スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
bananaman live 2012「TURQUOISE MANIA」のチケットが発売になります。
バナナマンの単独ライブ2012 「TURQUOISE MANIA」(ターコイズ・マニア)のチケットが発売となります。

6/30(土)の10:00から発売です。

《TURQUOISE MANIA -ターコイズ・マニア-》
バナナマン単独ライブ・「TURQUOISE MANIA」(ターコイズ・マニア)

◆日程◆
8月2日(木)~8月5日(日) 全5公演

8月2日(木)①19:00
8月3日(金)②19:00
8月4日(土)③15:00、④19:00
8月5日(日)⑤14:00
※開場は30分前
※未就学児入場不可


◆会場◆
俳優座劇場(港区六本木4-9-2)


◆チケット◆
*ローソンチケット
0570-084-003 (Lコード:35304)
http://l-tike.com/
お問い合わせ:0570-000-777 (10:00-20:00)
※一般発売初日より、ローソン店頭Loppiでの直販あり。
※0570ぁら始まる電話番号は、一部携帯電話、全社PHS、IP電話・CATV電話からはご利用になれません。

◆発売日◆
6月30日(土)発売

◆料金◆
¥5,800(全席指定席)

ローソンチケット:http://l-tike.com/
ホリプロ・オフィシャルホームページ:http://com.horipro.co.jp/news/mania.html


一応、8/3(金)にしようかと思ってるんですが、買えるのかなぁ。。

===============================================================

=_=) 電話がつながった時には、全日売れ切れてました・・・。←6/30追記
スポンサーサイト
東洋人と西洋人の物の見方の違い
日テレの『世界まる見え!テレビ特捜部 』で放映された海外番組の一コマ。

画像の花を、AかBに分類すると、あなたはどちらに分類しますか?

東洋人と西洋人の物の見方の違い

それでは、下記の動画をご覧ください。

《おもしろ心理テスト・あなたの答えは?》


質問のしかたが誘導的だというコメントがあるようなんですが、試みとしてはおもしろいですよね。

さて。

演劇には、役者がどうやって演劇を組み立てるべきかという方法論『メソッド』が存在します。

アメリカでアクターの勉強をした場合、自分の経験からいかに感情を引き出すかという訓練を重要視します。
日本で役者の勉強をした場合、いかにその空間に存在するか・存在に説得力を持たせられるかという点を重要視します。

日本人が使う一人称、『私、俺、僕、自分』などは、相手によってどれを使うかが決まります。
病院の待合室と学食では、声の出し方が違います。

やはり日本人は、相手と自分の関係性、空間と自分の関係性を大切にしており、
だからこそ日本の演技は、役者と対象の関係性を見えてくるかが、非常に重要視されるのです。

そんなんで海外のメソッドを絶賛しているアクターズスクールを見ると、私は『うーん。』と思っちゃうんですよね。
役者にも必要な一点集中力と状況判断力
2012/6/23放送の
『ごるふなでしこ(テレビ東京)』で、興味深いメンタルトレーニングをやっていました。
『ごるふなでしこ』は、AKB48(team4)の山内鈴蘭さんがプロゴルファーを目指すゴルフ番組です。

イチローや北島康介さんのメンタルトレーニングも担当している高畑好秀さんが、今回も出演していました。

今回の高畑さんがのトレーニングは、集中力を鍛えるものです。

渦巻きがプリントされた紙を使います。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん

外側から内側に線を目で追って、終えなくなった時点で終了です。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん2

ここまでは、誰でも想像できると思います。面白かったのは、この先です。
今度は先ほどとは逆に、内側から外側に(中→外)向けて、線を目で追っていくのです。

高畑さんはこの番組内で、2つの集中について話されています。

◆外側から内側に追う → 一点集中力
◆内側から外側に追う → 状況判断力

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん3

高畑さんは、スポーツの場合はボールに対する一点集中力と、
状況を判断するために必要な、広がる集中力の両方が大切であると鈴蘭に話しています。

ごるふなでしこに出演するメンタルトレーナーの高畑好秀さん4

目から鱗だったんですよね。
私が役者に必要なのは、まさにこれだと思っていたのです。

役者は稽古場で『集中力が足りないよ』と言われることがあるのですが、
みなさんも、どこかで集中力が足りないって言われた経験はありませんか。

おそらくその場合、一点集中力を高めたと思うのです。

役者が演技に集中しようとすると、相手の顔だけを追いかけたり、
相手のアクションの初動を見逃さないようにしようと、努力します。

このことにより、体が変に硬直したり、
またネズミを襲う猫のように、一人だけ過剰な熱量を帯びたりします。

過剰な一点集中力により、逆に状況判断力が下がってしまっているのです。
そして、頑張り(努力)だけが際だって見えてくるという、悪循環に陥るわけです。

このことは、ダメを出す側にも問題はあるとは思いますが、
演者自身が、集中力には2つの側面がある事を理解することで、ある程度は解消できるのではないでしょうか。

そうすれば、どんな現場であっても、役者は自分自身でニュートラルな状態に立ち返ることができると思うのです。

《●1/2● ごるふなでしこ EP12 山内鈴蘭 20120623》 メンタルトレーニングは4:00~


高畑さんは、渦巻きの線を内側から外側を追うスピードを高めていくことにより、
(スポーツ選手は)瞬時のうちに、パッと状況判断ができるようになると言っていますね。

つまり、役者の状況判断力も、自分の努力で高めていけると言っているわけです。


そうそう、なんか7/1(日)から放送時間が変更になるみたいですよ。
コントを演劇的に見る(5) - バナナマンの『hasty』
まずは、見て頂くのがいいかも知れません。

《バナナマンのコント『hasty』》


それでは、このコントを演劇的に考察していこうと思います。(いつものように敬称略で書かせて頂きます。)

今回は、コントの題名である『hasty』という単語に注目します。

題名の「hasty」は、「急な。気が早い。」という意味です。これは単に「突発的」という意味ではありません。
別な訳を与えるならば、日村が何度か言っている「まだ早い。」という言葉が一番的確かと思います。

私はこの「まだ早い。」が、このコントが演劇的と感じる重要なポイントだと考えています。
「まだ早い。」というのは、「その発言は言ってもいいけど、言うのはまだ早いんじゃない?」という事ですよね。

つまりこのコントは、不条理な発言を続ける男の、実際にはあり得ない話ではなく、
距離感をつかめていない男の、実際にあり得る話になっている点が、ポイントなのです。

もしこのコントが、いかに突発的に変なことを言うかを追求したコントであるならば、
設楽が単に不条理な言葉を連発するだけの、舞台上にバカがいるだけのコントになってしまったことでしょう。

バナナマンの二人は、わかっているのです。
「まだ早い。」を形にしていくには、二人の関係性を綿密に描いていかなければならないという事を。


二人の演技がすごい点は、熱量の蓄積ができている点です。
熱量の蓄積をもう少しわかりやすく言うならば、「日村の怒りの蓄積」と思って頂ければ良いと思います。

設楽の発言に対して、日村がいらだちを示すという流れが、終始行われるわけですが、
一般的には、「設楽が言う(ボケる)→日村が答える(つっこむ)→リセット」を繰り返す事が多いのです。

例えばいわゆる『天丼+ノリつっこみ』の場合、知らず知らず同じ展開が繰り返す事が面白いというのはわかると思います。
しかし、同じ事を繰り返す際に、全く新鮮な気持ちで相手の話に乗っかるために、
今まで登場人物に与えられてきた負荷を、リセットしてしまうことが多いのです。

コントが「言ってることが面白いだけ」と思われてしまうことが多いのも、この点にあります。

今回のコントでは、同じようなことが起きているにも関わらず、日村の精神的負荷は蓄積されていきます。
バナナマンのコントには熱量の蓄積があるからこそ、人間の成長を描く事ができ、だからこそ演劇的であると言えるのです。

このコントで日村は、「もういいよ。」とは、絶対に言いません。
日村は、あきらめないのです。だからこそ、日村に蓄積された熱量が逃げていかないのです。


会話とは、言葉のキャッチボールです。
この言葉のキャッチボールには、想定されるダメなケースが存在します。

◆1.設楽が複数のボールを投げるケース
   設楽がどんだけ変な玉を投げたか(どんだけ面白い事を言ったか)を楽しむしかないコントになります。
   もしくは、日村がどんだけオーバーリアクションしたかを楽しむしかないコントになります。

◆2.設楽も日村も、相手のボールを無視して互いに投げ続けるケース。
   段取りで、自分の順番が来たから台詞を言ったというだけのコントになります。
   要は会話が成り立ってないという印象を受けることになります。

◆3.日村が複数のボールを投げるケース
   日村が投げた玉を、設楽がひたすら無視することになり、設楽がただの変人になります。
   日村は変な人に遭遇してしまった、運の悪い人なってしまい、次第にどうでもよくなってきます。


このコントの言葉のキャッチボールが絶妙なのは、
この二人は1つのボールを、ものすごいところに投げ合って会話を成立させているからです。

日村はあきらめないからこそ、どんな玉にも飛びついて取ります。
しかも日村は、玉をもらってから自己完結しません。必ず設楽に玉を返します。

だからこそ、二人の関係性が見えてくるのです。

例えば、コントの中で何度も登場する「急」という言葉ですが、「ちょっと急」「急」「すげぇ急」と変化していきます。
この「急」というフレーズが持ってるスピードの変化も、日村は意識して使っています。

日村は設楽の言葉の緩急を認識した上で、相手に言葉を投げ返しているのです。


ちなみに日村は、07:12に「てめぇ頭おかしいのかよ。」とまで言います。


「てめぇ頭おかしいのかよ。」は、つっこみとしては、ある意味、どんな場でも使える言葉だと思います。
しかし、この言葉は諸刃の剣だと思うのです。

コントにおいて、「てめぇ頭おかしいのかよ。」は、それを言ってはおしまいの言葉とも言えると思うのです。
しかし、このコントにおいては、とても自然な日村の言葉として、成立しています。

私は「てめぇ頭おかしいのかよ。」という言葉が成立している時点で、このコントは間違いなく演劇であると感じるのです。


ベネズエラ、やばい。笑い死ぬ。
演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(2)
前回の演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(1)の続きを書きます。

前回、映像におけるイマジナリーライン越えは、撮影対象が入れ替わったり、テレポーテーションしたと錯覚してしまうために、一般的にはタブーとされているという話を書きました。では、文学座の「ナシャ・クラサ」で行われていた演出効果はどのようなものであったかを書きます。

それは、第一幕の中盤から後半にかけてのシーンであったと思います。ユダヤ人の青年ヤクプ・カツは、ポーランド人でカトリックのポーランド人の男達3名にリンチされ、殺害されます。街のあぜ道で遭遇した1人対3人は、舞台上で対峙の構図を取ります。向き合う1対3人の間には、木製の机が存在します(図1)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図1

構図をわかりやすくするため、これを「男」と「敵1~3」という表現で説明させて下さい。構図に関係ない人物や舞台装置は、すべて省略しています。「対峙の構図」と文字が入っている方が、便宜上、客席側と考えて下さい。

さて、敵は男ににじり寄ります。男は敵のただならぬ雰囲気に、身の危険を感じます。台本では、その時の男の心境がモノローグとして語られます。ある瞬間、4人は陸上のハードルを飛び越えるようにして机を飛び越え、手前と奥が入れ替わります(図2)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図2「ナシャ・クラサ」における対峙の構図3

今度は敵である男達のモノローグや、3人の会話が行われます。そして、ある瞬間に再び4人は机を飛び越えます。つまり、図2→図3→図2→図3の構図を複数回にわたって繰り返します。その後、男は机に脚をひっかけて、机が倒れます(図4)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図4「ナシャ・クラサ」における対峙の構図5

机が倒れた瞬間から、敵1~3は、倒れた机=男としリンチを繰り返します。その状況を男は俯瞰的に見ており、心境をモノローグで語ります。その後、敵1が15㎏はあろうかという石を男の頭へと投げつけ、男は絶命します(図5)。

論述するために、あたりまえの事をあえて書きますが、このシーンにおいて4人の男達が机を飛び越えるという行為は、彼らのリアルな行動ではありません。演出家は、机を飛び越えるという方法で、イマジナリーラインを飛び越え、対峙する4人の構図を2つの視点で描きました。机を飛び越えた後に発生する足音は、あぜ道で獲物を追いかける男達のリアルな足音として劇場内に響きます。男が机を倒した時に発生した鈍い衝撃音は、実際に男が倒され脳しんとうを起こしたときの、男の中で響いた衝撃音とシンクロします。

おそらくこのシーンは、回り込み動線で作ることもできたでしょう(図6)。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図6

そうした場合、敵1が石を男の頭に向かって投げ付ける段階でも、男は床に寝そべりモノローグを続ける事となり、あまりにリアルすぎるか、もしくはあまりにリアリティのないものとなっていたに違いありません。

なぜ私がこの演出を、映像におけるイマジナリーラインの飛び越えと似た要素があると感じたかと言うと、図1においては男から見て敵のならびは、「(左から)敵1-敵2-敵3」となっているのに対し、机を飛び越えた後の図2における男から見た敵の並びは、「(左から)敵3-敵2-敵1」と入れ替わっている点にあります。

つまり、一見、舞台上の空間はリアルな物理的距離感で作られていると感じていたものが、イマジネーションラインを飛び越えた時点で、急に距離感はリアルではないと認識され、本来であればそこで作品はリアリティを失ってしまうかと思いきや、4人の関係性は空間における物理的距離から解放され、抽出された本質が逆に観客に迫ってくるわけです。

もしこれを図6のような回り込み動線で演出し、そこにリアリティを持たせた場合、目を覆いたくなる自体に観客は舞台上を見ていられないかも知れません。しかし、高瀬演出のすばらしいところは、あくまで3人の敵が痛めつけるのは、男に見立てた机なのです。痛めつけられる机だからこそ、見ていられる。ポーランド人の3人の男にとっては、同級生のヤクプ・カツは、すでに人ではなく机であったのかも知れません。

