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東洋人と西洋人の物の見方の違い
日テレの『世界まる見え!テレビ特捜部 』で放映された海外番組の一コマ。

画像の花を、AかBに分類すると、あなたはどちらに分類しますか?

東洋人と西洋人の物の見方の違い

それでは、下記の動画をご覧ください。

《おもしろ心理テスト・あなたの答えは?》


質問のしかたが誘導的だというコメントがあるようなんですが、試みとしてはおもしろいですよね。

さて。

演劇には、役者がどうやって演劇を組み立てるべきかという方法論『メソッド』が存在します。

アメリカでアクターの勉強をした場合、自分の経験からいかに感情を引き出すかという訓練を重要視します。
日本で役者の勉強をした場合、いかにその空間に存在するか・存在に説得力を持たせられるかという点を重要視します。

日本人が使う一人称、『私、俺、僕、自分』などは、相手によってどれを使うかが決まります。
病院の待合室と学食では、声の出し方が違います。

やはり日本人は、相手と自分の関係性、空間と自分の関係性を大切にしており、
だからこそ日本の演技は、役者と対象の関係性を見えてくるかが、非常に重要視されるのです。

そんなんで海外のメソッドを絶賛しているアクターズスクールを見ると、私は『うーん。』と思っちゃうんですよね。
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役者にも必要な一点集中力と状況判断力
2012/6/23放送の
『ごるふなでしこ(テレビ東京)』で、興味深いメンタルトレーニングをやっていました。
『ごるふなでしこ』は、AKB48(team4)の山内鈴蘭さんがプロゴルファーを目指すゴルフ番組です。

イチローや北島康介さんのメンタルトレーニングも担当している高畑好秀さんが、今回も出演していました。

今回の高畑さんがのトレーニングは、集中力を鍛えるものです。

渦巻きがプリントされた紙を使います。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん

外側から内側に線を目で追って、終えなくなった時点で終了です。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん2

ここまでは、誰でも想像できると思います。面白かったのは、この先です。
今度は先ほどとは逆に、内側から外側に(中→外)向けて、線を目で追っていくのです。

高畑さんはこの番組内で、2つの集中について話されています。

◆外側から内側に追う → 一点集中力
◆内側から外側に追う → 状況判断力

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん3

高畑さんは、スポーツの場合はボールに対する一点集中力と、
状況を判断するために必要な、広がる集中力の両方が大切であると鈴蘭に話しています。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん4

目から鱗だったんですよね。
私が役者に必要なのは、まさにこれだと思っていたのです。

役者は稽古場で『集中力が足りないよ』と言われることがあるのですが、
みなさんも、どこかで集中力が足りないって言われた経験はありませんか。

おそらくその場合、一点集中力を高めたと思うのです。

役者が演技に集中しようとすると、相手の顔だけを追いかけたり、
相手のアクションの初動を見逃さないようにしようと、努力します。

このことにより、体が変に硬直したり、
またネズミを襲う猫のように、一人だけ過剰な熱量を帯びたりします。

過剰な一点集中力により、逆に状況判断力が下がってしまっているのです。
そして、頑張り(努力)だけが際だって見えてくるという、悪循環に陥るわけです。

このことは、ダメを出す側にも問題はあるとは思いますが、
演者自身が、集中力には2つの側面がある事を理解することで、ある程度は解消できるのではないでしょうか。

そうすれば、どんな現場であっても、役者は自分自身でニュートラルな状態に立ち返ることができると思うのです。

《●1/2● ごるふなでしこ EP12 山内鈴蘭 20120623》 メンタルトレーニングは4:00~


高畑さんは、渦巻きの線を内側から外側を追うスピードを高めていくことにより、
(スポーツ選手は)瞬時のうちに、パッと状況判断ができるようになると言っていますね。

つまり、役者の状況判断力も、自分の努力で高めていけると言っているわけです。


そうそう、なんか7/1(日)から放送時間が変更になるみたいですよ。
演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(2)
前回の演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(1)の続きを書きます。

前回、映像におけるイマジナリーライン越えは、撮影対象が入れ替わったり、テレポーテーションしたと錯覚してしまうために、一般的にはタブーとされているという話を書きました。では、文学座の「ナシャ・クラサ」で行われていた演出効果はどのようなものであったかを書きます。

それは、第一幕の中盤から後半にかけてのシーンであったと思います。ユダヤ人の青年ヤクプ・カツは、ポーランド人でカトリックのポーランド人の男達3名にリンチされ、殺害されます。街のあぜ道で遭遇した1人対3人は、舞台上で対峙の構図を取ります。向き合う1対3人の間には、木製の机が存在します(図1)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図1

構図をわかりやすくするため、これを「男」と「敵1~3」という表現で説明させて下さい。構図に関係ない人物や舞台装置は、すべて省略しています。「対峙の構図」と文字が入っている方が、便宜上、客席側と考えて下さい。

さて、敵は男ににじり寄ります。男は敵のただならぬ雰囲気に、身の危険を感じます。台本では、その時の男の心境がモノローグとして語られます。ある瞬間、4人は陸上のハードルを飛び越えるようにして机を飛び越え、手前と奥が入れ替わります(図2)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図2「ナシャ・クラサ」における対峙の構図3

今度は敵である男達のモノローグや、3人の会話が行われます。そして、ある瞬間に再び4人は机を飛び越えます。つまり、図2→図3→図2→図3の構図を複数回にわたって繰り返します。その後、男は机に脚をひっかけて、机が倒れます(図4)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図4「ナシャ・クラサ」における対峙の構図5

机が倒れた瞬間から、敵1~3は、倒れた机=男としリンチを繰り返します。その状況を男は俯瞰的に見ており、心境をモノローグで語ります。その後、敵1が15㎏はあろうかという石を男の頭へと投げつけ、男は絶命します(図5)。

論述するために、あたりまえの事をあえて書きますが、このシーンにおいて4人の男達が机を飛び越えるという行為は、彼らのリアルな行動ではありません。演出家は、机を飛び越えるという方法で、イマジナリーラインを飛び越え、対峙する4人の構図を2つの視点で描きました。机を飛び越えた後に発生する足音は、あぜ道で獲物を追いかける男達のリアルな足音として劇場内に響きます。男が机を倒した時に発生した鈍い衝撃音は、実際に男が倒され脳しんとうを起こしたときの、男の中で響いた衝撃音とシンクロします。

おそらくこのシーンは、回り込み動線で作ることもできたでしょう(図6)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図6

そうした場合、敵1が石を男の頭に向かって投げ付ける段階でも、男は床に寝そべりモノローグを続ける事となり、あまりにリアルすぎるか、もしくはあまりにリアリティのないものとなっていたに違いありません。

なぜ私がこの演出を、映像におけるイマジナリーラインの飛び越えと似た要素があると感じたかと言うと、図1においては男から見て敵のならびは、「(左から)敵1-敵2-敵3」となっているのに対し、机を飛び越えた後の図2における男から見た敵の並びは、「(左から)敵3-敵2-敵1」と入れ替わっている点にあります。

つまり、一見、舞台上の空間はリアルな物理的距離感で作られていると感じていたものが、イマジネーションラインを飛び越えた時点で、急に距離感はリアルではないと認識され、本来であればそこで作品はリアリティを失ってしまうかと思いきや、4人の関係性は空間における物理的距離から解放され、抽出された本質が逆に観客に迫ってくるわけです。

もしこれを図6のような回り込み動線で演出し、そこにリアリティを持たせた場合、目を覆いたくなる自体に観客は舞台上を見ていられないかも知れません。しかし、高瀬演出のすばらしいところは、あくまで3人の敵が痛めつけるのは、男に見立てた机なのです。痛めつけられる机だからこそ、見ていられる。ポーランド人の3人の男にとっては、同級生のヤクプ・カツは、すでに人ではなく机であったのかも知れません。

だからこそ私は、なんてすごい演出なんだと感じていました。

蛇足的かも知れませんが、実は物語はこの後、3人の男達はユダヤ人のかつてのクラスメイトであるドラの家へと行き、酒をあおり、3人でドラをレイプします。このシーンにおいて机は、ある瞬間からドラの肉体へと変わります。男達二人はドラの両足を押さえつけ、もう一人が姦通します。状況的にとても見ていられるシーンではありません。しかし、男達が犯しているのは机なのです。ドラは自らが犯され、それでも体が反応してしまった事を恥じた事を、男達からちょっと離れたところから俯瞰して語ります。机だからこそ、私はそのシーンを最後まで見ることができました。そして、男達が押さえつけた木製の机の脚は、消して閉じることができないにも関わらず、どうか脚よ、閉じてくれと願っていたのでした。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図7

私は演劇における動線とは、自由でありつつも、よりリアルな距離感を追求するべきだと思っていました。それは、日常のリアルな距離感を舞台上に上げれば良いという話ではありません。舞台における動線は自由であるからこそ、意味を持たせなければいけない。意味を持たせるべきであると感じていたのです。それは、作品をリアルなものとして届ける上での一助となると考えていたのです。しかし、本作品では、リアルな物理的距離が失われたからこそ、本質を抽出することに成功していると感じたのです。

演劇は、距離感からリアルを生み出すこともできれば、距離感の消失からリアルを紡ぎ出すこともできる。

このことは、私を舞台のルールから、一つ解放してくれた出来事だったのでした。
演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(1)
昨日のブログで、文学座の「ナシャ・クラサ」を見てきた感想を書きましたが、
演出効果にも、色々と考えさせられることがあったので、自分の今後のためにまとめておきます。

今回の話は非常にややこしく、大半の人が、私が何を言ってるかわからないと思います。
事前にお詫びしておきます。


まず、私が考える役者の基本動線について書きます。

演技の基本動線

図1をご覧下さい。私は動線を3つのケースに分類して考えています。

1.切り込み動線
2.回り込み動線
3.自由動線(1.2.に含まれない自由な動線)

ちなみに、この「切り込み動線」「回り込み動線」「自由動線」は私が説明するために便宜上名付けただけの名称であり、演劇用語ではありませんので、ご注意下さい。2の回り込み動線は、例えば2人の侍が刀を抜いて対峙した場合、互いに近寄ることも遠ざかることも容易ではなく、均衡した関係性を描く上で有効な動線です。

これがコントとなった場合、1の切り込み動線だけで演じられるケースが多い気がします。つまり客席に対して平行な、相手に寄るか、相手から離れるかの動きだけで、舞台の奥行きを使おうとしません。コントが奥への動きや回り込みを嫌うのは、コントは主に客席に体を開いて展開するケースが多く、かぶるという行為を嫌がるからなのかも知れません(図2)。

その点、以前に演劇的コントとして紹介した、バナナマンのコント『Are you satisfied now?』では、設楽さんは自転車で舞台後方に登場し、拳銃を引き抜いたあとに、回り込み動線を利用しています。安易に日村さんの横に出てくることはしないわけです。また設楽さんが降りた自転車が舞台後方に残っている事により、自転車が空間に奥行きを持たせ続け、回り込みの強調にも一役かっています。この空間の広がりも、このコントを演劇的と感じさせる要素の一つと言えるでしょう。

映像においても動線を意図的に見せる場合が存在します。火曜サスペンスにおいて船越英一郎さんが犯人を崖に追い詰めるシーンは、引きの映像で取られます。しかし、映像が演劇やコントと大きく違う特徴は、視点が変化する点です。犯人が崖から飛び降りるシーンは、役者の抜きの映像になります。映像においての引きの映像というのは、空間を説明するための意味合いが強く、事件が起きる瞬間の決定的な物理的距離には、あまり踏み込みません。例えば、船越英一郎のその1歩の踏み込みが、犯人のテリトリーを犯す決定的なものとなり、その1歩が犯人にとってどれほど苦痛であったかは、最近のテレビは描かないわけです。

おそらくそれは、演劇は舞台上のどこを見るかを観客に任せているのに対し、映像はカット割りにより視聴者の視点を固定するために、物理的距離が心理にいかに影響を及ぼしたかを描写すると、技法に走った説明的映像となりがちになるため、距離と心理に関する描写を、作り手が意図的に避けているのかも知れません。

映像に関してもう一点だけ。映像には、イマジナリーライン(想定線)という概念があり、基本的にはイマジナリーラインを越えていく映像展開は、タブーとされています。つまり、1シーンは通常片方の面から撮影するべきであり、いきなりイマジナリーラインを越えた映像を入れると、視聴者が空間を見失ったり、登場人物がテレポーテーションしたように感じてしまうという話です。Wikipediaにおけるイマジナリーラインの説明が詳しいですので、よろしければそちらもご覧ください。

映像におけるイマジナリーライン

例えは、こないだNHKでも再放送されていたアニメ「日常」のオープニングでも、イマジナリーライン越えが起きています。

アニメ日常におけるイマジナリーライン越え


言われてみないと気付かないと思いますが、ちょっとした違和感がありますよね。
実は、昨日見てきた「ナシャ・クラサ」でも、同じような現象が起きていたのです。

誤解をされないように、結論から先に書きますが、私は高瀬さんの「ナシャ・クラサ」の演出を見て、自分が考えていた演劇の表現の可能性が広がりました。映像だと違和感が出てしまうイマジナリーライン越えですが、演劇においては、私の想像し得なかった効果を生んでいたのです。そのためにも、「ナシャ・クラサ」における演出について、自分なりに整理していこうと思います。

長くなったので、演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(2))へ続きます。


本日は、日常のオープニング映像でもお楽しみ下さい。

抜粋したカットは、1:10ぐらいです。

《「日常」オープニング ヒャダインのカカカタ☆カタオモイ-C》


さすが京アニ。動く動く。
顧客が本当に必要だった物
ネットで見つけた、ビジネスに関連の風刺画です。
元ネタがなんなのか調べてみましたが、諸説あるようですね。

自分なりに分析して、解説してみました。

《顧客が本当に必要だった物》
顧客が説明した用件~顧客が本当に必要だった物


◆顧客が説明した用件
顧客はブランコはこういった物だと絵に書ければ別ですが、
ブランコとはなんなのかを説明することさえ、難しかったのかも知れません。
顧客はおそらく、やりたいことを漠然な言葉で並列化して説明したのかも知れませんね。
どこの役割が一本化できるかもわかりませんので、ブランコの板が複数あるのかも知れません。


◆プロジェクトリーダーの理解
木の枝を使って、人が乗れる装置だと言うことを理解していますが、
そもそもブランコはこいで揺れることが楽しいと理解しておらず、
乗って揺れることができないと、ブランコでさえないこともわかっていません。

◆アナリストのデザイン
アナリストとは分析家、または評論家のことです。
要は作り上げて、板が揺れればいいと思っているわけですね。
幹を伐採した時点で、木は枯れ、ブランコとしての強度を保てなくなります。現実離れしており、机上の空論です。
そもそも自然を生かして、自然の大切さを知って欲しいというコンセプトであれば、それすらも反しています。

◆プログラマのコード
とりあえず板の両端から出たロープで枝を縛っているので、言われたことはやったのかも。
でもこれでは、状況をコンピュータの言語で再現しただけで、全く動きませんけどね。

