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なぜか美術史、そのうち芝居(7)
引き続き、美術史について書きます。

さて、明治期の日本ですが、
新しくできた日本政府は、天皇制の正当性をより明確にするために、
「神道と仏教を分離しましょう」という政策を出しました。

それが予期せぬ形で、廃仏毀釈運動となってしまいます。

結果、日本の仏像や寺院は次々に破壊され、
日本の貴重な美術品が、海外のコレクターにどんどん買われていきました。

ちなみにWikipediaの廃仏毀釈によると、
現在、国宝に指定されている興福寺の五重塔は、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。

というから、恐ろしい。


当時の日本は、西洋化の大きな波に飲み込まれており、
自分たちが今まで積み上げてきた芸術の価値を、見失っていたわけです。

そんな中、日本美術保護のために、日本最初の美術家養成学校が設立されます。
それが、東京美術学校(後の東京芸術大学)です。

その第一期生の中に、横山大観(よこやまたいかん)もいました。


日本美術に興味のない人でも、
横山大観の名前は知っている気もするのですが、どうなんでしょう。

《無我(むが)》横山大観(1868-1958年)筆 東京国立博物館
《無我(むが)》横山大観(1868-1958年)筆 東京国立博物館

教科書で見たことがある、この子ども、
なんかぼーっとしてないか?と思ったら、タイトルが『無我』だったのですね。


私は横山大観というと、富士のイメージがあるんです。

《不二霊峰(れいほうふじ)》横山大観(1868-1958年)筆 メナード美術館蔵
《不二霊峰(れいほうふじ)》横山大観(1868-1958年)筆 メナード美術館蔵

大観は、朝日新聞の取材にこう答えています。

>(前略)富士の形だけなら子供でも描ける。富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。
>心とはひっきょう人格に他ならぬ。それはまた気品であり、気はくである。
>富士を描くということは、つまり己を描くことである。
>己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描かねければならぬ
                              (大観「私の富士観」『朝日新聞』昭和29年5月6日より引用)

ひっきょう(副詞):その物事や考えをおし進めて最後に到達するところは。結局。要するに。


大観も、前回記述した『写意』と同じ事を言っているわけです。
この言葉は、私の心に、しかと刻み込まねばならない。


さて、大観と同じ東京美術学校1期生の中に、菱田春草(ひしだしゅんそう)という人がいます。

菱田春草(1874年-1911年)は大観の無二の親友でしたが、
若くして腎臓疾患のためにこの世を去りました。36歳でした。

大観は晩年、春草について、このように語っています。


『あいつ(菱田)が生きていたら俺なんかよりずっと巧い』


重要文化財《落葉(らくよう)(左隻)》菱田春草(1874年-1911年)筆 永青文庫所有・熊本県立美術館寄託
重要文化財《落葉(らくよう)(左隻)》菱田春草(1874年-1911年)筆 永青文庫所有・熊本県立美術館寄託

重要文化財《落葉(らくよう)(右隻)》菱田春草(1874年-1911年)筆 永青文庫所有・熊本県立美術館寄託
重要文化財《落葉(らくよう)(右隻)》菱田春草(1874年-1911年)筆 永青文庫所有・熊本県立美術館寄託

この絵に、西洋画の遠近法は用いられてはいません。

手前の木の肌は無線描法でしっかりと描かれているのに対して、後ろの木肌は、朦朧体で描かれています。
地面は描かれていません。降り積もった落ち葉が、ただそこにあるだけです。

手前の積もった落ち葉が、奥に行くにつれてなくなっていきますが、
これは落ち葉がなくなったわけではなく、深い霧に覆われているのです。

奥に行くにつれてかすかに見える木々の根元が、そこにおそらくある地面を想像させます。
深い霧に包まれた日本の山間の姿を、空気感とともに見事に再現しているのです。


さて、春草の代表作をもう一つ。

重要文化財《黒き猫(くろきねこ)》菱田春草(1874年-1911年)筆 永青文庫所有・熊本県立美術館寄託
重要文化財《黒き猫(くろきねこ)》菱田春草(1874年-1911年)筆 永青文庫所有・熊本県立美術館寄託

写実的に描かれた黒猫と、輪郭線を用いた柏の木。
背景は描かれず、木の根元に落ちた2枚の葉が、そこに地面を想像させます。

この作品も、西洋の遠近法は、用いられていません。

なんでもこの作品、第3回文展(文部省美術展覧会)に発表した作品なのですが、
制作していた屏風「雨中美人」の着物の色が思い通りにならず、予定を変更して5日で描き上げたそうです。