だからこそ私は、なんてすごい演出なんだと感じていました。

蛇足的かも知れませんが、実は物語はこの後、3人の男達はユダヤ人のかつてのクラスメイトであるドラの家へと行き、酒をあおり、3人でドラをレイプします。このシーンにおいて机は、ある瞬間からドラの肉体へと変わります。男達二人はドラの両足を押さえつけ、もう一人が姦通します。状況的にとても見ていられるシーンではありません。しかし、男達が犯しているのは机なのです。ドラは自らが犯され、それでも体が反応してしまった事を恥じた事を、男達からちょっと離れたところから俯瞰して語ります。机だからこそ、私はそのシーンを最後まで見ることができました。そして、男達が押さえつけた木製の机の脚は、消して閉じることができないにも関わらず、どうか脚よ、閉じてくれと願っていたのでした。

「ナシャ・クラサ」における対峙の構図7

私は演劇における動線とは、自由でありつつも、よりリアルな距離感を追求するべきだと思っていました。それは、日常のリアルな距離感を舞台上に上げれば良いという話ではありません。舞台における動線は自由であるからこそ、意味を持たせなければいけない。意味を持たせるべきであると感じていたのです。それは、作品をリアルなものとして届ける上での一助となると考えていたのです。しかし、本作品では、リアルな物理的距離が失われたからこそ、本質を抽出することに成功していると感じたのです。

演劇は、距離感からリアルを生み出すこともできれば、距離感の消失からリアルを紡ぎ出すこともできる。

このことは、私を舞台のルールから、一つ解放してくれた出来事だったのでした。
演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(1)
昨日のブログで、文学座の「ナシャ・クラサ」を見てきた感想を書きましたが、
演出効果にも、色々と考えさせられることがあったので、自分の今後のためにまとめておきます。

今回の話は非常にややこしく、大半の人が、私が何を言ってるかわからないと思います。
事前にお詫びしておきます。


まず、私が考える役者の基本動線について書きます。

演技の基本動線

図1をご覧下さい。私は動線を3つのケースに分類して考えています。

1.切り込み動線
2.回り込み動線
3.自由動線(1.2.に含まれない自由な動線)

ちなみに、この「切り込み動線」「回り込み動線」「自由動線」は私が説明するために便宜上名付けただけの名称であり、演劇用語ではありませんので、ご注意下さい。2の回り込み動線は、例えば2人の侍が刀を抜いて対峙した場合、互いに近寄ることも遠ざかることも容易ではなく、均衡した関係性を描く上で有効な動線です。

これがコントとなった場合、1の切り込み動線だけで演じられるケースが多い気がします。つまり客席に対して平行な、相手に寄るか、相手から離れるかの動きだけで、舞台の奥行きを使おうとしません。コントが奥への動きや回り込みを嫌うのは、コントは主に客席に体を開いて展開するケースが多く、かぶるという行為を嫌がるからなのかも知れません(図2)。

その点、以前に演劇的コントとして紹介した、バナナマンのコント『Are you satisfied now?』では、設楽さんは自転車で舞台後方に登場し、拳銃を引き抜いたあとに、回り込み動線を利用しています。安易に日村さんの横に出てくることはしないわけです。また設楽さんが降りた自転車が舞台後方に残っている事により、自転車が空間に奥行きを持たせ続け、回り込みの強調にも一役かっています。この空間の広がりも、このコントを演劇的と感じさせる要素の一つと言えるでしょう。

映像においても動線を意図的に見せる場合が存在します。火曜サスペンスにおいて船越英一郎さんが犯人を崖に追い詰めるシーンは、引きの映像で取られます。しかし、映像が演劇やコントと大きく違う特徴は、視点が変化する点です。犯人が崖から飛び降りるシーンは、役者の抜きの映像になります。映像においての引きの映像というのは、空間を説明するための意味合いが強く、事件が起きる瞬間の決定的な物理的距離には、あまり踏み込みません。例えば、船越英一郎のその1歩の踏み込みが、犯人のテリトリーを犯す決定的なものとなり、その1歩が犯人にとってどれほど苦痛であったかは、最近のテレビは描かないわけです。

おそらくそれは、演劇は舞台上のどこを見るかを観客に任せているのに対し、映像はカット割りにより視聴者の視点を固定するために、物理的距離が心理にいかに影響を及ぼしたかを描写すると、技法に走った説明的映像となりがちになるため、距離と心理に関する描写を、作り手が意図的に避けているのかも知れません。

映像に関してもう一点だけ。映像には、イマジナリーライン(想定線)という概念があり、基本的にはイマジナリーラインを越えていく映像展開は、タブーとされています。つまり、1シーンは通常片方の面から撮影するべきであり、いきなりイマジナリーラインを越えた映像を入れると、視聴者が空間を見失ったり、登場人物がテレポーテーションしたように感じてしまうという話です。Wikipediaにおけるイマジナリーラインの説明が詳しいですので、よろしければそちらもご覧ください。

映像におけるイマジナリーライン

例えは、こないだNHKでも再放送されていたアニメ「日常」のオープニングでも、イマジナリーライン越えが起きています。

アニメ日常におけるイマジナリーライン越え


言われてみないと気付かないと思いますが、ちょっとした違和感がありますよね。
実は、昨日見てきた「ナシャ・クラサ」でも、同じような現象が起きていたのです。

誤解をされないように、結論から先に書きますが、私は高瀬さんの「ナシャ・クラサ」の演出を見て、自分が考えていた演劇の表現の可能性が広がりました。映像だと違和感が出てしまうイマジナリーライン越えですが、演劇においては、私の想像し得なかった効果を生んでいたのです。そのためにも、「ナシャ・クラサ」における演出について、自分なりに整理していこうと思います。

長くなったので、演劇とコントと映像における物理的距離とリアリティの関連性(2))へ続きます。


本日は、日常のオープニング映像でもお楽しみ下さい。

抜粋したカットは、1:10ぐらいです。

《「日常」オープニング ヒャダインのカカカタ☆カタオモイ-C》


さすが京アニ。動く動く。
「ナシャ・クラサ」私たちは共に学んだ -歴史の授業・全14課-の感想
林田一高さんが自身のブログで、必見の価値ありと書いていたため、
当日券の発売開始の11時から文学座に電話をかけ続け、無事チケットをゲットして観て参りました。

《文学座75周年記念公演「NASZA KLASA(ナシャクラサ)」》
文学座75周年記念公演「ナシャクラサ」

5/30(水) マチネ 補助席21番で観劇

ポーランドの劇作家の戯曲による、2時間40分の作品。演出は文学座の高瀬久男さん。
題名の「ナシャ・クラサ」は、同級生の意味。クラスがポーランド語だと、クラサになるのでしょうかね。

1919年~1920年に生まれた子どもたち10名が、
小学校に通い始める第1課から、最後の1人が死んでいく第14課までの人生の物語。


見終わって、私の中の価値観が、変化したような気もする。


私はポーランドの歴史は知らない。
チラシの中に、作中用語と略式年表が書かれた両面印刷の資料が挟まれていた。
一応目を通したが、もちろん覚えきれるわけではない。

それでもよかった。


作品は途中15分間の休憩を挟む。

第二次世界大戦下のポーランド。とある街で起きた1941年のユダヤ人大量虐殺。
ドラ(女性)が燃えさかる炎の中で叫ぶ、「人の一生は、こんなものなの」みたいな台詞で第一幕は終わる。

客席からすすり泣く声が漏れ、私も泣いていた。


休憩中に、舞台には木製の机が複雑に積み上げられていた。


それは、火をかけられた建物の中で折り重なるように死んでいった700人のユダヤ人を象徴しており、
それは、クラスメイトを殺すことになってしまった彼らの一生消えないトラウマとして、
終演まで崩されることなく、舞台上に有り続ける。


ドラマチックなシーンのピークは、第一章の最後にある。

ドラ(女性)の最後の言葉を「みたいな台詞」と書いてしまって申し訳ないが、
正直、何を言ったのか、今となっては正確に思い出せない。

彼女が赤子を抱き、悲痛に叫んでいたことだけが、鮮明に残っている。
この作品に、象徴的な台詞はない気がする。

作品のテーマを代弁するような、一人歩きしそうな言葉はないのだ。
彼らはあの時代に、あの場に生き、生きるために発した言葉しかあそこにはない。

だからこそ、印象に残るフレーズがないにも関わらず、起きた事実に私は涙したような気がする。


第二章は、彼らが戦中にクラスメイトを殺害したという過去をタブーとし、
それがいつばれるかという恐怖とトラウマを持って生き続け、死んでいく物語である。

一昨年のNHKの朝の連続テレビ小説のゲゲゲの女房も、昨年のカーネーションも、今年の梅ちゃん先生も、
戦争を描く際、人が人を殺すという残酷さではなく、
戦後になってもトラウマを持ち続け、後遺症を抱え苦しむ人々を描いている。

この作品も、同じである。

「あの時、死んでいたら、どれほど楽だったか。」

みたいな事をマリアンナが言っていたような気もするが、やはりはっきり覚えていない。


私はこの作品を見て、たき火を見ている感覚に近いものを感じた。

第一幕で火はかけられるが、たき火となるのは第二幕である。


赤々と燃える炭火を、黙って見続けた夏の夜の感覚なんだが、わからないだろうか。
赤々と燃える炭火は、やがて一つ、また一つと赤みを失い、灰となっていった。

そして、幕が下りた。


なので、私にとっての第二幕は、炭火を見ながら、ただただ話を聞いていただけである。


チロチロと燃える炭を見て、面白いも、面白くないもない。

でも見てしまう。

この感覚がうまく伝わると良いのだが。



終演後の拍手は暖かく、長かった。

熱い拍手は経験した事があるが、この何ともぬるく、長々と続く拍手というのも、初めての経験だった。

拍手が終わって、最後の火が消えたことを痛感した。そして、みんな劇場から帰って行った。



今日の芝居を見た後の私の感覚は、
「私は以前も人間であり、今も人間で有り、これからも人間なんだな。」というものだった。

それは、10人のこども達の人生に、良いも悪いも正解も失敗も、何も言うことができなかったからこそ、
このような感想になるのかも知れない。


高瀬さんの芝居は、いつも不思議だ。

良い芝居でした。
顧客が本当に必要だった物
ネットで見つけた、ビジネスに関連の風刺画です。
元ネタがなんなのか調べてみましたが、諸説あるようですね。

自分なりに分析して、解説してみました。

《顧客が本当に必要だった物》
顧客が説明した用件~顧客が本当に必要だった物


◆顧客が説明した用件
顧客はブランコはこういった物だと絵に書ければ別ですが、
ブランコとはなんなのかを説明することさえ、難しかったのかも知れません。
顧客はおそらく、やりたいことを漠然な言葉で並列化して説明したのかも知れませんね。
どこの役割が一本化できるかもわかりませんので、ブランコの板が複数あるのかも知れません。


◆プロジェクトリーダーの理解
木の枝を使って、人が乗れる装置だと言うことを理解していますが、
そもそもブランコはこいで揺れることが楽しいと理解しておらず、
乗って揺れることができないと、ブランコでさえないこともわかっていません。

◆アナリストのデザイン
アナリストとは分析家、または評論家のことです。
要は作り上げて、板が揺れればいいと思っているわけですね。
幹を伐採した時点で、木は枯れ、ブランコとしての強度を保てなくなります。現実離れしており、机上の空論です。
そもそも自然を生かして、自然の大切さを知って欲しいというコンセプトであれば、それすらも反しています。

◆プログラマのコード
とりあえず板の両端から出たロープで枝を縛っているので、言われたことはやったのかも。
でもこれでは、状況をコンピュータの言語で再現しただけで、全く動きませんけどね。

◆営業の表現、約束
きっと実現できれば、それは快適な座り心地なのでしょうね。でも顧客は、ここまで求めていないのでしょう。
そもそも、椅子を乗っけたら木の枝は間違いなく折れるでしょうから、現実的な約束ではないのでしょう。
営業は大風呂敷を広げて仕事を取ってきたとしても、数字を上げれば良いとされるわけですね。

◆プロジェクトの書類
おそらく、この会社にはブランコを作ったことがある人がいないのに、この仕事を取ってきたんでしょうね。
だから、何もかも白紙なのでしょう。

◆実装された運用
おそらく、どんなものなのか、やってみたんでしょうね。
それで、彼らにはこれが限界なので、顧客に妥協してもらって、こうなりましたという事でしょうか。
これなら、別にこの会社に頼まなくても、自分でできたっちゅうねん。

◆顧客への請求金額
このクラスの請求したのなら、明らかにぼったくりw

◆得られたサポート
そこに、木がある事を、とりあえず管理してくれるのでしょうか。
まぁ、ほっといても切り株は勝手に歩いて行きませんが、切り株を持ってかれないように、保守してくれるのでしょう。
これでは人が腰掛けて休むか、集合場所の目印として使うぐらいしか、使い道がなさそうですね。

◆顧客が本当に必要だった物
顧客はおそらく、自然の大切さを子どもたちに知って欲しい。自然の中で遊ぶことの喜びを知って欲しい。
そんな子どもたちが集まる場を、自然の中に作りたいと思っていたのかも知れません。
すでに廃棄されたタイヤを使う事は、ゴミを減らすという事で、自然を守ることに繋がるのかも知れません。

タイヤを1本のロープで繋いだだけでは、前後に正確に揺れることはできなくなります。
しかし、言ってしまえば、ブランコは他にもあるはずです。
遊んで楽しければ、別に前後に揺れることの正確性は、顧客にとってはさほど重要ではないのかも知れません。