◆営業の表現、約束
きっと実現できれば、それは快適な座り心地なのでしょうね。でも顧客は、ここまで求めていないのでしょう。
そもそも、椅子を乗っけたら木の枝は間違いなく折れるでしょうから、現実的な約束ではないのでしょう。
営業は大風呂敷を広げて仕事を取ってきたとしても、数字を上げれば良いとされるわけですね。

◆プロジェクトの書類
おそらく、この会社にはブランコを作ったことがある人がいないのに、この仕事を取ってきたんでしょうね。
だから、何もかも白紙なのでしょう。

◆実装された運用
おそらく、どんなものなのか、やってみたんでしょうね。
それで、彼らにはこれが限界なので、顧客に妥協してもらって、こうなりましたという事でしょうか。
これなら、別にこの会社に頼まなくても、自分でできたっちゅうねん。

◆顧客への請求金額
このクラスの請求したのなら、明らかにぼったくりw

◆得られたサポート
そこに、木がある事を、とりあえず管理してくれるのでしょうか。
まぁ、ほっといても切り株は勝手に歩いて行きませんが、切り株を持ってかれないように、保守してくれるのでしょう。
これでは人が腰掛けて休むか、集合場所の目印として使うぐらいしか、使い道がなさそうですね。

◆顧客が本当に必要だった物
顧客はおそらく、自然の大切さを子どもたちに知って欲しい。自然の中で遊ぶことの喜びを知って欲しい。
そんな子どもたちが集まる場を、自然の中に作りたいと思っていたのかも知れません。
すでに廃棄されたタイヤを使う事は、ゴミを減らすという事で、自然を守ることに繋がるのかも知れません。

タイヤを1本のロープで繋いだだけでは、前後に正確に揺れることはできなくなります。
しかし、言ってしまえば、ブランコは他にもあるはずです。
遊んで楽しければ、別に前後に揺れることの正確性は、顧客にとってはさほど重要ではないのかも知れません。

ひょっとするとこのタイヤで遊んだ少年は成長して、子どもの頃は乗って遊んだこのタイヤで、
野球のスイングの練習をするかも知れない。空手の蹴りの訓練をするかも知れない。

正直、木の枝にロープでタイヤをくくりつけるだけであれば、顧客は自分自身で作れたのかも知れませんね。
そういった意味では、コンセプトを理解し、助言できる人が身近にいさえいれば、この顧客は、一番幸せだったのかも知れません。


私が舞台演出家として必要なことは、私が大きな舞台を実現できる会社を持つことではなく、
いかにコンセプトを理解し、人の幸せの形を、具体的に提示していけるかどうかだと思うのです。



理想を追い求める私は、未だに考えが甘いかも知れませんが、
きっとこの顧客は、幹にタイヤをつるした図を描ければ、誰かが賛同して、一緒に実現してくれたと思うのです。

そう信じるからこそ、私は舞台演出家として、何をしたいかを示さなければいけない。


そういう段階なんです。
レナード・バーンスタインとカラヤンから学ぶ演出論

指揮者の佐渡裕さんが、恩師のレナード・バーンスタインについて語る番組
こだわり人物伝 ~バーンスタイン 愛弟子が語る~が、今から2年前のNHKのプレミアム8で再放映されました。

この番組の中で佐渡さんは、バーンスタインとカラヤンの、二人の指揮のタイプの違いを語っています。

放送開始39分(第二章終盤)より録画を見て書き起こしました。

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◆佐渡:カラヤンの指揮姿というのは、この・・・、ちょっと立ちますね。この・・・両手の中にね、こうやって目をつぶって振ってるでしょ。カラヤンの指揮というのは、この両手の中に自分の理想のオーケストラがいる。自分の目の前に、ベルリンフィルなりウィーンフィルなりという、すばらしいオーケストラがいるにもかかわらず、ある種それを無視して、目をつぶって、この自分の腕の中に、理想のオーケストラを描いている。ここにあのバイオリンが鳴ってて、ここに木管楽器が鳴ってて、コントラバスが鳴ってて、それがある音楽のクライマックスが来たときに、それをバァアアアアンと解放する。すると、この腕の中にいた理想のオーケストラと、実際目の前にあるオーケストラが、実はその瞬間に、バァアアアアンとやった時に一致する。この時にカラヤンマジックがドカーンと起こるわけね。

◆佐渡:レニーの場合は、あの、指揮台に上がった瞬間から、「おぉー田中君。」「おぉー林君が吹いているのか。」「おお久しぶりだな。お前どこであったっけ。あぁぁ!」みたいなことが、もう、色んなそうやりとりが行われていて、一人一人苗字と名前が付いたメンバーで、ここで音楽作っていると。だから、もう指揮の仕方も、何もかも最初からすべてがオープンで、「音楽の神様のもとに、俺も田中君も山田君もみんなが一つになって、行くんだ。」で、このたどり着くとこってのは実は一緒だと思っている。僕は。

◆佐渡:カラヤンの、こうやって、こっから現実のオーケストラに行くのも、現実のオーケストラを、みんなが連れて行くとこも。その連れて行くとこというのは、不思議な力に操られた 人が鳴らしているんだけれども、神の存在が・・・音楽の神様がいなければ、こんな瞬間にはありえないという。ある種、オーケストラの快感というかな。そういう、こうエクスタシーみたいなところに連れて行かれるっていうのが、この二人の全然違うアプローチにしかたであり、共通点だと思う。

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レニーというのは、レナード・バーンスタインの愛称です。

私なりに二人の指揮を分析すると、

●カラヤンは、自らの強烈なイメージで、カラヤンの腕の中に理想のオーケストラを描きます。
演奏者は、そこに確かに、カラヤンの理想のオーケストラがある事を実感し、自分もそこに行きたいという思いを強めます。
つまり、演奏者に嫉妬心と向上心を持たせます。そして機が満ちた時、演奏者が、カラヤンの理想とシンクロするわけです。

●バーンスタインは、演奏者を心理的にリラックスさせ、力みを取り除きます。
自分も演奏者側の方におりてきて演奏者を解放していくことで、演奏者同士のケミストリー(化学反応)を起こさせます。
バーンスタインは演奏者の目の前の霧を取り除き、自らが先導して、全員で、理想の音楽へと歩み始めるのです。


以前に文学座の林田一高さんが、高瀬久男さんと西川信廣さんの演出の違いについて教えてくれたことがあります。


記憶をもとに林田さんが仰っていた事を文章に起こすと、こんな感じであったと思います。

高瀬さんと自分(林田)はよく仕事でご一緒するんだけど、高瀬さんの演出は怖いんだよね。役者に隙を作らせない。
高瀬さんの圧倒的な台本の読解力のもとに稽古が進む。すべて見透かされているんじゃないかと思うときもある。
でもそれは、役者としてはとても刺激的で楽しいんだよね。

西川さんの演出は、またちょっと違って、西川さんは、基本的に役者の手柄にしてくれるんだよね。
「それいいね。それで行こう。」と役者が気持ちよくなっているうちに、いつの間にか西川さんの舞台になっている。
役者をその気にさせておいて、最終的に美味しいところを、ちゃんと持って行くのが西川さんのすごいところだよね。


恐らくこの二人は、

◆高瀬久男さん=カラヤンタイプ
◆西川信廣さん=バーンスタインタイプ

ではないかと、思うのです。


役者さんにも、色んなタイプがいます。

役に近づいていく役者さんもいれば、役を自分に引き寄せる役者さんもいる。


役に近づいていく役者は、カラヤンタイプの演出で、確固とした理想を示してあげれば良い。
役を自分に引き寄せる役者は、バーンスタインタイプの演出で、理想に導いていけば良い。

私は、この二人のどちらの指揮も、魅力的だなと感じているのでした。


《Karajan's Rehearsal -カラヤンのリハーサル-》


《レナード・バーンスタイン/わたしの愛するオーケストラ》
自信を持ってその言葉を発すれば良い。
役を演じるとき、説得力がないとその人物が嘘くさく見える。


感情は言葉を発するきっかけで有り、感情的な人ほど、時に避けたくなる。
それなのに役者は、感情を込めないと、言葉は発することができないと考えていたりする。


説得力というのは、内容で決まる物ではない。
根拠なんてなくてもかまわない。自信を持ってその言葉を発すれば良い。


そうすれば、自然とその人に見えてくる。


《東進イミフハイスクール》


《浪人イミフハイスクール(東進CM アフレコ2)》


どうやったら説得力が出るかを頭で考えるよりも、何も考えない方がリアリティがあったりする。

役者は感情を説明することが仕事ではない。
その言葉を発する人として、ただその場にいれば良いのだ。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(4)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)の続きを書きます。

桜美林大学教授であり青年団を主催する平田オリザさんは、その著書『演劇と演出』の中で、
演出家に必要な能力は『世界観、方法論、構成力、説得力、リーダーシップ』の5つに分類できると書いています。

演技と演出 (講談社現代新書)演技と演出 (講談社現代新書)
(2004/06/21)
平田 オリザ

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「演技と演出」の本は誰かに貸したままになっており、内容を確認することができないのですが、
平田さんは著書の中で、この5要素のうちの2つ以上が優れていたら、演出はとれると書いていたように思います。

手元に著書がないため、私なりの解釈で、5つの要素を別な言葉に置き換えてみました。

●リーダーシップ=集団をまとめて率いる能力
●世界観=作品のイメージを感じ取る能力
●構成力=作品世界を具現化する能力
●説得力=役者の疑問を解消する能力
●方法論=解決する手段を提示する能力


ちなみに私が演出を初めてとったのは、大学の演劇部に入ってからです。

演劇部の演出は、ある種の『持ち回り』で決められました。
つまり、「前回はあの人がやったから、今回は誰にする?」という流れです。

そこで、なによりも必要となってくる条件は、「本番当日まで、稽古場を取りまとめられるかどうか」であり、
平田さんの5要素で言うならば、リーダーシップが重要であったわけです。


私は、演出家に必要とされるこの5つの要素は、演出を取る環境や立場によって、重要度が変わると考えています。



◆サークルの演劇部で演出を取るケース:『リーダーシップ > 世界観 > 構成力 > 説得力 > 方法論』

=考察=
とりあえずリーダーシップがあれば、みんなが付いてきて来てくれるので作品は作れます。
演出家にイメージ(世界観)を言葉にする力(説得力)はなかった場合も、
演出家が悩んでいると、時間がもったいないので、とりあえず先に進もうとなります。
作品に音楽を入れると、作品はそれっぽく(構成力)見えてきます。
どうやって作るか(方法論)は、先輩が伝統的な練習方法を引き継いでるので、上級生が指導してくれます。



◆自分で戯曲を書いて演出するケース:『 世界観 > 説得力 > 構成力 >リーダーシップ > 方法論』

=考察=
演出家が自身で書いた作品なので、作品に対するイメージ(世界観)は、誰よりも持っているはずです。
構成力がなかったとしても、構成に問題があれば、世界観が壊れるわけですから、
演出家が妥協せずに言い続けているうちに、演出家の理想の構成へ近づきます。
感じ取った違和感を言葉にすることができなくても、作者が違うと言えば、それだけで説得力があります。
集団をまとめる必要はありますが、もともとその作品がやりたくて集まってきてるのであれば、協力は得やすいです。
方法論は語れなくても、演出家が世界観を語ることに終始すれば、あとは役者が自分で形にするしかなくなります。



◆他人の戯曲を演出する(私がダメだと思う)演出家のケース:『方法論 > 説得力 > リーダーシップ > 構成力 > 世界観』

=考察=
演出家という特権を振りかざし、役者に言うことを聞かせます。
メソッドなどの演劇の方法論を持ち出し、その方法論の説得力で、役者を黙らせます。
演劇的約束事項に基づいて芝居を作り、作家の描きたかった世界観から離れても、修正できません。
最終的に台本を読んだときの印象と全く違う作品になっても、役者の技量が備わっていないからだと考えます。



◆他人の戯曲を演出する演出家(私)のケース:『 世界観 > 構成力 > 説得力 > リーダーシップ > 方法論』

=考察=
私は、作品から感じ取ったイメージ(世界観)を何よりも優先します。
方法論は万能ではないため、特定のメソッドに準じて演技指導をすることはしません。
方法論は必要なときに引き出せればいいので、知識として覚えておけばいい程度に考えています。
演出がやりたいことを明確に言葉にできれば、方法論を演出が言わなくても、行きたい方向に自然と集約するものです。

リーダーシップは必要ですが、私はリーダーシップを前面に出した演出は控えるようにしています。
リーダーシップに頼りすぎると、役者は、演出家の見ていないところで、手を抜くようになるからです。

人を動かすのは、最終的には人間性なのかも知れませんが、
演出家が自らの人間性を武器としてとらえるのは、作品と真摯に向き合う上で邪魔になると考えています。

このケースでは、演出家が作品を書いたわけではありません。
本を書いた演出家に比べて、本を書いてない演出家の説得力は自ずと落ちます。

現場では、役者にどう作りたいのかを誠心誠意説明して、演出家のビジョン(世界観)を積み上げなければなりません。


さて。

私が考える演出家としての理想の姿は、最後のケースです。

演出家は独自の世界観を展開する前に、作家の世界観を大切にします。
しかし、演出家の世界観は、作家の世界観とイコールではありません。

そこで演出家は、作者と違うスタンスで、作品と向き合う必要があると思っています。

では、そのスタンスの違いとは、どういったものなのか。


●自分で本を書いて演出する演出家は、作品を書き始めた時点で、物作りがスタートします。
そのため、実際に舞台を演出する場合は、それを忠実に具現化することを優先されるのだと思います。

戯曲を書いた作家は、おそらくすべてのシーン・すべての登場人物を愛しているでしょう。
だからこそ、どこも省略なんてできないと、考えていると思います。


●対照的に他人の本を演出する演出家は、台本を手に取った段階で、物作りがスタートします。
作品として形にすることはもちろんですが、
作品自体がどう輝きを放っているのか、どこが魅力的なのかを、第三者的にとらえることができます。

そのため演出家は、作品の本質をとらえられれば、ある意味、ト書きに縛られずに作品を省略していく事もできるのです。


これは、戯曲を削ると言うことではありません。
戯曲を削るということは、楽譜の音符を削ることと同じだからです。

すべての言葉を拾いつつ、その解釈から、作品の見せ方を変えるのです。


例えば、「主人公がたたずみ、天を仰ぎ、一筋の涙が頬を伝う」と書かれているとします。


それを瞬間を客席に見せるのか、あえて後ろ向きで見せないのか。
はたまた、鼻をすするのか。それとも、涙をぬぐった手だけを見せるのか。

作品の本質をとらえることができれば、あえて見せないという選択肢を選ぶことも可能だと思うのです。


それが、私の言う『省略』です。


私は、演出家というのは、正解か不正解かをジャッジする仕事ではないと思っています。

好きか嫌いかを言うだけでは、不十分ではないかと思っています。
演劇的にありかなしかを判断するだけでは、ダメなのだと思うのです。

演出家は、『なにが自分にしっくりくるか。』を自信を持って示し、それを役者や観客と共有していかなければなりません。



そのためにも、作者が作品で何を描こうとしたのか、何が魅力的なのか、作品の魅力の本質を理解すること。
そして、なぜこの作品を演出したいと思ったのか、初読で何が面白かったのかを、最後まで忘れないことが重要です。


