するつもりはない。
しかし、父は、後悔するべくして、後悔したのだと思っている。


私も死ぬときは、後悔はしたくない。
それなのに、『いつ死んでも後悔するように生きる』とは、矛盾していると思われて当然だろう。

ただ、私には、私の考えの方が、結果的に後悔しない気がするのだ。



私は今までに、いくつもアルバイトを転々としてきた。
私のバイト仲間には、バイト先に対する不満を強く持っていて、
『辞めてやる。こんな会社潰れちまえ。』と言っている人を、何度も見てきた。

辞めて『やる』という言い回しには、
自分が辞めたことを『後悔させてやる。』という思いが込められている。


それを聞くたびに、
『別におまえが辞めたところで、会社は潰れたりしない。
 どんな会社も、誰かが辞めても、どうにかして続いていくものだ。
 そもそも、会社が潰れるときは、おまえが辞めなくても潰れる。』

と思っていたものだ。
と思っていたら、自分のバイト先が、誰も辞めないのに潰れた。


実は、この社会も同じである。
誰が死んでも、世界は続いていく。


私は、父の『いつ死んでも後悔しないように、日々を一生懸命に生きる。』という言い回しは、
今日をやりきったという思いを、自身が勝手に決めているように感じていた。

例え今日をやりきったとしても、明日をやり終えることができないなら、
それは結局、後悔するではないか。


しかも人は、終わったと思ったら、もっとやりたいという欲求が出てくるものだ。
そもそも1度の人生で、やりたいことをすべてやれる人生があるなど、私は信じていない。


私が言う、『いつ死んでも後悔するように、日々を一生懸命に生きる。』という言い回しは、
そもそも人生は、やり終えて終わるものではないという考えが、根底にある。


私がやり残した事は、他の人が引き継いでくれればいい。


その為に、私は一生懸命に生きる。

私のやりたいことを引き継いでくれる人がいれば、私は悔しいが、引退できる。



結果的に、いつ死んでも後悔するように生きた方が、結果的に後悔しないと思うのだ。



この事を、あの時の父に言葉にしてあげられなかった事は、私の後悔だ。

ただし、父から学んだ多くのことは、私が引き継いで、つないでいく。



だからこそ私は、つながっていく人生を選ぶのだ。


KAN『よければ一緒に』
【私の生き方】私のために生きた父
このブログは、父が死んだ2009年3月前後は、完全に更新が止まっている。
父の死から2年ちょっと。父の死ぬ間際の話を、少し書いておこうと思う。



父の癌が再発したことがわかったのは、2008年1月である。
当時、私は文学座の林田一高氏のプロジェクト団体である、
Trigger Line(トリガーライン)に所属をし、演出補として芝居の勉強をしていた。

急遽入院が決まった父の癌はすでにステージ4、
当時58歳であった父の癌の進行は速く、
抗がん剤使用の副作用は激しく、父はみるみるやせていった。

そして8ヶ月後の、2008年10月の時点で、
医者からは、いつ父の容態が急変してもおかしくないと言われていた。


父は、幾度もの抗がん剤使用で免疫が低下しており、
合併症を併発していたのである。


それでも、父は耐えた。


2009年2月下旬。

癌の再発がわかってから、すでに1年と1ヶ月がたっていた。
母は、いよいよ父は、危ないという。



2009年3月下旬に、私はトリガーラインのワークショップを控えていた。

トリガーラインに演出補として参加して、この時点で3年。
私ははじめて林田さんのもとで、
トリガーラインワークショップの短編の演出を取ってみないかと話を頂いていた。

たかが、1ワークショップの、数分の短編である。
ただし、私にとっては、大変貴重な機会であった。


この1年間、私は2ヶ月に1度の頻度で札幌にもどっていた。
そしてこの年は、正月にも札幌に帰っていた。

この時、父と母と、家族3人で写真を撮った。

そして、この正月の時点で、
今度は3月のワークショップが終わるまで帰れないと、
父にも、母にも伝えていた。



だからこそ私は、「3月に入ると帰れない。」と電話で伝えた。
母は、「わかっている。」と答えた。

そして、母はこう切り出した。

『もし、お父さんがあなたが帰ってくる前に他界した場合、
 お兄さん(父の兄・私の伯父)は、自分が施主をやるので、
 哲行は戻ってこなくても大丈夫だと、哲行に伝えてくれって言っている。