ひょっとするとこのタイヤで遊んだ少年は成長して、子どもの頃は乗って遊んだこのタイヤで、
野球のスイングの練習をするかも知れない。空手の蹴りの訓練をするかも知れない。

正直、木の枝にロープでタイヤをくくりつけるだけであれば、顧客は自分自身で作れたのかも知れませんね。
そういった意味では、コンセプトを理解し、助言できる人が身近にいさえいれば、この顧客は、一番幸せだったのかも知れません。


私が舞台演出家として必要なことは、私が大きな舞台を実現できる会社を持つことではなく、
いかにコンセプトを理解し、人の幸せの形を、具体的に提示していけるかどうかだと思うのです。



理想を追い求める私は、未だに考えが甘いかも知れませんが、
きっとこの顧客は、幹にタイヤをつるした図を描ければ、誰かが賛同して、一緒に実現してくれたと思うのです。

そう信じるからこそ、私は舞台演出家として、何をしたいかを示さなければいけない。


そういう段階なんです。
レナード・バーンスタインとカラヤンから学ぶ演出論

指揮者の佐渡裕さんが、恩師のレナード・バーンスタインについて語る番組
こだわり人物伝 ~バーンスタイン 愛弟子が語る~が、今から2年前のNHKのプレミアム8で再放映されました。

この番組の中で佐渡さんは、バーンスタインとカラヤンの、二人の指揮のタイプの違いを語っています。

放送開始39分(第二章終盤)より録画を見て書き起こしました。

==================================

◆佐渡:カラヤンの指揮姿というのは、この・・・、ちょっと立ちますね。この・・・両手の中にね、こうやって目をつぶって振ってるでしょ。カラヤンの指揮というのは、この両手の中に自分の理想のオーケストラがいる。自分の目の前に、ベルリンフィルなりウィーンフィルなりという、すばらしいオーケストラがいるにもかかわらず、ある種それを無視して、目をつぶって、この自分の腕の中に、理想のオーケストラを描いている。ここにあのバイオリンが鳴ってて、ここに木管楽器が鳴ってて、コントラバスが鳴ってて、それがある音楽のクライマックスが来たときに、それをバァアアアアンと解放する。すると、この腕の中にいた理想のオーケストラと、実際目の前にあるオーケストラが、実はその瞬間に、バァアアアアンとやった時に一致する。この時にカラヤンマジックがドカーンと起こるわけね。

◆佐渡:レニーの場合は、あの、指揮台に上がった瞬間から、「おぉー田中君。」「おぉー林君が吹いているのか。」「おお久しぶりだな。お前どこであったっけ。あぁぁ!」みたいなことが、もう、色んなそうやりとりが行われていて、一人一人苗字と名前が付いたメンバーで、ここで音楽作っていると。だから、もう指揮の仕方も、何もかも最初からすべてがオープンで、「音楽の神様のもとに、俺も田中君も山田君もみんなが一つになって、行くんだ。」で、このたどり着くとこってのは実は一緒だと思っている。僕は。

◆佐渡:カラヤンの、こうやって、こっから現実のオーケストラに行くのも、現実のオーケストラを、みんなが連れて行くとこも。その連れて行くとこというのは、不思議な力に操られた 人が鳴らしているんだけれども、神の存在が・・・音楽の神様がいなければ、こんな瞬間にはありえないという。ある種、オーケストラの快感というかな。そういう、こうエクスタシーみたいなところに連れて行かれるっていうのが、この二人の全然違うアプローチにしかたであり、共通点だと思う。

==================================


レニーというのは、レナード・バーンスタインの愛称です。

私なりに二人の指揮を分析すると、

●カラヤンは、自らの強烈なイメージで、カラヤンの腕の中に理想のオーケストラを描きます。
演奏者は、そこに確かに、カラヤンの理想のオーケストラがある事を実感し、自分もそこに行きたいという思いを強めます。
つまり、演奏者に嫉妬心と向上心を持たせます。そして機が満ちた時、演奏者が、カラヤンの理想とシンクロするわけです。

●バーンスタインは、演奏者を心理的にリラックスさせ、力みを取り除きます。
自分も演奏者側の方におりてきて演奏者を解放していくことで、演奏者同士のケミストリー(化学反応)を起こさせます。
バーンスタインは演奏者の目の前の霧を取り除き、自らが先導して、全員で、理想の音楽へと歩み始めるのです。


以前に文学座の林田一高さんが、高瀬久男さんと西川信廣さんの演出の違いについて教えてくれたことがあります。


記憶をもとに林田さんが仰っていた事を文章に起こすと、こんな感じであったと思います。

高瀬さんと自分(林田)はよく仕事でご一緒するんだけど、高瀬さんの演出は怖いんだよね。役者に隙を作らせない。
高瀬さんの圧倒的な台本の読解力のもとに稽古が進む。すべて見透かされているんじゃないかと思うときもある。
でもそれは、役者としてはとても刺激的で楽しいんだよね。

西川さんの演出は、またちょっと違って、西川さんは、基本的に役者の手柄にしてくれるんだよね。
「それいいね。それで行こう。」と役者が気持ちよくなっているうちに、いつの間にか西川さんの舞台になっている。
役者をその気にさせておいて、最終的に美味しいところを、ちゃんと持って行くのが西川さんのすごいところだよね。


恐らくこの二人は、

◆高瀬久男さん=カラヤンタイプ
◆西川信廣さん=バーンスタインタイプ

ではないかと、思うのです。


役者さんにも、色んなタイプがいます。

役に近づいていく役者さんもいれば、役を自分に引き寄せる役者さんもいる。


役に近づいていく役者は、カラヤンタイプの演出で、確固とした理想を示してあげれば良い。
役を自分に引き寄せる役者は、バーンスタインタイプの演出で、理想に導いていけば良い。

私は、この二人のどちらの指揮も、魅力的だなと感じているのでした。


《Karajan's Rehearsal -カラヤンのリハーサル-》


《レナード・バーンスタイン/わたしの愛するオーケストラ》
自信を持ってその言葉を発すれば良い。
役を演じるとき、説得力がないとその人物が嘘くさく見える。


感情は言葉を発するきっかけで有り、感情的な人ほど、時に避けたくなる。
それなのに役者は、感情を込めないと、言葉は発することができないと考えていたりする。


説得力というのは、内容で決まる物ではない。
根拠なんてなくてもかまわない。自信を持ってその言葉を発すれば良い。


そうすれば、自然とその人に見えてくる。


《東進イミフハイスクール》


《浪人イミフハイスクール(東進CM アフレコ2)》


どうやったら説得力が出るかを頭で考えるよりも、何も考えない方がリアリティがあったりする。

役者は感情を説明することが仕事ではない。
その言葉を発する人として、ただその場にいれば良いのだ。
「夢であいましょう」と「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」
何年か前のNHKの番組で、大橋巨泉さんが出演されており、NHKの夢であいましょうについて語っていました。

NHKアーカイブス-番組を語るシリーズ3回目 ←これでした。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2010/101121.html



夢であいましょうは、NHKの放送作家であった、永六輔さんの番組。
昭和36年(1961年)4月8日~昭和41年(1966年)4月2日にかけて放送。

当時、民放の放送作家であった大橋巨泉さんは、この番組を見て、「やられた。」と思ったそうです。


「夢であいましょう」の放送時間は30分。毎回、生放送。スタジオからの生中継。

バラエティと言っても、今の芸人さんが自分の私生活をトークするものではなく、
かといって、30分間コントを見せ続けるわけでもありません。

歌あり、コントあり、詩の朗読あり、『今月の歌』というコーナーで歌う、歌の歌詞も永六輔さんが手がけ、
「こんにちは赤ちゃん」や「上を向いて歩こう」も、この番組のコーナーから生まれました。


Wikipediaの「夢であいましょう」には、こうあります。

>番組には毎回ごとのテーマが設けられて、これに沿ったショートコントで進行し、
>その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などが挿入された。
>歌手のコント出演や、コメディアンの歌唱などの企画は、後続のバラエティーショー番組の原型となった。


そもそもバラエティ(Variety)という単語は、「変種・品種・変化・多様性・寄せ集め」の意味です。
バラエティに富むというフレーズがあるように、多種多様な魅力を詰め合わせた番組が、「夢であいましょう」だったのです。


《夢であいましょう-短縮版-》← アーカイブで紹介された回とは別です。

夢で逢いましょう Yume de Aimashou 投稿者 rakushisha


この番組を、生でやってるというから、すごい。


この夢であいましょうに触発され、
大橋巨泉さんが自分で作ったのが、日本テレビ系列で放送された『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』です。

(1969年10月7日~1970年3月31日)及び(1970年10月6日~1971年3月30日)にかけて放送。


大橋巨泉さんは、役者を集めてバラエティをやることを重要視したそうです。


Wikipediaの「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」には、こうあります。

>進行は台本に完全に忠実でアドリブは一切許されず、一見雑談に見えるような所でも全て台本どおり展開されていた。
>前田武彦が一言二言アドリブをいれただけで「台本どおりにやれ。」と怒鳴られた程であったという

だからこそ、アドリブによる笑いや、ハプニングによる笑いを避けたのでしょう。


大橋巨泉さんは、アドリブによる笑いや、ハプニングによる笑いが、いけないと言っているわけではないと思うのです。
作り込まれた笑いには、上記にはない魅力があり、それを大切にしたと言うことだと思っています。


それでは、ご覧下さい。


《ゲバゲバ90分(1)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 1 投稿者 devo12120928

《ゲバゲバ90分(2)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 2 投稿者 devo12120928

《ゲバゲバ90分(3)-短縮版-》

ゲバゲバ90分 3 投稿者 devo12120928


安心して笑えますよね。

これを作った人たちの才能に、改めてびびります。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(4)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)の続きを書きます。

桜美林大学教授であり青年団を主催する平田オリザさんは、その著書『演劇と演出』の中で、
演出家に必要な能力は『世界観、方法論、構成力、説得力、リーダーシップ』の5つに分類できると書いています。

演技と演出 (講談社現代新書)演技と演出 (講談社現代新書)
(2004/06/21)
平田 オリザ

商品詳細を見る



「演技と演出」の本は誰かに貸したままになっており、内容を確認することができないのですが、
平田さんは著書の中で、この5要素のうちの2つ以上が優れていたら、演出はとれると書いていたように思います。

手元に著書がないため、私なりの解釈で、5つの要素を別な言葉に置き換えてみました。

●リーダーシップ=集団をまとめて率いる能力
●世界観=作品のイメージを感じ取る能力
●構成力=作品世界を具現化する能力
●説得力=役者の疑問を解消する能力
●方法論=解決する手段を提示する能力


ちなみに私が演出を初めてとったのは、大学の演劇部に入ってからです。

演劇部の演出は、ある種の『持ち回り』で決められました。
つまり、「前回はあの人がやったから、今回は誰にする?」という流れです。

そこで、なによりも必要となってくる条件は、「本番当日まで、稽古場を取りまとめられるかどうか」であり、
平田さんの5要素で言うならば、リーダーシップが重要であったわけです。


私は、演出家に必要とされるこの5つの要素は、演出を取る環境や立場によって、重要度が変わると考えています。



◆サークルの演劇部で演出を取るケース:『リーダーシップ > 世界観 > 構成力 > 説得力 > 方法論』

=考察=
とりあえずリーダーシップがあれば、みんなが付いてきて来てくれるので作品は作れます。
演出家にイメージ(世界観)を言葉にする力(説得力)はなかった場合も、
演出家が悩んでいると、時間がもったいないので、とりあえず先に進もうとなります。
作品に音楽を入れると、作品はそれっぽく(構成力)見えてきます。
どうやって作るか(方法論)は、先輩が伝統的な練習方法を引き継いでるので、上級生が指導してくれます。



◆自分で戯曲を書いて演出するケース:『 世界観 > 説得力 > 構成力 >リーダーシップ > 方法論』

=考察=
演出家が自身で書いた作品なので、作品に対するイメージ(世界観)は、誰よりも持っているはずです。
構成力がなかったとしても、構成に問題があれば、世界観が壊れるわけですから、
演出家が妥協せずに言い続けているうちに、演出家の理想の構成へ近づきます。
感じ取った違和感を言葉にすることができなくても、作者が違うと言えば、それだけで説得力があります。
集団をまとめる必要はありますが、もともとその作品がやりたくて集まってきてるのであれば、協力は得やすいです。
方法論は語れなくても、演出家が世界観を語ることに終始すれば、あとは役者が自分で形にするしかなくなります。



◆他人の戯曲を演出する(私がダメだと思う)演出家のケース:『方法論 > 説得力 > リーダーシップ > 構成力 > 世界観』

=考察=
演出家という特権を振りかざし、役者に言うことを聞かせます。
メソッドなどの演劇の方法論を持ち出し、その方法論の説得力で、役者を黙らせます。
演劇的約束事項に基づいて芝居を作り、作家の描きたかった世界観から離れても、修正できません。
最終的に台本を読んだときの印象と全く違う作品になっても、役者の技量が備わっていないからだと考えます。



◆他人の戯曲を演出する演出家(私)のケース:『 世界観 > 構成力 > 説得力 > リーダーシップ > 方法論』

=考察=
私は、作品から感じ取ったイメージ(世界観)を何よりも優先します。
方法論は万能ではないため、特定のメソッドに準じて演技指導をすることはしません。
方法論は必要なときに引き出せればいいので、知識として覚えておけばいい程度に考えています。
演出がやりたいことを明確に言葉にできれば、方法論を演出が言わなくても、行きたい方向に自然と集約するものです。

リーダーシップは必要ですが、私はリーダーシップを前面に出した演出は控えるようにしています。
リーダーシップに頼りすぎると、役者は、演出家の見ていないところで、手を抜くようになるからです。

