【おすすめ】 古今亭志ん生の『火焔太鼓』
2009.02.18 (Wed)
先年の話だが、映画監督の山本晋也監督が、古今亭志ん生(5代目)を語る番組を見る機会があった。
2005年9月にNHKで放映された、「私のこだわり人物伝〜古今亭志ん生〜」である。
その第一回で紹介されていたのが、古今亭志ん生の『火焔太鼓』であった。
古今亭志ん生 - Wikipedia
古今亭志ん生 (5代目) - Wikipedia
火焔太鼓 - Wikipedia
火焔太鼓は落語の演目の一つのため、
幾人もの噺家が「火焔太鼓」をやっているが、
やはり、古今亭志ん生の火焔太鼓が一番おもしろい。
中でも『古今亭志ん生 名演大全集(1)』に収められているものは、秀逸である。
『古今亭志ん生 名演大全集(2)』にも、
火焔太鼓(どんどんもうかる)が収められているが、これは、(1)とオチが違う。
これはお正月にやるため、オチを縁起の良いものにとアレンジしたもので、
内容的にはそのオチの部分しか変わらないようである。
しかし聞いてみると、圧倒的に(1)の方が引き込まれる。
生ものなので、その日の体調や小屋の空気などでノリが変わったのか、
それとも、志ん生が腕を上げて望んだのが(1)なのかはわからない。
しかし、聞くなら断然(1)である。
古今亭志ん生 名演大全集(1)は、購入しないと最後まで視聴できないので、
ニコニコ動画に古今亭志ん生 名演集(1)の『火焔太鼓』がUPされていたので紹介する。
こちらの古今亭志ん生 名演集(1)は、
古今亭志ん生 名演大全集(1)と同じ音源だが、残念なことに、非常に音質が悪い。
音量バーの横の不確定生物を押すと、流れてくるコメントを消すことができる。
次に、
上記の文字リンクは、
古今亭志ん生 名演大全集(2)にも収録されている、火焔太鼓(どんどんもうかる)の方である。
こちらは外部公開がされていないので、ニコニコ動画の視聴アカウントがある人だけ見れる。
でもやはり聞くなら、古今亭志ん生 名演大全集(1)の方の火焔太鼓である。
気に入った方は、是非購入して聞いてみて欲しい。
非常に味のある言葉の響きが、いっぱい聞ける。
ちなみに『火焔太鼓』を聞きながら自分もマネしてみようと思ったが、全くできなかった。
他の噺家さんの『火焔太鼓』にも興味がある方は、下記の[ It reads... ]もどうぞ。
2005年9月にNHKで放映された、「私のこだわり人物伝〜古今亭志ん生〜」である。
その第一回で紹介されていたのが、古今亭志ん生の『火焔太鼓』であった。
古今亭志ん生 - Wikipedia
古今亭志ん生 (5代目) - Wikipedia
火焔太鼓 - Wikipedia
火焔太鼓は落語の演目の一つのため、
幾人もの噺家が「火焔太鼓」をやっているが、
やはり、古今亭志ん生の火焔太鼓が一番おもしろい。
中でも『古今亭志ん生 名演大全集(1)』に収められているものは、秀逸である。
『古今亭志ん生 名演大全集(2)』にも、
火焔太鼓(どんどんもうかる)が収められているが、これは、(1)とオチが違う。
これはお正月にやるため、オチを縁起の良いものにとアレンジしたもので、
内容的にはそのオチの部分しか変わらないようである。
しかし聞いてみると、圧倒的に(1)の方が引き込まれる。
生ものなので、その日の体調や小屋の空気などでノリが変わったのか、
それとも、志ん生が腕を上げて望んだのが(1)なのかはわからない。
しかし、聞くなら断然(1)である。
古今亭志ん生 名演大全集(1)は、購入しないと最後まで視聴できないので、
ニコニコ動画に古今亭志ん生 名演集(1)の『火焔太鼓』がUPされていたので紹介する。
こちらの古今亭志ん生 名演集(1)は、
古今亭志ん生 名演大全集(1)と同じ音源だが、残念なことに、非常に音質が悪い。
音量バーの横の不確定生物を押すと、流れてくるコメントを消すことができる。
次に、
上記の文字リンクは、
古今亭志ん生 名演大全集(2)にも収録されている、火焔太鼓(どんどんもうかる)の方である。
こちらは外部公開がされていないので、ニコニコ動画の視聴アカウントがある人だけ見れる。
でもやはり聞くなら、古今亭志ん生 名演大全集(1)の方の火焔太鼓である。
気に入った方は、是非購入して聞いてみて欲しい。
非常に味のある言葉の響きが、いっぱい聞ける。
ちなみに『火焔太鼓』を聞きながら自分もマネしてみようと思ったが、全くできなかった。
他の噺家さんの『火焔太鼓』にも興味がある方は、下記の[ It reads... ]もどうぞ。
【演劇論】 うなずきの意味
2009.02.16 (Mon)
親友である、女二人の会話の戯曲である。
A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
B:(うなずく)
A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
B:(うなずく)
A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
B:(うなずく)
A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
B:(うなずく)
A:それで・・・、どうしよっかな・・・。
B:(うなずく)
上の戯曲は、私がいま書いたものである。
Bは台詞を発するわけではない。
Aに対して「うなずく」というリアクションをとるだけである。
Aが決心をし、それを行動に起こそうとするところにドラマがある。
では、Bの「うなずく」という行為の中にも感情の動きがあり、
Bのいかた(板の上での存在の仕方)が変わっていることは、想像できるだろうか。
Bは、ただうなずいているわけではない。
当然だが、Bのうなずきの中にもドラマがある。
先日職場で、上司が持っていたビジネス書、
「人を見抜く」(著:渋谷昌三)を手に取り、読む機会があった。
その本には、
ビジネスの世界では、
相手がうなずきながら自分のプレゼンを聞いてくれたとしても、
プレゼン終了後に、契約に至らないことがある。
うなずきには、5つのパターンがあることに注目しなければならない。
と書かれていた。
その5つとは、
(1)同意のサイン - あなたと同じ考えであることを示す。
(2)賛成のサイン - あなたの意見に賛成するという意思表示である。
(3)理解のサイン - あなたの話すことを理解していることを示す。
(4)受諾のサイン - あなたの指示に従うことを示す。
(5)伝達のサイン - あなたの話を聞いている事実を伝える。
である。
ではこれを踏まえて、もう一度、先ほどの戯曲を読み返してみて欲しい。