隣の家から借りてきた黒猫が、逃げまくって困ったとのこと。


美しいですよね。
5日で描いた作品が、重要文化財というのも驚きですけど。


さて、菱田早春も『写意』を追求した画家でした。


菱田早春は晩年、

『本質を描こうとすると、線描の筆数は、限りなく減らすことができる。』

というところに、至ったのだそうです。

《月四題のうち秋》菱田春草(1874年-1911年)筆 山種美術館蔵
《月四題のうち秋》菱田春草(1874年-1911年)筆 山種美術館蔵


1910年製作、月四題のうちの『秋』です。

早春がこの世を去る、1年前の作品です。
よろしければ、他の作品も是非どうぞ。

『月四題-春』『月四題-夏』『月四題-秋』『月四題-冬』

これを見ていると、時間が止まったような気さえしてきます。


さて、私の中での美術史を整理するのは、一区切りしようと思います。
文人画も浮世絵も全く触れませんでしたが、その辺は折を見て。

次回は、演劇における『写意』、私にとっての『写意』ですかね。

頭の中が整理できるだろうか・・・。
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なぜか美術史、そのうち芝居(6)
前々回に引き続き、美術史について書きます。

円山応挙が生き、曾我蕭白が生きた同年代に、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)という画家が、やはり京都にいました。
一番早く生まれた伊藤若冲ですが、同年代に活躍した絵師の中で、一番長く生きています。

伊藤若冲(1716年-1800年)
円山応挙(1733年-1795年)
長沢蘆雪(1754年-1799年)
曾我蕭白(1730年-1781年)

ちなみに琳派の尾形光琳(1658-1716)がこの世を去っている年に、若冲は生まれています。

若冲は、京都の青物問屋の長男として生まれました。
お酒も芸事もせず、妻も娶らず、40歳の時に家督を譲り、
84歳までひたすら絵を描くことのみに没頭し、生涯を終えました。

若冲と言えば鶏。自宅の庭には軍鶏を数十羽飼って、いつも観察していたそうです。

《動植綵絵内-群鶏図(どうしょくさいえ-ぐんけいず)》伊藤若冲(1716年-1800年)筆 宮内庁蔵
《動植綵絵内-群鶏図(どうしょくさいえ-ぐんけいず)》伊藤若冲(1716年-1800年)筆 宮内庁蔵

見る者を強く引き込む、どぎついまでの強い彩色。
鶏だとわかっているはずなのに、幻惑的な世界を醸し出しています。

Wikipediaの動植綵絵によると、「動植綵絵」は、若冲が臨済宗相国寺に寄贈したものですが、
明治22年に相国寺から明治天皇に献納され、その下賜金1万円のおかげで、
相国寺は廃仏毀釈の波の中も、1万8千坪の敷地を維持できたそうです。

群鶏図の構図の秘密について、過去にNHKで特集を組まれたようです。
こちらのブログが、その時の画像付きで詳しく説明してくれています。


さて、この伊藤若冲。細密に書かれているその鳥の姿は、写生的と言われるのですが、
写生画としては、色・形など、細部まで厳密であるとは言えないのだそうです。

厳密な写生でないにもかかわらず、なぜ若冲の絵は、ここまで人を魅了するのか。


この頃の日本に中国から、『芥子園画伝(かいしえんがでん)』という本が入ってきます。
ようは絵を描く技法を書いた本で、この中に『写意』という言葉が出てきます。

伊藤若冲は、この『写意』を重んじた絵師と言われているのです。



そこで、大阪大学文学研究科助教授の濱住真有氏の論文の冒頭に記載されている、
日本美術史学者で東京大学名誉教授の河野元昭氏の著書「江戸時代『写生』考」からの引用部分を私も拝借し、

『写意』について整理してみたいと思います。

>(中国において)写意には第一から第三までの三つ意味があり、
>それは、第一に「対象の大意の描写」である「客観写意」、
>第二に「描き手の意趣の描写」である「主観写意」、
>第三に「自由奔放な筆墨技法」や「没骨のような技法語」である「技法写意」とされる。

三つ目は技法に関わる部分なので、ここでは第一、第二に絞って整理すると、


『客観写意』:対象の大意の描写
『主観写意』:描き手の意趣の描写


となるわけです。

では、作品に心(魂)を入れるために必要な、『対象の大意の描写』と『描き手の意趣の描写』とは、
別な言葉で言い換えられないかと思い立ち、私はこのよう考えました。


『客観写意』:対象の大意の描写=対象が輝きを放った、対象本来が持つ魅力(生命力・気品)
『主観写意』:描き手の意趣の描写=対象を描きたいと思った、書き手がすくい上げたい対象の魅力