 でも私(私の母)は、もしお父さんがあなたが帰ってくる前に他界した場合は、
 お父さんの遺体を冷凍保存して、あなたが帰ってくるまで葬儀を待つつもりでいるから、
 あなたは安心して、精一杯、公演(ワークショップ)に打ち込みなさい。』


ワークショップとは、体を使って一定期間トレーニングをする、勉強会のようなものである。


ワークショップで演出を取るということは、
言ってしまえば、発表会で演出を取ることに等しくもある。

私は自分で劇団を主宰した事もあり、規模で言うならもっと大きな公演を打ってきた。

ただし、私にとってこのワークショップは特別なものであり、
母と伯父は、そこを理解してくれていた。



2009年3/20(土)~3/22(日)、
3日間のトリガーラインのワークショップは無事終わり、
私が札幌のホスピス、東札幌病院に駆けつけたのは、2009年の3/23(月)であった。

私が戻ってきて父と面会して言った第一声は、
「なんだ。思ったより元気そうで、安心したよ。」であった。

3/23(月)は、WBC第2回大会が開催されており、日本が韓国に勝った日であった。
野球好きの父と野球の話をし、私は実家に帰宅した。

3/24(火)は、いよいよWBCの決勝だった。
午後に病院に顔を出した時点で、父はすでにうつらうつらしており、
夕方から父は、昏睡状態に入った。

3/25(水)早朝、父はいよいよ最期を迎えるだろうとなり、親戚中が、病院に駆けつけた。
しかし父は、急変する事無く、そのまま眠り続けた。

3/26(木)駆けつけられる親戚は面会できたが、
この状態が何日続くかわからないため、
親戚達には一度帰宅してもらい、母はこの日も一人、病院に泊まることにした。

3/27(金)午前10時すぎ、
母に、一度家に帰り、荷物を取ってきたいので、付き添いを交代して欲しいと言われた。

私が母と交代し、父と2人で病室にいたときに、父の鼻筋に、黒い血筋が二本流れた。

私が慌てて母の携帯に電話をかけると、
「私に電話する前に、すぐに看護師さんを呼びなさい。」と言って、母は電話を切った。

私がナースコールを押すと看護師はすぐに現れ、
看護師は父を見るなり「きれいにしましょうね。」と鼻から出ている血筋を拭き始めた。

私が、「呼吸は、もうしていないですよね。」と尋ねると、看護師は「ええ。」と静かに答えた。



担当医が来た。

担当医が「奥様は、どこに行きましたか」というので、私が、
「母は、いま荷物を取りに家に戻っており、まもなく戻ってきます。
母が戻ってくるまで、待って頂けますか。」と伝えると、
「わかりました。」と言って、担当医は席を外した。

母が病室に戻ってきた。

母は、父の手を取り、「頑張ったね。」と涙を流した。

そこに担当医が、再び現れた。



2009年3月27日、10時35分。父は、永眠した。



泣きじゃくる母を傍目に、私には父の死の実感がなかった。

私が、「伯父さんに連絡した方がいいよね。」と母に尋ねると、
母は、「そうして。」と泣きながら答えた。

そして私は伯父に、携帯で電話をかけた。



「今、父が、死にました。」



言葉にしたことで、すべてが、現実になってしまった気がした。
叔父との電話口、私は、嗚咽を止める事ができなかった。


===========================

葬儀の後、母から聞いた話である。


父は自分の死の一週間前ほど前から、
自分の死期が迫っているのを、自ら感じ取っていた。

2009年3月の時点で、再発からすでに1年以上。

当初入院した札幌医科大学から、ホスピスの東札幌病院に転移しており、
父の癌に、もはや治療手段が残されていない事は、
父が一番わかっていた。

3/20(土)~3/22(日)のワークショップがはじまる前の、3/19(金)の事である。

いつものように栄養剤の点滴を交換しに来た看護師さんの腕を掴み、
父は、泣きながらこう言ったという。

「どうか。
 どうかあと3日、生かしてほしい。
 今息子は、東京で非常に大事な公演を控えている。
 その息子が、あと3日で帰ってくる。
 だから、どうにかして、あと3日だけ、俺を生かしてほしい。」