私はここのところ、なぜか美術史について書いてきました。


日本美術は欧米の画壇に、多大な影響を与えました。

欧米の絵画が追求してきた『写実性』に対し、日本画が追求してきた『精神性』が新鮮なものとして受け入れられたからです。


そして、その『精神性』を表す言葉として、日本画の世界には『写意』という言葉があります。


『客観写意』:対象が輝きを放った、対象本来が持つ魅力(生命力・気品)=対象の本質を表現すること
『主観写意』:対象を描きたいと思った、書き手がすくい上げたい対象の魅力=画家の精神を表現すること

日本画における『写意』の考察は、なぜか美術史、そのうち芝居(6)に書いております。



演出家は時として、リアリティを追求したくなります。
しかし、リアルに作るところに、演出家のオリジナリティはありません。

演出家は時として、独自のオリジナリティを盛り込む事を優先したくなります。
しかしそれが、作者をおざなりにした独自の解釈であるならば、演出家のオリジナリティと呼ぶべきではありません。

演出家はそんな時に、この『写意』という言葉を思い出すべきだと思うのです。


『写意』は、演出家が原点回帰するきっかけを与えてくれるからです。

そして、この『写意』があるからこそ演劇は芸術となるのだと、私は思っています。

最後に、なぜか美術史、そのうち芝居(7)でも書きましたが、日本画の大家、横山大観は、朝日新聞の取材にこう答えています。

>(前略)富士の形だけなら子供でも描ける。富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。
>心とはひっきょう人格に他ならぬ。それはまた気品であり、気はくである。
>富士を描くということは、つまり己を描くことである。
>己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描かねければならぬ
                              (大観「私の富士観」『朝日新聞』昭和29年5月6日より引用)


私が演出家だからこそ、すくい上げられた、日本人の心がある。

そう自負できたならば、他人の戯曲を演出する私のオリジナリティは、自ずと作品に備ると言えると思うのです。


私のオリジナリティは、きっとそこにあると思うのです。
コントと演劇の笑いの違い(2)
松尾スズキさんとラサール石井さんの、
コントと演劇の違いについての対談について書いて下さっているサイトを見つけました。

私がまさに読みたかったやつです。

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「いやしのつえ」~君にホイミを僕にはべホイミを~
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iyatsue/ ←「いやしのつえ」さんのトップページ

「コント」と「コメディ」と「笑いの多い舞台」の違い
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20061024 ←こちらのページからの転載
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演技でいいから友達でいて―僕が学んだ舞台の達人 (幻冬舎文庫)演技でいいから友達でいて―僕が学んだ舞台の達人 (幻冬舎文庫)
(2006/10)
松尾 スズキ

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「演技でいいから友達でいて~僕が学んだ舞台の達人」松尾スズキ著・幻冬舎文庫


ラサール石井 × 松尾スズキ (下記・部分転載)

◆松尾:ところで石井さんは、コントとコメディと笑いの多い舞台の違いを、実際すべて経験している人間として、どう捉えているんでしょう?

◇石井:まずやっぱり、コントは時間的にも内容的にも圧縮されてますよね。で、笑わせることをまず目的としている。その度合いがいちばん強いのがコントですね。でもリアリティーは絶対なきゃいけない。下手な漫才が会話に見えないから笑えないのと同じように、リアリティーがないと絶対に笑えないから。ただ、その振幅の幅は極端なほうがいい。技術的に言うと、声が大きいほうがいいとか、できるだけ正面を向いたほうがいいとかね。コントは長くても15分だから、芝居をやるときみたいに、最初はわざとシリアスなトーンで入ってみるとか、ものすごく日常的な設定を見せるとか、そういう演劇的なことをやっていると、笑いまで届かない。笑いを求める度合いが強いだけに、その辺は省いていかないと。

◆松尾:コメディはどうですか?

◇石井:ある程度筋があるから、ストーリーに沿って進みますよね。そこでちょっと日常的なことは出てきますけど、まあコメディだったら、CMネタを言っても楽屋落ちがあってもOKだし、演者が先走っていることがあってもいい。でも、それが「笑いが多い芝居」ということになると、「そこにいるその人はそれは言わないだろう」っていう最低限のルールを守らないといけないと思うんですね。あえてそれを壊す喜劇もあるだろうけど、そしたらそれを満たすだけの計算が随所にないと、演劇として成り立たないから。いずれにしても、どれをやるにしろリアリティーは必要で、そのためには芝居がちゃんとできないとダメですよね。よく、コントと芝居は別だと思ってる俳優さんに、「僕もコントがやりたいな」なんてふざけて言われるんだけど、「いや、あなたはその前に演技をやったほうがいい」って、僕はいつも思うんですよ。

◆松尾:コントが上手い人って、基本的に芝居も上手いですからね。

◇石井:芝居をちゃんとしないと、人は笑わないんですよ。僕はときどきコントのワークショップをやるんだけど、だいたいいつもやる設定は、学校をエスケープしようとする不良学生と、それをやめさせようとする真面目学生。それをアドリブでやらせると、まず不良学生がそこに居ようとするんだよね。2人がそこにいることが予定調和になってしまって。で、「不良学生はエスケープしたいんだから、行けよ」って言って、袖のほうに行かせると、今度は真面目学生がそれをボーっと見てる。だから「それじゃダメだよ、止めなきゃ」って言って、引き留めさせて、「学校のどこがつまんないんだ?」とかいろいろ質問させて。ちなみに、さっきのコントとコメディの違いで言えば、このとき袖の近くで引き留めても、そこでそのまま芝居を続けるのがコメディ、不良学生をそこから中央にいちいち引っ張ってくるのがコントですよね。