あくまで美術に関して素人の私の見解ですが、
円山応挙がもし『軍鶏』を描くのならば、『客観写意』を重要視し、
まず、軍鶏として厳密である事を何よりも大切にしたのではないかと思うのです。

だからこそ、円山応挙の作品は『応挙が見える前に、まず軍鶏である』のだと思うのです。


反対に曾我蕭白は『主観写意』を重要視したからこそ、
『曾我蕭白だからこそ描ける軍鶏になる』のだと思います。


さて、実はここで『写意』に、『客観』も『主観』もあるのかという問題点が浮上します。


そもそも『客観』というのは、突き詰めると製作者の理想を述べた言葉であり、
『客観』と言ったとしても、結局は製作者の『主観』となってしまうからです。

例えば『軍鶏』の気品と生命力は、
結局は製作者が『軍鶏』のその立ち姿に、製作者の客観的見解から気品と生命力を感じたわけであり、
百歩譲って『軍鶏』が仮に筆を持って自分の姿を描いたとしても、
『軍鶏』は、自分自身を客観視できないというわけです。


しかし、もう一歩踏み込んで、こう置き換えてみたらどうでしょう。


対象が輝きを放った、対象本来が持つ魅力(生命力・気品)=本質


『写意』というのは、goo辞典ではこのように記されています。
>東洋画で、外形を写すことを主とせず、画家の精神または対象の本質を表現すること。

つまり、
『客観写意』:対象の大意の描写=対象が輝きを放った、対象本来が持つ魅力(生命力・気品)=対象の本質を表現すること
『主観写意』:描き手の意趣の描写=対象を描きたいと思った、書き手がすくい上げたい対象の魅力=画家の精神を表現すること


という事ではないかと、思うのです。

では改めて、若冲の他の作品を見てみましょう。


《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》伊藤若冲(1716年-1800年)筆 プライス・コレクション
《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》伊藤若冲(1716年-1800年)筆 プライス・コレクション

うーん。うまい!!

是非、画像をクリックして細部までご覧下さい。

写実と想像を見事に調和させた、伊藤若冲。
私の大好きな絵師の一人です。


次回は、明治期に新しい日本画を探求した、二人。
菱田春草(ひしだしゅんそう)と横山大観(よこやまたいかん)でしょうか。
なぜか美術史、そのうち芝居(5)
引き続き、美術史について書きます。

さて、前回取り上げた円山応挙と全く同時期に、同じ京都に曾我蕭白(そがしょうはく)という絵師がいました。

重要文化財《群仙図屏風(ぐんせんずびょうぶ)(左隻)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 文化庁蔵
重要文化財《群仙図屏風(ぐんせんずびょうぶ)(左隻)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 文化庁蔵


重要文化財《群仙図屏風(ぐんせんずびょうぶ)(右隻)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 文化庁蔵
重要文化財《群仙図屏風(ぐんせんずびょうぶ)(右隻)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 文化庁蔵

さすが異端・狂気の画家と言われただけあります。
是非、画像をクリックして、拡大してみてください。

Wikipediaの曾我蕭白の群仙図屏風には、このような解説がなされています。

>蕭白の代表作で、日本美術史上類を見ない奇想天外な作品。
>右隻右端から順に、袋に薬草らしき枝を入れた医師董奉(扁鵲とも)、簫を吹く簫史、八仙の一人李鉄拐と呂洞賓。
>左隻には、決して可愛いとはいえない子供を連れた林和靖、水盤から魚を取り出す左慈、
>美人に耳垢を取らせる蝦蟇仙人、最後に彼らを虚ろな表情で眺めている西王母が描かれる。
>仙人や唐子、鶴や鯉など不老長寿を願うめでたいモチーフが散りばめられていることから、
>何らかの縁起物として発注されたと推測される。

すごい画力ですよね。それにしても、縁起物って・・・。

これが祝いの席に飾られていたら、出席者全員どん引きですよね。
私が幼い頃にコレを見たら、絶対にトイレに行けなくなると思います。

では、もう一つ見て頂きましょう。

重要文化財《寒山拾得図(かんざんじっとくず)(寒山)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 京都国立博物館寄託
重要文化財《寒山拾得図(かんざんじっとくず)(寒山)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 京都国立博物館寄託

重要文化財《寒山拾得図(かんざんじっとくず)(拾得)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 京都国立博物館寄託
重要文化財《寒山拾得図(かんざんじっとくず)(拾得)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 京都国立博物館寄託

これまた、怖い!