この時点で父の体はすでにボロボロで、抗がん剤治療は再開できていなかった。
自分にはすでに、栄養剤しか投与されていないことを、父は知っていた。

高等学校の進路指導部長として、そして教頭として、
生徒達に怖いと恐れられていた父が、
涙を流しながら、看護師に3日の延命を懇願した。

===========================

自分の為に生きるのが正しいのか、
他人の為に生きるのが正しいのか、私にはわからない。


父は、私のために最期まで生きた。

私も、誰かのために、最期まで生きようと思う。
【私の生き方】一期一会
最近自分の周りで耳にする、
「縁を結ぶ」「縁が切れる」という言葉。

私は両方とも嫌いだ。


私は好きな言葉を聞かれると『一期一会』と答えることにしている。

父がまだ生きていた頃に「好きな言葉はなんだ」と問われ、
私は、『一期一会』と答えた。

すると父に、「なんだ、普通だな。」と言われた。

確かに普通である。
ただし、当たり前な事ではない。



人は、ご縁を結んだことを喜ぶ。

ただし、そのご縁に本当に感謝しているだろうか。
今も感謝し続けているだろうか。

そもそもご縁を、今後のために大事にするから色々面倒になるのである。
『一期一会』とは、今を大事にすることである。


そして、縁を切ったという表現がこれまた腹立たしい。
そもそも切れるなら、そんなもの縁ではないではないか。

自分に都合の良い物しか『縁』として考えないから、
縁は、勝手に切れるものだと勘違いしている気がする。

そして、そういう人こそ、
勝手に一人になって、一人で勝手に社会を恨む気がするのだ。



愛が人に力をくれるのは、エネルギーを循環させるからだ。
愛を与え、愛をもらう。だから減らない。
あなたは勝手に、一人になってはいけない。


『一期一会』

今が良ければそれでいい、という考えでない。
今は過去の延長にあり、未来が決まる。

今を本当に大事にするということは、
過去の過ちを認め、過去に感謝をし、今を創造していく事である。

今だけを大事にしていくのではない。
いままでも、これからも大事にするからこそ『一期一会』なのだと思う。



 ご縁とは「結ぶもの」でも「切るもの」でもない。
 ご縁とは「あるもの」である。


 本人が望む、望まずに関わらず、ご縁とは、「あり続けるもの」なのである。


あなたとのこのご縁、あなたが望む望まずに関わらず、
ここに確かに存在し、つながっていく。

私は、そう信じている。
【私の生き方】一級品
先日、NHKのドキュメント番組『わたしが子どもだったころ』の、
小池栄子さんの回を見る機会があり、
再現VTRの中で、小池さんのお父さんが、こんなことを言っていた。

『Not the Best,But the first.』

 一番は自分が決めたもの。
 一級は他人が決めるもの。

 一番である必要はない。一級品になりなさい。


そうか。



一級であることは、つながっていくことなのですね。
【私の生き方】自分の好きになる相手は、遺伝子が決めている。
先週の『武田鉄矢の週刊鉄学』の中で遺伝子に関する話をしていました。
ちょっと面白かったので、今回はその話を。

ちなみに芝居の話とは全く関係ありません。


まずは『肩が凝るのは遺伝子的(脳科学的)に説明できる』という話。


原始時代、人はいつ猛獣に襲われるかわからない中で生活をしていました。

 それは時に、オオカミであり、熊であり。
 地域によっては、ライオンであり、豹であり。


猛獣達は、攻撃の際に首を狙います。

 首にある内頸動脈を噛み切ることで、
 大量出血をさせて脳貧血を起こさせ、敵(人)を仕留めるためです。

その為に人は、もし噛みつかれたとしても大量出血をしないように、
ストレスを感じると、首の筋肉を固くする遺伝子を持っているというのです。


ちなみに人が緊張すると、手や足に汗をかくのも、同じ原理なのだそうです。

人の祖先は、木の上で生活をしていました。
そのような生活の中では、手のひらや足の裏に汗を出して、木々をしっかりと掴む必要がありました。

原始時代も、人は木の棒を持って猛獣と戦っていました。
この場合も、棒がすっぽ抜けないように手に汗をかくことが重要だったのです。


遺伝子が変わるには、数万年から数十万年かかると言われています。


つまり人の遺伝子は、原始時代とほとんど変化していないのに、
文化は日々刻々と変化しているにもかかわらず、
人は昔の遺伝子のままに、大変ハードな現代を生きているというのです。