作家(私)がBの「うなずき」に込めたかったニュアンスを分かって頂けるはずだ。
A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
B:(うなずく)
A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
B:(うなずく)
A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
B:(うなずく)
A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
B:(うなずく)
A:それで・・・、どうしよっかな・・・。
B:(うなずく)
私は、これが『台本を読む』ということなのだと思っている。
Bを役者が演じる上で、どのようにうなずきたいかは、二の次だ。
例えばこのうなずきを、全て『同意』でとらえ、
髪の毛をバッサバサさせながらうなずくこともできる。
だがしかし、
はたしてBがそのようなキャラクターであることは、どこに書かれていただろうか。
その方が、確かにおもしろいかも知れない。
でも、作者(私)の伝えたかったこと、
つまりAとBに出して欲しかった空気感は、そのようなものではなかったのだ。
戯曲を読む上では、
あなたが役をどう演じたいかを考えるのではなく、
役になる糸口を見付けなければいけない。
余計なフィルターが取り除かれさえすれば、
誰にでもこの「うなずき」に、どのような想いが込められているか分かるはずだ。
では今度は、先ほどの戯曲に「うん。」という言葉を加えてみる。
A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
B:うん。(うなずく)
A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
B:うん。(うなずく)
A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
B:うん。(うなずく)
A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
B:うん。(うなずく)
A:それで・・・、どうしよっかな。
B:うん。(うなずく)
さて、あなたの『うん。』の音は、すべて違っただろうか。
感情を込めて『うん。』を言おうとすると、嘘っぽくないだろうか。
あなたはニュアンスを理解した上で、素直に『うん。』と言えばいい。
『うん。』は『うん。』でしかない。
しかし、この『うん。』の響きは、
限りなく深い事に、あなたは気付けただろうか。
『うん。』
ほら、あなたの今言った『うん。』
いい音でしょ?
A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
B:(うなずく)
A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
B:(うなずく)
A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
B:(うなずく)
A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
B:(うなずく)
A:それで・・・、どうしよっかな・・・。
B:(うなずく)
上の戯曲は、私がいま書いたものである。
Bは台詞を発するわけではない。
Aに対して「うなずく」というリアクションをとるだけである。
Aが決心をし、それを行動に起こそうとするところにドラマがある。
では、Bの「うなずく」という行為の中にも感情の動きがあり、
Bのいかた(板の上での存在の仕方)が変わっていることは、想像できるだろうか。
Bは、ただうなずいているわけではない。
当然だが、Bのうなずきの中にもドラマがある。
先日職場で、上司が持っていたビジネス書、
「人を見抜く」(著:渋谷昌三)を手に取り、読む機会があった。
その本には、
ビジネスの世界では、
相手がうなずきながら自分のプレゼンを聞いてくれたとしても、
プレゼン終了後に、契約に至らないことがある。
うなずきには、5つのパターンがあることに注目しなければならない。
と書かれていた。
その5つとは、
(1)同意のサイン - あなたと同じ考えであることを示す。
(2)賛成のサイン - あなたの意見に賛成するという意思表示である。
(3)理解のサイン - あなたの話すことを理解していることを示す。
(4)受諾のサイン - あなたの指示に従うことを示す。
(5)伝達のサイン - あなたの話を聞いている事実を伝える。
である。
ではこれを踏まえて、もう一度、先ほどの戯曲を読み返してみて欲しい。
作家(私)がBの「うなずき」に込めたかったニュアンスを分かって頂けるはずだ。
A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
B:(うなずく)
A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
B:(うなずく)
A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
B:(うなずく)
A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
B:(うなずく)
A:それで・・・、どうしよっかな・・・。
B:(うなずく)
私は、これが『台本を読む』ということなのだと思っている。
Bを役者が演じる上で、どのようにうなずきたいかは、二の次だ。
例えばこのうなずきを、全て『同意』でとらえ、
髪の毛をバッサバサさせながらうなずくこともできる。
だがしかし、
はたしてBがそのようなキャラクターであることは、どこに書かれていただろうか。
その方が、確かにおもしろいかも知れない。
でも、作者(私)の伝えたかったこと、
つまりAとBに出して欲しかった空気感は、そのようなものではなかったのだ。
戯曲を読む上では、
あなたが役をどう演じたいかを考えるのではなく、
役になる糸口を見付けなければいけない。
余計なフィルターが取り除かれさえすれば、
誰にでもこの「うなずき」に、どのような想いが込められているか分かるはずだ。
では今度は、先ほどの戯曲に「うん。」という言葉を加えてみる。
A:たぶん、Bも同じ事考えてるでしょ。
B:うん。(うなずく)
A:やっぱり、あいつ殴って良いよね。
B:うん。(うなずく)
A:あたしがどんだけ辛かったかなんてさ・・・、
B:うん。(うなずく)
A:関係ないんだよね。あいつをここに、呼び出してくれる?