Wikipediaに『寒山』『拾得』の解説がありますので、興味がある方はどうぞ。


こんなびっくりする絵を描いていた曾我蕭白ですが、
実は当時は、西洋画的な円山応挙の方が、曾我蕭白より異端だったと言う話もあるから驚きです。

そんな曾我蕭白、円山応挙の絵に関して、こんな事を言っています。


『画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら応挙が良いだろう。』


ここで蕭白は、「画」と「絵図」という言葉を使い分けてます。

つまり曾我蕭白に言わせれば、応挙が描いているのは、図録に載せる挿絵みたいなもので、
自分(曾我蕭白)が描くものは、その程度じゃない。

と皮肉っているわけです。

これは曾我蕭白の単なる負け惜しみではなく、
当時の画壇では、応挙の絵を冷ややかに見ている人は、他にもいたようです。


私も確かに、言い得て妙だと思うのです。
しかし円山応挙の絵が、ただの図録の挿絵だとは思いません。


応挙は写生を重要視した絵師ですが、応挙は弟子達に、こんな事も言っていたようです。


『気韻生動というものは写生を徹底すれば自ずと出来てくるもので、写生を超える画趣も可能になるのだ。』


『気韻生動』というのは、goo辞典ではこのように記されています。
>芸術作品に気高い風格や気品が生き生きと表現されていること。
>また、絵画や他の芸術作品などに、生き生きとした生命感や迫力があり、情趣にあふれていること。

>▽「気韻」は書画など芸術作品にある気高い趣。気品。
>「生動」は生き生きとしているさま。また、生き生きとして真に迫ること。
>中国六朝りくちょう時代、南斉なんせいの人物画の名手謝赫しゃかくが、
>『古画品録』の中で画の六法の第一に挙げたのに始まるといわれる。

円山応挙の言葉を整理すると、

『写生とはものの形を移すことに始まり、対象の持つ風格や気品、生命力までも描いてこその、写生である。』

といったところでしょうか。


ここで応挙をもう一つご紹介します。

国宝《雪松図屏風(ゆきまつずびょうぶ)-左隻》円山応挙(1733-1795)筆 三井記念美術館蔵
国宝《雪松図屏風(ゆきまつずびょうぶ)-左隻》円山応挙(1733-1795)筆 三井記念美術館蔵

国宝《雪松図屏風(ゆきまつずびょうぶ)-右隻》円山応挙(1733-1795)筆 三井記念美術館蔵
国宝《雪松図屏風(ゆきまつずびょうぶ)-右隻》円山応挙(1733-1795)筆 三井記念美術館蔵

雪の白は、下地の白を生かしています。
輪郭線を用いずに、墨の濃淡だけでここまで表現するとは、すごいですよね。

最近デジカメが普及しましたが、みなさんは、旅先で写真は撮りますでしょうか。
旅先から戻ってきて現像した写真って、なぜか、感動が半減しませんか。

おそらく、素人が撮ったレベルの写真は、
その場で感じた心地よい日差しや、頬をなでた風まで、封じ込める事ができていないからだと思うのです。

その点、応挙は、物語の中(作品の世界)に入れる気がしてくるのです。
だからこそ私は、応挙は、ただものの形を写した人ではないと、思っています。

ちなみに雪松図屏風は、三井記念美術館の所蔵です。
2013年1月4日より展示されるとのことですので、絶対見に行かなければと思っています。

豪商三井家をパトロンに付けることができたのは、応挙の絵には、風格と気品が備わっていたが故なのでしょう。


ま、実は私は、曾我蕭白が好きではないんです。
なぜかというと、全部、曾我蕭白じゃないですか。しかも、全部怖いじゃないですか。


そう思っていたら、こんなのを見つけました。

《石橋図(しゃっきょうず)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 バークコレクション
《石橋図(しゃっきょうず)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆 バークコレクション


《龍図(りゅうず)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆
《龍図(りゅうず)》曾我蕭白(1730年-1781年)筆


これ現代の漫画じゃないんですよ。今から250年以上前の、掛け軸です。何という構図と、躍動感でしょう。

曾我蕭白は、作家の精神性を重要視した作家だと言われています。
その精神性を表す言葉に、『写意』というものがあるんです。

次回は、『写意』と伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)ですかね。
なぜか美術史、そのうち芝居(4)
引き続き、美術史について書きます。