人を動かすのは、最終的には人間性なのかも知れませんが、
演出家が自らの人間性を武器としてとらえるのは、作品と真摯に向き合う上で邪魔になると考えています。

このケースでは、演出家が作品を書いたわけではありません。
本を書いた演出家に比べて、本を書いてない演出家の説得力は自ずと落ちます。

現場では、役者にどう作りたいのかを誠心誠意説明して、演出家のビジョン(世界観)を積み上げなければなりません。


さて。

私が考える演出家としての理想の姿は、最後のケースです。

演出家は独自の世界観を展開する前に、作家の世界観を大切にします。
しかし、演出家の世界観は、作家の世界観とイコールではありません。

そこで演出家は、作者と違うスタンスで、作品と向き合う必要があると思っています。

では、そのスタンスの違いとは、どういったものなのか。


●自分で本を書いて演出する演出家は、作品を書き始めた時点で、物作りがスタートします。
そのため、実際に舞台を演出する場合は、それを忠実に具現化することを優先されるのだと思います。

戯曲を書いた作家は、おそらくすべてのシーン・すべての登場人物を愛しているでしょう。
だからこそ、どこも省略なんてできないと、考えていると思います。


●対照的に他人の本を演出する演出家は、台本を手に取った段階で、物作りがスタートします。
作品として形にすることはもちろんですが、
作品自体がどう輝きを放っているのか、どこが魅力的なのかを、第三者的にとらえることができます。

そのため演出家は、作品の本質をとらえられれば、ある意味、ト書きに縛られずに作品を省略していく事もできるのです。


これは、戯曲を削ると言うことではありません。
戯曲を削るということは、楽譜の音符を削ることと同じだからです。

すべての言葉を拾いつつ、その解釈から、作品の見せ方を変えるのです。


例えば、「主人公がたたずみ、天を仰ぎ、一筋の涙が頬を伝う」と書かれているとします。


それを瞬間を客席に見せるのか、あえて後ろ向きで見せないのか。
はたまた、鼻をすするのか。それとも、涙をぬぐった手だけを見せるのか。

作品の本質をとらえることができれば、あえて見せないという選択肢を選ぶことも可能だと思うのです。


それが、私の言う『省略』です。


私は、演出家というのは、正解か不正解かをジャッジする仕事ではないと思っています。

好きか嫌いかを言うだけでは、不十分ではないかと思っています。
演劇的にありかなしかを判断するだけでは、ダメなのだと思うのです。

演出家は、『なにが自分にしっくりくるか。』を自信を持って示し、それを役者や観客と共有していかなければなりません。



そのためにも、作者が作品で何を描こうとしたのか、何が魅力的なのか、作品の魅力の本質を理解すること。
そして、なぜこの作品を演出したいと思ったのか、初読で何が面白かったのかを、最後まで忘れないことが重要です。


私はここのところ、なぜか美術史について書いてきました。


日本美術は欧米の画壇に、多大な影響を与えました。

欧米の絵画が追求してきた『写実性』に対し、日本画が追求してきた『精神性』が新鮮なものとして受け入れられたからです。


そして、その『精神性』を表す言葉として、日本画の世界には『写意』という言葉があります。


『客観写意』:対象が輝きを放った、対象本来が持つ魅力(生命力・気品)=対象の本質を表現すること
『主観写意』:対象を描きたいと思った、書き手がすくい上げたい対象の魅力=画家の精神を表現すること

日本画における『写意』の考察は、なぜか美術史、そのうち芝居(6)に書いております。



演出家は時として、リアリティを追求したくなります。
しかし、リアルに作るところに、演出家のオリジナリティはありません。

演出家は時として、独自のオリジナリティを盛り込む事を優先したくなります。
しかしそれが、作者をおざなりにした独自の解釈であるならば、演出家のオリジナリティと呼ぶべきではありません。

演出家はそんな時に、この『写意』という言葉を思い出すべきだと思うのです。


『写意』は、演出家が原点回帰するきっかけを与えてくれるからです。

そして、この『写意』があるからこそ演劇は芸術となるのだと、私は思っています。

最後に、なぜか美術史、そのうち芝居(7)でも書きましたが、日本画の大家、横山大観は、朝日新聞の取材にこう答えています。

>(前略)富士の形だけなら子供でも描ける。富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くことだ。
>心とはひっきょう人格に他ならぬ。それはまた気品であり、気はくである。
>富士を描くということは、つまり己を描くことである。
>己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描かねければならぬ
                              (大観「私の富士観」『朝日新聞』昭和29年5月6日より引用)


私が演出家だからこそ、すくい上げられた、日本人の心がある。

そう自負できたならば、他人の戯曲を演出する私のオリジナリティは、自ずと作品に備ると言えると思うのです。


私のオリジナリティは、きっとそこにあると思うのです。
コントと演劇の笑いの違い(2)
松尾スズキさんとラサール石井さんの、
コントと演劇の違いについての対談について書いて下さっているサイトを見つけました。

私がまさに読みたかったやつです。

==================================
「いやしのつえ」~君にホイミを僕にはべホイミを~
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iyatsue/ ←「いやしのつえ」さんのトップページ

「コント」と「コメディ」と「笑いの多い舞台」の違い
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20061024 ←こちらのページからの転載
==================================


演技でいいから友達でいて―僕が学んだ舞台の達人 (幻冬舎文庫)演技でいいから友達でいて―僕が学んだ舞台の達人 (幻冬舎文庫)
(2006/10)
松尾 スズキ

商品詳細を見る


「演技でいいから友達でいて~僕が学んだ舞台の達人」松尾スズキ著・幻冬舎文庫


ラサール石井 × 松尾スズキ (下記・部分転載)

◆松尾:ところで石井さんは、コントとコメディと笑いの多い舞台の違いを、実際すべて経験している人間として、どう捉えているんでしょう?

◇石井:まずやっぱり、コントは時間的にも内容的にも圧縮されてますよね。で、笑わせることをまず目的としている。その度合いがいちばん強いのがコントですね。でもリアリティーは絶対なきゃいけない。下手な漫才が会話に見えないから笑えないのと同じように、リアリティーがないと絶対に笑えないから。ただ、その振幅の幅は極端なほうがいい。技術的に言うと、声が大きいほうがいいとか、できるだけ正面を向いたほうがいいとかね。コントは長くても15分だから、芝居をやるときみたいに、最初はわざとシリアスなトーンで入ってみるとか、ものすごく日常的な設定を見せるとか、そういう演劇的なことをやっていると、笑いまで届かない。笑いを求める度合いが強いだけに、その辺は省いていかないと。

◆松尾:コメディはどうですか?

◇石井:ある程度筋があるから、ストーリーに沿って進みますよね。そこでちょっと日常的なことは出てきますけど、まあコメディだったら、CMネタを言っても楽屋落ちがあってもOKだし、演者が先走っていることがあってもいい。でも、それが「笑いが多い芝居」ということになると、「そこにいるその人はそれは言わないだろう」っていう最低限のルールを守らないといけないと思うんですね。あえてそれを壊す喜劇もあるだろうけど、そしたらそれを満たすだけの計算が随所にないと、演劇として成り立たないから。いずれにしても、どれをやるにしろリアリティーは必要で、そのためには芝居がちゃんとできないとダメですよね。よく、コントと芝居は別だと思ってる俳優さんに、「僕もコントがやりたいな」なんてふざけて言われるんだけど、「いや、あなたはその前に演技をやったほうがいい」って、僕はいつも思うんですよ。

◆松尾:コントが上手い人って、基本的に芝居も上手いですからね。

◇石井:芝居をちゃんとしないと、人は笑わないんですよ。僕はときどきコントのワークショップをやるんだけど、だいたいいつもやる設定は、学校をエスケープしようとする不良学生と、それをやめさせようとする真面目学生。それをアドリブでやらせると、まず不良学生がそこに居ようとするんだよね。2人がそこにいることが予定調和になってしまって。で、「不良学生はエスケープしたいんだから、行けよ」って言って、袖のほうに行かせると、今度は真面目学生がそれをボーっと見てる。だから「それじゃダメだよ、止めなきゃ」って言って、引き留めさせて、「学校のどこがつまんないんだ?」とかいろいろ質問させて。ちなみに、さっきのコントとコメディの違いで言えば、このとき袖の近くで引き留めても、そこでそのまま芝居を続けるのがコメディ、不良学生をそこから中央にいちいち引っ張ってくるのがコントですよね。