B:うん。(うなずく)
A:それで・・・、どうしよっかな。
B:うん。(うなずく)
さて、あなたの『うん。』の音は、すべて違っただろうか。
感情を込めて『うん。』を言おうとすると、嘘っぽくないだろうか。
あなたはニュアンスを理解した上で、素直に『うん。』と言えばいい。
『うん。』は『うん。』でしかない。
しかし、この『うん。』の響きは、
限りなく深い事に、あなたは気付けただろうか。
『うん。』
ほら、あなたの今言った『うん。』
いい音でしょ?
【演劇論】 言葉に秘められた本当の気持ち
2009.02.14 (Sat)
『日本人はアメリカ人と会話するとき、思ったことを口にできない。』
これはアメリカと日本の文法による違いだという説がある。
結論を述べるまでが長い日本語に比べて、
「主語+動詞」で始まる英文法の方が、意志を明確に提示できるというのだ。
だが、自分で例えを出しておいてなんだが、どうやらそれは違うらしい。
お隣の国である韓国は、実は日本と同じ文法であるが、残念ながら恐ろしいほど感情むき出しだ。
『日本人は、耐えることを美徳とする。』
その為、板の上で涙を流している人よりも、涙をこらえている人に感動する。
だからこそだろうか、
一番に伝えたいことを飲み込んで、二番目に言いたいことを言ってしまう事もある。
そういった意味では、
思ったことをストレートに口にできるかどうかは、文化によるものだと言えなくもない。
日本人が思ったことをストレートに口にしないのは、台本に書かれた台詞に於いても同じ事である。
しかし、台本に書かれた言葉になると、
役者は急に感情むき出しで、ストレートに言葉を伝えてしまう場合が意外と多い。
大学受験の時に手にした英文法の参考書に、こんな事が書いてあった。
文中に『Good morning.』という言葉がある。
日本語に訳せば「おはよう」である。
しかしこれが、
徹夜明けの同僚がコーヒーを差し出しながら言うと、『ねぎらい』
初めての一夜を共にした女性からかけられた言葉なら『はじらい』
遅刻して上司のデスクの前で浴びせられた一言なら、『皮肉』
状況が『Good morning.』に込められた意味を変える。
単に「おはよう」という訳では伝えきれない想いが、そこにはある。
高得点を狙いたいなら、その込められたニュアンスまで訳せと書いてあった。
もう一度、話を戻そう。
台本の中に「おはよう」というフレーズがあった場合、
役者は、どういう感情で挨拶を言うかを考えてしまいがちだ。
しかし重要なのは「言葉に感情を込める」ことではなく、
どういうニュアンスで、その言葉が用いられたかを理解し、表現することにある。
ねぎらいの気持ちで「おはよう」と言うとき、
そこに喜怒哀楽は存在しない。
あるのは、相手へのねぎらいの気持ちだけなのだ。
これはアメリカと日本の文法による違いだという説がある。
結論を述べるまでが長い日本語に比べて、
「主語+動詞」で始まる英文法の方が、意志を明確に提示できるというのだ。
だが、自分で例えを出しておいてなんだが、どうやらそれは違うらしい。
お隣の国である韓国は、実は日本と同じ文法であるが、残念ながら恐ろしいほど感情むき出しだ。
『日本人は、耐えることを美徳とする。』
その為、板の上で涙を流している人よりも、涙をこらえている人に感動する。
だからこそだろうか、
一番に伝えたいことを飲み込んで、二番目に言いたいことを言ってしまう事もある。
そういった意味では、
思ったことをストレートに口にできるかどうかは、文化によるものだと言えなくもない。
日本人が思ったことをストレートに口にしないのは、台本に書かれた台詞に於いても同じ事である。
しかし、台本に書かれた言葉になると、
役者は急に感情むき出しで、ストレートに言葉を伝えてしまう場合が意外と多い。
大学受験の時に手にした英文法の参考書に、こんな事が書いてあった。
文中に『Good morning.』という言葉がある。
日本語に訳せば「おはよう」である。
しかしこれが、
徹夜明けの同僚がコーヒーを差し出しながら言うと、『ねぎらい』
初めての一夜を共にした女性からかけられた言葉なら『はじらい』
遅刻して上司のデスクの前で浴びせられた一言なら、『皮肉』
状況が『Good morning.』に込められた意味を変える。
単に「おはよう」という訳では伝えきれない想いが、そこにはある。
高得点を狙いたいなら、その込められたニュアンスまで訳せと書いてあった。
もう一度、話を戻そう。
台本の中に「おはよう」というフレーズがあった場合、
役者は、どういう感情で挨拶を言うかを考えてしまいがちだ。
しかし重要なのは「言葉に感情を込める」ことではなく、
どういうニュアンスで、その言葉が用いられたかを理解し、表現することにある。
ねぎらいの気持ちで「おはよう」と言うとき、
そこに喜怒哀楽は存在しない。
あるのは、相手へのねぎらいの気持ちだけなのだ。