さて江戸中期、京都の亀岡市の農家に生まれ、
画壇に新風を起こした日本画家、今回は円山応挙(1733年-1795年)について書きます。

円山応挙は10代後半に、狩野探幽の流れを引く、狩野派の石田幽汀のもとで絵を学びます。
その若さで狩野派の門弟になると言うことは、すでに光るものを持っていたのでしょう。

しかし、その頃の狩野派の絵には、かつての探幽ほどの力強さはなく、
黒の輪郭線の中を色づけする狩野派のお家芸の技法も、すでに飽きられつつありました。

応挙は20代の修行期に、オランダの眼鏡絵に出会います。
眼鏡絵というのは、ようは凸型レンズをかけて絵を覗く、立体眼鏡の先駆けです。

《眼鏡絵-加賀の競馬-》円山応挙(1733年-1795年)筆
《眼鏡絵-加賀の競馬-》円山応挙(1733年-1795年)筆

応挙は、この眼鏡絵を描くアルバイトをしつつ、西洋画の遠近法を学びました。
そして、至る所でスケッチブックをひろげ、写生を続けたのです。



水墨画には、没骨法(もっこつほう)と呼ばれる技法が使われています。

筆を根元までほぐし、そこに水をたっぷりと含ませます。
含んだ水を適度に拭き取り、今度はちょこんと墨を含ませます。
その筆を寝かせ太い線を引くと、筆先と根元で、
墨の濃淡によるグラデーションができるのはわかりますでしょうか。

これが没骨法(もっこつほう)です。

水墨画は、ぼかすことで、輪郭線を消し去ることに成功していたわけです。

それに対して応挙は、二種類の絵の具を同時に含ませて書く、
付立法(つけたてほう)という方法で、カラーでありつつ、輪郭線を消し去ったのです。

応挙は、狩野派の画法を捨て、水墨画の技法を発展させた、独自の画法を確立させたのです。


重要文化財《孔雀牡丹図(くじゃくぼたんず)》円山応挙(1733年-1795年)筆 相国寺承天閣美術館蔵
重要文化財《孔雀牡丹図(くじゃくぼたんず)》円山応挙(1733年-1795年)筆 相国寺承天閣美術館蔵

応挙は、この付立法で大人気となり、門弟も1000人を超えたと言われます。

その中でも異彩の才能を発揮したのが、長沢蘆雪(ながさわろせつ)です。
その長沢蘆雪(1754年-1799年)の模写がこちらです。

《牡丹孔雀図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 ジョー・プライス コレクション
《牡丹孔雀図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆

さすが蘆雪。

蘆雪の模写には、孔雀が一匹減ってますけど、意図的に外したんでしょうね。

左の牡丹の茎と華のラインと、孔雀の首のラインが対になっているようですが、
蘆雪の構図の方が、力強さを持っていますね。

ちなみに応挙が孔雀牡丹図を描いたのが38歳で、蘆雪が牡丹孔雀図屏風を描いたのが28歳。
蘆雪の、並々ならぬ才覚を感じます。


実は蘆雪は、師匠の下で日々模写を繰り返す生活を、大変に窮屈に感じており、
暴れまくった蘆雪は、応挙に3度破門されたと言われています。

そんな修行中の蘆雪に、こんな話があります。

>「修業時代、芦雪はある冬の朝、小川に氷が張って小魚が凍(い)てついているのに気が付いた。
>昼すぎ眺めると氷は溶けて小魚は楽しそうに泳いでいる。
>翌日応挙に話すと、お前は今おれの氷に凍てついておるが、きっと自由に泳ぎまわれる日がくる。
>その日を待っとるぞと肩をたたかれた。芦雪がはっとして己の絵をめざしたのはこれからだ」
                                            大阪日日新聞ホームページより引用

この経験から、蘆雪は自分の印章を、氷の中の魚にしたというのです。


蘆雪-印章



さて、和歌山県串本町に臨済宗の無量寺というお寺があります。

無量寺は1707年に発生した宝永地震による大津波で全壊したのですが、1786年に再建されました。
和尚さんと応挙が友人であったことから、新築祝いに障壁画を描いて欲しいと、応挙に依頼するのです。

応挙は快くそれに応じますが、応挙が自身で障壁画を届けることが難しかったため、
応挙は蘆雪に作品を託し、蘆雪に行ってこいと言いました。

和尚に応挙の障壁画を無事渡し終えた蘆雪ですが、
そこで蘆雪は「それがしもお祝いいたそう」と筆をふるっちゃうのです。

重要文化財《虎図》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 錦江山無量寺障壁画
重要文化財《虎図》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 錦江山無量寺障壁画