◆松尾:なるほどなあ。

◇石井:ワークショップでは、そうやって僕がああしろ、こうしろって指図しながらコントを続けさせて、参加者はその間を覚えていくわけなんですが、じつはこれ、コントの練習じゃなくて、芝居の練習なんですね。要は、常にどうリアルさを保っているかっていうことなんですよ。芝居のワークショップとして、コントを使っているんですよね。

~~~~~~~


コメディって、最近あまり聞きませんよね。Wikipediaのコメディには、このような記載があります。

>喜劇(きげき、英語:Comedy)とは、人を笑わせることを主体とした演劇や映画、
>ラジオやテレビのドラマ作品や、それらのなかの笑いを誘うやりとりを指す。コメディとも言う。

>ただしコメディの西洋における元義は、悲劇の対照を成す意味での演劇である(例えばギリシア悲劇に対するギリシア喜劇)。

>従って本来は必ずしも笑えるものだけを意味するとは限らない。
>例えば、ダンテの『神曲』も原題は「La Divina Commedia」であり、
>日本語で通常の直訳では「神聖な(もしくは神の)喜劇」となるが、笑えるものを意味しているわけではない。



ラサール石井さんは、『コメディ』と『笑いが多い芝居』の違いの部分で、

>それが「笑いが多い芝居」ということになると、
>「そこにいるその人はそれは言わないだろう」っていう最低限のルールを守らないといけないと思うんですね。

と書いて下さっています。

そうなんですよね。「そこにいる人は、それは言わないだろう。」という演劇が、ほんと多いんですよね。


ラサール石井さんの発言を読んで、『コントは設定を説明するものだ』というとらえ方は、間違っていたと感じました。

あくまコントは、時間的な制約が大きいため、
笑いに到達するまでの省略を追求した結果、説明するという選択肢に至ることがあるという事なのですね。

その他の部分は、私が常日頃感じていた部分と同じため、すとんと落ちました。

いやぁ。やっぱりすごい。


私がかつて書いた、
コントと演劇の笑いの違い(1)コントを演劇的に見るも、よろしければご覧下さい。
観客は、ありかなしを見抜いている
うまい役者さんって、いますよね。

普段お芝居を観ない人であっても、うまい役者さんと、へたな役者さんの違いは、なんとなくわかるものです。

言葉にできないだけです。

その人の言う『うまい』が、本当にうまいのかは、わかりませんよ。


では、へたな役者さんは駄目なのかというと、私はそうではないと思っているんです。
へたであっても観客に受け入れられる、『ありな役者さん』もいるからです。


  台詞回しがへたであっても、感情表現がへたであっても、その世界の住人として存在しているなら、ありです。
  台詞回しがうまくなっても、 感情表現がうまくなっても、 その世界の住人としていられなかったら、なしです。


それでは、聞いて頂きましょう。

映画「2001年宇宙の旅」のテーマ:R・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラはかく語りき」



想像を絶する、へたくそさ加減です。


でも、もしありかなしかを問われれば、

私的には、これは「あり」です。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)の続きを書きます。


私が縁あって文学座の林田一高さんと出会ったのは、2005年の事です。
私が林田さんの演技を見た時の印象は、『なんて自由な役者さんなんだろう。』というものでした。

私の言う『自由』は、身勝手とは違います。

『舞台の上でのびのびと魅力を発揮できる状態にあること』という意味合いが近いかも知れません。


役を演じているにもかかわらず、
板の上でこんなにも解放されている役者さんに、これまでに出会ったことがなかったのです。


舞台上の役者は、色々な制約を踏まえて演技をします。

私は後先考えず、本番で稽古場と違うことをやる役者を、好きではありませんでした。


しかし、一見作品を壊してると思った役者が、稽古場より輝いてしまうケースもあります。
本番でより輝く役者を見るたびに、演出家としての力不足を感じたものです。


では、どうしてその役者は、本番の方が輝いたのでしょう。


役者も演出家も、作品を作る時に台本解釈をします。
台本には、その役が何をするか、そして何が起きるか、それに対してどう思うかなど、色々なことが書いています。

どうやって役作りをして良いかわからない役者さんは、
台本を読んだ後に、『どうやるか』を決めて、決めた事を反復練習しているうちに本番を迎えてしまいます。


『役作りをする事』=『段取り(どうやるか)を決める事』 と思っているのでしょう。


役者さんは、稽古中は不安でしょうがありません。

その不安を解消するために、何が起きるか把握するわけですが、
それだけで安心できない役者は、本番に向けて『制約』をたくさん決めるのです。

決めごとが増えると、役者は安心するからです。
そして、舞台上で一人で勝手に安心して、必要なリアクションを取り忘れる。

例えば、ボールが飛んでくることがわかっていれば、それだけで良いのに、自分がどう投げるかに必死になる。

自分も投げるという決めごとに安心して、相手のボールを受けることをしなくなるんです。
相手のボールを受けてないのに、自分のボールを勝手に創造して、自分の順番が来たから相手に投げてしまうのです。

アクション(相手が投げる)に、リアクション(自分が受ける)をしないで、
アクション(相手が投げる)に、アクション(自分が投げる)で返してしまうわけです。


段取りを1つ決めると、役者にとっての制約が1つ増えた事になります。
しかし、この段取りが役者を固くし、役者の自由を奪っているわけです。

自分で首を絞めてしまっているわけですね。


もちろん、お芝居には段取りが必要です。

しかし、私の考える段取りとは、
舞台上で接触事故が起きないためと、観客にとってわかりやすい位置で演技するためのルール作りです。
演技そのものが、段取りではないんです。

役者の方は、演技が段取りになっていると言われたことはありませんか?
段取りではなく、初めて感じたようにリアクションしてほしいと言われたことがありませんでしょうか。

もしこのダメをもらって、初めてリアクションしたように段取りを決めたのなら、結局はだめなのです。
演技を段取りにした時点で、役者の自由は奪われてしまうからです。

段取りにしない方法を、選択しなければなりません。



演技を段取りとすることの弊害は、役者の自由を奪う事だけではありません。


演技を段取りにする役者さんは、
漫画のコマのように、象徴的なコマを印象的に描けば、滑らかにつながると勘違いをしています。

物語の始まりから終わりまで、いくつも点を打って、
その点をより細かく打つことができれば、一人の人格として見えてくると信じているのです。

そういう役者さんは、演技のうまさを、
どれだけ多くの点を打てたか(どれだけアクションしたか)で決まると思っていたりします。



私たちが生きている世界は、連続した時間が流れています。
役者は物語が始まったら、その連続した時間を役として演じきらなければなりません。

ただし、人が日々感じている『時間』は、あくまで切れることなく続く線であって、コマの連続(点の連続)ではありません。


アクションの連続(点)で演技をつないだ場合、
AアクションとBアクションの間に、その役として、その空間に居続けることができなくなってしまうんです。

AアクションとBアクションの間に、何もしないでその場にいるケースや、
Bアクションを身構え体を硬直させ、相手の演技を全く見えていない場合もあります。

相手のアクションに、アクションで返すのではありません。
相手のアクションに、リアクションするのです。

リアクションは、反応・反射であり、段取りでは決してないです。


点を打つという行為は、点と点の間に隙間を作ります。その隙間が、役者が素に見えてくる瞬間なのです。

その点と点の隙間を埋めることができなければ、結局は、段取りは100決めようが、1000決めようがダメなのです。



私もかつて、役者が安心するようにダメ出しで、どんどん制約を作っていく演出家でした。
役者はどんどん安心していくので、演出家を信頼していきます。

一見、順調に芝居ができあがっている気がしますが、
ある瞬間に、演出家に何か言ってもらえないと、全く動けなくなっている自分に、役者は気付くのです。

そして、なぜ稽古すればするほど、つまらなくなっていくのだろう。
なぜ自分は、やってて楽しくないのだろうと思いつつ、本番を迎えてしまいます。


そして本番で開き直って、役者が稽古場と違うことをやるわけです。


私が思うに、自分で本を書いている演出家さんは、世界観をしっかりと持った上で、演出をします。
そのため、演出家がうまく言葉にできない事象が現場で起こったとしても、何を描きたいかがぶれないのです。

反対に、他人の戯曲を演出する演出家というのは、
演出家が持ってる技法や知識で役者の不満を押し切って、作品を作ってしまう割合が高い気がするのです。

演出家は、本番に向かってダメを積み重ね、どこまでいけたかで勝負しているわけではありません。
描きたかった世界を、描けているかどうかが勝負なのです。

そのためには演出家は、役者の魅力を引き出し、その上で作品の魅力を引き出さなければなりません。


そのできあがった作品自体が、他人の戯曲を演出する演出家だからこそ描ける作品でなければならない。


長くなってきたので、分割します。

次回は、『他人の戯曲を演出する演出家が持つべき視点』について書いてみます。



他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(4)へ続きます。
全力でだましてあげるべきである
私が大学に入った頃、映画のタイタニックは作られた。

CGによって構成された船体は見事であったが、やはり『CGなんだよね』という思いが、そこにつきまとう。


映画は、演劇と同じように、所詮は作られた世界である。
作られた世界であるとわかって見ているはずの映画なのに、なぜCGという手法は、受け入れられないのか。


人は『思い描いた世界が、確かに存在していてほしい』とどこかで願っている。


例え映画が作られた世界だとわかっていても、さらにCGで描かれていると思うことで、
その世界が確かにあって欲しいと願う思いを、くじかれてしまうからではないだろうか。


少なくとも私は、どこまでがCGで再現されているのかまでは、知りたくなかった。
だましきって欲しかったし、だまされたままで良かった。


戦後、日本は焼け野原になったが、正義を問い直し、平和を願い、復興を信じた子どもたちが、今の日本を築いた。


未来のこの国のために、世界のために、いち戦隊ショーであっても、全力でだましてあげるべきである。



そして、できない日があっても、負けるなレッドよ。
人を惹き付ける立ち姿
稽古場で姿勢がおかしいと何度も指摘される人は、そもそも役者に向いてないんだと思います。
恐らくプロの現場では、姿勢がおかしいと指摘してくれる人なんて、いないと思うのです。

『立ち姿一つで、どれだけ品格を高め、どれほどの観客の視線を集める事ができるのか。』

私は板の上では自然と背筋が伸びます。頭で理解したなら、あとは本人の意識次第だと思うのです。

他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)が
=_=)まとまらねぇ。

追記:5/6に他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)をまとめました。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(1)の続きを書きます。


さて、私が芝居の話をしていると、「誰の作品が好きですか?」と聞かれることがあります。

でも、正直どう答えようかと、困るんですよね。


高校生の時に見た富良野塾の「谷は眠っていた」は、知らぬ間に涙してました。
大学生の時に見たエル・カンパニーの「ウインズ・オブ・ゴッド」は、会場中が号泣してスタンディングオベーションをしました。

ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの芝居も、野田秀樹さんの芝居も、平田オリザさんの芝居も面白いと思いました。



私は、他人の戯曲を演出する演出家になろうと思っているせいか、
私が面白いと感じた作品は、ジャンルや、作者(考え出した人)に依存しないんです。


お芝居を観るということは、料理を食べる事と似ている気がします。
私はカツ丼とラーメンが好きですが、中華丼も蕎麦も好きです。


中華だけでなく和食も美味しいですよね。麺類だけでなくご飯物も美味しいですよね。
ほら、ジャンルも考え出した人も、関係ないじゃないですか。

美味しい料理に出会ったから、その料理が好きなだけなんですよ。


ちなみに皆さんは、好きなものだけ食べて生きていませんよね。
次の食事で何を食べるのかわかりませんが、何を食べるにしても、美味しいものを食べたいはずです。

日によって食べたいものが違うように、見たい芝居も変わっていいと思うのです。
面白ければ、それが美味しければ、人は満足できるんですよ。


では、こういう例えはどうでしょう。

◆お腹が空いたので、立ち寄ったお店でカツ丼を頼んだら、中華丼のアンがかかったカツ丼が出てきた。
◆シェフはカツ丼に中華丼の風味を加えるアレンジをし、しかも野菜もたっぷりとれて栄養満点です。
◆『私のオリジナリティあふれるカツ丼は、どう思いますか?』と聞かれる。


私は、『ウォォォ!!』と、頭上でグーを握りしめることでしょう。


私は、カツ丼が食べたかったからこそ、カツ丼を頼んだ。
創作料理のお店なら、そのように看板に書いておけ。
しかも、カツ丼の名前を使わず、いっそ別な名前でその料理を出せよと思う。

お代は払いますけどね。


私が求めたのは、まずカツ丼であるという前提で、なおかつ美味しいことです。

シェフは、そのことを理解してないわけですね。


私の演出も同じで、作者を無視して、独自の世界を作り出せればいいわけではありません。

いままで何度も上演されてきた戯曲であっても、同じ台詞をいった上で、
作者の描いた世界を尊重した上で、それでもなお、私のオリジナリティを出せなければならない。


ちなみに太線部分が、前回と同じ文面です。


私がシェフならば、まずカツ丼を作るべきで、なおかつ、美味しいカツ丼を作ることが、私の仕事なわけですね。



さて、私が演出をする場合は、劇作家が台本に、どういう言葉で書いたのかを重要視します。

音楽で例えるなら、私が譜面を見て、いきなり原曲をどうアレンジするかを考えるのではなく、
譜面には、どのように演奏するべきかが書いてありますので、そこを理解する事からはじめるというわけです。



例えば、こんな台詞があったとしましょう。

A:『なにこれ。タカミナが食べてるのと、同じの買って来てって言ったよね。また無視するんだ。』
B:『だから、そうじゃないんです。』



Aは、怒ってますよね。怒ってる=感情的と解釈して、『また無視するんだ!!!』と叫ぶ役者がいたりします。

でも、よく考えてみてください。


「また無視するんだ。」って言葉を言いながら、大人はキレたりしますか?
「ふざけないでよ。」「バカじゃないの。」「ケンカ売ってるんでしょ。」とかなら、まだ感情的ですよね。

「また無視するんだ。」は、あきれているのか、問い詰めているのか、
はらわたが煮えくりかえっている言い回しであって、決して、爆発する怒りを表す時に、この言葉をわざわざ選ばないですよね。


役者の中には、台詞はすべて、感情を込めて言う物だと勘違いしている人がいます。
しかも、「怒り」だと思い込むと、全部怒りで押し通せばいいと思い込んでいる人もいます。

このAの台詞に、私が勝手に言葉を補うと、

A:『(カツ丼を楽しみにしてたのに)なにこれ。(どういうこと?ほっかほか亭のCMで高橋みなみ・通称)タカミナが食べてるのと、同じの買って来てって(あなたに直接)言ったよね。(前にも私の言ったことを無視したことあったけどさ)また(私の言ったこと)無視するんだ。(どういうつもり?)

みたいな、感じになるのでしょうか。

「なにこれ」の後ろと、「また無視するんだ。」の前で、台詞が変調する(高低が変化する)のはわかりますか?



もちろん、このAの「また無視するんだ。」は、絶対にキレて言ったらダメなわけではないんです。
もしくは、キレやすいように、『バカじゃないの!!』に書き換えることが、演出家権限でできないわけでもないんです。

でもやはり、作者がこのように書いてる以上、まず書いてる通りに演じるのが筋じゃないですか。

私が言ってきた、『作者を尊重した上で、作品を作っていきたい』というのは、こういうことなのです。

だからこそ、「また無視するんだ。」を、「また無視するんだー。」にも、したくないのです。


一定レベルの台本解釈ができるようになると、台本を読んだときに、頭の中で台詞が音になって聞こえるようになります。
これは超能力でも何でも無く、おそらくオーケストラの指揮者も譜面を見た時に、頭の中で音符が鳴るのだと思います。


私の稽古場には、ほとんどの場合、作者は稽古場にいませんでした。

私は、この頭の中に鳴った音を足がかりに、どう演技を変えて欲しいかを役者に指示するわけですが、
私の頭の中で鳴った音が、作者が書いた音と同じであるという保証は、どこにもありません。

私にとっての『書いてる通りに演じるのが筋』という論理は、役者にとっての筋と違うかも知れない。

『私の頭の中で、こう鳴ってるから、そうやってくれるかな。』では、
結局、演出家のエゴで作品を作っているのと、同じと思われてもしょうがないわけです。


役者にしてみれば、
『正解は、すべて演出家に聞かなければ、いけないのか。役者は演出家のコマなのか。』となりかねないわけです。


私が、『他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティはどこにあるのか』を悩んできたように、
役者も、『他人の戯曲を演じる役者のオリジナリティはどこにあるのか』を悩んでいたりするわけです。


もっと言うならば、

『私はここで怒りを爆発させたい。爆発させたいからする。それがなんでいけないの?』

と思う役者も、中にはいるでしょう。