◆松尾:なるほどなあ。

◇石井:ワークショップでは、そうやって僕がああしろ、こうしろって指図しながらコントを続けさせて、参加者はその間を覚えていくわけなんですが、じつはこれ、コントの練習じゃなくて、芝居の練習なんですね。要は、常にどうリアルさを保っているかっていうことなんですよ。芝居のワークショップとして、コントを使っているんですよね。

~~~~~~~


コメディって、最近あまり聞きませんよね。Wikipediaのコメディには、このような記載があります。

>喜劇(きげき、英語:Comedy)とは、人を笑わせることを主体とした演劇や映画、
>ラジオやテレビのドラマ作品や、それらのなかの笑いを誘うやりとりを指す。コメディとも言う。

>ただしコメディの西洋における元義は、悲劇の対照を成す意味での演劇である(例えばギリシア悲劇に対するギリシア喜劇)。

>従って本来は必ずしも笑えるものだけを意味するとは限らない。
>例えば、ダンテの『神曲』も原題は「La Divina Commedia」であり、
>日本語で通常の直訳では「神聖な(もしくは神の)喜劇」となるが、笑えるものを意味しているわけではない。



ラサール石井さんは、『コメディ』と『笑いが多い芝居』の違いの部分で、

>それが「笑いが多い芝居」ということになると、
>「そこにいるその人はそれは言わないだろう」っていう最低限のルールを守らないといけないと思うんですね。

と書いて下さっています。

そうなんですよね。「そこにいる人は、それは言わないだろう。」という演劇が、ほんと多いんですよね。


ラサール石井さんの発言を読んで、『コントは設定を説明するものだ』というとらえ方は、間違っていたと感じました。

あくまコントは、時間的な制約が大きいため、
笑いに到達するまでの省略を追求した結果、説明するという選択肢に至ることがあるという事なのですね。

その他の部分は、私が常日頃感じていた部分と同じため、すとんと落ちました。

いやぁ。やっぱりすごい。


私がかつて書いた、
コントと演劇の笑いの違い(1)コントを演劇的に見るも、よろしければご覧下さい。
観客は、ありかなしを見抜いている
うまい役者さんって、いますよね。

普段お芝居を観ない人であっても、うまい役者さんと、へたな役者さんの違いは、なんとなくわかるものです。

言葉にできないだけです。

その人の言う『うまい』が、本当にうまいのかは、わかりませんよ。


では、へたな役者さんは駄目なのかというと、私はそうではないと思っているんです。
へたであっても観客に受け入れられる、『ありな役者さん』もいるからです。


  台詞回しがへたであっても、感情表現がへたであっても、その世界の住人として存在しているなら、ありです。
  台詞回しがうまくなっても、 感情表現がうまくなっても、 その世界の住人としていられなかったら、なしです。


それでは、聞いて頂きましょう。

映画「2001年宇宙の旅」のテーマ:R・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラはかく語りき」



想像を絶する、へたくそさ加減です。


でも、もしありかなしかを問われれば、

私的には、これは「あり」です。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)の続きを書きます。


私が縁あって文学座の林田一高さんと出会ったのは、2005年の事です。
私が林田さんの演技を見た時の印象は、『なんて自由な役者さんなんだろう。』というものでした。

私の言う『自由』は、身勝手とは違います。

『舞台の上でのびのびと魅力を発揮できる状態にあること』という意味合いが近いかも知れません。


役を演じているにもかかわらず、
板の上でこんなにも解放されている役者さんに、これまでに出会ったことがなかったのです。


舞台上の役者は、色々な制約を踏まえて演技をします。

私は後先考えず、本番で稽古場と違うことをやる役者を、好きではありませんでした。


しかし、一見作品を壊してると思った役者が、稽古場より輝いてしまうケースもあります。
本番でより輝く役者を見るたびに、演出家としての力不足を感じたものです。


では、どうしてその役者は、本番の方が輝いたのでしょう。


役者も演出家も、作品を作る時に台本解釈をします。
台本には、その役が何をするか、そして何が起きるか、それに対してどう思うかなど、色々なことが書いています。

どうやって役作りをして良いかわからない役者さんは、
台本を読んだ後に、『どうやるか』を決めて、決めた事を反復練習しているうちに本番を迎えてしまいます。


『役作りをする事』=『段取り(どうやるか)を決める事』 と思っているのでしょう。


役者さんは、稽古中は不安でしょうがありません。

その不安を解消するために、何が起きるか把握するわけですが、
それだけで安心できない役者は、本番に向けて『制約』をたくさん決めるのです。

決めごとが増えると、役者は安心するからです。
そして、舞台上で一人で勝手に安心して、必要なリアクションを取り忘れる。

例えば、ボールが飛んでくることがわかっていれば、それだけで良いのに、自分がどう投げるかに必死になる。

自分も投げるという決めごとに安心して、相手のボールを受けることをしなくなるんです。
相手のボールを受けてないのに、自分のボールを勝手に創造して、自分の順番が来たから相手に投げてしまうのです。

アクション(相手が投げる)に、リアクション(自分が受ける)をしないで、
アクション(相手が投げる)に、アクション(自分が投げる)で返してしまうわけです。


段取りを1つ決めると、役者にとっての制約が1つ増えた事になります。
しかし、この段取りが役者を固くし、役者の自由を奪っているわけです。

自分で首を絞めてしまっているわけですね。


もちろん、お芝居には段取りが必要です。

しかし、私の考える段取りとは、
舞台上で接触事故が起きないためと、観客にとってわかりやすい位置で演技するためのルール作りです。
演技そのものが、段取りではないんです。

役者の方は、演技が段取りになっていると言われたことはありませんか?
段取りではなく、初めて感じたようにリアクションしてほしいと言われたことがありませんでしょうか。

もしこのダメをもらって、初めてリアクションしたように段取りを決めたのなら、結局はだめなのです。
演技を段取りにした時点で、役者の自由は奪われてしまうからです。

段取りにしない方法を、選択しなければなりません。



演技を段取りとすることの弊害は、役者の自由を奪う事だけではありません。


演技を段取りにする役者さんは、
漫画のコマのように、象徴的なコマを印象的に描けば、滑らかにつながると勘違いをしています。

物語の始まりから終わりまで、いくつも点を打って、
その点をより細かく打つことができれば、一人の人格として見えてくると信じているのです。

そういう役者さんは、演技のうまさを、
どれだけ多くの点を打てたか(どれだけアクションしたか)で決まると思っていたりします。



私たちが生きている世界は、連続した時間が流れています。
役者は物語が始まったら、その連続した時間を役として演じきらなければなりません。

ただし、人が日々感じている『時間』は、あくまで切れることなく続く線であって、コマの連続(点の連続)ではありません。


アクションの連続(点)で演技をつないだ場合、
AアクションとBアクションの間に、その役として、その空間に居続けることができなくなってしまうんです。

AアクションとBアクションの間に、何もしないでその場にいるケースや、
Bアクションを身構え体を硬直させ、相手の演技を全く見えていない場合もあります。

相手のアクションに、アクションで返すのではありません。
相手のアクションに、リアクションするのです。

リアクションは、反応・反射であり、段取りでは決してないです。


点を打つという行為は、点と点の間に隙間を作ります。その隙間が、役者が素に見えてくる瞬間なのです。

その点と点の隙間を埋めることができなければ、結局は、段取りは100決めようが、1000決めようがダメなのです。



私もかつて、役者が安心するようにダメ出しで、どんどん制約を作っていく演出家でした。
役者はどんどん安心していくので、演出家を信頼していきます。

一見、順調に芝居ができあがっている気がしますが、
ある瞬間に、演出家に何か言ってもらえないと、全く動けなくなっている自分に、役者は気付くのです。

そして、なぜ稽古すればするほど、つまらなくなっていくのだろう。
なぜ自分は、やってて楽しくないのだろうと思いつつ、本番を迎えてしまいます。


そして本番で開き直って、役者が稽古場と違うことをやるわけです。


私が思うに、自分で本を書いている演出家さんは、世界観をしっかりと持った上で、演出をします。
そのため、演出家がうまく言葉にできない事象が現場で起こったとしても、何を描きたいかがぶれないのです。

反対に、他人の戯曲を演出する演出家というのは、
演出家が持ってる技法や知識で役者の不満を押し切って、作品を作ってしまう割合が高い気がするのです。

演出家は、本番に向かってダメを積み重ね、どこまでいけたかで勝負しているわけではありません。
描きたかった世界を、描けているかどうかが勝負なのです。

そのためには演出家は、役者の魅力を引き出し、その上で作品の魅力を引き出さなければなりません。


そのできあがった作品自体が、他人の戯曲を演出する演出家だからこそ描ける作品でなければならない。


長くなってきたので、分割します。

次回は、『他人の戯曲を演出する演出家が持つべき視点』について書いてみます。



他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(4)へ続きます。
全力でだましてあげるべきである
私が大学に入った頃、映画のタイタニックは作られた。

CGによって構成された船体は見事であったが、やはり『CGなんだよね』という思いが、そこにつきまとう。


映画は、演劇と同じように、所詮は作られた世界である。
作られた世界であるとわかって見ているはずの映画なのに、なぜCGという手法は、受け入れられないのか。


人は『思い描いた世界が、確かに存在していてほしい』とどこかで願っている。


例え映画が作られた世界だとわかっていても、さらにCGで描かれていると思うことで、
その世界が確かにあって欲しいと願う思いを、くじかれてしまうからではないだろうか。


少なくとも私は、どこまでがCGで再現されているのかまでは、知りたくなかった。
だましきって欲しかったし、だまされたままで良かった。


戦後、日本は焼け野原になったが、正義を問い直し、平和を願い、復興を信じた子どもたちが、今の日本を築いた。


未来のこの国のために、世界のために、いち戦隊ショーであっても、全力でだましてあげるべきである。



そして、できない日があっても、負けるなレッドよ。
人を惹き付ける立ち姿
稽古場で姿勢がおかしいと何度も指摘される人は、そもそも役者に向いてないんだと思います。
恐らくプロの現場では、姿勢がおかしいと指摘してくれる人なんて、いないと思うのです。

『立ち姿一つで、どれだけ品格を高め、どれほどの観客の視線を集める事ができるのか。』

私は板の上では自然と背筋が伸びます。頭で理解したなら、あとは本人の意識次第だと思うのです。

他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)が
=_=)まとまらねぇ。

追記:5/6に他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)をまとめました。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)
前回の、他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(1)の続きを書きます。


さて、私が芝居の話をしていると、「誰の作品が好きですか?」と聞かれることがあります。

でも、正直どう答えようかと、困るんですよね。


高校生の時に見た富良野塾の「谷は眠っていた」は、知らぬ間に涙してました。
大学生の時に見たエル・カンパニーの「ウインズ・オブ・ゴッド」は、会場中が号泣してスタンディングオベーションをしました。

ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの芝居も、野田秀樹さんの芝居も、平田オリザさんの芝居も面白いと思いました。



私は、他人の戯曲を演出する演出家になろうと思っているせいか、
私が面白いと感じた作品は、ジャンルや、作者(考え出した人)に依存しないんです。


お芝居を観るということは、料理を食べる事と似ている気がします。
私はカツ丼とラーメンが好きですが、中華丼も蕎麦も好きです。


中華だけでなく和食も美味しいですよね。麺類だけでなくご飯物も美味しいですよね。
ほら、ジャンルも考え出した人も、関係ないじゃないですか。

美味しい料理に出会ったから、その料理が好きなだけなんですよ。


ちなみに皆さんは、好きなものだけ食べて生きていませんよね。
次の食事で何を食べるのかわかりませんが、何を食べるにしても、美味しいものを食べたいはずです。

日によって食べたいものが違うように、見たい芝居も変わっていいと思うのです。
面白ければ、それが美味しければ、人は満足できるんですよ。


では、こういう例えはどうでしょう。

◆お腹が空いたので、立ち寄ったお店でカツ丼を頼んだら、中華丼のアンがかかったカツ丼が出てきた。
◆シェフはカツ丼に中華丼の風味を加えるアレンジをし、しかも野菜もたっぷりとれて栄養満点です。
◆『私のオリジナリティあふれるカツ丼は、どう思いますか?』と聞かれる。


私は、『ウォォォ!!』と、頭上でグーを握りしめることでしょう。


私は、カツ丼が食べたかったからこそ、カツ丼を頼んだ。
創作料理のお店なら、そのように看板に書いておけ。
しかも、カツ丼の名前を使わず、いっそ別な名前でその料理を出せよと思う。

お代は払いますけどね。


私が求めたのは、まずカツ丼であるという前提で、なおかつ美味しいことです。

シェフは、そのことを理解してないわけですね。


私の演出も同じで、作者を無視して、独自の世界を作り出せればいいわけではありません。

いままで何度も上演されてきた戯曲であっても、同じ台詞をいった上で、
作者の描いた世界を尊重した上で、それでもなお、私のオリジナリティを出せなければならない。


ちなみに太線部分が、前回と同じ文面です。


私がシェフならば、まずカツ丼を作るべきで、なおかつ、美味しいカツ丼を作ることが、私の仕事なわけですね。



さて、私が演出をする場合は、劇作家が台本に、どういう言葉で書いたのかを重要視します。

音楽で例えるなら、私が譜面を見て、いきなり原曲をどうアレンジするかを考えるのではなく、
譜面には、どのように演奏するべきかが書いてありますので、そこを理解する事からはじめるというわけです。



例えば、こんな台詞があったとしましょう。

A:『なにこれ。タカミナが食べてるのと、同じの買って来てって言ったよね。また無視するんだ。』
B:『だから、そうじゃないんです。』



Aは、怒ってますよね。怒ってる=感情的と解釈して、『また無視するんだ!!!』と叫ぶ役者がいたりします。

でも、よく考えてみてください。


「また無視するんだ。」って言葉を言いながら、大人はキレたりしますか?
「ふざけないでよ。」「バカじゃないの。」「ケンカ売ってるんでしょ。」とかなら、まだ感情的ですよね。

「また無視するんだ。」は、あきれているのか、問い詰めているのか、
はらわたが煮えくりかえっている言い回しであって、決して、爆発する怒りを表す時に、この言葉をわざわざ選ばないですよね。


役者の中には、台詞はすべて、感情を込めて言う物だと勘違いしている人がいます。
しかも、「怒り」だと思い込むと、全部怒りで押し通せばいいと思い込んでいる人もいます。

このAの台詞に、私が勝手に言葉を補うと、

A:『(カツ丼を楽しみにしてたのに)なにこれ。(どういうこと?ほっかほか亭のCMで高橋みなみ・通称)タカミナが食べてるのと、同じの買って来てって(あなたに直接)言ったよね。(前にも私の言ったことを無視したことあったけどさ)また(私の言ったこと)無視するんだ。(どういうつもり?)