和尚が感激すると、蘆雪はそのまま書き続け、1年間に270点もの作品を、無量寺に残しています。

画像がどうしても見つからないのですが、無量寺の襖絵に、寺子屋で授業を聞かずに遊ぶ子どもの絵があるんです。
厳粛であるべき寺の一室に、学級崩壊の絵を描くそのセンスに、私は腹を抱えて笑った記憶があります。

きっと和尚も、蘆雪のやりたい放題を、笑って見ていたに違いありません。


ついでに蘆雪の最高傑作を、もう一つご紹介しておきます。

《白象黒牛図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 ジョー・プライス コレクション
《白象黒牛図屏風》長沢蘆雪(1754年-1799年)筆 ジョー・プライス コレクション

なんというダイナミックな構図でしょう。
国内にあれば、間違いなく重要文化財クラスでしょうね。

さて、できれは水牛をクリックして、屏風の印章を見て頂きたいのです。
今までの印章と、ちょっと違います。

無量寺であの虎を描いた7年後の39歳の時、蘆雪は印章の右上を割って、あえて欠損させたと言われています。

蘆雪-印章


その時、覆っていた氷は解け、魚は自由な世界へと泳ぎだしたのです。


次回は、円山応挙の絵を小馬鹿にした、曾我蕭白(そがしょうはく)ですかね。
なぜか美術史、そのうち芝居(3)
前回、前々回に引き続き、しばらく美術史について書きます。

さて、前回は狩野派のことを書いたわけですが、
狩野派は、主に武家のために、絵を描いていた絵師達なのです。

江戸には町衆から生まれ、公家にも好まれた美術もありました。

それが琳派です。

国宝《燕子花図(かきつばたず)》尾形光琳(1658-1716)筆 根津美術館蔵
国宝《燕子花図(かきつばたず)》尾形光琳(1658-1716)筆 根津美術館蔵

尾形光琳は、もともと呉服商の息子でした。
彼が幼い頃から見てきたのは、着物のデザイン。

だからこそ光琳の余白は、背景という空間ではなく、下地と言った方がしっくり来るのかも知れません。
まるで、着物のデザインのような、配置と美しさですよね。


琳派には、絶対に外すことができない3人の絵師がいます。
それが、俵屋宗達(たわらやそうたつ)、尾形光琳(おがたこうりん)、酒井抱一(さかいほういつ)です。

俵屋宗達(1570年?~1642年?)
尾形光琳(1658年-1716年)
酒井抱一(1761年-1828年)

この3名は、生きた年代が微妙にずれており、お互いに会うことができませんでした。

国宝《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》俵屋宗達(1570年?~1642年?)筆 京都国立博物館蔵
国宝《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》俵屋宗達(1570年?~1642年?)筆 京都国立博物館蔵

重要文化財《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》尾形光琳(1658年-1716年)筆 東京国立博物館蔵
重要文化財《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》尾形光琳(1658年-1716年)筆 東京国立博物館蔵

尾形光琳は、俵屋宗達の風神雷神図を模写する事で、琳派の技法を取得したそうです。

こうやって見比べてみると、上の俵屋宗達の風神雷神は、
互いに攻撃を繰り出すタイミングを伺う、緊迫感がありますよね。

また俵屋宗達の風神雷神が、時代が経っているせいか体表が薄暗いのも、
雷雲の下で対峙する、不気味さも備えている気がしてきます。

逆に尾形光琳の風神雷神図は、風神と雷神の視線がしっかりと対峙しているのが特徴なのだそうです。

だったら俵屋宗達の左隻の雷神を、一段高いところに置きまして、
自分が風神雷神と対峙する、3体目の魔人として楽しんでしまえと思うのは、邪道でしょうか。


さて、尾形光琳が死んでしまって、また何十年か後の事です。
尾形光琳の風神雷神図を見て、感激したのが酒井抱一です。

酒井抱一は、その喜びから、
尾形光琳の風神雷神図屏風の裏面へ、自ら表装をするわけです。

その表装が、なんと今では重要文化財。

重要文化財《夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)》酒井抱一(1761年-1828年)筆 東京国立博物館蔵
重要文化財《夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)》酒井抱一(1761年-1828年)筆 東京国立博物館蔵