ただし人は、何十万年の間、遺伝子を適応させることだけをしてきたわけではありません。


人類は今も滅んでいませんが、実は人にも様々な種族が存在しており、
環境に適応できなかった種族は、すでに滅んでいるというのです。

その為、現代に生きている我々は、
人の中でも、環境に適応できた、優秀な遺伝子の末裔だというのです。


さて、難しい話で申し訳ないですが、私が面白かったのは、実は次の話。


なんでも『自分の好きになる相手も、遺伝子が決めている。』というのです。


原始時代、人は過酷な環境を生き抜いていました。


人は他の生物と同じように、自分の遺伝子を残していくという本能を持っています。
人は自分の遺伝子を残す為に、常に後世に残れる遺伝子を求めて、配偶者を決めていたというのです。

 今の環境が、自分にあっていないと感じるなら、配偶者には『自分と違う遺伝子』を求めてきた。
 今の環境が、自分にあっていると感じるのなら、配偶者にも『自分と同じ遺伝子』を求めてきた。

というのです。


現代においても、

  ストレスを感じている時は、自分と違うタイプの配偶者を求める。
 ストレスを感じていない時は、自分と同じタイプの配偶者を求める。

といった実験結果が出ているというのです。


しかも、相手を見抜く能力には、男女差があり、
相手を見抜く能力は、圧倒的に女性の方が高いというのです。

原始時代、一夫一婦制でなかった時代は、
男は、子どもを産んでくれる女性を見つければ良かっただけですが、
女性にとっては、子どもを出産することは大変な労力を伴い、
特に子どもを出産して3年は、相手の男性が食べ物を運んできてくれないと、生き抜けませんでした。


そこで女性は、配偶者が自分を食べさせていく人かどうかを、見抜く必要があったというのです。


ちなみに女性の場合は、
子どもが生まれて3年経つと『もう相手はいなくても良いよ』という感情が生まれてくるらしく、
女性が出産後にモンスターになるというのは、脳科学的に正しいそうです。


 考えて見れば、私が遠距離恋愛をはじめた頃は、
 私は東京に全く適応しきれてませんでしたので、
 長年付き合ってきた彼女と、終わりにしようと思ったのは、まさにこれだなぁと。


でも、武田鉄矢さんも番組内でそれっぽいことを言っておりましたが、
人間の行動を脳科学的に説明してもらえることで安心できる部分と、
脳科学的に説明して欲しくないという思いが、混在しますよね。

 このような脳科学的な分析は、別れを整理するときに有効かも知れませんが、
 恋愛している間は、盲目であばたもえくぼでいいんでしょうね。

やはり『ご縁』に感謝して、今を充実させるのが、一番なのだろうと思いました。


『君と好きな人が100年続きますように』

【生き方】大切なのは時間ではない。
今から5年前、私は文学座の林田一高さんとバイト先で知り合った。

そこは、ケーブルテレビ局の深夜窓口のコールセンターで、
電話が鳴らない日は、明け方まで林田さんに、芝居についての質問をぶつけていた。

今は林田さんは内野聖陽さん主演の『臨場』に出てたりしているが、
その頃の林田さんは、まだテレビに出ていなかった。

こないだ林田さんと再びお会いする機会があり、
新宿で店を転々としながら9時間話し込んだのだが、
その時二人で言っていたことは、

『二度とコールセンターはやらねぇ。』

である。


コールセンターのバイトは時給も良く、自分の時間を融通しやすい。
しかしこのバイトは、ものを作る人間が、絶対するバイトでは無いと、今は断言できる。

 大切なのは、融通が利く時間ではない。
 いかに、どのような状況であっても、自分を見失わないでいられるかである。

 決して独りになってはいけない。
 共有の中にしか、芸術は生まれない。

コールセンターの仕事は、独りになってしまうのだ。


『すべての芸術は、人間賛歌である。』

これは、新国立劇場演劇部門芸術監督であった栗山民也さんの言葉である。

そういえば武田鉄矢さんは、人の間と書いて、人間だって言ってたっけ。


生きている事ってすばらしい。

 私はここを一生見失わない。

そんな私の作品を、多くの人に見てもらいたいと思っている。
【生き方】喜びと快楽
私は浪人期にエヴァンゲリオンに出会った。

今でもエヴァは大好きなのだが、
エヴァの中に『S2機関』というものが出てくる。

S2機関

葛城博士が提唱したスーパーソルノイド理論によって説明される動力発生システム。
同システムを搭載することで、エヴァの活動時間は無限に増加する。
使徒は皆このS2機関を所有しており、初号機は第十四使徒を補食することで同機関を獲得した。
尚、EVA量産機には全て搭載されており、それ故、アンビリカルケーブルを必要としない。