みたいな、感じになるのでしょうか。

「なにこれ」の後ろと、「また無視するんだ。」の前で、台詞が変調する(高低が変化する)のはわかりますか?



もちろん、このAの「また無視するんだ。」は、絶対にキレて言ったらダメなわけではないんです。
もしくは、キレやすいように、『バカじゃないの!!』に書き換えることが、演出家権限でできないわけでもないんです。

でもやはり、作者がこのように書いてる以上、まず書いてる通りに演じるのが筋じゃないですか。

私が言ってきた、『作者を尊重した上で、作品を作っていきたい』というのは、こういうことなのです。

だからこそ、「また無視するんだ。」を、「また無視するんだー。」にも、したくないのです。


一定レベルの台本解釈ができるようになると、台本を読んだときに、頭の中で台詞が音になって聞こえるようになります。
これは超能力でも何でも無く、おそらくオーケストラの指揮者も譜面を見た時に、頭の中で音符が鳴るのだと思います。


私の稽古場には、ほとんどの場合、作者は稽古場にいませんでした。

私は、この頭の中に鳴った音を足がかりに、どう演技を変えて欲しいかを役者に指示するわけですが、
私の頭の中で鳴った音が、作者が書いた音と同じであるという保証は、どこにもありません。

私にとっての『書いてる通りに演じるのが筋』という論理は、役者にとっての筋と違うかも知れない。

『私の頭の中で、こう鳴ってるから、そうやってくれるかな。』では、
結局、演出家のエゴで作品を作っているのと、同じと思われてもしょうがないわけです。


役者にしてみれば、
『正解は、すべて演出家に聞かなければ、いけないのか。役者は演出家のコマなのか。』となりかねないわけです。


私が、『他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティはどこにあるのか』を悩んできたように、
役者も、『他人の戯曲を演じる役者のオリジナリティはどこにあるのか』を悩んでいたりするわけです。


もっと言うならば、

『私はここで怒りを爆発させたい。爆発させたいからする。それがなんでいけないの?』

と思う役者も、中にはいるでしょう。


でも結局そこは、話し合うしかないわけです。
話し合った上で、最終的に結論は出さなければいけない。



例えば、とあるラーメン屋のオーナーである私(演出家)が、
今はもう存在しない、昭和の名店の醤油ラーメンのレシピ(台本)を持ってきて、コック達(役者)と新製品を作るとします。

レシピには、メンマの太さに関しての記述がない。
だったら、食べてみてどれが一番良いか、話し合えば良いですよね。

あるコックが、そこにタラバガニを入れたらどうかと言ったとしますよね。
でもそれは、再現したい醤油ラーメンと、コンセプトが変わってしまうんじゃないか?となりますよね。

あるコックが、隠し味にコーヒーを入れてたらどうかと言ったとしますよね。
レシピにはスープを作る醤油の調合方法が書かれていますが、実際に同じ醤油を手に入れることは、もうできない。
コーヒーを少量足すことで味に深みが出る。コーヒーを入れても見た目は変わらない。でもコーヒーなんて入れて良いのか。

話し合うしか、ないですよね。

名店のラーメンを食べたことがある人が、コーヒーがある方が、あのラーメンに近いと言うかも知れないし。
かといって、コーヒーを入れすぎたら、コーヒーラーメンになる事は、わかりますよね。


オーナーである私は、どこまでは譲歩でき、どこまでは譲歩できないのか。


しかも、味を再現する事が目的ではないんです。

最終的に再現した懐かしい味を、『美味しい』と言ってもらえなければいけない。


当時の食文化を再現する事が、私の目的ではなく、
その一杯を食べた事による満足感や幸福感を再現することが、私の目的だからです。


結局、料理をする(舞台で演じる)のはコックです。
オーナー(演出家)である私には、やれることとやれないことがある。

ただし、オーナーであるからこそ、『俺が責任を取るからやってみろ。』と言うこともできる。



だからこそ演出家である私は、『どこまでは譲歩でき、どこまでは譲歩できないのか。』を明確にする必要があるわけです。



さて、長くなってきたので、この辺で。

他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(3)に続きます。
他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(1)
若い頃、誰もが一度は『自分は何者なんだろう』と問いかけることがあったと思います。
同じように、私が自らに問い続けてきたのは『私の演出とはなんなのだろう。』という事でした。


これだけだと、ただの思春期の悩みの一つと思われるかも知れませんが、
正直『舞台演出家』というのは、何をする仕事なのか、何のためにあるのかも、答えるのが難しい職業だと思っています。



私が舞台演出家を志しているというと、「宮本亜門さんと、同じでしょ?」と言われることもあります。
確かに宮本亜門さんは、日本を代表する演出家ではありますが、宮本亜門さんはミュージカルを演出する人ですよね。


私が演出するのは、いわゆるセリフ劇で、演劇の中でも『ストレートプレイ』と呼ばれているものです。


では、演劇を少し知ってる人であれば、
「つかこうへいさんや、野田秀樹さん、三谷幸喜さんと、同じだ。」と言ったりします。

確かに三人とも、ストレートプレイの演出家さんですが、私と一緒かと問われると、どうも違う気がしてくる。


大きくわけて2点、違う気がしてくるのです。

まず第1点。三人とも全くジャンルが違います。音楽に例えて言うなら、ハードロックと、ジャズと、テクノぐらい違う。
しかしそれは、突き詰めれば、私にとってはどうでも良い点なのかも知れません。


もう1点の方が、私にとっては重要でした。

それは、三人とも劇作家であり、かつ演出家でもある人たちであるという点です。
私は自分で作品を書いたこともありますが、基本的に『他人の書いた芝居を演出する演出家』なのです。

なぜ、この点にこだわってしまうかと言いますと、
劇作家であり演出家であるこの三人は、この人たちが考えなければ、
この世に存在しなかった世界を最初から作っているという、前提があるわけです。

つまり、自分で書いて、自分で演出する場合は、オリジナリティが最初から存在している。


しかし、私の場合は違います。

私が演出する作品は、私ではなく、劇作家さんが書いた戯曲です。

演出家としての私の存在意義は、現場の潤滑剤として機能するだけではない。
かといって、どうオリジナリティを出して良いかが、わからなかったのです。


『演出家なんだから、好きに作品を作れば良いじゃない。』


そう言う人も、確かにいます。
しかし私は『演出家は作品を好きに作って良い』とは思っていなかったのです。


演劇において、役者や演出効果は、より個性的な方がいいと思ってる人が多い気がします。
個性的=オリジナリティがある=良いと、認識されている面があるからでしょう。

私は個性的である事=良いととらえることを否定したいわけではありませんが、
個性的である事を優先するばかりに、作者が描きたかった本来の世界と、
全く別の世界になってしまっていると感じてしまう作品に出会うことが、非常に多かったのです。


では演出家は、作家が現場にいないから、演出家が代わりをするだけなのだろうか。


いや、違う。


演出家は、現場でもめ事が起きないようにする、単なる潤滑剤ではなく、
作者が現場に来れないから、作者の代理で台本の解釈を伝える存在だけではない。

演出家は、演出家としてのオリジナリティを持った上で、役者と作者の間で、演出家として責任を果たさなければならない。
では、他人の作品を演出する私のオリジナリティは、どこで出すべきなのかを悩んでいたのです。




そこで気付いたのは、私の舞台演出家という仕事は、オーケストラの指揮者に似ているという事です。
オーケストラの指揮者は、みんながみんな、自ら作曲をしているわけではないですよね。

人が書いた楽譜をみて、指揮者が指揮をするわけです。

前回、佐渡裕さんとその師匠に当たる、レナード・バーンスタインの演奏の動画を紹介しましたが、
同じビゼーのカルメンの譜面で指揮をしているにもかかわらず、二人から生み出された音楽は、全くの別の魅力があります。


J-POPの音楽番組においても、ジャズミュージックであっても、そこに指揮者はいません。
もちろんオーケストラに指揮者がいなくても、音は鳴るはずです。


では、「オーケストラに指揮者はいらないと思いますか?」と問うと、首を傾げたくなる。


指揮者の中には、佐渡裕さんやバーンスタインの他にも、世界で活躍し、実際に評価されている人が大勢います。

オーケストラの指揮者は長い歴史の中で、指揮者の果たすべき役割が明確になり、認知されているからこそ、
オーケストラに指揮者はいなくてもいいとは、思えないわけです。


もう1点注目すべき点は、佐渡裕さんのカルメンは、佐渡さんならではの、ビゼーのカルメンであり、
レナード・バーンスタインのビゼーのカルメンは、バーンスタインならではの、ビレーのカルメンになっている点です。


つまり佐渡裕さんもバーンスタインも、楽譜に新たに音符を書き加えたわけではなく、
鳴っている音符は一緒なのに、『音符の解釈が違う』から、彼らにしか作れないオリジナリティを持った音楽になっているわけです。


独自の魅力があるけれど、演奏されている楽曲は、間違いなくビゼーのカルメンなわけです。



そうなんです。私は、これだと思ったのです。



私の演出も同じで、作者を無視して、独自の世界を作り出せればいいわけではありません。



いままで何度も上演されてきた戯曲であっても、同じ台詞をいった上で、
作者の描いた世界を尊重した上で、それでもなお、私のオリジナリティを出せなければならない。



では、『私の演出とは、なんなのか。』

そして『私のオリジナリティとは、どうやって出していくべきなのか。』



次回は、そのことをまとめてみたいと思います。


他人の戯曲を演出する演出家のオリジナリティ(2)に続きます。
コントを演劇的に見る(4) - バナナマンの『LAZY』
このコントを、演劇的だと感じる点を9つあげておきます。

◆1.明かりが付いていない段階から台詞が始まる。明かりが付く前から、物語は続いている事を想像させる。

◆2.ここがどこで相手が誰なのか、なぜこのような自体になっているかを、いきなり説明しない。つまり設定を設定として説明しない。
   何が起きているのか特定されない漠然とした情報から、
   個人を特定される情報(登場人物の名前や役割)へと徐々に情報を開示していくことで、
   観客は、物語を自主的に追いかけようとする。観客の想像力を駆り立てて物語へ引き込む、効果的な手法である。

◆3.設楽が横になってコーヒーを飲むシーンなど、一般的なコントに見られる体の緊張はなく、非常にリラックスしている。
   台詞をウケを狙って意図的に言うのではなく、物語の世界に、その役としている事をなによりも優先している。
   そのため、声の強弱・高低・緩急・広角と鋭角・意図的に崩した音など、二人の出している音のバリエーションが非常に多い。

◆4.自分の台詞が相手の台詞にかぶさることも、物語の自然な流れであれば恐れない。
   どこが面白いかという情報を伝えることよりも、会話を成立させることを優先している。
   だからこそ、台詞をかんでも気にしない。うまく伝わらなかったら、言い直せば問題ないのである。

◆5.設楽がだるまのTシャツを見つけてしまうことで観客が目撃者になるが、その認識の差を安易に埋めない。
   やはりあったことが面白いだけではない。二人の認識の差が、その後の二人の行動に、どう影響するかが目が離せない。
   つまり、あったというハプニングが面白いだけではなく、その後の二人の関係が、どうなっていくかが面白いのである。

◆6.二人のステータスの違いを明確にして、二人の関係性を描く作品はよく見かけるが、
   通常はそのステータス(どちらが立場が上か・どちらに発言力があるか)は変動しない。
   この作品は、本来対等であった二人の関係が、物語が進むに連れステータスの上下が定義され、
   物語の進行において、それが何度も入れ替わる。
   ボケと突っ込みが入れ替わるのではなく、二人のステータスが何度も入れ替わる点が、すばらしい。

◆7.(5/5)の展開は少々突飛である。ただし、日村の話が本当かも知れないし、
   ひょっとすると嘘かも知れないが、観客はそこを含めて受け入れてしまう。
   観客にとっては、もはや本当でも嘘でもいいのだと思う。日村と設楽を見たいのである。

◆8.全編を通しての観客の笑っているポイントを細かく観察すると、観客の笑って瞬間は、まとまっていない。
   言っていることが面白いのではない。物語から紡ぎ出される、二人の関係性が面白いのである。
   だからこそ、お客さんが笑うタイミングは、一つに集約されない。

◆9.物語の最初と最後で、状況の変化だけではなく、人間の成長が描かれている。



最後に起きる観客の拍手は、本当の賞賛であろうと思わせるほど力強く、説得力がある。

ここまで書いてて気付いたが、バナナマンのコントが演劇的なのもあるが、
最近の芝居が、コント的になってしまっているんでしょうね。

いやぁ。バナナマンおもしろい。

1/5


2/5


3/5


4/5


5/5
コントを演劇的に見る(3) - バナナマンの『宮沢さんとメシ』
またバナナマンのコントで、インターバルをとります。

このコントを、演劇的だと感じる点を4つあげておきます。

◆1.演者が二人の物理的な距離が、二人の精神的な距離(親密度)にも影響していることを理解した上で、
   二人の関係性を描く上で必要な物理的な距離を、舞台上でも的確にとっている。

◆2.言葉尻ひとつ、イントネーションひとつで、言葉の意味が全然変わってしまうことは、
   日常も舞台上も同じだという事を理解して、細密なリアクションで話が紡がれる。

◆3.不条理に対して、単純に『キレル』という行為に終始しない。
   人がどう怒りを表し、どう受け入れるかを、バリエーションを持って再現する。

◆4.『物語の世界における時間の進むスピード』が、『観客の体内時間の進むスピード』と一致する。
   照明が付いてから、消えるまでの(1シーン)中で、演者の都合で時間をワープしたと感じさせない。



コントを演劇的に見る(2) - バナナマンの『Are you satisfied now?』
ここのところ美術史について書いてきましたが、
『写意』についてまとめる段階で苦戦してますので、
バナナマンのコントで、一回インターバルをとります。


satisfiedという単語は、「満足した。満ち足りた。」という意味。
題名の『Are you satisfied now?』は、『これで満足したか?』という意味になります。

非常に演劇的な作品です。1/2と2/2と、続けてどうぞ。



コントを演劇的に見る - バナナマンの『WANDER MOON』
バナナマンの『WANDER MOON』



===========================

00:00
冒頭、日村が振り向いて「きれいな月だなぁ。」と言う。
常に正面を向いて話を進めるスタイルの、漫才ではないということを客は理解する。

また、冒頭で客が月を認識することにより、
月と日村の位置関係(距離)を理解し、舞台の外にも空間が広がっていると想像する。

この月を、日村が客席後方に視線を送り、無対称芝居で客に感じさせることもできる。

しかし、無対称芝居を行う場合、そこに月はあるものとしてほしいと、
舞台の約束事項を、客に押しつける事にもなりかねない。

「きれいな月だなぁ。」の台詞が説明となっていないのも、
振り向いて言葉が口から漏れるまでの流れを丁寧に行い、しっかりと成立させているからであろう。

またこの物語は、日村が、すでに月を見ている状態からはじめることもできたはずだ。

日村が月を見ている状態からはじまった方が、情緒は生まれるかも知れない。

しかし、仮に後ろを向いた状態で始まった場合、