でも結局そこは、話し合うしかないわけです。
話し合った上で、最終的に結論は出さなければいけない。



例えば、とあるラーメン屋のオーナーである私(演出家)が、
今はもう存在しない、昭和の名店の醤油ラーメンのレシピ(台本)を持ってきて、コック達(役者)と新製品を作るとします。

レシピには、メンマの太さに関しての記述がない。
だったら、食べてみてどれが一番良いか、話し合えば良いですよね。

あるコックが、そこにタラバガニを入れたらどうかと言ったとしますよね。
でもそれは、再現したい醤油ラーメンと、コンセプトが変わってしまうんじゃないか?となりますよね。

あるコックが、隠し味にコーヒーを入れてたらどうかと言ったとしますよね。
レシピにはスープを作る醤油の調合方法が書かれていますが、実際に同じ醤油を手に入れることは、もうできない。
コーヒーを少量足すことで味に深みが出る。コーヒーを入れても見た目は変わらない。でもコーヒーなんて入れて良いのか。

話し合うしか、ないですよね。

名店のラーメンを食べたことがある人が、コーヒーがある方が、あのラーメンに近いと言うかも知れないし。
かといって、コーヒーを入れすぎたら、コーヒーラーメンになる事は、わかりますよね。


オーナーである私は、どこまでは譲歩でき、どこまでは譲歩できないのか。


しかも、味を再現する事が目的ではないんです。

最終的に再現した懐かしい味を、『美味しい』と言ってもらえなければいけない。


当時の食文化を再現する事が、私の目的ではなく、
その一杯を食べた事による満足感や幸福感を再現することが、私の目的だからです。


結局、料理をする(舞台で演じる)のはコックです。
オーナー(演出家)である私には、やれることとやれないことがある。

ただし、オーナーであるからこそ、『俺が責任を取るからやってみろ。』と言うこともできる。



だからこそ演出家である私は、『どこまでは譲歩でき、どこまでは譲歩できないのか。』を明確にする必要があるわけです。



さて、長くなってきたので、この辺で。

他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)に続きます。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(1)
若い頃、誰もが一度は『自分は何者なんだろう』と問いかけることがあったと思います。
同じように、私が自らに問い続けてきたのは『私の演出とはなんなのだろう。』という事でした。


これだけだと、ただの思春期の悩みの一つと思われるかも知れませんが、
正直『舞台演出家』というのは、何をする仕事なのか、何のためにあるのかも、答えるのが難しい職業だと思っています。



私が舞台演出家を志しているというと、「宮本亜門さんと、同じでしょ?」と言われることもあります。
確かに宮本亜門さんは、日本を代表する演出家ではありますが、宮本亜門さんはミュージカルを演出する人ですよね。


私が演出するのは、いわゆるセリフ劇で、演劇の中でも『ストレートプレイ』と呼ばれているものです。


では、演劇を少し知ってる人であれば、
「つかこうへいさんや、野田秀樹さん、三谷幸喜さんと、同じだ。」と言ったりします。

確かに三人とも、ストレートプレイの演出家さんですが、私と一緒かと問われると、どうも違う気がしてくる。


大きくわけて2点、違う気がしてくるのです。

まず第1点。三人とも全くジャンルが違います。音楽に例えて言うなら、ハードロックと、ジャズと、テクノぐらい違う。
しかしそれは、突き詰めれば、私にとってはどうでも良い点なのかも知れません。


もう1点の方が、私にとっては重要でした。

それは、三人とも劇作家であり、かつ演出家でもある人たちであるという点です。
私は自分で作品を書いたこともありますが、基本的に『他人の書いた芝居を演出する演出家』なのです。

なぜ、この点にこだわってしまうかと言いますと、
劇作家であり演出家であるこの三人は、この人たちが考えなければ、
この世に存在しなかった世界を最初から作っているという、前提があるわけです。

つまり、自分で書いて、自分で演出する場合は、オリジナリティが最初から存在している。


しかし、私の場合は違います。

私が演出する作品は、私ではなく、劇作家さんが書いた戯曲です。

演出家としての私の存在意義は、現場の潤滑剤として機能するだけではない。
かといって、どうオリジナリティを出して良いかが、わからなかったのです。


『演出家なんだから、好きに作品を作れば良いじゃない。』


そう言う人も、確かにいます。
しかし私は『演出家は作品を好きに作って良い』とは思っていなかったのです。


演劇において、役者や演出効果は、より個性的な方がいいと思ってる人が多い気がします。
個性的=オリジナリティがある=良いと、認識されている面があるからでしょう。

私は個性的である事=良いととらえることを否定したいわけではありませんが、
個性的である事を優先するばかりに、作者が描きたかった本来の世界と、
全く別の世界になってしまっていると感じてしまう作品に出会うことが、非常に多かったのです。


では演出家は、作家が現場にいないから、演出家が代わりをするだけなのだろうか。


いや、違う。


演出家は、現場でもめ事が起きないようにする、単なる潤滑剤ではなく、
作者が現場に来れないから、作者の代理で台本の解釈を伝える存在だけではない。

演出家は、演出家としてのオリジナリティを持った上で、役者と作者の間で、演出家として責任を果たさなければならない。
では、他人の作品を演出する私のオリジナリティは、どこで出すべきなのかを悩んでいたのです。




そこで気付いたのは、私の舞台演出家という仕事は、オーケストラの指揮者に似ているという事です。
オーケストラの指揮者は、みんながみんな、自ら作曲をしているわけではないですよね。

人が書いた楽譜をみて、指揮者が指揮をするわけです。

前回、佐渡裕さんとその師匠に当たる、レナード・バーンスタインの演奏の動画を紹介しましたが、
同じビゼーのカルメンの譜面で指揮をしているにもかかわらず、二人から生み出された音楽は、全くの別の魅力があります。


J-POPの音楽番組においても、ジャズミュージックであっても、そこに指揮者はいません。
もちろんオーケストラに指揮者がいなくても、音は鳴るはずです。


では、「オーケストラに指揮者はいらないと思いますか?」と問うと、首を傾げたくなる。


指揮者の中には、佐渡裕さんやバーンスタインの他にも、世界で活躍し、実際に評価されている人が大勢います。

オーケストラの指揮者は長い歴史の中で、指揮者の果たすべき役割が明確になり、認知されているからこそ、
オーケストラに指揮者はいなくてもいいとは、思えないわけです。


もう1点注目すべき点は、佐渡裕さんのカルメンは、佐渡さんならではの、ビゼーのカルメンであり、
レナード・バーンスタインのビゼーのカルメンは、バーンスタインならではの、ビレーのカルメンになっている点です。


つまり佐渡裕さんもバーンスタインも、楽譜に新たに音符を書き加えたわけではなく、
鳴っている音符は一緒なのに、『音符の解釈が違う』から、彼らにしか作れないオリジナリティを持った音楽になっているわけです。


独自の魅力があるけれど、演奏されている楽曲は、間違いなくビゼーのカルメンなわけです。



そうなんです。私は、これだと思ったのです。



私の演出も同じで、作者を無視して、独自の世界を作り出せればいいわけではありません。



いままで何度も上演されてきた戯曲であっても、同じ台詞をいった上で、
作者の描いた世界を尊重した上で、それでもなお、私のオリジナリティを出せなければならない。



では、『私の演出とは、なんなのか。』

そして『私のオリジナリティとは、どうやって出していくべきなのか。』



次回は、そのことをまとめてみたいと思います。


他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)に続きます。
あの日の前後からの事3
私が大学生の頃、演出を取っていた大学の先輩に、こう言われたことがあります。

『演出家は、役者の前で、悩んでいる姿を見せてはいけない。』

今の私は、これは間違っていると思っています。


確かに演出家は、役者に不安を与えてはいけません。
しかしそれは、稽古場が停まるからです。


演出家は、すべての答えを用意して、稽古に望んでいるわけではありません。
演出家と役者は、稽古場で一緒に答えを探すべきなのです。


『演出家は、悩んでもいい。しかし、稽古を停めてはいけない。』


これも、文学座の林田さんに、教えて頂いたことです。
そして私は、自身が稽古場で悩む事を、よしとしました。



しかし、役者が稽古場で何を生み出そうとも、
最終的に、すべては演出家の感性で決まってしまうのでしょうか。

役者は、最終的に『演出家がよしとするかどうか』でしか、判断基準はないのでしょうか。


役者は、役者として輝くために、独自の価値基準で役作りをするべきではないのか。
だとすれば、演出家は、どこまで役者に要求可能なのか、
何がありで、何が無しかを言葉にするために、
きちんと自分の中に、線引きを持つべきだと思ったのです。


さて、昨年12月頃の私は、『演出家は、どこまで役者に要求可能なのか』に対する、
明確な線引きを、自分の中に持っていないことに、悩んでいました。


そこで私は、私が演出家としてどうしても譲れないポイントと、
役者にとってのメリットに共通点が有り、それをお客が望むのであれば、
その3点を結んで、『私の、演出家として譲れないライン』とすればいいと、考えたのです。

そうすれば、そこを根拠に、遠慮なくダメ出しができると考えたのです。


そこで、3者が賛同できる、ポイントを探そうとしたのです。




例1)演出家や役者が、脚本家の書いた台詞を勝手に変えていいか

役者:変えたくはない気もするが、それでいい効果が出るなら、許せる。
演出家:作品が変わるなら許せない。作品がより良くなるなら、許せる。
お客:変えたことがわかれば許せない。わからないなら、どうとも思わない。



例2)役者が、アドリブを入れていいか。

役者:面白くしたい。ただ、演出家が言った事が面白くない場合は、正直やりたくない。
演出家:作品の面白さを倍増するならやりたい。ただ、作品が別物になってしまう場合は、許せない。
お客:面白いにこしたことはない。ぶっちゃけ孫が舞台に出てるから見に来ただけで、
   面白いかどうかは、期待してない。




ここまで考えたとき、正直『こりゃ厳しい』と思ったんです。
そうか。面白いかどうかを期待してないお客さんも、いるんだ。と。


そこで私は、視点を変えることにしました。


どうにかして、孫娘を見に来たお客さんにも、演劇の魅力を伝えることはできないだろうか。
そのためには、『なぜお客は、劇場に足を運ぶのか。』を考えなければいけないと思ったのです。


演劇の面白さの一つに、『生(なま)であること』があげられると思います。

『生であること』を考えるために、生と似た言葉の『生中継』について書いてみます。



例えばAKBの総選挙を劇場中継してますが、
毎回、日本中の中継している全国各地の映画館が、満員になっています。

また、最近の視聴率低迷のテレビ業界ですが、
昔のベストテンとかは、ライブ会場と中継を結んで放映していました。
8時だよ全員集合!も、あれもライブ中継で放映されていました。
なでしこJAPANのワールドカップ女子決勝は、多くの人が勝利に歓喜しました。

特にスポーツは、リアルタイムで見ないと面白くないと言いますが、
生中継の魅力というのは『目撃者になりたい。』という欲求からだと思います。


では、普通の演劇を生中継したところで、
すべて面白いかと言ったら、そうではないですよね。

演劇の面白さというのは、劇場でしか味わえないというのは、みなさん何となくわかりますが、
それは、リアルタイムで見たいからでは、ないわけです。

いくら演劇がその場限りのものだといっても、
演劇は、5回も7回も40回も何千回も、繰り返し上演されます。
期間内であれば、何度も見ることもできるわけです。


生の魅力にはもう一つ、『ハプニングを見たい』というのも、ある気がします。

しかし、演劇を見に来る人が、ハプニングを期待して来ているとは、私には思えません。


演劇にとっての『生』の強みは、はたしてどこにあるのか。
私はその答えは、お昼の『笑っていいとも!』にある気がするんです。


フジテレビの『笑っていいとも!』は、スタジオアルタに、お客さんを入れて、生中継をしていますよね。

民放放送で無料で見れる『笑っていいとも!』ですが、
ではなぜ、スタジオ観覧で、お客さんは足を運ぶのでしょう。

それは、『生で見たいから』ですよね。
それは、『そこに芸能人が、実際にいるのを、自分の目で見れるから。』だと思うのです。

私の憶測ですが、皆さん一度は、
タモリはひょっとしたら、空想上の生き物じゃないか?

と思ったことは、ありませんか?

私は、何度もあります。

でも、そんな私も、この目で確認したら、信じられると思うのです。
『タモリは実在する』と。


お芝居は、所詮嘘です。
しかし、嘘でも人は、信じたい時がある。

子どもたちが信じれば、信じた子どもの数だけティンカーベルが増えるように、
人は、空想さえも信じたいことがある。

もうこの世にいないあの人が、戻ってくると信じたい時がある。


3.11に対して、演劇は無力でした。


当たり前の事ですが、演劇が濁流に飲まれていく人に、手を差し伸べる事はできません。

しかし私は、演劇は人の悲しみに、寄り添えられると信じていた。
しかし人は、そんな演劇の寄り添いなど、邪魔くさくてしょうが無い時もある。

絶望に瀕した人に、全く部外者の寄り添いなんて、余計なお世話の場合がある。

それでもなお、なぜ、演劇は必要なのか。


それは、人は、絶望の淵から戻ってくるために、
『何かを信じる事』から、はじめる必要がある。

その時、演劇の嘘が、絶望の淵にたたずむ人の手を引いて、明日へ引き戻すかも知れない。




この瞬間、私の中での、3者の共通点が見つかったのです。

役者:役としてその場にいたい。その事が、演技がうまいという評価につながる。
演出家:役としてその場にいてもらいたい。その事が、作品を伝える為に不可欠だから。
お客:物語に入り込めるよう、その役でいて欲しい。最低限、出演して欲しい。


私がいままでワークショップで言ってきた、

『言葉が当たってこない。』
『それではリアクションがとれない。』
『もっと相手に、引っかかるように、台詞を言って。』

これらは、演出家の独りよがりな欲求ではないんだ。



その役として、その場いるために必要なことだからこそ、
役者には、絶対にクリアしてもらわなければいけないハードルであり、
自分は、演出家としてそこをあきらめてはいけないんだ。

大丈夫だ。これでやっと、稽古場を停めない自信が付いた。

そう思えたのは、年明けの1月の上旬の事だったように思えます。
あの日の前後からの事2
昨年の10月頃の私は、
演出に関する、疑問を抱えていました。

  ※以下は、お芝居に関する専門知識がないと理解できないかも知れません。
   一般の方に向けての、親切な書き方ではありませんが、ご了承下さい。

その疑問とは、

『役者が役作りをする際は、演出家と同じ思考パターンを持つべきかどうか。』

というものでした。




私の演出方法は、
文学座の林田さんの元で(私が考え、感じ、)学んだことが、ベースになっています。

文学座の林田さんは、
同じく文学座の演出家である高瀬久男(読売演劇大賞/優秀演出家賞・桜美林大学准教授)さんの、
演出が好きだと、日頃から言っていました。

しかし私は、高瀬さんを遠目に確認させて頂いた事はあるのですが、
残念ながら、直接お話をさせて頂くチャンスがありませんでした。

林田さんからある時、
高瀬さんは『自分は、役者と同じコンテクストで芝居を作れる時、演出家としての喜びを感じる。』
と言っていたと、教えてもらったことがあります。


コンテクスト(Context)あるいはコンテキストとは

一般に、コンテクスト(あるいはコンテキスト)は、日本語では「文脈」と訳されることが多いが、他にも「前後関係」、「背景」などと訳される。コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であれば店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。

(転載:Wikipediaより)


例えば、
『言葉が当たってこない。』
『それではリアクションがとれない。』
『もっと相手に、引っかかるように、台詞を言って。』

この3つの言い回しをとっても、
一般に人には、何を言ってるか、さっぱりわからないと思います。

私が昨年、20回ほど演劇のワークショップをやってきましたが、
この役者とのコンテクストの形成に、大変大きな時間を割きました。

演出家の作劇における共通言語(演劇用語)を理解できる事は、
役者の自身の演技を見つめ直す機会を増やし、結果演技の幅を広げることと考えていたからです。

しかし、私がかつて、
言葉に『当たる』なんて言い回しがあるのかと驚いたように、
私のワークショップに来ていた方々のほとんどは、
私の使う演劇用語に、一度も触れたことがない人たちが、ほとんどでした。

演出家は、役者に演技をしてもらうために、多くのだめ出しをします。
しかし演出家は、それを思いついたままに、口にしているわけではありません。

物事には、タイミングがあります。
また、言わなくてもいいこともあるんです。

15個のダメだしを、思いついた順番にクリアするよりも、
最後に気付いたダメを言うだけで、すべての問題をクリアする場合もあるんです。


そこで私は、そのうち疑問に思ってきたんです。


私は同じコンテクストで芝居を作りたいという思いから、
演出家と役者のコンテクストの形成が作劇に必要不可欠と、
勝手に決めつけていないだろうか。

私自身、思ったことをすべて口にしているわけではないのに、
役者が稽古場で、演出家と私と同じ事を考えている必要はあるのだろうか。

結果として、私と同じ思考パターンを、役者に押しつけて来ただけではないか。



それは、

『役者が役作りをする際は、演出家と同じ思考パターンを持つべきかどうか。』

という疑問になったのでした。


そんな時、秋元康さんが、AKBの大島優子さんに言ったとされる、
こんな一節を、目にしました。