表も裏も重要文化財って、もはや、しまいようがないじゃないですか。

ちなみに今は、ちゃんと剥がして、別々に保管されているそうですけどね。
分離する前の、『おい。これ、どこ持つんだよ・・・』の瞬間、見てみたかったです。


ちなみに、酒井抱一も、尾形光琳の屏風を模写をしているんです。

《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》酒井抱一(1761年-1828年)筆 出光美術館蔵
《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》酒井抱一(1761年-1828年)筆 出光美術館

うーん。。風神や雷神が、毘沙門天に踏まれてる天邪鬼(あまのじゃく)程度に見えてくる・・・。

酒井抱一は、尾形光琳の屏風が、俵屋宗達の模写だとは知らなかったそうです。
俵屋宗達の方を模写したら、また違ったんでしょうかね。

それにしても、こないだ紹介した、
「鳥類真写図巻」を模写した円山応挙って、やっぱりすごいんだと思いました。

模写した方がうまいって、格が違うんでしょうね・・・。


ちなみに、琳派の特徴は『たらしこみ』の技法と『線描をしない点』です。

『たらしこみ』とは、
色を塗って乾かないうちに他の色を垂らし、にじみの効果を生かすものです。
風神雷神の足下が、それですね。

『線描をしない』というのは、
琳派はデザイン的要素が強いため、髪の毛一本一本を正確に書いたりは、しないわけです。

そこを本気で一本一本リアルに書いたのが、写実派になります。

次回は、写実派の円山応挙ですかね。
なぜか美術史、そのうち芝居(2)
前回に引き続き、しばらく美術史について書きます。

さて、私が高校三年生の時の事だったと思います。

修学旅行で東京に来た私のグループは、東京国立博物館に立ち寄りました。
たまたまその年は、特別展で『洛中洛外図展』が催されており、どこもかしこも、金屏風。

そのほとんどが、狩野派の作であったと記憶しています。

前回は水墨画について、書いてましたが、
室町から桃山、さらに江戸時代まで、400年も日本画壇の中心にいたのが、狩野派と呼ばれる、絵師集団です。


狩野派の絵の特徴は、水墨画とはまったく逆の、縁取りされた輪郭線です。
縁取りされた輪郭線とは、輪郭を縁取りして中を塗るという、手法です。


まさに前回の長谷川等伯の対極にいるグループのようですが、
その長谷川等伯と全く同時期に活躍したのが、狩野永徳(かのうえいとく)です。

国宝《上杉本洛中洛外図屏風(右隻)》狩野永徳(1543年-1590年)米沢市上杉博物館蔵
国宝《上杉本洛中洛外図屏風(右隻)》狩野永徳(1543年-1590年)筆 米沢市上杉博物館蔵
http://www.artscape.ne.jp/artscape/artreport/tankyu/090715_kano/right/index.html

国宝《上杉本洛中洛外図屏風(左隻)》
国宝《上杉本洛中洛外図屏風(左隻)》狩野永徳(1543年-1590年)筆 米沢市上杉博物館蔵
http://www.artscape.ne.jp/artscape/artreport/tankyu/090715_kano/left/index.html

これは、織田信長が、上杉謙信に贈ったとされる、狩野永徳筆の洛中洛外図です。

ちなみに右隻と左隻がありますが、
屏風とは、左右に屏風を立てて、真ん中で360度のパノラマを楽しむものなのです。

この屏風に囲まれたら、あまりのすごさに、圧巻どころか絶句するでしょうね。


さて、信長は本能寺の変で死んでしまうわけですが、
狩野派は、残された秀吉と家康の、どっちについた方がお得か悩みました。

そこで狩野派は、大阪の秀吉と、江戸の家康の、両方のもとに一派を送り込みます。
仮にどちらが天下を統一しようとも、狩野派が生き残るためです。

これは、真田家が一族を二分して、秀吉と家康の両方についたのと同じ策ですね。


さて、江戸の家康のお抱え絵師になったのが、狩野探幽(かのうたんゆう)です。

重要文化財《雪中梅竹遊禽図襖(せっちゅうばいちくゆうきんずふすま)》狩野探幽(1602年-1674年)筆 名古屋城
重要文化財《雪中梅竹遊禽図襖(せっちゅうばいちくゆうきんずふすま)》狩野探幽(1602-1674)筆 名古屋城

これまた、空間の広がりを感じさせる、雅な襖絵ですよね。


それに対して、大阪の秀吉のお抱え絵師になったのが、狩野山楽(かのうさんらく)です。

重要文化財《紅梅図襖(こうばいずふすま)》狩野山楽(1559年-1635年)筆 大覚寺宸殿障壁画
重要文化財《紅梅図襖(こうばいずふすま)》狩野山楽(1559年-1635年)筆 大覚寺宸殿障壁画