月を見ているところからはじまったという状況は説明しやすいが、
明かりが入ってきたとき、すでにどれほど月を見ていたのかはわからない。

冒頭、正面から振り向くという行為が、物語のスタートを明確にし、
その後の「きれいな月だなぁ。」を言うまでの間が有効に働いている。
振り向いて台詞を言う事で、導入部の時間短縮に成功しているのだ。


また「きれいな月だなぁ」という台詞は、
思わず口に出た言葉なのか、それとも誰かに向けて発した言葉なのか、
最初の一瞬だけでは、判別することはできない。

しかし、このあと「うん(納得。」と自己完結することにより、
「きれいな月だなぁ」は、思わず口に出た言葉だとわかる。

しかも月が出ていることから、舞台上は夜であり、
夜に大きな声で「きれいな月だなぁ」と言えるほど、
周りに他に人がいない場所であり、
そんな中でも、大きな声で感動を言葉にできるほど、
日村は、純粋な存在である事を、客に瞬時に理解させている。



00:26
その後、日村はかみしも(上手・下手)に友人を探す。
相手を探す際に左右に体を揺らし、背伸びをすることで、
そこに遮蔽物が存在し、その視線の運びを細かく再現することで、
舞台の外に空間が広がっている事を、客にしっかりと想像させている。



00:29
ここに設楽が現れるが、設楽が近づくにつれて、日村は声のトーンを徐々に下げている。
これは、舞台上に明確な物理的距離感が存在していることを客に理解させている。



00:38
日村は「いきなりしゃべり始めるのかよ。」をしっかりと設楽を見て言う。

ここには、相手(設楽)と自分(日村)しかいなく、
ここで客席に「こいつおかしいでしょ」と同意を求める事をしない。

しっかりと相手を見て言うという行為が、このコントを、より演劇的なものにしている。

また設楽が日村を指す右手を、日村はさりげなく押している。

これは、設楽の指が、日村のテリトリーを犯しており、
日村が、設楽の指さし行為を「うざい」と感じたことを、さりげなく提示している。
つまり、日村は設楽にそこまで近づいて欲しくないのだ。

この物理的距離感をいきなり埋めてくるという行為が、
設楽の「空気の読めなさ。」のひとつの象徴である。

また日村は、設楽の手を押しのけるも、その後にすぐ謝罪をする。

日村は設楽にイラッとしたが、
日村がおりてきて、二人の関係は対等なのである。

だからこそ日村は、決して設楽を見下しているのではなく、設楽とは友人なのである。



00:44
ここから、設楽のゴムホースの話がはじまる。



01:15
あたりから、客席が笑いはじめる。
設楽の話はまだ途中である。途中なのに客席が笑いはじめるのは、
日村のリアクションを見て、笑っているのである。

では日村はオーバーリアクションをしているのかというと、そうではない。
日村は、設楽の話を聞いているだけである。

では、日村が設楽の話をだまって聞いているのが、なぜおかしいのか。

日村は、それゴムホースだよね。と思って話を聞いている。
そのことでストレスが貯まっていく日村を、客は見て笑っている。

だからこそ設楽の話の途中から、客の視線は、日村の表情を追う。

この設楽の話を聞く数秒間に、日村の変化がしっかりと描かれている。
この心の変化は、小さいことだがドラマである。

また、この設楽の話は、話のオチを想像させながら進む。
つまり、客も日村も「ゴムホースの話だよね。」と思って設楽の話を聞いている。

この先を想像させて、期待を裏切るのか、はたまた期待を裏切らないのか。
物語の先を想像させて、そこに追いついてくるあたりが、
このコントが、非常に演劇的だと感じる、重要な要素だと思う。

01:58
設楽がゴムホースだったという話のオチを聞いた時点で、
客は『そうだよね。ゴムホースだよね(笑。』と安心して笑う。

そしてその後の日村の「へたくそか、お前」で、よくぞ言ったと、客はすっきりする。

言ってることがただ面白いのではない。
二人の関係性が、面白いのである。



00:13
「ゴムホースだったんだよ。だよ。」
この台詞の、最後の繰り返しの「だよ。」
この「だよ。」には、日村の何とも言えない感情が、しっかりと込められている。

この「だよ。」は、「わかれよ。」の意味なのかも知れない。

では、「わかれよ。」と言えばいいというかというと、そうではない。

『だよ。』ですませるあたりに、
日村と設楽の、二人の距離の近さが表れている。


長くなりそうなので、とりあえず、ここまでにします。

===========================

演劇は、連続する時間の中で、登場人物の関係性を紡ぎ、
物語の最初と最後における人の変化を、ドラマとして描くのだと、思っています。
あの日の前後からの事3
私が大学生の頃、演出を取っていた大学の先輩に、こう言われたことがあります。

『演出家は、役者の前で、悩んでいる姿を見せてはいけない。』

今の私は、これは間違っていると思っています。


確かに演出家は、役者に不安を与えてはいけません。
しかしそれは、稽古場が停まるからです。


演出家は、すべての答えを用意して、稽古に望んでいるわけではありません。
演出家と役者は、稽古場で一緒に答えを探すべきなのです。


『演出家は、悩んでもいい。しかし、稽古を停めてはいけない。』


これも、文学座の林田さんに、教えて頂いたことです。
そして私は、自身が稽古場で悩む事を、よしとしました。



しかし、役者が稽古場で何を生み出そうとも、
最終的に、すべては演出家の感性で決まってしまうのでしょうか。

役者は、最終的に『演出家がよしとするかどうか』でしか、判断基準はないのでしょうか。


役者は、役者として輝くために、独自の価値基準で役作りをするべきではないのか。
だとすれば、演出家は、どこまで役者に要求可能なのか、
何がありで、何が無しかを言葉にするために、
きちんと自分の中に、線引きを持つべきだと思ったのです。


さて、昨年12月頃の私は、『演出家は、どこまで役者に要求可能なのか』に対する、
明確な線引きを、自分の中に持っていないことに、悩んでいました。


そこで私は、私が演出家としてどうしても譲れないポイントと、
役者にとってのメリットに共通点が有り、それをお客が望むのであれば、
その3点を結んで、『私の、演出家として譲れないライン』とすればいいと、考えたのです。

そうすれば、そこを根拠に、遠慮なくダメ出しができると考えたのです。


そこで、3者が賛同できる、ポイントを探そうとしたのです。




例1)演出家や役者が、脚本家の書いた台詞を勝手に変えていいか

役者:変えたくはない気もするが、それでいい効果が出るなら、許せる。
演出家:作品が変わるなら許せない。作品がより良くなるなら、許せる。
お客:変えたことがわかれば許せない。わからないなら、どうとも思わない。



例2)役者が、アドリブを入れていいか。

役者:面白くしたい。ただ、演出家が言った事が面白くない場合は、正直やりたくない。
演出家:作品の面白さを倍増するならやりたい。ただ、作品が別物になってしまう場合は、許せない。
お客:面白いにこしたことはない。ぶっちゃけ孫が舞台に出てるから見に来ただけで、
   面白いかどうかは、期待してない。




ここまで考えたとき、正直『こりゃ厳しい』と思ったんです。
そうか。面白いかどうかを期待してないお客さんも、いるんだ。と。


そこで私は、視点を変えることにしました。


どうにかして、孫娘を見に来たお客さんにも、演劇の魅力を伝えることはできないだろうか。
そのためには、『なぜお客は、劇場に足を運ぶのか。』を考えなければいけないと思ったのです。


演劇の面白さの一つに、『生(なま)であること』があげられると思います。

『生であること』を考えるために、生と似た言葉の『生中継』について書いてみます。



例えばAKBの総選挙を劇場中継してますが、
毎回、日本中の中継している全国各地の映画館が、満員になっています。

また、最近の視聴率低迷のテレビ業界ですが、
昔のベストテンとかは、ライブ会場と中継を結んで放映していました。
8時だよ全員集合!も、あれもライブ中継で放映されていました。
なでしこJAPANのワールドカップ女子決勝は、多くの人が勝利に歓喜しました。

特にスポーツは、リアルタイムで見ないと面白くないと言いますが、
生中継の魅力というのは『目撃者になりたい。』という欲求からだと思います。


では、普通の演劇を生中継したところで、
すべて面白いかと言ったら、そうではないですよね。

演劇の面白さというのは、劇場でしか味わえないというのは、みなさん何となくわかりますが、
それは、リアルタイムで見たいからでは、ないわけです。

いくら演劇がその場限りのものだといっても、
演劇は、5回も7回も40回も何千回も、繰り返し上演されます。
期間内であれば、何度も見ることもできるわけです。


生の魅力にはもう一つ、『ハプニングを見たい』というのも、ある気がします。

しかし、演劇を見に来る人が、ハプニングを期待して来ているとは、私には思えません。


演劇にとっての『生』の強みは、はたしてどこにあるのか。
私はその答えは、お昼の『笑っていいとも!』にある気がするんです。


フジテレビの『笑っていいとも!』は、スタジオアルタに、お客さんを入れて、生中継をしていますよね。

民放放送で無料で見れる『笑っていいとも!』ですが、
ではなぜ、スタジオ観覧で、お客さんは足を運ぶのでしょう。

それは、『生で見たいから』ですよね。
それは、『そこに芸能人が、実際にいるのを、自分の目で見れるから。』だと思うのです。

私の憶測ですが、皆さん一度は、
タモリはひょっとしたら、空想上の生き物じゃないか?

と思ったことは、ありませんか?

私は、何度もあります。

でも、そんな私も、この目で確認したら、信じられると思うのです。
『タモリは実在する』と。


お芝居は、所詮嘘です。
しかし、嘘でも人は、信じたい時がある。

子どもたちが信じれば、信じた子どもの数だけティンカーベルが増えるように、
人は、空想さえも信じたいことがある。

もうこの世にいないあの人が、戻ってくると信じたい時がある。


3.11に対して、演劇は無力でした。


当たり前の事ですが、演劇が濁流に飲まれていく人に、手を差し伸べる事はできません。

しかし私は、演劇は人の悲しみに、寄り添えられると信じていた。
しかし人は、そんな演劇の寄り添いなど、邪魔くさくてしょうが無い時もある。

絶望に瀕した人に、全く部外者の寄り添いなんて、余計なお世話の場合がある。

それでもなお、なぜ、演劇は必要なのか。


それは、人は、絶望の淵から戻ってくるために、
『何かを信じる事』から、はじめる必要がある。

その時、演劇の嘘が、絶望の淵にたたずむ人の手を引いて、明日へ引き戻すかも知れない。




この瞬間、私の中での、3者の共通点が見つかったのです。

役者:役としてその場にいたい。その事が、演技がうまいという評価につながる。
演出家:役としてその場にいてもらいたい。その事が、作品を伝える為に不可欠だから。
お客:物語に入り込めるよう、その役でいて欲しい。最低限、出演して欲しい。


私がいままでワークショップで言ってきた、

『言葉が当たってこない。』
『それではリアクションがとれない。』
『もっと相手に、引っかかるように、台詞を言って。』

これらは、演出家の独りよがりな欲求ではないんだ。



その役として、その場いるために必要なことだからこそ、
役者には、絶対にクリアしてもらわなければいけないハードルであり、
自分は、演出家としてそこをあきらめてはいけないんだ。

大丈夫だ。これでやっと、稽古場を停めない自信が付いた。

そう思えたのは、年明けの1月の上旬の事だったように思えます。
あの日の前後からの事2
昨年の10月頃の私は、
演出に関する、疑問を抱えていました。

  ※以下は、お芝居に関する専門知識がないと理解できないかも知れません。
   一般の方に向けての、親切な書き方ではありませんが、ご了承下さい。

その疑問とは、

『役者が役作りをする際は、演出家と同じ思考パターンを持つべきかどうか。』

というものでした。




私の演出方法は、
文学座の林田さんの元で(私が考え、感じ、)学んだことが、ベースになっています。

文学座の林田さんは、
同じく文学座の演出家である高瀬久男(読売演劇大賞/優秀演出家賞・桜美林大学准教授)さんの、
演出が好きだと、日頃から言っていました。

しかし私は、高瀬さんを遠目に確認させて頂いた事はあるのですが、
残念ながら、直接お話をさせて頂くチャンスがありませんでした。

林田さんからある時、
高瀬さんは『自分は、役者と同じコンテクストで芝居を作れる時、演出家としての喜びを感じる。』
と言っていたと、教えてもらったことがあります。


コンテクスト(Context)あるいはコンテキストとは

一般に、コンテクスト(あるいはコンテキスト)は、日本語では「文脈」と訳されることが多いが、他にも「前後関係」、「背景」などと訳される。コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であれば店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。

(転載:Wikipediaより)


例えば、
『言葉が当たってこない。』
『それではリアクションがとれない。』
『もっと相手に、引っかかるように、台詞を言って。』

この3つの言い回しをとっても、
一般に人には、何を言ってるか、さっぱりわからないと思います。

私が昨年、20回ほど演劇のワークショップをやってきましたが、
この役者とのコンテクストの形成に、大変大きな時間を割きました。

演出家の作劇における共通言語(演劇用語)を理解できる事は、
役者の自身の演技を見つめ直す機会を増やし、結果演技の幅を広げることと考えていたからです。

しかし、私がかつて、
言葉に『当たる』なんて言い回しがあるのかと驚いたように、
私のワークショップに来ていた方々のほとんどは、
私の使う演劇用語に、一度も触れたことがない人たちが、ほとんどでした。

演出家は、役者に演技をしてもらうために、多くのだめ出しをします。
しかし演出家は、それを思いついたままに、口にしているわけではありません。

物事には、タイミングがあります。
また、言わなくてもいいこともあるんです。

15個のダメだしを、思いついた順番にクリアするよりも、
最後に気付いたダメを言うだけで、すべての問題をクリアする場合もあるんです。


そこで私は、そのうち疑問に思ってきたんです。


私は同じコンテクストで芝居を作りたいという思いから、
演出家と役者のコンテクストの形成が作劇に必要不可欠と、
勝手に決めつけていないだろうか。

私自身、思ったことをすべて口にしているわけではないのに、
役者が稽古場で、演出家と私と同じ事を考えている必要はあるのだろうか。

結果として、私と同じ思考パターンを、役者に押しつけて来ただけではないか。



それは、

『役者が役作りをする際は、演出家と同じ思考パターンを持つべきかどうか。』

という疑問になったのでした。


そんな時、秋元康さんが、AKBの大島優子さんに言ったとされる、
こんな一節を、目にしました。


この頃の大島は、真面目な優等生キャラだった。秋元康からは「お前、つまらない」「お前のその真面目なキャラどうにかしろ。」「もっと、くだけていいんだ」と言われていた。特に2期生は個性派ぞろいであったため余計に目立たなかった。子役時代から、2番目が定位置だった大島。オーディションでは、大勢の中から数名選ばれる時は合格できるのに、徐々に絞られる時は、最終選考で悔しい思いを何度もしてきた。そしてAKB48でも、優等生であるがゆえの苦悩があった。

(転載:まるっと大島優子@wikiより)
http://www43.atwiki.jp/oosima_yuuko/pages/13.html



役者は、どうであっても、板の上で輝かなければならない。

私とのコンテクストを形成しているうちに、
その人の『一番いい時期』を潰してしまっているかも知れない。

私は、役者を育成する為に、芝居をやっているわけではない。

役者が稽古を通じて、うまくなったかどうかは、私にとってどうでもいいことだ。

その人が板の上で輝いて、観客が喜んでさえくれれば、
私と役者が、コンテクストを持っているかどうかなんて、どうでもいいことではないか。