この頃の大島は、真面目な優等生キャラだった。秋元康からは「お前、つまらない」「お前のその真面目なキャラどうにかしろ。」「もっと、くだけていいんだ」と言われていた。特に2期生は個性派ぞろいであったため余計に目立たなかった。子役時代から、2番目が定位置だった大島。オーディションでは、大勢の中から数名選ばれる時は合格できるのに、徐々に絞られる時は、最終選考で悔しい思いを何度もしてきた。そしてAKB48でも、優等生であるがゆえの苦悩があった。

(転載:まるっと大島優子@wikiより)
http://www43.atwiki.jp/oosima_yuuko/pages/13.html



役者は、どうであっても、板の上で輝かなければならない。

私とのコンテクストを形成しているうちに、
その人の『一番いい時期』を潰してしまっているかも知れない。

私は、役者を育成する為に、芝居をやっているわけではない。

役者が稽古を通じて、うまくなったかどうかは、私にとってどうでもいいことだ。

その人が板の上で輝いて、観客が喜んでさえくれれば、
私と役者が、コンテクストを持っているかどうかなんて、どうでもいいことではないか。

そもそも役者は、コンテクストを形成したくて、芝居をやっているわけではない。


いつしか私は、役者とのコンテクスト形成を、目的にしてしまっていた。


役者が私の言ってることを理解できないのならば、
役者が理解できる言葉を探し続けるのも、演出家である私の仕事ではないのか。

役者は、演出家だけ見ていたらダメだ。
役者は役者として、やらなければならない仕事があるはずだ。

という、考えへ行き着いたのです。



私は演出家として、役者の個性をできる限り尊重したいと思います。



しかし役者は、輝くためになら、何をやってもいいというわけでは、ありません。

では、何をやって良くて、何はやったらダメなのか。


例えば、役者が台本の台詞を勝手に言い換えたとしましょう。
言い換えた方が、役者は言いやすい。
でも演出家は、そこは言い換えて欲しくないとします。


この場合、台詞を言い換えるべきか、言い換えないべきか。


それは、演出家が『名目上、役者よりえらいとされている』から、
言い換えて欲しくないと、言えばすむ話なのだろうか。

『大御所の役者だから、そこは指摘できない。』ですむ話なんだろうか。


お客は、そんな一語変わったところで、何も文句は言わないかも知れない。
しかし、熱烈なその作品のファンは、そこは一語も変えないで言って欲しいかも知れない。

すべては、演出家の采配一つなのかも知れませんが、
私はこの時点で、なにが正しいのか、
どこまで、役者に要求可能なのか、自分の中に根拠を持てなくなっていたんです。


それが、昨年10月から12月頃の、私が作劇を再開できない、一番の悩みでした。
あの日の前後からの事
現時点で、どう整理するべきかわからないため、
とりあえず、あの日の前後からの事を、書いてみます。
しばらくの間このブログは、私の心の整理のために書いていくと思います。


3月10日。

私はこの時、介護ヘルパー2級の免許を取るために学校に通っており、
夕刻に帰宅した私は、ベッドに横になり、テレビを見ていた。

すると、文学座の林田さんから、
久々にお茶でもしないかとメールが来て、新宿で待ち合わせをした。

途端に、急に家を出るのが怖くなった。
なんとなく、事故にあう気がした。

交通事故にあうのか、駅のホームから転落するのかわからないが、
急に背筋が寒くなったのだ。

私は、林田さんとお茶をするのが好きで、
新宿で12時間お茶(飯?)をしたこともあり、
行くという選択肢は、どうしてもはずす気になれず、
とりあえず不安を抑えるために、引き出しをひっくり返し、
気休めかも知れないオニキス(厄除け?)の珠を握りしめ、新宿に出た。

林田さんは直感の鋭い人なので、
変な発言で、林田さんに迷惑をかけたくないと思ったので、
この事には何も触れず、私はずっとオニキスの珠を握りしめながら、
楽しい時間を過ごして、終電で帰宅した。

その後、明け方に就寝し、目覚めた時には、世界が揺れていた。


ああ。この事だったのか。と思った。



3月11日

テレビを付けると、NHKが津波の状況を中継しており、
どす黒い波が人を飲み込む手前で、カメラのアングルは切り替わった。

その日に予定していた観劇は、無くなった。


それから数日たって、計画停電の影響で、
ワークショップで押さえていた会館を、ひとまずキャンセルしてほしいと連絡がきた。

了承した。

それが、ワークショップが途絶えた理由である。


3月22日。こんなメールが来た。
=========================
毎度お世話になっております。○○です。
地震の方は大丈夫でしたでしょうか?
私の実家は岩手なのですがとりあえず無事のようです。

告知がございます。
この度○○○○○○にて○○○○監督「○○○○○○」が絶賛上映中です。

私は婦女暴行犯として出演させていただいております。

実にくだらない内容なので、こんな時期にこそピッタリだと思います。

地震などの影響でレイトショーが17時10分~となっております。
詳しくは下記ホームページを参考にしてください。

http://www.○○

ツイッター
@○○○○


それでは皆さん生きてる奴らで生きてる奴らを楽しませましょー!
=========================


さすがにこの時期に、このメールの文面はまずいですよと返信したところ、



=========================
おつかれさまです。

そうでしたか、俺の不注意ですね。

やってしまいました。わざわざありがとうございます!

反省します。失礼しました。

=========================

と返信が来た。



このことから、考えてしまったんです。


はたして、こんな大変な時期に、演劇をしていていいのだろうか。

演劇は芸術という側面を持っているために、人は簡単には批判できない。
でも、本当に、いま、演劇は必要なんだろうかって。


つづく
日本人だからこそ描ける世界
私は「開運!なんでも鑑定団」が好きで欠かさず見ているのだが、
最近、物の『価値』について、改めて考えた。


きっかけは2011年7月19日の放送で、中島誠之助さんが楽茶碗を
『本物に間違いないが、茶碗は60万。もし箱があれば180万でしょう』と鑑定したことにある。


茶碗は、謂れ(いわれ)が大事である。
それはわかる。


しかし、箱があるだけで120万も価格が変わることに驚いた。



↑楽茶碗とは、こういうものです。



さて、私は芸大を出たわけではないので、下記考察は、曖昧な部分を含むものだと思って読んでほしい。



茶碗の価値を決めるには、

 美的価値=そのものが美しいことに対する価値?(物によってはコピー可?)
 芸術的価値=創造されたオリジナリティに対する価値?(コピー不可?)
 骨董的価値=歴史的価値=文化的価値。年を重ねたことに対する価値?
 希少価値=現存数に対する需要の量によって決まる価値
 利用価値=茶碗として使用できるという価値
 資料的価値=学術的価値

などがあると思う。


楽茶碗そのものの美的価値・希少価値などに対して、
箱があることにより、歴史的価値・文化的価値が付加されるため、
今回の楽茶碗は、箱があれば180万に跳ね上がる。

また箱には、資料的価値もあるのかも知れない。



さて、西洋アンティークと東洋の食器(茶器)を比べると、
西洋アンティークの価値は、技巧の細かさでほぼ決まるのに対し、
東洋の食器(茶器)は、無造作に自然発生した美的価値を大きく重んじる傾向がある。


例えば、朝鮮王朝時代に作られた井戸茶碗。

日本でも国宝や重要文化財に認定されている井戸茶碗であるが、
もともとは、日常雑器である。

つまり、飯を食うために裏庭から掘った土で茶碗を焼いたら、
それが、今や国宝として美術館に入っているのである。



↑井戸茶碗とは、こういうものです。



井戸茶碗の魅力は、その無造作な自然美にある。

私は、茶器にそれほどの価値=美を見いだした日本人を誇りに思う。



さて、3月に東日本大震災が起き、
私は自分の中に、『価値』とは何かを問い直した。


お金って大事ですよね。
私も、お金は大事です。

でも、それはそれでいいじゃないですか。

でも、あの震災があって、
お金じゃない物も、大事だって気付かされましたよね。



では、私の作る演劇に、どのような『価値』があるのか。



それは、独りよがりなものではなく、
かといって、人に媚びるものでもない。

未だこの世にない、新しい芸術を生み出すことでもない。
かといって、失われたものを取り戻すものでもない。


私にとっての芸術とは、自然美の中にある気がします。


生きているってすばらしい。


このことを、作品に込めることができたら、素敵だと思う。



演劇は、所詮嘘です。

演劇の中で起こる奇跡は、人の人生を救うことはできない。

今回の震災で、私は演劇の無力さを感じました。



しかし演劇は、誰かの人生に、寄り添うことができる。

人の悲しみに寄り添い、明日への力となす事ができる気がする。


その時、私の演劇は人間賛歌となり、
はじめて、『芸術』となるのだと信じて頑張ろうと思う。


日本人の自分だからこそ描ける世界が、必ずある。


それを信じて、踏み出せ。俺。
【演出論】つかこうへい氏の「口立て」法
2010年7月10日、劇作家で演出家の、つかこうへい氏が死去した。

『つか以前』『つか以後』とさえ言われる演出家、つかこうへい氏。
今回は、つかこうへい氏の口立て法(くちだてほう)について記述する。

私がつかこうへい氏の名前を知ったのは、大学生の時である。
当時、つかこうへい氏の熱烈なファンであった女性の役者に、
彼女が自主公演でやった、熱海殺人事件のビデオを見せられたのである。


 当時の私は、つかこうへい氏が、口立て法で芝居を作ることは知っていたが、
 つかこうへい氏が、どれほどすごい人物なのか、理解できていなかった。


口立て法というのは、
演出家が稽古場で台詞を言い、それを役者が同じように繰り返す。


つまり、『役者が演出家の言い回しをマネをして、作品を作っていく方法』である。


この方法、これだけ聞くと、別にたいした事ではない。

稽古場でも、演出家が台詞を言ってみせることはある。


つかこうへい氏の革命的な演出法は、
実は口立て法だけではなく、複数の要素で成り立っているのである。



◆1.作家が稽古場で演出を付ける。

つか氏がそもそも口立てを行ったのは、
演出に関して、全く知識を持たない素人だったからである。

つか氏は、大学在学中に、知人に頼まれ作品を書いた。
そもそも、つかこうへい氏は、劇作家として始まっている。

つか氏は、稽古を見たときに、役者が発する台詞に違和感を覚えた。
どうして自分の書いたニュアンスで、台詞を言ってくれないのだろう。

自分にとって、そのニュアンスではないと言う事を、言葉で説明できず、
自分で再現して、それを役者に言ってもらった。

これが、口立て法のはじまりである。



◆2.言葉には人それぞれの距離があり、その人に近い言葉で作品を作った。

つか氏は、千秋楽の幕があくまで、台本を変え続けるのも有名だ。

それは一見、芸術家の気まぐれのように思えるが、つか氏が台詞を変え続けたことには、根拠がある。


「まじで!?」


といきなり書いてみたが、
この「まじで!?」を、80台の病床の男性が言ったところで、絶対に嘘くさい。

「それは、真実なのでしょうか。」という台詞を、5歳の少女が言ったところで、絶対に嘘くさい。


言葉には、その言葉がその人にとって身近かどうかの『距離』がある。
日頃から使っている言葉は、その人にとって身近なフレーズであり、安定感があるのだ。

その言葉の距離を縮めるために、本来役者は努力するべきなのだが、
つか氏は、それを信じなかった。


たかだか、数十日の稽古で、言葉の距離が縮まるわけがない。


だったら、作家が稽古場にいるんだから、
目の前の役者の身近な言葉で、作品自体を書き直せば良いではないか。


この台本を書き直すという作業は、単に言い回しを変えるというわけではない。


作品のドラマを書き換えるのである。


つか氏の代表作「熱海殺人事件」は、まさに作品の背景のみならず、
登場人物の職業までも、一切合切書き換えたバージョンが存在する。

つまり、自分が選んだ役者にあわせて、
「熱海殺人事件」をベースに全く新しい作品を、何度も書き上げたのである。

いわゆるドラマを描くために役者がいるのではなく、
役者にとって身近な言葉で、その人にとってのドラマを、稽古場で書いていったのだ。



◆3.その人がそこにいれば、自分はいくらでも捨てられる。

私は良く「医者を演じる」という事を例に出す。

そもそも医者が出てくる作品では、役者は医者に見えなければならない。
そこで、医者じゃない人間が、医者に見えるにはどうしたらいいかを普通は考える。

これが、演出家の普通の思考だと思う。


つか氏は、違った。


つか氏は、演出家である前に、作家である。


つか氏は、そもそも医者に見える人であれば、
何を言わせても、何をさせても、その人は医者で居続けると考えた。

もっと言うと、医者じゃなくてゲイに見えるなら、
自分がゲイのドラマを書けばいいだけだと言うのが、つか氏のスタンスなのだ。


役者は自分の存在を信じ、そのままで舞台に立って良いと保証される。
台詞が言いにくいなら、何度でも作家が目の前で書き直してくれる。


しかしそれは逆に、役者は何も言い訳にできないという事でもある。


つか氏がそこまで役者のためにやってくれている以上、
役者は、その役に全力で情熱を注ぎ込み、
作品を成立させるために、一切の迷い無く、その役として居続けなければいけない。


しかし、それは役者にとって、至福の一時なのであろう。

だからこそ、役者の中には、つか氏の作品の熱烈なファンが多いのだと思う。


ではつか氏は、なぜ自分のドラマを捨てて、新しいドラマを書けたのか。


それはきっと「人」を信じていたのだと、私は思う。


いかに奇想天外な物語を思いついたかで勝負するのではない。

「そこに、その人がいた。」という事実からすべてが始まれば、
物語は、その人の魅力を引き出すエピソードに過ぎない。


人を描くためにエピソードを用意したつか氏は、「人を愛した人」なのだと、私は考えている。



◆4.大音量の音楽と、ダイナミックなストーリー展開でも破綻しない安定感。

つか氏の作品は、大音量の音楽と、ダイナミックな展開も注目されるが、
なぜそれが成立し、それが客席に大きなエネルギーとなってなだれ込むかは、
まさに、今までの部分に根拠がある。


役者の見た目も、声も、言葉も。すべてが、前提としてそう見えるのであれば。
舞台上でどんなにダイナミックにストーリーが展開しようと、物語は成立する。

こんな世界は、あり得ないとわかっていても、
その世界が目の前に存在する以上、人はそれを認めざるを得ない。

だからこそ人は、冷静な判断さえ捨てて直感的に心が動き、涙を流すのである。



そこに至った、つか氏は、やはりすごい人なのだと思う。




さて。逆説的に考えて見よう。

つか氏の芝居は、口立て法のみならず、
作家であるつか氏がその場にいて、ドラマさえも書き換えていくからこそ、成立するのである。


だからこそ、つか氏が死去した今、もはや、つか芝居は成立しない。


そう思っているからこそ、
「つかこうへい氏の作品を、今度やるんです。」と言われても、私は見に行かないことにしている。

つか氏がいないのに、つか氏の作品をやると言う事は、
普通の芝居の方法論で、つか芝居を作ると言う事だと思っている。


口立てで作りましたと言われても、私にとっては、全く魅力を感じないのだ。


つかこうへい氏の芝居は、残念ながら、もう見れない。


誰か、第二のつかさんになりませんか?


私には、この演出法は、マネできない。
【演出論】言葉を紡ぐ仕事
何年か前のNHKの「のど自慢」の年末総集編で、
外国人に対する評価が低いと審査に抗議した外国人の話を特集していた。

その時のNHK側の返答は、

「外国人だからといって、差別をしているわけではありません。
歌の心というのは、自分が気持ちよくなるためではなく、
聞き手を気持ちよくするものなのです。

外国人の方々は、どうしても自分が気持ちよくなるために歌っている方が多いため、
このような評価となっているのです。」

といったものであったと記憶している。


「いきものがかり」のVocal吉岡聖恵さんが番組のインタビューで、
歌う時は、聴いている人が感情を乗せやすいように、自分の感情はあまり込めないようにしている
と答えていたのを見たことがある。


吉岡さんも、言葉を伝えることに主眼を置いているのだと思う。


芝居を見に行くと、頑張ってる人がいっぱいいる。

人は、頑張っている人を応援したくなる。
しかしそれは、役ではなく、その人自身がそこにいたという事ではないだろうか。

役者である以上、役として板の上に立ち、
役者として、評価を受けるべきだと思うし、
私もその土俵で、演出家として勝負をしていきたいと思う。

私は自分自身の生き様とその作品の両方をもって、
人々に、明日を生きる力を届けたい。


【演出論】想像してもらい、それを超えていく事
芝居をする人は、劇場を小屋といい、
バンドをする人は、スタジオを箱という。

そもそも、その空間には何も無く、
そこにどのような世界を作り出せるかに、作り手は情熱をかける。



文章を読んで、
「イメージできるもの」と「イメージできないもの」がある。


何も無い空間に、世界を生み出すとき、
作り手の思いだけでは、実はどうしようもない。


 見る側の『想像力』が必要なのである。



物語は、大きく裏切った方がわかりやすい。

かといって、大きく裏切る事だけがすばらしいわけではない。



 展開がダイナミックな事がいいのではないのだ。

 想像を裏切り、なおかつ想像してしまうからこそ、面白いのである。



だからこそ、観客を一歩先に行かせる必要がある。
観客の集中を切らないために、緻密な作りこみが必要となるのである。



『想像していたけど、やっぱりあれは、これの複線だったのね。』

『想像していたけど、これってこうなっちゃうの?それで?』



観客の想像力の力を借りて、作り物が本物を超えていくのである。



想像してもらい、それを超えていく事というのは、