【劇評】 Alstromeria〜アルストロメリア〜『水鏡ノ彼方』
2009.02.12 (Thu)
■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
演劇の現場が長い柴田の視点は独善的であり、
一般のお客とは全く違う観点で作品を捉えています。
こちらの感想を、作品の善し悪しを判断する材料としないで下さい
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■
水曜日のマチネ2列目上手側で観劇。
面白かった。
舞台面には幅2間ほどの大きな白い布が3枚垂れており、
中央の布は御簾のように上げ下げが可能である。
バトンに釣られた3枚の布の上方の空間に、藤の花がいくつも下がっているのが見える。
空間の使い方に余念がない。
主要な幕3枚の他に、かみしもに細長い見切れ防止用の幕が下がっており、
そこには龍神と観音様が描かれていた。
客入れの照明はブラックライトを使用している。
白い布はうっすらと青白く光り、龍神メディアが住まう夜叉ヶ池の底を連想させる。
物語は冒頭、池の底の水の揺らめきをコロス達が身体表現で表し、
いつしかそれは、大海のうねりと変わり、
安寿と厨子王の姉弟と、イアソンの会話がそこではじまる。
開演前に当日パンフに目を通していた為、
イアソンはてっきり伊藤紘氏が演じていると思った。
イアソンは、全身にぼろぼろに裂けた布をローブのように覆っていた為、
顔を確認することができず、その深みのある老いた声から、
熟練の役者として1人出演している伊藤紘氏と勘違いをしたのだ。
しかし、いざそのローブをとると、
演じていたのは、若き大竹浩史氏で、そのことにまず驚き、心を奪われた。
大竹氏の声がすばらしい。
実際は距離があるにも関わらず、
彼の言葉はすっと近くまでやってきて、優しく残る。
と思えば、なめし革の鞭のように跳ね上がりもする。
品位がある。
こんなにも役者の声が良いと感じたのは、これが初めてである。
そして、女王メディアの取り巻きのコロスたちの眼が良い。
彼女らの凛と立つその姿に、迷いがない。
安心してこちらの思いを預けることができ、物語の世界に引き込まれた。
こんなに迷いがないコロスも初めて見た。
コロスとは語り部であり"役名"がない。
これは、演じる上でのよりどころがないとも言える。
しかし彼女達は、書かれた言葉をしっかりとよりどころにして、確かにそこに存在した。
終演後に知ったのだが、今回の演出は石橋直人氏であった。
大衆演劇の若きホープである。(失礼があったらすみません)
渡辺将司氏が何度も関わってきたが、実は作品を拝見したのは今回が初めてである。
作中でも大衆演劇らしいと言って良いのだろうか、
花吹雪がまったり、藤の生花が降り注いだ。
特に注目したのは、
物語も終盤、女王メディアがイアソンに殺された後、長い暗転があった。
完全暗転を目指したのであろうが、
目が慣れてきたのもあり、目の前でごそごそと役者が準備しているのが気になる。
再び明かりが付くと、
そこには、登場人物総出で、女王メディアとイアソンの、
決して再び交わらぬ、二人の悲しい運命を象徴するワンカットが描かれていた。
女王メディアは、限りなく気高かった。
そして、再び暗転である。
本公演は、祝日と前日の二日限りである。
仕込みに何日かけたかわからないが、暗転の練習などろくにできなかったのであろう。
その為、暗転が非常に長い。
しかし、見せられたワンカット(ストップ)が、あまりにすばらしく、
この為に暗転をするのであれば、例え時間がかかろうと、見せる価値があると感じた。
そして演出にも、その迷いがないのがうかがえる。
花吹雪しかり、幕にシルエットでシーンを見せる演出しかり、
この長い暗転も、また最後にかかるミーシャの曲も、決して新しい演出ではない。
ある意味『ベタ』である。
しかし、そのベタさをベタと感じさせない持ってきかたが非常にうまい。
私は、花吹雪など舞台で降らせない。
でも石橋氏はそれを自信を持ってやり遂げ、なおかつもっとやってくれと思わせる。
そこに唸った。
ストレートプレイをやってきた人で、大衆演劇を見ている人は少ないのではないかと思う。
他の人は置いておいても、私は実際そうであった。
しかし、今回でその考えは改めなければいけないと感じた。
正直、物語はわからないところはある。
涙を流すほどの感動をしたわけでもない。
しかし、終演後の拍手は温かく、
出演者1人1人が前に出て頭を下げはけていくたびに、その都度拍手は大きくなる。
観客がすべての出演者に対し、感謝の意を示しているのがそこからわかる。
出演者がはけきるまで、その拍手が弱まることはなかった。
最後に印象に残ったシーンを一つ。
物語が終盤へ向かう少し手前、
女王メディア(西澤綾氏)がコロス達に、
復讐の為に自らの子に手をかけることを告げ、
舞台中央で1間ほどの細長い布を、象徴的にたぐり寄せるシーンがある。