ま、なんの事かというと、
無限に沸いてくるエネルギーを生み出す器官のことである。

当時の私は、これがものすごくうらやましかった。


-----------------------------

世の中には、知らなければよかったと言うことがある。

若者が強いのは、無知だからであろう。
人は知れば知るほど、弱くなっていく。

悲しみを知れば知るほど、身動きがとれなくなる。

そして、人を傷つけるぐらいなら、
自分が消えてしまおうと思う人もいるのだと思う。


当時の私は、なぜ知ってしまったのかと苦悩していた。


 どこかでこんな話を聞いた気がする。


『悲しみを知るほど、人は優しくなれる。』
『悲しみを知るほど、本当の意味で強くなれる。』

 それは、はたして本当だろうか。

何をもって本当に強くなったと言えるのか、
悲しみを知っていることと、人に優しいことは別ではないか。

悲しみを背負ったまま、人に優しくなれない人は、山ほどいる。


でも、あるとき気付いたのだ。

快楽に一喜一憂し、
晴れの日は心穏やかで、雨の日は憂鬱な日々を過ごすうちに、
人を突き動かすエネルギーの根幹は、

『快楽』ではなく『喜び』であると。

快楽は独りよがりな自己が、いかに満足できるかであり、
喜びとは、他者と共有するものである。

 苦悩は分かち合えば、半減する。
 喜びは分かち合えば、倍増する。

そういえば、サマーウォーズの栄ばあちゃんも、言ってたっけ。

『いちばんいけないのはおなかがすいていることと、独りでいることだから・・・』


今の自分には、生涯を共にできる友人達がいる。
私のS2機関は、この友人達である。

若かりし頃の自分は、多くの悲しみを背負い込んで生きてきた。
だからこそ、今結ばれている、このご縁の大切さを実感できる。

私が知り続けてきた先に手に入れたのは、
ご縁から感じ取る、喜びの共有のためだったのだと、今は思う。

ちょっと最近元気がないと感じてる、そこのあなた。
友人を誘って、飲みに行くといいですよ。


『いちばんいけないのはおなかがすいていることと、独りでいることだから・・・』
【生き方】クリエイティブに生きるという事
もともとはすごく単純な考えだったように思う。