期待してもらい、期待に応えていく事と同じ気がするのだ。


だからこそ、次が見たくなるのだと思う。


自作のマリオっぽいステージのゲームを先輩方にやらせてみた(※音ありがオススメ)


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【演出論】言葉における、明度と彩度
開運!なんでも鑑定団で西洋画の鑑定をしている永井龍之介さんが、
『鑑定団が3倍面白くなる!目からウロコの骨董塾』という番組で、
油絵具の明度について話をしていました。
(記憶をもとに書くので、事実と違った場合は連絡ください。)


まず絵具の種類についてですが、
そもそも、絵具というのは、顔料に何を混ぜるかで決まるらしいです。
そして、絵具に混ぜるものを、固着材と呼びます。


(顔料+固着材=絵具)


    水彩絵具:アカシア樹脂(ガム アラビック)を固着材に用いる絵具。
 水性テンペラ:卵、カゼインなどによるエマルションを展色材とする絵具。
     油絵具:乾性油を固着材に用いた絵具。

  ※展開材(固着材+溶剤) 詳しくは、Wikipediaの絵具を参照してください。


  ちなみに水彩絵具は水に溶け、油絵具は水に溶けないですよね。
  水性テンペラは水に溶けますが、乾くと重ね塗りができるらしいです。
  つまり、水性テンペラは水彩絵具と油絵具の中間の特性らしいです。



さて、絵具は時代と共に改良が加えられてきましたが、
絵画の世界に変革をもたらした、画期的な発明があったというのです。


実はそれが、『チューブ式の絵具』の発明。


では、なぜこれが、大きな変革をもたらしたのでしょう。


チューブ式の絵具が発明され、絵具を携帯できるようになった事で、
屋外で色を塗ることが容易なり、着色の為に工房にいちいち戻る必要が無くなったため、
風景画が多く描かれるようになったそうです。


携帯電話の普及が社会のありようを変えたのと、おそらく同じでしょう。

しかし、絵具を携帯できるようになったことだけが、すばらしかったわけではなかったのです。


チューブ式の絵具が生み出された事により、
着色の際に、実際にその風景を見ながらその場で色を塗れるようになったのが、
実は、現代絵画に大きな影響を与えたというのです。


 自然の風景は、光を浴びて、様々な色彩を放ちます。


画家達は、工房でスケッチしたときの色を想像して色を塗るのではなく、
実際の風景を目にして色を塗り始めたとき、その光が生み出す輝きの多様性に気付き、
その色彩の力強さを表現するために、今まで以上に表現を追求し始めたというのです。


そこで着目されたのが、「色の明度」です。


色(絵具)には、明度というのがあります。
それは、色本来が持つ輝きであり、力と言うことができるでしょう。

この絵具の明度、実は、混ぜると下がってしまうそうなんです。
そこで画家達は、油絵具を用いて、
あえて、今まで以上に絵の具を混ぜないように心がけて、絵を描きました。


近くで見たら青と黄色の点なのに、
遠目に見ると、日差しを受け様々に変化する、緑の草原が広がっている。


ちなみに、かのルノワールは12色。
光の魔術師と呼ばれた画家(誰か忘れた)は、10色の絵具で作品を描くそうです。



このように、チューブ式絵具の発明が、
表現の新しい可能性を追求させる、きっかけを作ったというわけです。



=================================
さて、実はここからが本題。

今回の話は、かみ砕いて話すことができていません。
何を言っているかわからない人は、ごめんなさい。
=================================


まず、私の考える「台詞と感情の関係」について書きます。

 人が言葉を発する時、
 「感情を込めて言う」のが普通で、「感情を込めないで言う」のが特別ではない。
 「感情を込めないで言う」のが普通で、「感情を込めて言う」のが特別である。

 人は感情を感情的に伝えるために、言葉を発しているわけではなく、
 むしろ、言葉にして説明する必要を感じるからこそ、言うのある。

 人は、感じたままを口にするわけでもない。
 言葉はシチュエーションから引き出されるものある。
 
 そこで感情は、言葉と切り離した上で考え、どう結びつけて表現とするかは、役者の手腕である。

これが、私の考えです。



栗山民也さんは、著書「演出家の仕事」の冒頭においてイギリスのメソッドを例に挙げ、

 『役者は手を開いて閉じる間における、人間の感情のひだを感じ取るべきだ。』


と書かれています。

これは、感情を作って手を動かせと言う事ではなく、
手を動かした中から沸き上がってくる感情を、役者はすくい上げるべきだと言っているのだと思います、


このことは、私は台詞を発する時にも同じことが言え、


 『言葉は、発した後に、心の動きを探れ』


と置き換えることができると考えています。



そもそも言葉には、言葉の力があります。
私はそれは、絵画における絵具の明度に似たものを感じるのです。

言葉を発した後にわき上がる感情は、喜怒哀楽の4通りではなく、
シチュエーションに応じた数だけ、沸き上がってくる感情の数があると考えます。

しかし、その何万通りの感情を音に乗せようとすると、言葉本来の力を失う。
これは、感情を自分の内面で、言葉と混ぜてしまうからではないでしょうか。

混ざった感情を音に乗せようとすると明度は下がり、
結果、言葉の力を失ってしまうのではないかと考えるのです。


言葉として発せられる音というのは、
それは絵具の数のように、実はそれほどバリエーションはいらないのだと思います。


つまり役者は、何万通りの音を用意する必要はない。


しかし、表現すべき感情は、無限に存在する。

そこで役者は、既存の音を組み合わせていくのだと思うのです、



言葉に感情を混ぜずに、言葉を組み合わせていくことで、
言葉の明度を失わず、その発言をする人物として、
力強く板の上に立てるのではないかと考えるのです。




ちなみに、明度とよく比較されるのが『彩度』です。
彩度を上げると、その色合いは、どぎつくなります。


台詞における彩度とは、言葉の強弱ではないかと、私は考えています。


特定の台詞を強く言うと、その言葉自体が立ちすぎてしまい、浮いてしまいます。
それは、彩度を強調する=コントラストをつける事と同じだと思うのです。

だからこそ、言葉のコントラストを強調すると、
本来見えてくるべきものからずれてきて、嘘くさい印象を与えるのだと考えます。


では役者は、どう言葉を紡ぐべきなのでしょう。
キャンバスにどのように点を打っていくべきなのでしょうか。
点の大きさはどうするのか。点の間隔はどうするのか。


それが、言葉の音として発したときの音の高低とスピードに関係していると思うのです。

そして、その高低とスピードの根拠が、感情となると思うのです。


役者は観客を想像させるべきである。


ひとつの色で、染め上げてしまう、
つまり説明して、平坦に見せてしまうのではなく、

輝きを持った言葉ひとつひとつを組み合わせ、
いかに力強くそこに存在するかを追求することが、
役者と演出家に課せられた使命のように、思えてならないのです。
【演出論】芝居とどう向き合うべきか
前回の【演出論】役になりきるために(2) においても、
私は作劇における『3つの成立』について触れました。

今回は作劇における『3つの成立』を例に出しながら、
役者として、芝居とどう向き合うべきかを書きます。

①会話の成立   ←演技指導
②役としての成立 ←演技指導
③作品としての成立←演出効果
http://yumetamanet.blog25.fc2.com/blog-entry-7.html

==========================


今回は、オーケストラを例に出して話をしたいと思います。
(ちなみに私はオケの事は想像で書くので、実際と違っていてもお許しを)

さて、ここに演奏者Aがいます。

演奏者Aは、あるオケで演奏することが決まりました。
初日の挨拶はすでに済ませており、楽譜もすでに手元にあります。

今日は指揮者を交えて、初めての合奏です。
指揮者は感情を表に出す人ではないのか、ちょっと怖いという印象を受けました。

演奏者Aはまだ楽曲を覚えていませんでしたので、楽譜を見ながら演奏をします。
他の演奏者は、楽譜を完全に暗譜している人もおり、指揮者の指示に集中しています。
指揮者は、自分のことを熱心に見ている演奏者に、優先的に指導をします。

  ■芝居で言うなら、他の人たちは、台本を覚えてきた事になりますね。


演奏者Aは指揮者に、音程が違うと指摘を受けました。
演奏者Aは合奏の場で、音程に対する指導を受けます。

  ■芝居で言うなら、①会話としての成立です。
  ■出す音がずれて会話になっていないので、そこを修正して欲しいと演出家に演技指導を受けたことになります。


指揮者は演奏者Aに、音としての一体感がないと言いました。
演奏者Aは、独りよがりな感情にまかせて演奏していました。
自分がどう吹きたいかの前に、まずは楽譜に忠実に演奏して欲しいと言われます。

次に演奏者Aは、リズムがおかしいと指摘を受けました。
一つ一つの音程はあってますが、流れとして聞いたときに違和感があると言うのです。

  ■芝居で言うなら、②役としての成立です。
  ■会話として一時成立したとしても、全体を通して違和感があってはならないのです。


演奏者Aは、自分が準備不足であったことを知りました。


本来合奏の場とは、音程を確認する場でも、リズムにあわせて演奏できるようにする場でもありません。
そもそもそれは、事前にやってきてしかるべき、やれてしかるべき事なのです。



確かに、指揮者を交えて、音程の取り方からはじめる現場もあるでしょう。
みんなでわきあいあいと音程を取りながら談笑し、
音程がずれたことをみんなで笑い、今日はお疲れ様でした。
本番までに、演奏できるようになりましょう。


そんな現場、確かにありますよね。

でもそれって、発表会じゃないですか?



さて、話を続けます。
演奏者Aは次の日の練習に参加しました。

演奏者Aは自分のパートで詰まり、演奏を止めてしまいました。
演奏者Aは指揮者に向かって『すみません。』と謝罪します。

指揮者は、それを見てこう言いました。

『私は別にかまわないんですよ。
 でも、他の演奏している人たちは、この一時一時を本気でこの場にのぞんでいるんです。
 あなたが本気じゃないとは言いません。
 ただ謝るのなら、あなたと一緒に合奏している仲間に対して、勝手に止めたことを謝罪して下さい。』と。


演奏者Aは、頭が真っ白になりました。
今まで楽しく演奏していたのに、こんなの全然楽しくないと思いました。



それでも演奏者Aは、必死でついて行きました。

そしてある日、指揮者が演奏者Aに、『もっとこういう音が欲しい』と言いはじめました。

指揮者は演奏者Aに、自分がこの作品の世界観を、どうとらえているかを話し始めます。
指揮者は、作品を作り上げる上で、演奏者Aに協力を求めてきたのです。
演奏者Aは、自分に対して興奮しながら話をする指揮者に驚きました。
冷たい人じゃないかと思っていたこの人も、こうやって熱意を持って話したりするんだ。と。

 ■③芝居で言うなら、ここからが作品としての成立です。
 役者はここで初めて演出に対して、役者としてどう応えていけるかを考えることができるのです。


この時から演奏者Aは、みんなの音が深まり一体となって、楽曲の世界観が作り上げられていくことが、楽しみになりました。
やっていることはものすごく大変なことですが、練習後に充実感を得るようになりました。


『辛いのに、楽しい。』


そんな経験、あなたにもありませんか?


物を作る現場には、様々な現場があります。
本番にミス無く演奏できたなら、成功だという演奏会もあるでしょう。

でも今の私は、おそらくそういった現場では、もう満足できない。


もっと上へ。


あなたも一緒に、もっと、もっと上のステージへ。


あなたは、演技と読解のワークショップで、何か掴めそうですか?
【演出論】役になりきるために(2)
前回の 【演出論】役になりきるために の続きを書きます。

今回は医者になる話ではなく、猫になる話です。

私がここで言っている「猫になる」というのは、
劇団四季のCatsのように、猫を擬人化して演じるというわけではありません。

あえていうなら、モノマネで猫になりきる。と言った話です。


※しばたが5年前に遭遇した猫


では、あえて、前回と同じ形式で記述したいと思います。

ちなみにあなたは猫ですか?

絶対に、猫ではないですよね。

では、あなたは猫を演じられないのか。

そんなわけは、ないですよね。
猫のマネをする人は世の中にいっぱいいて、それが本物の猫に見えてくる人って、確かにいますよね。

では、あなたが猫になるためには、どうしたらいいのかを考えてみましょう。


まず、あなたの中に「猫になった経験」はないわけです。

なので、経験から猫になろうという考えは、捨てて下さい。


では次に、猫がどういうものか、頭で考えましょう。
これは、猫が何を考えているかを、考えるわけではありません。

そもそも、猫とはどういうものなのか。
とりあえず、私と一緒に猫のマネを考えていきましょう。

 まず、しゃがんでみましょう。
          ↓
 次に、背中を丸めてみましょうか。
          ↓
 次に手を丸めて、招き猫のようにポーズを取ってみましょうか。
          ↓
 次に、手をぺろっとなめて、まゆげをゴシゴシしてみましょう。
          ↓
 そして一言、『ニャー』と鳴いてみましょうか。
          ↓
 猫:『ニャー』
          ↓
 次に伸びをして、両手の爪をバリバリ研いでみましょうか。


あなたが「猫が爪を研ぐ理由」を理解していようが、していまいが、
まずは爪を研ぐという行為を「する」となっている場合、やることが大切です。

これは、演出家の言いなりになるという話ではありません。
台本上「する」となっている行為をすることが、役者としての最低条件という話です。

猫のふりをして、『ニャー』と鳴いているうちに、あなたはあくびが出てくるかも知れません。
猫のあなたは、何も考えずテレビを見ているかも知れません。
部屋の外から聞こえる音に、聞耳を立てるかも知れない。

そうやってあなたは、猫の時間を手に入れていくことになります。


まずここまでで、私が皆さんに納得してもらいたいのは、
『猫として生きた経験が無くても、猫の役作りはできる』という点です。



ちなみに私は上記で、3つの条件を出しました。

1)手をなめて、まゆげをゴシゴシする。
2)『ニャー』と鳴く
3)伸びをして、両手の爪をバリバリと研ぐ

あなたが役者としてまずしなければいけないことは、この3つを「成立させること」になります。

私が役者に求める『3つの成立』の説明は割愛します。
興味がある人は、リンク先を読んで下さい。

①会話の成立(空間の成立)
②役としての成立
③作品としての成立
http://yumetamanet.blog25.fc2.com/blog-entry-7.html


ここでいう
①会話の成立(空間の成立)とは、
猫として『ニャー』と鳴いた空間に、違和感がないかを確認することになります。

②役としての成立とは、
猫として行う3つの行為の連続性に、違和感がないかを確認することになります。
(ようは人で言う、人格破綻をしていないかを確認します)

③作品としての成立に関しては、説明を保留します。


まず重要なのは、①と②です。
①と②を成立させるのは、役者としての責任です。

役者は1つの役として、一貫してその世界を生きようとしますよね。
自分の役としての一貫性が破綻しているのを、演出家に修正してもらう事が前提ではないはずです。


なお今回の猫になる場合は、①と②を表現するときに、台本解釈は特に必要ないですよね。
台本解釈がないと、

1)手をなめて、まゆげをゴシゴシする。
2)『ニャー』と鳴く
3)伸びをして、両手の爪をバリバリと研ぐ

はできませんか?そんなことはないですよね。


それなのにあなたが『猫はこうだと思いますが、演出はどう思いますか?』と聞いたと思ってみて下さい。


この質問を演出家にする事は、実はおかしいということに、あなたは気が付けるでしょうか。


実は③に関しては、演出家は自分が求めているものに対して、正解かどうかを答えられるんです。

というのも、

③作品としての成立とは、
もしこのシーンにおいて、猫を見て「和みたい」という演出意図があるならば、
あなたは3つの行為の連続から、和みの空間を作り出さなければならなくなります。

演出意図③に対して、役者が応えているかどうかは、演出家は答えなければいけません。
しかし、あなたの猫が、猫として正解なのかどうかは、演出家に聞いてもどうしようもないわけです。


だって演出家は、人なのだから。


確かに演出家は、作り出したい雰囲気のために、役者に猫である事を求めます。
しかしそれは、作り出したい雰囲気の為に猫であることを求めているにすぎず、
猫がいれば、その雰囲気が出るわけではありません。


演出家は、ある雰囲気を醸し出す為に、役者に役目を果たすことを求めます。
演出家は、より濃密な時間を作り出すために演出をつけますが、『猫』に一つの形(正解)を求めてはいないのです。
逆に、より濃密な時間を作り出すために、役者に日々演技を変化させることを求めます。

役者は自分の演じている猫が演出家の意図にそった猫に見えるかどうかを確認しつつ、
役者自身が猫であることを追求し続ける事は、役者としてやらなければいけない責任であって、
例えその日演出家がOKを出しても、役者として猫を追求する日々が終わるわけではありません。


私がなぜ今回、「猫」にこだわったのか、改めて整理しましょう。

今回役者が日々稽古場でやることは、

1)手をなめて、まゆげをゴシゴシする。
2)『ニャー』と鳴く
3)爪をバリバリと研ぐ

あくまでこの3点です。

ただし、日によって、同じ行為の中から見えてくるものが、微妙に違うのです。
役者は、この3点を日々繰り返し行う中で、どんな空間や時間が生み出されるのかを、
初日の幕が開くまで、追求し続けなければなりません。


もしあなたが猫ではなく、医者Aという人物を演じるとなった場合も、これは同じです。


おそらくあなたは作劇の段階で、私は医者Aに見えてますか?と演出家に確認を取りたくなります。

でも、医者Aの正解を、演出家に求めてはいけません。