女王メディアのか細き腕が、悲しみに耐え、これから自らが起こすであろう事実への恐怖に震え、
自らを制止しようとするも、その憎悪を決して押さえる事はできず、
その思いのまま、我が身に布をたぐり寄せるという行為には、込み上げてくるものがあった。
あの一瞬に、それほどのドラマを感じた。
この舞台は、二日限りではもったいない。
そう思った。
今回の出演者が多数出演する舞台が、3月に中野である。
2009.3.11(水)〜3.15(日)「悲惨な戦争」GUCCI & BOCCI @中野ポケット
トリガーラインのワークショップ目前だが、
時間の都合が付けば、是非見に行きたいと思う。
渡辺将司氏の芝居を見るのは久々であったが、良い現場にいると知り安心した。
将さん。「悲しい戦争」、大いに期待致します。
(チケットは前売り3500円を支払い観劇)
演劇の現場が長い柴田の視点は独善的であり、
一般のお客とは全く違う観点で作品を捉えています。
こちらの感想を、作品の善し悪しを判断する材料としないで下さい
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水曜日のマチネ2列目上手側で観劇。
面白かった。
舞台面には幅2間ほどの大きな白い布が3枚垂れており、
中央の布は御簾のように上げ下げが可能である。
バトンに釣られた3枚の布の上方の空間に、藤の花がいくつも下がっているのが見える。
空間の使い方に余念がない。
主要な幕3枚の他に、かみしもに細長い見切れ防止用の幕が下がっており、
そこには龍神と観音様が描かれていた。
客入れの照明はブラックライトを使用している。
白い布はうっすらと青白く光り、龍神メディアが住まう夜叉ヶ池の底を連想させる。
物語は冒頭、池の底の水の揺らめきをコロス達が身体表現で表し、
いつしかそれは、大海のうねりと変わり、
安寿と厨子王の姉弟と、イアソンの会話がそこではじまる。
開演前に当日パンフに目を通していた為、
イアソンはてっきり伊藤紘氏が演じていると思った。
イアソンは、全身にぼろぼろに裂けた布をローブのように覆っていた為、
顔を確認することができず、その深みのある老いた声から、
熟練の役者として1人出演している伊藤紘氏と勘違いをしたのだ。
しかし、いざそのローブをとると、
演じていたのは、若き大竹浩史氏で、そのことにまず驚き、心を奪われた。
大竹氏の声がすばらしい。
実際は距離があるにも関わらず、
彼の言葉はすっと近くまでやってきて、優しく残る。
と思えば、なめし革の鞭のように跳ね上がりもする。
品位がある。
こんなにも役者の声が良いと感じたのは、これが初めてである。
そして、女王メディアの取り巻きのコロスたちの眼が良い。
彼女らの凛と立つその姿に、迷いがない。
安心してこちらの思いを預けることができ、物語の世界に引き込まれた。
こんなに迷いがないコロスも初めて見た。
コロスとは語り部であり"役名"がない。
これは、演じる上でのよりどころがないとも言える。
しかし彼女達は、書かれた言葉をしっかりとよりどころにして、確かにそこに存在した。
終演後に知ったのだが、今回の演出は石橋直人氏であった。
大衆演劇の若きホープである。(失礼があったらすみません)
渡辺将司氏が何度も関わってきたが、実は作品を拝見したのは今回が初めてである。
作中でも大衆演劇らしいと言って良いのだろうか、
花吹雪がまったり、藤の生花が降り注いだ。
特に注目したのは、
物語も終盤、女王メディアがイアソンに殺された後、長い暗転があった。
完全暗転を目指したのであろうが、
目が慣れてきたのもあり、目の前でごそごそと役者が準備しているのが気になる。
再び明かりが付くと、
そこには、登場人物総出で、女王メディアとイアソンの、
決して再び交わらぬ、二人の悲しい運命を象徴するワンカットが描かれていた。
女王メディアは、限りなく気高かった。
そして、再び暗転である。
本公演は、祝日と前日の二日限りである。
仕込みに何日かけたかわからないが、暗転の練習などろくにできなかったのであろう。
その為、暗転が非常に長い。
しかし、見せられたワンカット(ストップ)が、あまりにすばらしく、
この為に暗転をするのであれば、例え時間がかかろうと、見せる価値があると感じた。
そして演出にも、その迷いがないのがうかがえる。
花吹雪しかり、幕にシルエットでシーンを見せる演出しかり、
この長い暗転も、また最後にかかるミーシャの曲も、決して新しい演出ではない。
ある意味『ベタ』である。
しかし、そのベタさをベタと感じさせない持ってきかたが非常にうまい。
私は、花吹雪など舞台で降らせない。
でも石橋氏はそれを自信を持ってやり遂げ、なおかつもっとやってくれと思わせる。
そこに唸った。
ストレートプレイをやってきた人で、大衆演劇を見ている人は少ないのではないかと思う。
他の人は置いておいても、私は実際そうであった。
しかし、今回でその考えは改めなければいけないと感じた。