山楽がお抱えにしてもらった秀吉は、程なく死んでしまいます。
そのため、山楽は中央画壇から、外れてしまったそうです。

自分が家康についていたら、違う人生をあるんだろうに・・・。

その鬱積した思いが、天井にぶつかって押し戻され、それでも伸びようとする梅の木の姿に、
山楽自身のいたたまれない境遇への思いが、込められていると言われています。


さて、家康と一緒に天下を取ったような狩野派でしたが、
400年も続いていると、その余白の緊張感は失われます。

>探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、
>彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、
>余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。
                                                     Wikipedia 狩野探幽より引用

と、なってしまうわけです。

狩野派が落ちぶれた江戸中期、次は、琳派の尾形光琳でしょうかね。
なぜか美術史、そのうち芝居(1)
最近、古美術を見ながら演出のことを考えているのですが、
その知識を、いったん整理しておこうと思い立ちました。

しばらく美術史特集みたいになりますが、まぁ、別にいいでしょう。



さて先日、出光美術館に行き、牧谿(もっけい、生没年不明)を見てきました。


《平沙落雁図(へいさらくがんず)》牧谿(13世紀後半)筆 出光美術館蔵
《平沙落雁図(へいさらくがんず)》牧谿(13世紀後半)筆 出光美術館蔵
http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/painting/chinese/chinese01.html

中国南宋時代(1127年-1279年)の、牧谿(もっけい)というお坊さんの描いた水墨画です。

当時の日本人は、絵は色を乗せて描くというのが主流であったらしく、
墨の濃淡で全てを描く水墨画の手法に、当時の人は驚嘆したそうです。

Wikipediaで牧谿を調べると、当時の文献では「和尚」とただ言えば、牧谿の事を言うほどの人気だったようですね。


さて、そんな牧谿の作品が日本に入ってきたのは、鎌倉時代末の1300年頃です。


実はその頃の中国は、宋から元に変わっていました。
元は、1271年から1368年まで、中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝です。

中国は、新しい王朝ができたら、王宮も都市もすべて破壊して、新しい都を作るほどの国です。
新しくできた元王朝にとって、かつての王朝の所蔵品は、棄却の対象なわけです。

そこで元王朝は、宋時代の美術品を日本に押しつけて、政の資金の足しにしたそうです。
そんなわけで、宋王朝所蔵の最高級の美術品が、日本に渡ってきたわけです。


そして、その影響で起きた日本の水墨画ブーム。
そこで日本人なら誰もが知ってる、雪舟(1420年-1506年)の登場です。

国宝《四季山水図-(山水長巻)》雪舟(1420年-1506年)筆 毛利博物館蔵
国宝《四季山水図-(山水長巻)》雪舟(1420年-1506年)筆 毛利博物館蔵
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2012_02/index.html

この雪舟の四季山水図は、現在サントリー美術館で見れるようですね。

さて、雪舟が活躍したのは室町時代ですが、
桃山時代に水墨画で名をはせたのが、かの長谷川等伯(はせがわとうはく)です。


国宝《松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)》長谷川等伯(1539年-1610年)筆 東京国立博物館蔵
国宝《松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)》長谷川等伯(1539年-1610年)筆 東京国立博物館蔵
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10471

>草稿ともいわれるが,靄に包まれて見え隠れする松林のなにげない風情を,粗速の筆で大胆に描きながら,
>観る者にとって禅の境地とも,わびの境地とも受けとれる閑静で奥深い表現をなし得た。
>等伯(1539-1610)の画技には測り知れないものがある。
>彼が私淑した南宋時代の画僧牧谿の,自然に忠実たろうとする態度が,日本において反映された希有の例であり,
>近世水墨画の最高傑作とされる所以である。              東京国立博物館ホームページより引用


正直、個人的に雪舟はそれほど惹かれないんですが、等伯は見ておきたい。
この松林図屏風は、2013/01/02から、東京国立博物館にて展示予定だそうです。


ちなみに雪舟の水墨画は、江戸時代の大名家の娘の、嫁入り道具の必須アイテムだったそうです。

しかし、結婚していく娘の数に対して、雪舟の作品はそんなに多くあるわけではありません。

そこで、雪舟の贋作は、意図的に大量生産されたらしく、
現在、個人が所有している雪舟は、大半が偽物と思った方が良いそうです。


これで、水墨画の話はおしまい。
次回は狩野派でもまとめてみます。


牧谿が見れる出光美術館は、こちら
雪舟が見れるサントリー美術館は、こちら
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