あえて言うなら、医者Aであるかどうかは、医者Aに聞かないとわからず、
医者Aがこの世に実在しないにもかかわらず、答えのない医者Aへの追求を続ける事が、
役者としての使命であり、責任であると言うことができるでしょう。



さて。なぜ私は、今回『猫』という動物を通して、演技に対して記述してきたのか。

それは『わかった気になって欲しくない』という事なんです。


猫ではなく、医者となった時点で、あなたは同じ人間だから気持ちがわかると錯覚します。


しかし、あなたの経験と想像から導き出された台本解釈だけでは、医者Aになりきることは、決してできないのです。



役になりきる上で一番重要なのは、
あなた自身が『するべきとされている行為の中から役を探る事』です。

この原点を、絶対に忘れないことです。


ただし、台本解釈が重要で無いわけではありません。
台本解釈は、それはそれで重要です。

しかし役になりきる上で、台本解釈のウエイトは実は低いと私は考えています。


勘違いされては困るので、台本解釈に関して少しだけ補足します。

もしあなたが台本解釈を80ポイント、行為の中から役を探る事を20ポイントで、
トータル100ポイントで役作りをしていたとしましょう。

私がいう台本解釈のウエイトが低いというのは、
台本解釈80ポイントならば、行為の中から役を探る事に920ポイント必要で、
トータル1000ポイントとなる為に、今までの10倍の熱意と集中力と努力がなければ、
その役になりきることなど、到底無理だという話なのです。



だからこそ役者とは、誰もがやれる職業ではないんです。



私がワークショップを開催するにあたり、
このblogで演出論を記述しておりますが、
友人から、おまえが4年間かけて学んだ大切な知識をblogで書いて良いのかと聞かれました。

私としては、演出の方法論というのは、学ぼうと思ってもなかなか学べるものでもないですし、
私の知識が、誰かの表現の役に立てればという思いがある反面、
私が4年間かけて学んだものが、このblogを読むだけでわかるわけもない。という思いも実はあるんです。


台本解釈は、ある意味役者に縛りを与えます。

では台本解釈した内容を踏まえ、なお演技を固めずに、
『するべきとされている行為の中から役を探る事』を続けて行くにはどうしたらいいのか。


それはまた、別の機会に。



あなたは、演技と読解のワークショップで、何か掴めそうですか?
【演出論】役になりきるために
2010年11/14(日)、11/15(月)からワークショップを開催するにあたり、
私の役作りに対するとらえ方について、若干知っておいて頂いた方がいいと感じ、
当日お話しする内容と重複すると思いますが、一部ここに記載致します。

===================================

私がワークショップでお伝えする内容は、おそらく「技法」では、ありません。
役者の役作りに対する考え方の、根本からの修正と言った方が正しいかも知れません。


例えば、あなたが「医者A」を演じるとしましょう。

ちなみにあなたは医者ですか?

おそらく、医者の経験はないですよね。

では、あなたは医者を演じられないのか。

そんなわけは、ないですよね。
映画でもドラマでも、医者じゃないのに医者を演じている人はいっぱいいるわけです。

では、あなたは医者ではないが、誰か人を介護した時の経験があるとして、
それを役作りに生かせないかを、模索してるとします。

  -さて、私だったら、こう言います。

 「どんなに、あなたの中の経験を持ってきたとして、絶対に医者Aになれません。
  介護したのはあくまであなたの経験であって、医者Aの経験ではないからです。
  このままでは、あなたはいつまでたっても医者Aに見えてこず、あなたがそこにいるだけですよ。」と。


もしかするとあなたは、この医者Aは、祖父母を介護をした経験から、医者になることを志した。
などと、台本に書いてない背景をもとに、医者Aの役を作っていたのかも知れません。

  -そうであるならば、こう言います。

 「台本解釈とは、確かに台本に書いていない部分も読み解きますが、あなたの空想で物語を作ることではありません。
  書いてないことを表現する前に、まずは書いてあることを表現して下さい。」と。


ひょっとしたらこの時点で、あなたは大混乱しているかも知れません。
そしておそらく、この状況を打開するメソッドが存在するとされているのでしょう。

しかし私に言わせれば、そもそも「経験」から役作りしている時点で、間違いなのです。

あなたの経験がどんぴしゃりとあたって、
ひょっとしたら、その瞬間は、医者Aに見えたとしましょう。
でもあなたは、物語全編通して、医者Aで居続ける事ができますか?

おそらくできないでしょう。

役でいると言うことは、点の連続ではないんです。線にならなければならない。
あなたの描いた点がいかに本物に見えても、その点を過ぎればあなたに戻ってしまうのなら、その役作りは失敗です。


もう少し、踏み込んだ話をしましょう。そもそも芝居は、嘘ですよね。


あなたの嘘が、いかに現実のリアリティとリアル差を競ったところで、勝てるはずがありません。
リアルで勝負をした時点で、勝ちのない勝負に挑んでいる事に気が付くべきです。


そして、自分が演じるのは嘘であると、開き直るべきです。


役者が演じた嘘が伝える感動と、実際にリアルな瞬間の感動と、どっちが優れているかを競うからこそ、
嘘が真実を超えることができるのです。


ではあなたが、「安楽死を行っている医者A」を演じるとしましょう。


あなたには、安楽死を行った経験は、おそらくないですよね。
でも、台本には、安楽死を行うと書かれている。


さて、どうするか。


まずは役者として、安楽死をしてみたらいいんですよ。何も考えずに。


で、あなたが何を考えるかとかも、ぶっちゃけどうでも良いんです。

台本には、次に医者Aが何を言うかが書かれていますよね。それを、言えば良いんです。

あなたの経験に基づいて、医者Aがどう言うかを考えて台詞を言うから、嘘っぽくなるわけです。
医者Aが言うって台本に書かれているなら、言えば良いんです。

そこがまず、大前提です。

台本には、やることと、言うことが書かれてますよね。
まずはそれを、書いてあるのだから、やればいいんですよ。

ようは、あなたが医者に見えるかどうかも、ぶっちゃけどうでもいいんです。
ようはAは安楽死をする人であり、Aが医者であることは、台本の言葉が保証してるんですよ。
Aの台詞を言えば、あなたはAに見えてくる。そうすれば自然と医者に見えてくるわけです。

Aの台詞を、Aの台詞として言わないから、あなたはいつまでたってもAに見えてこない。
Aになる前に、医者になろうとするから、いつまでたってもAにも医者にもなりきれない。

そこに気が付けましたか?

え?それではオリジナリティがでないとお考えですか?
あなたのオリジナリティは、やるべき事をやった上で、その上でどう表現するかにかかってます。
あなたは安楽死をする事。医者Aの台詞を言う事をやれば、誰が医者Aを演じても同じだとお考えでしょうか。

違いますよね。


だからこそ役者とは、誰もがやれる職業ではないんです。


繰り返しますが、私がワークショップでお伝えする内容は、おそらく「技法」では、ありません。
役者の役作りに対する考え方の、根本からの修正と言った方が正しいかも知れません。

私のワークショップは、みんなでわきあいあい稽古する、愉快なワークショップではないでしょう。
ただ人によっては、霧が晴れていく感覚を手に入れると思います。


あなたは、演技と読解のワークショップで、何か掴めそうですか?
【演劇論】音効という、もう一人の役者
2006年9月。私はトリガーライン第2回本公演『KCN』で、音響効果スタッフの角張正雄氏にお会いしました。
角張氏の音との出会いは、私の中で大変衝撃的で、今の私の『劇中音』に対する考えのベースになっています。

今回は、その話を。


私は学生演劇をやっていた頃から、
TVドラマ・TVアニメ・映画において、使われる音楽の方向性には違いがあると考えていました。

 ドラマ:作品の主題歌があり、それがアレンジされ、繰り返し使用される。
 アニメ:作品の登場人物の感情を代弁する叙情的音楽や、場面の雰囲気を表現するコミカルな音楽。ジングル。
  映画:作品の世界観を表現する壮大な音楽。

すべてがこれに当てはまるわけではないでしょうが、
先日、NHKのアニメギガに梶浦由記さんが出演されており、
音楽を作るとき、人物寄りか、世界寄りか、と言った話をされていました。
見ていた私は、まさに同じ事を言っていると感じました。

 では『KCN』における角張氏の音響効果とは、なんだったのか。
 私が考えるに、上記のどれでもありませんでした。


芝居の中でかかる音というのは、主に2種類に分けられると考えています。

 1.特定のシーンでかかる音楽
 2.シーン転換時にかかる音楽

まず角張氏は、特定のシーンで音楽を入れることをしませんでした。

私の言葉で角張氏の意図を書いて良いものか悩みますが、

角張氏の主張を要約すると、
 「このシーンに音楽が必要だと感じるのは、まだ役者の演技が定まってないからである。
 かけろと言われたら用意はするが、おそらくそれは、役者なり演出家の負けを意味する。
 台本に書かれている雰囲気を役者が表現できていれば、このシーンには音楽は必要ない。
 だから自分は、ギリギリまでここに音を入れるのを待ちます。」

というものでした。

演出補として現場に参加していた私が初めてこれを聞いた時、
まさかスタッフが、ここまで演出家を追い込むのかと、大変驚きました。

そして次に、角張氏が転換時に入れた音に、驚いたのです。

私は今まで、転換の音というのは「A→A'→B」のように、
Aのシーンの雰囲気をA'で盛り上げ、そして断ち切り、
別なシーンBへと向かうための音楽(A')を入れていました。


私が今まで行ってきた「A→A'→B」の配列の場合、
A'はAの雰囲気を踏まえた上で選択されるものの、
その主旋律までかけないと聞いている側が気持ちが悪く、
結果的に、A'=Cと言った、独立したシーンとして存在してしまっていました。
つまり、「A→A'→B」=「A→C→B」となり、
全く独立したCという時間が存在してしまうことになるのです。

そもそも開き直って、「A→C→B」でいいじゃないかという、演出家もいると思います。
ある程度の時間稼ぎと、仕切り直しがなければ、お客が付いて来れないと考えるからです。


しかし角張氏は、そう考えていた劇中音における私の考えを見事に打ち砕いてくれました。

では角張氏は、実際どのような音を用意したのか。


角張氏は「A→B'→B」のように音を配置し、
しかも音楽ではなく、Bのシーンで鳴っているだろう音をミキシングし、
それをトランスのようなリズミカルのものにして流して、場面転換したのです。

「A→B'→B」のスタイルで場面転換した場合、B'は限りなく短くても、場転は成立します。
逆にB'が限りなく短くなった場合、お客はその瞬間(B')を消し去って、
物語を追い続けることができるようになるのです。

つまり、限りなくB'をゼロに近づけ、「A→B」へ転換できるわけなのです。


私の学生演劇の演出は、劇中の音楽が多いことが特徴でした。
各シーンで頭の中で音楽が鳴り響き、その音楽に乗せて、各シーンを創っていました。

 しかし、今は考えが違います。

頭の中で音が鳴った場合、どうやったら役者の台詞だけで、
その音楽の雰囲気を客席に伝えられるようになるかを、考えるようになりました。


そして、そうなってくると、役者が発する音一つ一つにこだわって演出せざるを得なくなるのです。


今の私は、音効は、もう一人の役者だと考えています。


舞台上で二人が会話している中、脇でもう一人が歌い続けたら、どう思いますか?


うるさくてかなわないですよね。

さて、『辛酉年・文久秘記』では、どうやって音を入れるか。
かかった音楽しか頭に残らないような演出は、役者に対して失礼なのだから。
【演劇論】演出家と指揮者
私は音譜がさっぱり読めない。

中学校のリコーダーの時間は、
全部耳で聞いて、脊髄反射で指を動かして切り抜けてきた。

そういえば演出家の仕事というのは、指揮者に似ていると前から思っていた。

 指揮者は、誰かが演奏したメロディーをアレンジして、
 自分の好きな方向に持って行くのではない。

 指揮者がオーケストラを指揮する場合、
 音符が頭の中で、音としてなるのだと思う。

 音符一つ一つの力を引き出して、
 その音符がメロディになるのだと思っている。


台本も同じではないだろうか。

 その言葉を音にしてみて、
 その音がつながって、会話になって行き、それが話を紡ぐのだと思う。

 感情にまかせて、台詞を読むのではない。
 感情は感情、言葉は言葉である。

 文中の前後に、その言葉が生まれた意味が書かれている。
 しかし、文中の前後から、相対的に台詞の読み方を決めては行けない。

 そのフレーズが持っている本来の形をねじ曲げてはいけないのだ。


最近は、台本を読んでいると、
書かれた台詞がどんな音で鳴りたがっているか、わかるようになってきた。

 これが独りよがりにならないために、私はもっともっと努力しなければいけないのだろう。

ま、結局、身近に指揮者がいないので、
演出家が指揮者と一緒かは、わからずじまいなのだが。
【演劇論】 うなずきの意味
親友である、女二人の会話の戯曲である。


 A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
 B:(うなずく)
 A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
 B:(うなずく)
 A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
 B:(うなずく)
 A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
 B:(うなずく)
 A:それで・・・、どうしよっかな・・・。
 B:(うなずく)




上の戯曲は、私がいま書いたものである。

Bは台詞を発するわけではない。
Aに対して「うなずく」というリアクションをとるだけである。

Aが決心をし、それを行動に起こそうとするところにドラマがある。
では、Bの「うなずく」という行為の中にも感情の動きがあり、
Bのいかた(板の上での存在の仕方)が変わっていることは、想像できるだろうか。

Bは、ただうなずいているわけではない。
当然だが、Bのうなずきの中にもドラマがある。



先日職場で、上司が持っていたビジネス書、
「人を見抜く」(著:渋谷昌三)を手に取り、読む機会があった。

その本には、

 ビジネスの世界では、
 相手がうなずきながら自分のプレゼンを聞いてくれたとしても、
 プレゼン終了後に、契約に至らないことがある。
 うなずきには、5つのパターンがあることに注目しなければならない。

と書かれていた。

その5つとは、

(1)同意のサイン - あなたと同じ考えであることを示す。
(2)賛成のサイン - あなたの意見に賛成するという意思表示である。
(3)理解のサイン - あなたの話すことを理解していることを示す。
(4)受諾のサイン - あなたの指示に従うことを示す。
(5)伝達のサイン - あなたの話を聞いている事実を伝える。

である。


ではこれを踏まえて、もう一度、先ほどの戯曲を読み返してみて欲しい。
作家(私)がBの「うなずき」に込めたかったニュアンスを分かって頂けるはずだ。


 A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
 B:(うなずく)
 A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
 B:(うなずく)
 A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
 B:(うなずく)
 A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
 B:(うなずく)
 A:それで・・・、どうしよっかな・・・。
 B:(うなずく)





私は、これが『台本を読む』ということなのだと思っている。
Bを役者が演じる上で、どのようにうなずきたいかは、二の次だ。


例えばこのうなずきを、全て『同意』でとらえ、
髪の毛をバッサバサさせながらうなずくこともできる。

だがしかし、
はたしてBがそのようなキャラクターであることは、どこに書かれていただろうか。


その方が、確かにおもしろいかも知れない。


でも、作者(私)の伝えたかったこと、
つまりAとBに出して欲しかった空気感は、そのようなものではなかったのだ。



戯曲を読む上では、
あなたが役をどう演じたいかを考えるのではなく、
役になる糸口を見付けなければいけない。

余計なフィルターが取り除かれさえすれば、
誰にでもこの「うなずき」に、どのような想いが込められているか分かるはずだ。



では今度は、先ほどの戯曲に「うん。」という言葉を加えてみる。


 A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
 B:うん。(うなずく)
 A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
 B:うん。(うなずく)
 A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
 B:うん。(うなずく)
 A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
 B:うん。(うなずく)
 A:それで・・・、どうしよっかな。
 B:うん。(うなずく)



さて、あなたの『うん。』の音は、すべて違っただろうか。


感情を込めて『うん。』を言おうとすると、嘘っぽくないだろうか。
あなたはニュアンスを理解した上で、素直に『うん。』と言えばいい。


『うん。』は『うん。』でしかない。

しかし、この『うん。』の響きは、
限りなく深い事に、あなたは気付けただろうか。


『うん。』


ほら、あなたの今言った『うん。』

いい音でしょ?
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