正直、物語はわからないところはある。
涙を流すほどの感動をしたわけでもない。
しかし、終演後の拍手は温かく、
出演者1人1人が前に出て頭を下げはけていくたびに、その都度拍手は大きくなる。
観客がすべての出演者に対し、感謝の意を示しているのがそこからわかる。
出演者がはけきるまで、その拍手が弱まることはなかった。
最後に印象に残ったシーンを一つ。
物語が終盤へ向かう少し手前、
女王メディア(西澤綾氏)がコロス達に、
復讐の為に自らの子に手をかけることを告げ、
舞台中央で1間ほどの細長い布を、象徴的にたぐり寄せるシーンがある。
女王メディアのか細き腕が、悲しみに耐え、これから自らが起こすであろう事実への恐怖に震え、
自らを制止しようとするも、その憎悪を決して押さえる事はできず、
その思いのまま、我が身に布をたぐり寄せるという行為には、込み上げてくるものがあった。
あの一瞬に、それほどのドラマを感じた。
この舞台は、二日限りではもったいない。
そう思った。
今回の出演者が多数出演する舞台が、3月に中野である。
2009.3.11(水)〜3.15(日)「悲惨な戦争」GUCCI & BOCCI @中野ポケット
トリガーラインのワークショップ目前だが、
時間の都合が付けば、是非見に行きたいと思う。
渡辺将司氏の芝居を見るのは久々であったが、良い現場にいると知り安心した。
将さん。「悲しい戦争」、大いに期待致します。
(チケットは前売り3500円を支払い観劇)
【劇評】 劇団チョコレートケーキ 『a day』
2009.02.10 (Tue)
■□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
演劇の現場が長い柴田の視点は独善的であり、
一般のお客とは全く違う観点で作品を捉えています。
こちらの感想を、作品の善し悪しを判断する材料としないで下さい
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■
日曜日のマチネ8列目センターで観劇。
チョコレートケーキさんを観劇するのは初めてである。
前作までと作家さんが違い、
今までの作品と少々色合いが違うことを、一緒に観劇に行った者から聞いた。
舞台装置が非常に凝っている。
冒頭の舞台全体を使うアンサンブルに心を奪われた。
キャラクターが非常に立っていると感じた。
しかし、私は途中で気持ちが離れてしまった。
作中に、登場人物が過去を語るシーンが非常に多くある。
説明台詞は良くないという人がいるが、私はそうは思っていない。
人は、必要があれば、過去を延々語るものである。
ただ、過去を語るのであれば、
過去を情報として客に提示するだけではなく、
その過去が今の自分にどう影響しており、
また語ることで、その人の今がどう変わったのかが表現されなければならない。
語るという行為が、
なんらかの負荷としてその役柄に残らなければ、
単なる情報の提示になってしまうのである。
しかし、残念ながら、
今回語れた過去はあくまで情報としてしか耳に届いてこず、
それが今にどう影響しているかが、私には情報としてしか残らなかった。
今回、日澤氏が演じた役どころは、
自殺サイトで知り合った自殺志願者達の、リーダー的役割だ。
しかし、オフ会を企画したところは作中には描かれていない。
古川氏が刑事を辞めようと思う妻の死も、作中には描かれていない。
つまりこの物語の起因は、すべて過去にある。
だからこそ、作者は過去を役者に語らせなければならなかった。
しかし逆を言えば、過去として語ってしてしまった事実を、
舞台の上で、今起きたものとして見せることはできなかっただろうか。
過去としてそれらが語られるのと、
その場を目撃した者(知っている者)として物語を追うのでは、
感情の移入の仕方が、全然違う。
また、物語の起因のシーンを描かなかったことで、
役者が物語の最初と最後で、どう変わっていくのかを見せる上で、
非常にハードルが高くなってしまっているようにも感じた。
ただ、あくまでこれは、物語の構成の問題である。
私は中盤若干の中だるみを感じたが、
クライマックスで、私の前の席の女性は、涙をぬぐっていた。
日澤氏は他のお客に挨拶されていたので、
その後に予定があり、声をかけずに失礼しました。
次回公演も、楽しみにしております。
(チケットは前売り2800円を支払い観劇)
演劇の現場が長い柴田の視点は独善的であり、
一般のお客とは全く違う観点で作品を捉えています。
こちらの感想を、作品の善し悪しを判断する材料としないで下さい
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日曜日のマチネ8列目センターで観劇。
チョコレートケーキさんを観劇するのは初めてである。
前作までと作家さんが違い、
今までの作品と少々色合いが違うことを、一緒に観劇に行った者から聞いた。