そもそも役者は、コンテクストを形成したくて、芝居をやっているわけではない。


いつしか私は、役者とのコンテクスト形成を、目的にしてしまっていた。


役者が私の言ってることを理解できないのならば、
役者が理解できる言葉を探し続けるのも、演出家である私の仕事ではないのか。

役者は、演出家だけ見ていたらダメだ。
役者は役者として、やらなければならない仕事があるはずだ。

という、考えへ行き着いたのです。



私は演出家として、役者の個性をできる限り尊重したいと思います。



しかし役者は、輝くためになら、何をやってもいいというわけでは、ありません。

では、何をやって良くて、何はやったらダメなのか。


例えば、役者が台本の台詞を勝手に言い換えたとしましょう。
言い換えた方が、役者は言いやすい。
でも演出家は、そこは言い換えて欲しくないとします。


この場合、台詞を言い換えるべきか、言い換えないべきか。


それは、演出家が『名目上、役者よりえらいとされている』から、
言い換えて欲しくないと、言えばすむ話なのだろうか。

『大御所の役者だから、そこは指摘できない。』ですむ話なんだろうか。


お客は、そんな一語変わったところで、何も文句は言わないかも知れない。
しかし、熱烈なその作品のファンは、そこは一語も変えないで言って欲しいかも知れない。

すべては、演出家の采配一つなのかも知れませんが、
私はこの時点で、なにが正しいのか、
どこまで、役者に要求可能なのか、自分の中に根拠を持てなくなっていたんです。


それが、昨年10月から12月頃の、私が作劇を再開できない、一番の悩みでした。
あの日の前後からの事
現時点で、どう整理するべきかわからないため、
とりあえず、あの日の前後からの事を、書いてみます。
しばらくの間このブログは、私の心の整理のために書いていくと思います。


3月10日。

私はこの時、介護ヘルパー2級の免許を取るために学校に通っており、
夕刻に帰宅した私は、ベッドに横になり、テレビを見ていた。

すると、文学座の林田さんから、
久々にお茶でもしないかとメールが来て、新宿で待ち合わせをした。

途端に、急に家を出るのが怖くなった。
なんとなく、事故にあう気がした。

交通事故にあうのか、駅のホームから転落するのかわからないが、
急に背筋が寒くなったのだ。

私は、林田さんとお茶をするのが好きで、
新宿で12時間お茶(飯?)をしたこともあり、
行くという選択肢は、どうしてもはずす気になれず、
とりあえず不安を抑えるために、引き出しをひっくり返し、
気休めかも知れないオニキス(厄除け?)の珠を握りしめ、新宿に出た。

林田さんは直感の鋭い人なので、
変な発言で、林田さんに迷惑をかけたくないと思ったので、
この事には何も触れず、私はずっとオニキスの珠を握りしめながら、
楽しい時間を過ごして、終電で帰宅した。

その後、明け方に就寝し、目覚めた時には、世界が揺れていた。


ああ。この事だったのか。と思った。



3月11日

テレビを付けると、NHKが津波の状況を中継しており、
どす黒い波が人を飲み込む手前で、カメラのアングルは切り替わった。

その日に予定していた観劇は、無くなった。


それから数日たって、計画停電の影響で、
ワークショップで押さえていた会館を、ひとまずキャンセルしてほしいと連絡がきた。

了承した。

それが、ワークショップが途絶えた理由である。


3月22日。こんなメールが来た。
=========================
毎度お世話になっております。○○です。
地震の方は大丈夫でしたでしょうか?
私の実家は岩手なのですがとりあえず無事のようです。

告知がございます。
この度○○○○○○にて○○○○監督「○○○○○○」が絶賛上映中です。

私は婦女暴行犯として出演させていただいております。

実にくだらない内容なので、こんな時期にこそピッタリだと思います。

地震などの影響でレイトショーが17時10分~となっております。
詳しくは下記ホームページを参考にしてください。

http://www.○○

ツイッター
@○○○○


それでは皆さん生きてる奴らで生きてる奴らを楽しませましょー!
=========================


さすがにこの時期に、このメールの文面はまずいですよと返信したところ、



=========================
おつかれさまです。

そうでしたか、俺の不注意ですね。

やってしまいました。わざわざありがとうございます!

反省します。失礼しました。

=========================

と返信が来た。



このことから、考えてしまったんです。


はたして、こんな大変な時期に、演劇をしていていいのだろうか。

演劇は芸術という側面を持っているために、人は簡単には批判できない。
でも、本当に、いま、演劇は必要なんだろうかって。


つづく
日本人だからこそ描ける世界
私は「開運!なんでも鑑定団」が好きで欠かさず見ているのだが、
最近、物の『価値』について、改めて考えた。


きっかけは2011年7月19日の放送で、中島誠之助さんが楽茶碗を
『本物に間違いないが、茶碗は60万。もし箱があれば180万でしょう』と鑑定したことにある。


茶碗は、謂れ(いわれ)が大事である。
それはわかる。


しかし、箱があるだけで120万も価格が変わることに驚いた。



↑楽茶碗とは、こういうものです。



さて、私は芸大を出たわけではないので、下記考察は、曖昧な部分を含むものだと思って読んでほしい。



茶碗の価値を決めるには、

 美的価値=そのものが美しいことに対する価値?(物によってはコピー可?)
 芸術的価値=創造されたオリジナリティに対する価値?(コピー不可?)
 骨董的価値=歴史的価値=文化的価値。年を重ねたことに対する価値?
 希少価値=現存数に対する需要の量によって決まる価値
 利用価値=茶碗として使用できるという価値
 資料的価値=学術的価値

などがあると思う。


楽茶碗そのものの美的価値・希少価値などに対して、
箱があることにより、歴史的価値・文化的価値が付加されるため、
今回の楽茶碗は、箱があれば180万に跳ね上がる。

また箱には、資料的価値もあるのかも知れない。



さて、西洋アンティークと東洋の食器(茶器)を比べると、
西洋アンティークの価値は、技巧の細かさでほぼ決まるのに対し、
東洋の食器(茶器)は、無造作に自然発生した美的価値を大きく重んじる傾向がある。


例えば、朝鮮王朝時代に作られた井戸茶碗。

日本でも国宝や重要文化財に認定されている井戸茶碗であるが、
もともとは、日常雑器である。

つまり、飯を食うために裏庭から掘った土で茶碗を焼いたら、
それが、今や国宝として美術館に入っているのである。



↑井戸茶碗とは、こういうものです。



井戸茶碗の魅力は、その無造作な自然美にある。

私は、茶器にそれほどの価値=美を見いだした日本人を誇りに思う。



さて、3月に東日本大震災が起き、
私は自分の中に、『価値』とは何かを問い直した。


お金って大事ですよね。
私も、お金は大事です。

でも、それはそれでいいじゃないですか。

でも、あの震災があって、
お金じゃない物も、大事だって気付かされましたよね。



では、私の作る演劇に、どのような『価値』があるのか。



それは、独りよがりなものではなく、
かといって、人に媚びるものでもない。

未だこの世にない、新しい芸術を生み出すことでもない。
かといって、失われたものを取り戻すものでもない。


私にとっての芸術とは、自然美の中にある気がします。


生きているってすばらしい。


このことを、作品に込めることができたら、素敵だと思う。



演劇は、所詮嘘です。

演劇の中で起こる奇跡は、人の人生を救うことはできない。

今回の震災で、私は演劇の無力さを感じました。



しかし演劇は、誰かの人生に、寄り添うことができる。

人の悲しみに寄り添い、明日への力となす事ができる気がする。


その時、私の演劇は人間賛歌となり、
はじめて、『芸術』となるのだと信じて頑張ろうと思う。


日本人の自分だからこそ描ける世界が、必ずある。


それを信じて、踏み出せ。俺。
【演出論】つかこうへい氏の「口立て」法
2010年7月10日、劇作家で演出家の、つかこうへい氏が死去した。

『つか以前』『つか以後』とさえ言われる演出家、つかこうへい氏。
今回は、つかこうへい氏の口立て法(くちだてほう)について記述する。

私がつかこうへい氏の名前を知ったのは、大学生の時である。
当時、つかこうへい氏の熱烈なファンであった女性の役者に、
彼女が自主公演でやった、熱海殺人事件のビデオを見せられたのである。


 当時の私は、つかこうへい氏が、口立て法で芝居を作ることは知っていたが、
 つかこうへい氏が、どれほどすごい人物なのか、理解できていなかった。


口立て法というのは、
演出家が稽古場で台詞を言い、それを役者が同じように繰り返す。


つまり、『役者が演出家の言い回しをマネをして、作品を作っていく方法』である。


この方法、これだけ聞くと、別にたいした事ではない。

稽古場でも、演出家が台詞を言ってみせることはある。


つかこうへい氏の革命的な演出法は、
実は口立て法だけではなく、複数の要素で成り立っているのである。



◆1.作家が稽古場で演出を付ける。

つか氏がそもそも口立てを行ったのは、
演出に関して、全く知識を持たない素人だったからである。

つか氏は、大学在学中に、知人に頼まれ作品を書いた。
そもそも、つかこうへい氏は、劇作家として始まっている。

つか氏は、稽古を見たときに、役者が発する台詞に違和感を覚えた。
どうして自分の書いたニュアンスで、台詞を言ってくれないのだろう。

自分にとって、そのニュアンスではないと言う事を、言葉で説明できず、
自分で再現して、それを役者に言ってもらった。

これが、口立て法のはじまりである。



◆2.言葉には人それぞれの距離があり、その人に近い言葉で作品を作った。

つか氏は、千秋楽の幕があくまで、台本を変え続けるのも有名だ。

それは一見、芸術家の気まぐれのように思えるが、つか氏が台詞を変え続けたことには、根拠がある。


「まじで!?」


といきなり書いてみたが、
この「まじで!?」を、80台の病床の男性が言ったところで、絶対に嘘くさい。

「それは、真実なのでしょうか。」という台詞を、5歳の少女が言ったところで、絶対に嘘くさい。


言葉には、その言葉がその人にとって身近かどうかの『距離』がある。
日頃から使っている言葉は、その人にとって身近なフレーズであり、安定感があるのだ。

その言葉の距離を縮めるために、本来役者は努力するべきなのだが、
つか氏は、それを信じなかった。


たかだか、数十日の稽古で、言葉の距離が縮まるわけがない。


だったら、作家が稽古場にいるんだから、
目の前の役者の身近な言葉で、作品自体を書き直せば良いではないか。


この台本を書き直すという作業は、単に言い回しを変えるというわけではない。


作品のドラマを書き換えるのである。


つか氏の代表作「熱海殺人事件」は、まさに作品の背景のみならず、
登場人物の職業までも、一切合切書き換えたバージョンが存在する。

つまり、自分が選んだ役者にあわせて、
「熱海殺人事件」をベースに全く新しい作品を、何度も書き上げたのである。

いわゆるドラマを描くために役者がいるのではなく、
役者にとって身近な言葉で、その人にとってのドラマを、稽古場で書いていったのだ。



◆3.その人がそこにいれば、自分はいくらでも捨てられる。

私は良く「医者を演じる」という事を例に出す。

そもそも医者が出てくる作品では、役者は医者に見えなければならない。
そこで、医者じゃない人間が、医者に見えるにはどうしたらいいかを普通は考える。

これが、演出家の普通の思考だと思う。


つか氏は、違った。


つか氏は、演出家である前に、作家である。


つか氏は、そもそも医者に見える人であれば、
何を言わせても、何をさせても、その人は医者で居続けると考えた。

もっと言うと、医者じゃなくてゲイに見えるなら、
自分がゲイのドラマを書けばいいだけだと言うのが、つか氏のスタンスなのだ。


役者は自分の存在を信じ、そのままで舞台に立って良いと保証される。
台詞が言いにくいなら、何度でも作家が目の前で書き直してくれる。


しかしそれは逆に、役者は何も言い訳にできないという事でもある。


つか氏がそこまで役者のためにやってくれている以上、
役者は、その役に全力で情熱を注ぎ込み、
作品を成立させるために、一切の迷い無く、その役として居続けなければいけない。


しかし、それは役者にとって、至福の一時なのであろう。

だからこそ、役者の中には、つか氏の作品の熱烈なファンが多いのだと思う。


ではつか氏は、なぜ自分のドラマを捨てて、新しいドラマを書けたのか。


それはきっと「人」を信じていたのだと、私は思う。


いかに奇想天外な物語を思いついたかで勝負するのではない。

「そこに、その人がいた。」という事実からすべてが始まれば、
物語は、その人の魅力を引き出すエピソードに過ぎない。


人を描くためにエピソードを用意したつか氏は、「人を愛した人」なのだと、私は考えている。



◆4.大音量の音楽と、ダイナミックなストーリー展開でも破綻しない安定感。

つか氏の作品は、大音量の音楽と、ダイナミックな展開も注目されるが、
なぜそれが成立し、それが客席に大きなエネルギーとなってなだれ込むかは、
まさに、今までの部分に根拠がある。


役者の見た目も、声も、言葉も。すべてが、前提としてそう見えるのであれば。
舞台上でどんなにダイナミックにストーリーが展開しようと、物語は成立する。

こんな世界は、あり得ないとわかっていても、
その世界が目の前に存在する以上、人はそれを認めざるを得ない。

だからこそ人は、冷静な判断さえ捨てて直感的に心が動き、涙を流すのである。



そこに至った、つか氏は、やはりすごい人なのだと思う。




さて。逆説的に考えて見よう。

つか氏の芝居は、口立て法のみならず、
作家であるつか氏がその場にいて、ドラマさえも書き換えていくからこそ、成立するのである。


だからこそ、つか氏が死去した今、もはや、つか芝居は成立しない。


そう思っているからこそ、
「つかこうへい氏の作品を、今度やるんです。」と言われても、私は見に行かないことにしている。

つか氏がいないのに、つか氏の作品をやると言う事は、
普通の芝居の方法論で、つか芝居を作ると言う事だと思っている。


口立てで作りましたと言われても、私にとっては、全く魅力を感じないのだ。


つかこうへい氏の芝居は、残念ながら、もう見れない。


誰か、第二のつかさんになりませんか?


私には、この演出法は、マネできない。
【演出論】言葉を紡ぐ仕事
何年か前のNHKの「のど自慢」の年末総集編で、
外国人に対する評価が低いと審査に抗議した外国人の話を特集していた。

その時のNHK側の返答は、

「外国人だからといって、差別をしているわけではありません。
歌の心というのは、自分が気持ちよくなるためではなく、
聞き手を気持ちよくするものなのです。

外国人の方々は、どうしても自分が気持ちよくなるために歌っている方が多いため、
このような評価となっているのです。」

といったものであったと記憶している。


「いきものがかり」のVocal吉岡聖恵さんが番組のインタビューで、
歌う時は、聴いている人が感情を乗せやすいように、自分の感情はあまり込めないようにしている
と答えていたのを見たことがある。


吉岡さんも、言葉を伝えることに主眼を置いているのだと思う。


芝居を見に行くと、頑張ってる人がいっぱいいる。

人は、頑張っている人を応援したくなる。
しかしそれは、役ではなく、その人自身がそこにいたという事ではないだろうか。

役者である以上、役として板の上に立ち、
役者として、評価を受けるべきだと思うし、
私もその土俵で、演出家として勝負をしていきたいと思う。

私は自分自身の生き様とその作品の両方をもって、
人々に、明日を生きる力を届けたい。


Copyright © 『すべて持ち込み可』. all rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。