 『消費するだけの人生は、嫌だったから。』
 『ものを作っているとき、わくわくするから。』


なにかを作り出す立場でありたいと思った。
クリエイティブに生きようと思った。

 だからこそ、欲求の赴くまま、演劇を続けてきた。


作品を作るには、膨大なエネルギーを使う。
しかし時に挫折し、時に心が折れ、エネルギーがだだ漏れし始める。

負の連鎖を断ち切るまで、自己嫌悪を繰り返し、もがき苦しむ日々が続く。


-でも、何かが違うと感じたのは、1年ほど前だろうか。

 私は単純な思い違いをしていた。


あるとき私は、
作り手を『クリエイター』(クリエイティブに生きている人)と例えてみた。
すると、観客は自然と『消費者』という事になった。

でも、そこで引っかかった。

観客は別に芝居を消費しているわけではない。
芝居は勝手に消えて逝くのだ。

観客は消費者ではなく、楽しむ人なのだ。


その時から、芝居を見に行くときの自分が変わった。
芝居は消費しに行くわけではない。楽しみに行くのだ。


 芝居を作ってない時の自分が、クリエイターでなくなってしまってはいけない。
 クリエイティブに生きるのならば、常に何かを生み出していくべきだ。


職場での、同僚への挨拶を変えた。
まわりの表情が、昨日よりも晴れ晴れしたものになった気がした。


 この時、自分が『クリエイター』になった事を確信した。


もう、迷わない。
【生き方】東京にいる理由
大学受験に失敗し札幌での浪人が決まったとき、
友人のしみさんは、東京で浪人すると言った。

-なぜ、わざわざ東京で浪人をするのだろう。
『東京には、すごい人がいっぱいいるから。』

しみさんは、私にそう説明してくれた。


北海道民は、本州のことを内地(ないち)と呼ぶ。
海を渡って内地の大学に行く時、
私にも、違う世界へ踏み出していくんだという、いくばくかの恐怖があった。


父がまだ生きていた頃、
「おまえは札幌に戻ってくる気はないのか。」と聞かれた事がある。

その時の私は、しみさんと同じ答えをした。
「東京には、すごい人がいっぱいいるから。」と。


でも、今は、ちょっと考えが変わった。

----

東京に来てまもなく、私の中に小さな疑問が生まれた。

-なぜ東京のご老人は、こんなにも気品を持っているのだろう。


  何年か前、友人と深川にどじょうを食べに行った事がある。

  深川のどじょうは、確かにうまかった。
  私は田舎の川でどじょうを捕まえては逃がすという遊びをしていたが、
  しょせん、どじょうはどじょうであって、決して上等な食材ではない。

  しかし江戸の人々は、これをいかにうまく食うか楽しんだ。
  それが文化として、今も定着しているのだろう。


 私には、東京のご老人達は文化を楽しんでいるように見えた。
 そして、ここにいることが当たり前であるという、
 揺るがない存在の所在が、気品として現れている気がした。

 その時の私の目には、『ご老人達=文化人』として、写っていたのだろう。


私にとって東京は、戦いの場であった。
でも今は、この街を楽しもうとしている。

 戦うことをやめたとき、この街も、案外悪くないものだと思った。


江戸からの心意気が、この街に文化人を育てる。
この街が、私の人格を豊かに育ててくれる。

 その先に、私の作りたい作品がある。

だから私は、今も東京にいる。


【生き方】ご無沙汰過ぎます。
生きていたかとお思いの方も多いでしょう。

一年と四ヶ月ぶりの更新です。

思いっきり忘れ去られた頃だから、いいのでしょう。
また好きなことを、ひっそり書いていこうと思っております。

昨年の三月に、父が他界しました。

父のことを書こうと思いつつ、
自分の中で整理ができないまま、時が経ちました。

父の納骨の為に再び北海道に帰省した時、
柴田家の墓石がある森町へ向かう電車の中で、
私は父のことをノートパソコンに書き殴ってました。

その日一日では想いをまとめきれず、
納骨を済ませて札幌のマンションに戻り、私は床につきました。

0:00

薄れゆく意識の中で、女性の悲鳴と鈍い衝突音を聞きました。

翌朝、当時14階にあった実家のマンションの玄関前の小窓から、
20代の見知らぬ女性が身を投げたという事実を知りました。

すべてにご縁を感じ生きようといていた私は、
なぜ、私たちの玄関前から女性が飛び降り自殺したのか、
受け入れることができませんでした。

ま、当たり前でしょうけど。

でも今は、受け入れることができるんです。私なりに。


抱え込むことは、もちろんできないですし、
私が彼女を救えたとも、思ってはいませんけどね。

そのために、時間が必要だった。

来年あたり、また集団を立ち上げようと思ってます。
というよりは、自分の作・演そして場合によっては出演で、
私の作品を見て頂く機会を作るつもりでいます。

そんなわけで、また、ボチボチ書こうかなと。

これからも、よろしくお願いします。

追記.川井さんに、なんてメールしようかな。。。



【生き方】 自分らしく生きるという事
「自分らしく生きるってどういう事?」 と聞くと、

たいていの人は、
「好きなことをやって生きる事」 と答える。



『お前はいいよな。自分らしく生きていて。』


確かに私は、好きな芝居して生きている。
しかし、私だけが自分らしく生きているわけではない。
あなたも、あなたらしく生きているじゃないか。

『○○さんらしいよね。』

というフレーズがある。
このフレーズは、いい意味でも悪い意味でも使える事に案外気付いていない。



『○○さんらしいよね(笑)』
『○○さんらしいよね(苦笑)』



「○○さんらしい」というフレーズは、
その人が好きなことをやっているかどうかに関係なく使う。

その人が何かに直面したとき、
その人なりのやり方でやり通した時に、
『○○さんらしいよね。』と言われるのだ。

もっと言えば、問題が解決したかどうかも関係ない。
解決できなかったことが、あなたらしいのかも知れない。

でも、それでいいじゃないか。


生きていれば、好きなことも嫌いなこともある。
問題がうまく解決する場合もあれば、しない場合もある。
こればっかりはしかたがない。

例え失敗したとしても、あなたは失敗を望んだのだろうか。
失敗をどこかで予測していたとして、今も同じ気持ちであるだろうか。


あなたは、優しい人だ。


まずは、認めてあげることである。


あの時のあなたの選択が、最良であったかどうかは誰もわからない。
でもあなたは、あなたらしかった。そうでしょ?