舞台装置が非常に凝っている。
冒頭の舞台全体を使うアンサンブルに心を奪われた。
キャラクターが非常に立っていると感じた。
しかし、私は途中で気持ちが離れてしまった。
作中に、登場人物が過去を語るシーンが非常に多くある。
説明台詞は良くないという人がいるが、私はそうは思っていない。
人は、必要があれば、過去を延々語るものである。
ただ、過去を語るのであれば、
過去を情報として客に提示するだけではなく、
その過去が今の自分にどう影響しており、
また語ることで、その人の今がどう変わったのかが表現されなければならない。
語るという行為が、
なんらかの負荷としてその役柄に残らなければ、
単なる情報の提示になってしまうのである。
しかし、残念ながら、
今回語れた過去はあくまで情報としてしか耳に届いてこず、
それが今にどう影響しているかが、私には情報としてしか残らなかった。
今回、日澤氏が演じた役どころは、
自殺サイトで知り合った自殺志願者達の、リーダー的役割だ。
しかし、オフ会を企画したところは作中には描かれていない。
古川氏が刑事を辞めようと思う妻の死も、作中には描かれていない。
つまりこの物語の起因は、すべて過去にある。
だからこそ、作者は過去を役者に語らせなければならなかった。
しかし逆を言えば、過去として語ってしてしまった事実を、
舞台の上で、今起きたものとして見せることはできなかっただろうか。
過去としてそれらが語られるのと、
その場を目撃した者(知っている者)として物語を追うのでは、
感情の移入の仕方が、全然違う。
また、物語の起因のシーンを描かなかったことで、
役者が物語の最初と最後で、どう変わっていくのかを見せる上で、
非常にハードルが高くなってしまっているようにも感じた。
ただ、あくまでこれは、物語の構成の問題である。
私は中盤若干の中だるみを感じたが、
クライマックスで、私の前の席の女性は、涙をぬぐっていた。
日澤氏は他のお客に挨拶されていたので、
その後に予定があり、声をかけずに失礼しました。
次回公演も、楽しみにしております。
(チケットは前売り2800円を支払い観劇)
【劇評】 ほんのサービス 『脇腹を摘むな』
2009.02.08 (Sun)
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演劇の現場が長い柴田の視点は独善的であり、
一般のお客とは全く違う観点で作品を捉えています。
こちらの感想を、作品の善し悪しを判断する材料としないで下さい
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土曜日のソワレ最前列センターで観劇。
一番うまいと感じたのは、作演出の大浦さんであった。
大浦さんの役に台詞はなく、共演者の台詞に終始リアクションを取っていたが、
それが非常にきめ細やかで、何を考えているのかが、逐一わかった。
自分の台詞を他人に影響させようと言っているのは、谷戸氏だけで、
他の出演者は、台本に書かれている台詞を、言いっぱなしであるように感じた。
私には、谷戸氏以外の役者の、言っていることがわからなかった。
これは、滑舌がどうとか、声量がどうとか、アクセントがどうとか、
そういった類のことを言っているわけではない。
他人に影響を与えない、つまり当たらない台詞は、心に残らず消えていくのである。
また、大浦氏以外の役者は、他人の台詞に表面的にリアクションを取ってはいるが、
その言葉が「自分をどう変えるか」まで台本を読み込んでおらず、
「どう変わったか」までを表現できていないように感じた。
谷戸氏は他人の台詞に、大きなアクションをするが、それはリアクションではない。
アクションをすれば、その人の言葉を受けたことになるわけではない。
逆に谷戸氏は、アクションをすることに意識をとらわれ、
相手の台詞を聞いていないようにも見受けられた。
その為、相手が自分の台詞を受け止めたかどうかを確認せずに、物語は進んでいく。
私は、役者が発した台詞の意味を瞬時に理解できず、
心の中で、役者が発した台詞を言い直す(反芻する)作業に終始し、
目の前で行われている場所がどこであるのかさえ、最後まで理解ができなかった。
1時間半、目の前の世界がどこであるのかがわからなかったのは、これが初めてである。
また、物語を紡ぐ上でキーワードとなる台詞も強調していないため、
一発ギャグ的なアクションやネタ的なフレーズに意識をとらわれ、私は物語を見失ってしまった。
ついでに、実際に実物が出てくる小道具と、
マイムで表現する小道具が混在することにも、私は混乱をした。
私が物語を手放してしまったもう一つの理由は、
ステータスが明確でなかったという点にもある。
竜巻教授という人格を含めて、役柄が持ち回りせいという設定であり、
そこに特異なステータスを感じさせないという作り方も確かにある。
しかし教授を、あまりに軽んじすぎてはいないだろうか。
主要な登場人物のステータスにも、差異がない。
ステータスが明確なのは、文庫本を手にした男ぐらいであろうか。
その為、変な人が集まった、変な空間が目の前で展開され、
それに対してリアクションをしっかり取らない(ツッコミ不在の)ため、
この世界にはボケしかいない。
そこに現実のラインを引かないことで、
その人達がどれほど変なのかが明確でなく、私は笑って良いのかがわからなかった。
物語の展開が非常にスピーディーであり、
個々が何かを表現しようとしている姿勢は見える。
しかし動線を含め、客席に向けられた情報があまりに整理されていない。
正直、演出も役者も『観客に何を見せるべきか』を明確にできていないのではと思ってしまった。
ここまで書いてきたが、ENBU時代から5年立っているにもかかわらず、
パワーを感じさせる役者達がこれほどそろっていることに非常に驚いた。
今回一番魅力を感じた大浦氏が代表である事は、この団体にとって武器である。
次回も大浦氏が演出を取るのであれば、
大変ではあると思うが、大浦氏が主要の役を演じる作品を見てみたいと思った。
(チケットは前売り2300円を支払い観劇)
演劇の現場が長い柴田の視点は独善的であり、
一般のお客とは全く違う観点で作品を捉えています。
こちらの感想を、作品の善し悪しを判断する材料としないで下さい
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□■
土曜日のソワレ最前列センターで観劇。
一番うまいと感じたのは、作演出の大浦さんであった。
大浦さんの役に台詞はなく、共演者の台詞に終始リアクションを取っていたが、
それが非常にきめ細やかで、何を考えているのかが、逐一わかった。
自分の台詞を他人に影響させようと言っているのは、谷戸氏だけで、
他の出演者は、台本に書かれている台詞を、言いっぱなしであるように感じた。
私には、谷戸氏以外の役者の、言っていることがわからなかった。
これは、滑舌がどうとか、声量がどうとか、アクセントがどうとか、
そういった類のことを言っているわけではない。
他人に影響を与えない、つまり当たらない台詞は、心に残らず消えていくのである。
また、大浦氏以外の役者は、他人の台詞に表面的にリアクションを取ってはいるが、
その言葉が「自分をどう変えるか」まで台本を読み込んでおらず、
「どう変わったか」までを表現できていないように感じた。
谷戸氏は他人の台詞に、大きなアクションをするが、それはリアクションではない。
アクションをすれば、その人の言葉を受けたことになるわけではない。
逆に谷戸氏は、アクションをすることに意識をとらわれ、
相手の台詞を聞いていないようにも見受けられた。
その為、相手が自分の台詞を受け止めたかどうかを確認せずに、物語は進んでいく。
私は、役者が発した台詞の意味を瞬時に理解できず、
心の中で、役者が発した台詞を言い直す(反芻する)作業に終始し、
目の前で行われている場所がどこであるのかさえ、最後まで理解ができなかった。
1時間半、目の前の世界がどこであるのかがわからなかったのは、これが初めてである。
また、物語を紡ぐ上でキーワードとなる台詞も強調していないため、
一発ギャグ的なアクションやネタ的なフレーズに意識をとらわれ、私は物語を見失ってしまった。
ついでに、実際に実物が出てくる小道具と、
マイムで表現する小道具が混在することにも、私は混乱をした。
私が物語を手放してしまったもう一つの理由は、
ステータスが明確でなかったという点にもある。
竜巻教授という人格を含めて、役柄が持ち回りせいという設定であり、
そこに特異なステータスを感じさせないという作り方も確かにある。
しかし教授を、あまりに軽んじすぎてはいないだろうか。
主要な登場人物のステータスにも、差異がない。
ステータスが明確なのは、文庫本を手にした男ぐらいであろうか。
その為、変な人が集まった、変な空間が目の前で展開され、
それに対してリアクションをしっかり取らない(ツッコミ不在の)ため、
この世界にはボケしかいない。
そこに現実のラインを引かないことで、
その人達がどれほど変なのかが明確でなく、私は笑って良いのかがわからなかった。
物語の展開が非常にスピーディーであり、
個々が何かを表現しようとしている姿勢は見える。
しかし動線を含め、客席に向けられた情報があまりに整理されていない。
正直、演出も役者も『観客に何を見せるべきか』を明確にできていないのではと思ってしまった。
ここまで書いてきたが、ENBU時代から5年立っているにもかかわらず、
パワーを感じさせる役者達がこれほどそろっていることに非常に驚いた。
今回一番魅力を感じた大浦氏が代表である事は、この団体にとって武器である。
次回も大浦氏が演出を取るのであれば、
大変ではあると思うが、大浦氏が主要の役を演じる作品を見てみたいと思った。
(チケットは前売り2300円を支払い観劇)