そんな自分を認めてあげれば、今日は泣いても明日は笑えるかも知れない。

ほら、笑えるじゃないか。

【生き方】 大きな運は、後ろからやってくる
あけましておめでとうございます。
年末年始は、札幌の実家で過ごしていました。

年があけて4日のことです。
母が、どこからか年末ジャンボを出してきました。

なんでも、銀行の定期預金の利子を、
宝くじでかわりに受け取るようにしているとのこと。

母は新聞をがさがさとひらき、当選番号を確認しつつ、
「おしぃっ!!!」と、ひとこと。

なんと1等の当選番号が、120番違いだったのです。もちろん組もあってます。
うちに30枚届いていることを考えると、母の数人後の人が1億円。
もしくは、前後賞で3億円手に入れてたかも知れません。

その時わたしは、今年はなにかあるなと思いつつ、
昨年NHKで放映された、萩本欽一さんの特集番組を思い出していました。

 『大きな運は、後ろからやってくる。』
 
           萩本欽一さんの言葉です。

自分の目先をいくら探しても、大きな運なんか見つからない。
大きな運は、いつも自分の背後に生まれるんだ。



【前向き】という言葉があります。
きっと、前を向いて歩いている人の後ろに、大きな運は生まれ、
それは追い風となり、その人をより前へと推し進めるのでしょう。

 後ろ向きな時に自分の背後に大きな運が生まれ、
 そのまま勝手に先に行ってしまわないようにしなければいけない。

  また、帆に風を受け、前進する時、
  自分がどこに向かいたいのか、明確にしていなければ行けない。

さもなくば、せっかくの大きな風もただの突風となり、船が転覆するか、
もしくは、予期せぬ方向へ進路を誤るかも知れないですもんね。

 大きな運とは、棚からぼた餅なのかも知れません。

でも、誰かが言ってました。

ぼた餅がある神棚なんか、どこにでもあるわけじゃない。
ちゃんと神棚の下に行く努力をした人が、落ちてきたぼた餅を拾えるのだ。と。

 『さぁ、明日はどこに行こう。』

^-^)。本年も、どうぞよろしくお願いしますね。
【生き方】 プロの条件
浅草にせんべいを焼くプロがいれば、
NASAに宇宙船を建造するプロがいたりもする。
世界の大田区にはプロはいっぱいいるだろう。

ただ、いかんせん演劇の世界のプロはわかりにくい。

役者で言えば、本人が名乗れば誰でも今から役者なわけである。
どこからがプロで、どこからがアマチュアなのだろうか。

ENBUゼミに通っていた頃、
飲みの席でカムカムミニキーナの松村武先生に、プロの条件を聞いたことがある。
その時、松村さんには「じゃお前はどう思うんだ」と逆に質問を返された。

私が、「芝居で食べていけることですかね。。。」と答えると、
「なんで芝居で食べて行けただけでプロなんだよ。食べててもプロじゃない人はいるだろ。」
と一蹴され、松村さんはただ笑っていた。

それは、自分で考えろという意味なのだと、私は理解した。


私は、特定の人物がプロなのかアマチュアなのかをはっきりさせたいわけではない。
ただ、プロの条件を示さない限り、私はいつまでたってもアマチュアを抜け出せない気がしたのだ。


そこで、自分なりにプロの条件を考えたのである。

1. 仕事の対価として、金銭だけではなく「ありがとう」と感謝されること。
2. 知識だけではなく、それを経験と結びつかせた上で、結果を導き出せること。
3. 導き出した結果に、人を圧倒する質があること。
4. 人に期待されること。その期待に応えていけること。
5. 生き方に品格があること。

これが今私が考える、プロの条件である。

私は、幼い頃から父に、
「お前は将来何をやってもいいが、何をやるにしてもプロを目指せ。」と言われてきた。

 そんな今の私は、舞台演出家である。


 「やるからには、プロを目指してやろうじゃないか。」

Copyright © 『すべて持ち込み可』. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。